蜷川実花展

2017年7月7日(金)~8月27日(日)

高松市美術館


2017/8/3


 会場は8つに分かれるが、一部と二部の構成になっていて、この美術館の導線をうまく生かしている。ストーリーが明快で、展示構成に劇的な演出力を感じる。二部構成のそれぞれは起承転結のメリハリが付けられていて、全体で八つの統一感にただの写真家ではない、舞台演出家の血のようなものを感じ取った。


それぞれは英文名があてられているが、最後だけが日本語だ。

01Flowers

02Portraits

03Light of

04PLANT A TREE

05Self-image

06noir

07TOKYO INNOCENCE

08桜


 なかでも第二の部屋の芸能人のポートレートが目を引くが、これだけ十把一絡げにされると、違うものが見えてくる。けばけばしく毒々しい花の大写しが第一の部屋であり、どうしてもこれと見比べろというメッセージに聞き取れる。それは何かというと、芸能界の虚飾ということになるだろうし、それは今は盛りとはいえ、いつまでも続かないというヴァニタス画の伝統が引き継がれているということか。


 それぞれのスターが花と抱き合わせられてポーズを取っている。キーワードは「今は花」となる。とはいえ芸能界に疎い者には半分くらいしか顔見知りはいないし、その内名前の言えるのはさらにその半分ということになる。同じような顔はしているが、著名人なのだろうと思う。


 ポートレートと題されているところから見て、著名人にならないと肖像ではないという理解なのだろう。無名の人間は顔を持たないというのは今に始まったことではない。彼らを描いた絵は人物画と呼ぶ。ただし肖像画よりも人物画の方が圧倒的に面白いことは言うまでもない。人物画は風俗画と合わさって民衆のエネルギーとなってきた。肖像画を面白がるのは家族か知り合いだけのことだ。


 第三のコーナーに入ると、主題はさらにはっきりとしてくる。打ち上げ花火のシリーズで華々しく舞い上がる瞬間をとらえたものだ。うん、わかる、わかると納得したあと四番目になると、第一部はいったん完結する。そこでの被写体は、桜の花吹雪であり、やはり散るのだなという予感が的中する。それぞれは時の流れの定めであり、時間を一瞬切り取っているという限りでは、同じコンセプトで制作されているということもわかる。


 第二部のはじまりはセルフポートレートである。なぜかこれまでのけばけばしい色彩はなく無色の画面に蜷川自身の赤裸々な姿が、さらされている。大写しになった肌荒れによる錯乱は、自らに鞭を加えたイエスの受難とも取れる。


 これもつぎのノワール(黒)と対比をなしているようだ。ここではノワールと言いながら、カラー写真が並ぶ。セルフイメージの方がよっぽどノワールである。しかしノワールの名の下に写し出された世界観は、決して光の降り注ぐ明るいものではなく、暗黒そのものと言ってよい。かわいいものと不気味なものは紙一重にある。神一衣を剥ぎ取ると悪魔の顔が現れる。それは肉の世界を形作り、生々しさが獣のもつ独特の香りを放っている。たぶん作者は毛皮が好きな人格に違いない。そこでは皮を剥がれたブロイラーがやたらと登場する。


 光と色を閉じ込めると黒になったという西洋絵画史の教訓が、そこには込められているようだ。東洋美術史は、黒はすべての色と光を吸収して墨戯に至ったが、残念ながら写真術は、どんなにモノクロにこだわったとしても、水墨画の黒にはたどり着かない。白を求めて東洋の磁器にたどり着かなかったのと同じだ。だからそれと同等の原色を求めることになる。


 そして蜷川ワールドでは、ノワールのあとに東京イノセンスが続くことになる。野心を無邪気と取るところにこの人の優しさがあるのだろう。先に登場した著名人ポートレートの予備軍と見てもよいかもしれない。トーキョーというキーワードのもとに集約される重層的な自由の謳歌を語った後で、再度桜が登場する。


 第一部の終わりに現れた散る桜ではない。ここでは咲き誇る満開の桜が、時を止めて永遠を語ろうとしている。それは写真というメディアにして、はじめて可能になったものだ。肯定的世界観は見るものにとって救いだ。かぶくだけではなくしっかりとした視野と世界観が必要な時代だと思った。


 出口の手前に写真集が並べられていた。みんなが手に取るのでぼろばろになっているのもある。しかし写真家にとっては、こちらが本体で、展覧会は見本なのだと改めて気づく。要するに写真家の展覧会は見本市であり、海外で開くと国際見本市ということになる。展示室で一枚の斎藤工が、一冊の写真集になっている。すべてがこの調子だとすると、この展覧会の構成の発端から帰結への推移は、実に見事だということになる。完璧過ぎて満開の桜を否定するしか、次の展開はないように見える。年齢的にもまだまだ伸びしろはあるはずで、誰もが思いつかないあっと驚く型破りを待望したいと思った。


by Masaaki KAMBARA