蜷川実花展—虚構と現実の間に—

2020年02月01日~03月31日

岡山シティミュージアム


 相変わらずの盛況だった。コロナウィルスの最中にもかかわらずと言ったほうがよいか。花のシリーズと芸能人ポートレートのシリーズは、会場構成も含めて、これまで度々目にしたものだった。最後のコーナーに父親である蜷川幸雄の死を間近にした娘の心象風景が、短い文章も効果的に配されて、ケバケバしさの抜けた自然体で写し出されていた。虚構のヴェールを拭い去って、隠された真実の色彩に出会え、ほっとした。

 もちろん虚構と自己演出がなければ、スターの座を獲得することはできない。美顔の芸能人たちに混じって草間彌生と村上隆の顔を見つけ出す。瀬戸内寂聴も加わり、花のあるスターのオーラを感じ取る。過酷な競争社会に勝利してきた勲章としての顔がそこにはあった。ケバケバしい原色の花と芸能界はその点で共通している。これまで見た中では高松市美術館でのものが包括的で、一番出来栄えはよかったように思う。花柳界という語のもつニュアンスは、京都で見た蜷川実花展での印象だった。福井での二人展では母親のキルト作品との競演だったが、今回の岡山展では父親へのオマージュを加えたということになる。色彩をなくすことで、写真の深奥を探ろうとする。写真のもつレクイエムという特性を、虚飾を排して伝えること。

 父の姿は出てこない。写真家のフォーカスの最大の対象を外して、目がさまよっている。誰もいない舞台が写されるが、それ以外はこの偉大な演出家を想起させるものは何もない。演出家や写真家という肩書きを外して、父と娘を演じること。生身の肉体はともに出てこない。写されているのは娘のさまよう目がとらえた風景だ。もちろん一点一点には大した価値はないだろう。その並べ方を通して、何を見るでもない心のありかが伝わってくる。映像で伝わり切れない最低限の文章が挟まれる。無声映画で鍛え上げられた演出の妙だと思う。一枚の決定的瞬間に精力を注いできた肩の荷がスゥーと降ろされたような、映像表現の原点にかえったような、主題とは裏腹に心地よい安らぎを感じ取ることができた。

by Masaaki Kambara