生誕130年記念 小野竹喬のすべて 第二章 至純の時代 1939-1979

2019年09月07日~11月24日

笠岡市立竹喬美術館


2019/10/25

 目に飛び込んでくるものではない。心に染み込んでくる絵だと言ってよいだろう。そんな中で強く目につく異質の一点があった。1942年の富士山を描いたもので、大観ばりの颯爽とした攻撃的な姿だった。戦意高揚のキャンペーンに同調したものなのだろう。それが占うように翌年には息子を戦争で失っている。日本画をめざしており、竹喬の後を継ぐ準備はできていた。

 子を戦争で失う世代がある。かと思うと、親を戦争でなくした世代がある。そして本人が戦争で命を落とした世代がある。すべての世代に災禍をもたらした戦争を、それぞれが自身の立場に沿って告発する。画家にとって、それは転機となる。創作の原動力になる場合は多い。運命として受け入れる場合もあれば、強い憤りとしてレジスタンスに向かう場合もあるだろう。戦争文学は戦争がもたらす悲惨を芸術に結晶させようとするが、いつの間にか戦争を必要悪として認めることになっている。悲しみに打ちひしがれて創作意欲が失せるというのが、自然な姿ではないかと思う。

 竹喬がそんなに強い人ではなかったのは、残された作品からわかる。真っ赤に染まる空を描く場合も、フォーヴィストのような強烈な原色を使うわけではない。内面を隠すように大気ににじませて、中間色との対比によって、空で起こる現象を際立たせている。一見するとエミール・ノルデの風景画を思わせるが、ドイツの寒村からみた北海の荒海に広がる空とは異なっている。

 風景だけで人の心情が表現できることは、両者はともに理解していた。ノルデには同じタッチで表現された人物群像が随分とある。瀬戸内に置き直して、ドイツの表現主義の土壌が和風フォーヴとなって温和化されたという解釈は、単純すぎるだろう。悲しみを飲み込み熟成させる技を、竹喬は心得ていたのだと思う。70代、80代にますます絵がよくなるのはその証拠だろう。その点では熊谷守一にもよく似ている。この画家も我が子に先立たれる悲しみを経験した。

 最晩年に至って墨彩画を試みているが、この抑えられたカラリストの実験が、実にいい。水墨は村上華岳には敵わないとして諦めていた欲望が、ふつふつと湧き上がり、最後に顔を出すのが興味深い。華岳の山水は、ひょろひょろとした線の中に、画家の心情があふれ出る。人物も薄明に浮かび上がる輪郭に仏的心性が宿っている。竹喬が難しいと言った灯りがともる都会の夜景も、見事に表現していた。この天才の代償は短命だったが、それと対抗するためには生き延びる以外にはなかっただろう。

 身近にいる優れた才能は、創作の原動力であり、決して悪いことではない。熊谷守一の前にいた青木繁のようにである。そして守一も竹喬と同じく、晩年に大輪の花を咲かせた。今では普通になったが、90歳までは生きないと話にはならないのである。その点では平櫛田中などは化け物ということになる。


by Masaaki KAMBARA