コートールド美術館展 魅惑の印象派

2020年01月03日~03月15日

愛知県美術館


2020/1/25

 安心して見ることのできる作品群である。印象派はかつてはアバンギャルドとして知られ、目に強い印象を与えたのだろうが、こちらが見慣れたからなのか、今では堂々とした風格を備えている。マネとルノワールの視線の遊戯は、絵画史が築いてきた伝統上にあって、ファン・アイクにはじまり、ベラスケスへと受け継がれてきた虚像と鏡像の系譜をたどっている。

 マネの「フォリー・ベルジェールのバー」(1882)に鏡が描かれているかどうかは、実のところわからない。状況証拠と実地見聞がそろったとしても、絵画がフィクションである限りは、作家の自由の領域に属する。表現の自由があるとすれば、解釈の自由もあるはずで、その曖昧さが計り知れない面白さを宿すことになる。

 正面を向いた女性と、その後ろ姿が描かれているというのだが、カウンター内には二人の女性が入っていると見てもよいはずだ。しかし鏡に映った後ろ姿だとみることで、対面の男性はこの絵を見ている私だということになり、鑑賞者を巻き込んだ絵画のトリックに興味が注がれる。それならもっと適切な描き方があったはずだが、それをあえて回避した点に、この絵の秘密がある。

 ファン・アイクのアルノルフィニ夫妻が見つめているのは誰かという問題をここでも引きずっている。もちろんそれは画家自身であるはずだが、背後の鏡に映されたのは画家ではない。マネの場合もこの紳士がマネ自身なら納得するが、実際には誰かがわからない。見ている私でもないとすると、それは第三者でしかなく、そうすればここには鏡はないということになる。鏡を前にポーズしてきた自画像の歴史がある。そこには底辺に、自我の問題が横たわっている。近代的自我と言ってもよいだろう。自分を見つめるという内省の問題だ。

 ここで鏡を否定するという点は重要である。鏡なら左右が逆になるはずで、マネの場合もそれを確かめてみる必要がある。手がかりは鏡文字だが、ボトルのラベルからは判断できない。背後の座敷席にはオペラグラスをのぞく女性がいるが、それを持つのは、左手だろうか右手だろうか。右手に見えるが、鏡だとすると左手になる。左上に空中ブランコの足だけが見えるが、観客はそれを見ているというわけではない。オペラグラスは、あらぬ方向を見つめている。

 こうした視線の拡散はルノワールの「桟敷席」(1874)が先立っている。そこでは女性は誰を見つめているのだろうか。それが画家だとすれば、画家は空中に浮かんでいることになる。女性は何も見つめてはいないからこそ、隣の男性が何かを見つめていることと、対比をなすのである。二人が夫婦であることは定かではないが、男性が見ているのが舞台でないことは確かだろう。桟敷席というタイトルがなくても、身を乗り出せる手すりと、オペラグラスの描き込みから、当時の舞台図像学は世俗的読み取りを可能にしてくれる。映画「天井桟敷の人々」(1945)でも世俗舞台の桟敷席が効果的に用いられていた。

 コートールドというコレクターの情熱も、紹介の対象になっている。繊維業で財産を築いたという点では大原コレクションと似ている。海運業という点で、松方コレクションとバレルコレクションが似ていたのと対応する。実業家が印象派のコレクションに向かったというのは、それなりの理由がある。近代化する都市の発展と歩みを共にして、現在そのものを絵画化しているからである。マネもルノワールもコートールドが目をつける必然性を備えていたということだ。

 ジェームズ・ルービンの日本語訳『名画の読み方5 印象派』を出してから、印象派の風景画に工場の煙突が描かれていないかばかりが、気になっている。ルービンは絵画技法のことだけでなく、印象派が取り上げたモチーフに焦点を当てて、研究対象とした。工場の煙突と鉄道は共に煙を吐いて、印象派好みの空気感を伝えるものとなった。もちろそれは排気ガスであるという意味では、自然現象としてのヴェールでは決してなかったが、絵画表現の上からは、霧とスモッグに隔たりはなかった。コートールドが気づいていたかどうかはわからないが、コレクションではしばしば煙突からでる排気ガスが背景を飾っている。


by Masaaki KAMBARA