第368回 2024年1月15

南方飛行1937

 ピエール・ビヨン監督作品、原題はCourrier Sud、原作はサン=テグジュペリ『南方郵便機』、ロベール・ブレッソンは脚本で参加している。大使の夫人になった女(ジュヌヴィエール)が、若い日の恋愛を忘れ切れずに、昔の恋人を死なせてしまう悲劇。男(ジャック・ベルニス)はフランスからアフリカに向かう郵便機のパイロットだった。フランスの植民地支配が崩壊しつつある時代、飛行は安全なものではなかった。男は長期の休暇を前にして、急な仕事が入った。計画があって友人に職務を代わってもらい、恋愛関係にあった女に会いに行く。

 女はすでに結婚をしていたが、久しぶりの再会で焼けボックリに火がついて、手に手を取って駆け落ちをする。友人の飛行機が事故で難着して、早く助け出さないと、敵の攻撃にあう。休暇中だったが、会社から呼び出しがかかる。女は引き止めるが、失職することはできないし、交代を頼んだ友への義理があり、悔いも残る。男は女を待たせて24時間の飛行に応じるが、天候が悪くて帰りが伸びる。

 女のほうは駆け落ちが知られて、居場所も突き止められる。家族は説得を続ける。自分を置いたままにした恋人に不満もある。男は無理をして敵の包囲のなかを飛行機に乗り込もうとしたが、失敗して命を落としてしまう。新聞記事がパイロットの死を伝えている。主人が迎えにきて、女はもとの鞘に戻っていったというのが結末である。

 大使である夫とは年齢差があるようだ。大使が見そめて結婚をしたようにみえる。夫は妻を愛しているが、外交上の要職をこなし、仕事を優先させている。妻の相手をする時間はもたないが、悪人として描かれていないという点が重要だ。娘の家族は若いふたりの恋愛関係は知っていたが、娘の将来や自分たちの打算を考えて、おとなの判断をしていた。まさか駆け落ちをするとは思っていなかった。夫が不在中の出来事で、何とか知られないで、引き戻そうと考えていた。両親と叔父叔母が登場するが、いくぶん考え方を異にしていて、娘とパイロットとの恋愛を実らせてやりたいと考えているものもいた。

 良かれと思って下されたさまざまな判断が、悲劇へとつながった。情熱的だがわがままな娘だった。夫に従っていたが、愛してはいなかったことは確かだ。男も高揚した情熱にうながされての軽はずみな判断だった。愛に突っ走るのか、会社からの命令に応じるかも、判断の分かれ目だったにちがいない。仕事をなくしてまでも暴走できるものではなかった。女が恋人を捨てて結婚したのも、肉親の指示に従ったからだが、そのほうが楽なわがままな暮らしを夢みることができたからだろう。

 幼い恋愛とおとなの判断という対比を見せることで、単に純粋な想いだけを賛美するのではない、見るものに考える余地を与えるものとなっていた。愛し合うもの同士が、結ばれるに越したことはない。ふたりが手を取り合って逃げるときには、私たちは見ながら応援もしていたのだが、この先どうなるのかという不安は、そのあとでじわじわと押し寄せてくる。

 パイロットに同化しながら、見ていた男の目にはこの娘は十分に魅惑的な容姿を備えていた。大使が愛したのも無理はない。戦時下が招いた男の死は、どろどろとした愛憎劇に展開しない美しい結末だったと言えるかもしれない。誰が悪いというわけでもない。あえて言えば、みんなが少しずつ悪いのだろう。すべてを戦争のせいにすることもできない。少しずつの歪みが重なって、パイロットは命を落としてしまったというのが、納得のいく論理的帰結となる。

第369回 2024年1月16

田舎司祭の日記1950

 ロベール・ブレッソン監督作品、ヴェネツィア映画祭監督賞受賞、原題はJournal d'un curé de campagne、ジョルジュ・ベルナノス原作、クロード・レデュ主演。若い司祭がいなかの教会にやってきた。小さな聖堂で一人だけの勤務のようだ。ときおり主任司祭が自動車でやってきて、相談相手になっている。若者は自転車で行き来をしている。毎日日記をつけていて、その日の出来事をつづることで話は続いていく。

 多くはうまくいかない失敗談で、脈絡もなく続くが、それも意味あることだと弁明している。日常をつづるなかで、やがて謎めいた人間関係があらわになっていく。教会の運営は資金不足で苦しいが、司祭は前向きな姿勢で、意気込んでいる。村にスポーツクラブをつくってコミュニケーションを築こうとするのだが、空回りをしていく。村の有力者である伯爵のもとを訪ねて、相談をしている。

 伯爵には娘がいるが、それぞれに悩みをかかえていて、互いに反発しあっている。司祭は三人に個別に接していて、誤解の種にされていく。司祭は若く知性があり、憂鬱な表情を浮かべていて、もの思わせぶりな態度で接する女性が目につく。ことに伯爵夫人との関係が秘密めいてみられ、うわさを囁かれてもいる。夫の不義に加えて、息子をなくして、神への信仰に疑いを示す夫人に、親身になって祈りを捧げるが、自殺をされてしまう。司祭に疑惑の目がそそがれる。

 これに先立って、司祭が胃痛に苦しんでいるのを診断した老医師が、猟銃の暴発だというのだが死んでしまい、自殺をほのめかされていた。雑な治療のうわさから患者を減らしていたが、司祭は主任からの紹介で訪れ、信頼できる人物だと確信していた。胃痛に対する医師の見立ては酒の飲み過ぎということだった。本人には自覚はないが、祖先からのアルコール癖がたたったのだという。確かに食事は質素だが、パンとともにワインは欠かせなかった。医師は含蓄のあることばを残して、司祭の心をとらえており、その死は大きなダメージとなった。

 司祭の言動の懐疑的な印象から、伯爵は司祭を見限って、追放しようと考えていた。胃痛の悪化から吐血をするまでに至り、村を離れて診察の結果、胃ガンが判明する。自身では結核を予感していたので、余命を実感したようだ。聖職を離れていた学友を訪ねて、その妻からも温かいもてなしを受け、家庭のもつ意味を認識したようにみえる。神に見放され、救われようのない短い生涯が、淡々と記述されている。

 目が魅力的だと、教会に学ぶ少女からからかわれて、真剣に考え込んでしまうのも悲しい性格を物語るものだった。生真面目で冗談の一つも言わない。明らかに女たちから言い寄られているのに、人間的な反応を示すこともない。それによって彼女たちを敵にまわすことになってしまった。

 この苦悩のありかを直視することは、世俗化しすぎた現代の信仰を見直すためには、不可欠なものだったにちがいない。そして現代を生き抜くためには、世俗にまみれることを考える必要があるのだろう。この深刻な若者に欠けていたのは、何よりも笑いだったように思う。見ているほうも胃が痛くなるのは、現代での神の不在を語るものにちがいなかった。

第370回 2024年1月17

抵抗(レジスタンス)-死刑囚の手記より-1956

 ロベール・ブレッソン監督作品、カンヌ映画祭監督賞受賞、原題はUn condamné à mort s'est échappé ou le vent souffle où il veut、フランソワ・ルテリエ主演。ナチスの収容所から脱獄するフランス人青年(フォンテーヌ中尉)の物語。その一部始終を細かく描写している。緊迫感があるのは、見つかると処刑されるというのが、前提となっているからで、物音ひとつ立てることができない。無駄なエピソードはなく、リアルタイムに時間が過ぎていく。ときに時間の長さを感じるのは、ドイツ軍の監視兵が行き来するのを、息を詰めて見つめているときだ。

 はじまりは護送される車のドアに手をかけたり離したりしている主人公の、落ち着きのない表情からだった。隙をぬって逃げようとしている。思い切って飛び降りて、しばらくは追跡音だけが聞こえるが、やがてドアが開いて引き戻され、失敗したことがわかる。さらに拷問を受け、傷だらけの姿が映し出されることになる。

 フランス人捕虜が多く収容されていて、脱走計画が話されている。外部の支援者も手助けをしている。主人公もそれに同調して、周到に準備を進めていく。先に決行したが失敗し、処刑されたもの(オルシニ)もいる。ときおり銃殺音が響いてくる。金網を外して針金にする。布と針金を撚り合わせてロープにする。食事のときにスプーンをくすめて、柄を地面にこすりつけて研ぎ出している。ナイフとしてドアをくり抜く道具に使っている。

 ドイツ軍も神経質になっていて、連絡を取り合うことを警戒して、鉛筆を見つければ処刑という、厳しい措置を取っていた。独房であったが、主人公は目をつけられていたようで、ドイツ人かフランス人かが、定かでない少年が同室者として入ってきた。信頼できる人間か、あるいは送り込まれたスパイなのかが、わからないまま、脱走計画を打ち明けようかを迷っている。遠まわしに話はじめるが、脱獄など不可能だと、信用してはいない。生い立ちなどを聞き出して、母親との再会を熱望しているのを知る。

 少年を信頼しての決行となった。高い塀を前にして、ひとりでは登れないことがわかり、少年への信頼を増した。少年の意志を確かめたとき、残るという選択をすれば、殺害しようと決めていた。主人公はドイツ人の監視兵をためらいなく殺している。少年がロープを伝わって移動するときに、見つかることを恐れた善後策だった。

 最後まで気を抜けない緊張感があった。成功してふたりで歩いて行く後ろ姿を写し出しながらも、まだ背後からの銃弾に倒れるのではないかという不安を宿していた。たぶん走らせないで、ゆっくりと歩かせた演出によるものだ。ハッピーエンドを奏でる音楽が流れ、FINが見えたときに、やっとほっとした。死刑囚の手記にもとづいており、フィクションならスリルと言ってよいのだろうが、実話なら恐怖以外のなにものでもない。

第371回 2024年1月18

スリ1959

 ロベール・ブレッソン監督作品、原題はPickpocket、マルタン・ラサール主演。比較的短く76分だが、見ごたえは十分ある。スリの手口を教えるような映画であるが、そのみごとな手さばきには見とれてしまう。こんな映画は今まで見たことがない。犯罪であることも忘れてしまい、マジシャンのように、高級感のある見せものは芸術的でさえある。

 ことに仲間と組になって繰り広げるトリックは、上質の舞踊を見ているように美しい。指先のダンスである。ストーリー性を抑え込んで、パリの地下鉄を舞台に展開するパフォーマンスとして見てもよいかもしれない。もちろんスリは知らない間に盗まれているものだから、こんなふうに映像化されるほうが不自然なのだが、そこにフィクションとしての映画の醍醐味がある。

 ドラマとしては男女のラブストーリーになってはいるのだが、断片的で見るほうでフォローをして、つなげていく余地を残している。スリに取りつかれてやめることのできない男(ミシェル)が、女(ジャンヌ)の愛によって立ち直ったかにみえる。そのときすでに男は獄中にあり、面会に来た女と金網ごしに、はじめての口づけをしている。

 女は友人(ジャック)の愛人だったはずで、子どもももうけているが、主人公がしばらくパリを離れて、戻ってみると友人は姿を消してしまっていた。自分がふたりの面倒を見ると言い放っていたが、それはスリをやめるという決意だったように聞こえる。

 女が親切だったのは、病床にあった主人公の母親の世話をしていたときからで、それがどんな関係からかは語られてはいない。病気が重くなって呼びにきたりしても、深い間柄には見えなかった。スリで稼いだ金を母親に、直接渡さずにこの女に渡すよう頼んでいる。悪にまみれた稼ぎだったからだろうが、母親と顔をあわせたとき、その表情は息子が心配の種であることを感じさせるものだった。

 男は一人暮らしだったが、女の知らせのメモ書きを身損ねて、母親の死に間に合わなかった。このときも女に面倒をかけていたはずだ。彼女は何者なのだろうか。キリッとした魅力的な女性である。最後の抱擁とは結びつかないほどに、それまでの関係はそっけないものだった。友人が彼女とつき合っているのは見ていたが、友人が主人公に何か言いたげにしたことがあった。邪推すれば彼女が愛しているのは、お前だと言おうとしていたのかもしれない。

 友人は主人公が犯罪に手を染めていることを心配していた。まともな職を紹介してやってもいた。主人公ははじめ単独でスリをしていたが、凄腕の男に出会って魅せられてしまったようだ。スリの醍醐味は抜き取った財布から、札束だけをどれだけスピーディーに取り出せるかにある。財布には持ち主があるが、札束は誰のものでもない。警察から捕まったとき、札束をもっていても、犯罪の証拠とはならず、釈放されていた。財布を抜き取って、空の財布をまた胸ポケットに戻すという超絶技巧も披露されていた。

 目をつけられて刑事が、ときおり顔を出している。それは取り締まりの目というよりも、心配をする友人の目に近い。にもかかわらず、この男はスリ取るときのエクスタシーが中毒になって、やめられないのである。土壇場でやめてしまったこともある。失敗の予感があったのだろう。抜き取ったあとで見つけられ、返さないと警察を呼ぶと言われたこともあった。男はあっさりと返して、逃げるようにして立ち去っていた。

 みじめな敗北宣言だったが、このときもやめる潮時だったはずだ。パリから旅立つのも、やめようとするあがきだったようにみえる。パリに戻ってくれば、仲間に声をかけられることになるのはわかっていた。彼らの腕前は主人公を超えてみごとなのである。確かにそれは見ている私たちのほうでもスリリングなものだった。当事者がやめられないのはわかるような気がする。はたして女の愛はその興奮を凌駕できるものになるだろうか。決意だけは示すが、その先は語られないままだった。

第372回 2024年1月19

バルタザールどこへ行く1966

 ロベール・ブレッソン監督作品、フランス・スウェーデン合作映画、原題はAu Hasard Balthazar、アンヌ・ビアゼムスキー主演、ベネチア映画祭審査員特別賞。今回のモデルはロバである。スリもおもしろいが、ロバもおもしろい。動物の目を通して語りかけようとするものがある。日本でいえば「吾輩は猫である」に対応するか。名前はあってバルタザールという。

 どんな出来事を前にしても変わらずに、それは静かに物思いにふけっているようにみえる。そのキャラクターはノロマという語がふさわしい人間のそれなのである。それなのに音には敏感で、ビクッとする動作は、こわがりの臆病者というにふさわしい。しかしこの愚鈍な無表情の奥に、私たちはいっそうのドラマを、自分たちそれぞれに生み出そうとしているのだ。

 それはブレッソンの映画術にも似て、効果的に私たちに迫ってくる。必要最低限のことしか語ってはくれないが、そのわずかな情報をたよりに、ドラマを組み立てていく。そこにはロバがいつも立ち会っていた。優しくしてくれる娘(マリー)がいるが、ずっと変わらずに同じスタンスを取ってくれるわけではなかった。

 動きの鈍いロバに腹を立てて虐待し、尾に火をつけて、走らせた青年(ジェラール)がいたが、娘はこの青年との恋愛を求めて、ロバのまわりを追いかけあいながら戯れている。ロバはその姿を、無表情で見つめているのだが、冷ややかな人の愚かさを、批判しているように見えてくる。

 鞭を打たれて、何も言わずに黙々と歩き続ける姿は哀れであるが、それを通して人の心が浮き彫りにされていく。家畜となる前は、ロバは子どもたちのペットだった。成長とともに使役を課されていくが、子どもたちのほうも成長とともに変化してしまうのだ。

 ロバがバイク自動車と対比的に描かれている。動力がじょじょに入れ替わっていく時代である。幼心に将来を約束した少年と少女がいた。時が経ち、裕福な男は女の前に車に乗って現れた。娘のそばにはまだロバがいた。自転車とバイクを乗り回している不良グループが、道路に仕掛けをして、やってきた車がスリップ事故を起こすように仕向けている。

 このグループのリーダー格の男が娘を気に入り、ロバを酷使してバケットの販売をしている。娘も幼なじみに比べて大人びた男に興味をもっている。元教師だった父親は優しく、娘を愛しているが、娘は反抗的に接している。母親とともに心配の種は尽きない。娘は魅力的であり、父親も含めて、気にかけている男は多いが、精神的には不安定で、虚無的な人生観をたどっていく。

 幼なじみとの新たな門出を決意して、過去と決裂し、不良グループにことわりを入れようとして出向くが、暴行され性の犠牲になってしまった。さらには気弱な父親までが、母親の懸念した通り、娘の不幸に打ちのめされて、命を落とした。気丈で良識的な母親だけが生き残った。

 運搬用の家畜としての時代は過ぎ、役目を終えたロバもまた去り、銃弾を受けて傷ついていた。羊の群れにまぎれこんでいたが、羊が移動すると、動かないまま横たわる姿があった。ついつい人間になぞらえてしまうのだが、悲しい生涯だった。サーカスの見世物にもなるが、サルやライオンの檻の前を、肩をすくめるように通り過ぎる姿があった。死に絶えて脚をそろえて眠る姿は小ヤギのように愛らしく、子どもたちに囲まれて抱かれていた、かつての幸福な日々を懐かしんでいるように思えた。

第373回 2024年1月20

少女ムシェット1967

 ロベール・ブレッソン監督作品、ジョルジュ・ベルナノス原作、原題はMouchette、ナディーヌ・ノルティエ主演。小学校の高学年、あるいは中学生ぐらいだろうか、少女は学校では反抗的態度を取っていて、友だちもいないようだ。音楽の時間、合唱をしているが、ひとりだけ口を動かしていないのを、女教師にとがめられこづかれている。帰宅時にかたまって談笑しているクラスメイトに向かって土くれを投げつけている。家では母親は病床についており、生まれたばかりの乳飲み子もいて、少女が世話をしている。大きなミルク容器を下げて歩いている。年齢差はあるが、ともに我が子のはずだ。コーヒーの入れ方もおおちゃくきわまりない。父親は遊び人のようで、近所の酒場に入り浸っている。そこで娘が稼いだわずかな金も取り上げてしまっている。昔は良い子だったのにと、父親は嘆くが、最悪の家庭環境にあって、良い子が育つわけはない。

 父親に稼ぎを渡したあと、少女は遊園地でゴーカートを楽しんでいる。社会人ふうの男が激しくぶつかってくるのをおもしろがって、自分からもぶつかっていく。ほほえみがはじめて顔に浮かんでいた。終わったあと男が近づいてきたとき、監視の目を光らせていたのだろう、父親が割って入って、殴られていた。

 酒場のカウンターにいる女(ルイザ)に言いよるが、相手にされない男(マチュー)がいる。その女が遊園地で別の若い男(アルセーヌ)といっしょに楽しんでいるのを、腹立たしげに見つめている。若い男は密猟者だった。密猟するのを少女は目撃したことがあった。鳥が仕掛けられたワナに首を突っ込んでもがいているのを、外して逃がせてやった。このふたりの男の相剋も少女は目撃していた。

 少女が森に入って日が暮れ、雨に打たれて、夜中になってしまった。密猟者と出くわして助けられるが、片方の靴をなくしてしまっていて、男が探しにいってくれる。親切心からだと思っていると、銃声が二発聞こえた。男の銃は置いたままにされているのを、少女は確認している。男は帰ってきて、不安げに殺したかもしれないという。相手は嫉妬心を抱いていた恋敵の男で、密猟を取り締まる立場にいた。仕掛けたワナにかかって血まみれになってしまったのだという。自分も手を血だらけにしていた。

 アリバイ工作をして、焚き火の灰を処分して、別の家屋に移る。少女はこの男を助けようと考えていた。一夜を過ごすことになり、男は娘のからだを求め、娘もそれに応えた。ずっといっしょにいたことにして、薪を大量に燃やして灰をつくった。朝になって少女は帰宅するが、親は不信感を抱いている。殺されたと思っていた男が現れて驚くが、密猟者は逮捕されたと言っている。罪状は殺人ではなく、密猟だった。男には傷ついた形跡もなかった。少女は問い詰められると、自分は密猟者の愛人なのだと開き直ってみせた。

 救われようのない展開が続く。母親が死に、少女自身も死んでしまう。不可解な死は、自殺としかみえないが、説明をつければ自暴自棄としか言えないものだ。母親はまだ若く、整った顔立ちをしているが、酒でからだを壊したと言いながら、娘に酒を取って来させて、一息に呑んで死んでしまった。少女は命じられるままに乳飲み子にミルクを与え、あやしていたが、義務感以上のものではない。愛やいつくしみはないようにみえる。

 母親の死を弔って、隣人が親切に用意してくれたハレの衣装を、少女は泥だらけにして、身にまといながら水ぎわの傾斜を転がっている。三度それを繰り返して、そのまま水に落ち込んでしまった。浮き上がってくる形跡はなかった。何とも説明のしようのないアクシデントが続いていくが、事件の細部はくっきりとしている。

 密猟に使うワナも具体的だし、遊園地の遊具も楽しげにみえる。鳥が首をひっかけられて、もがき苦しむ姿は痛々しい。狩猟で逃げまどうウサギを、命中するまで射撃するのも残酷きわまりなく、目に焼き付いている。灰を使ったアリバイ工作も、説得力がある。乳飲み子の泣き声も現実のものだ。変に生々しく、リアリティを感じさせる、それでいて論理も倫理も逸脱した、不思議な映画だった。

第374回 2024年1月22

ラルジャン1983

 ロベール・ブレッソン監督作品、カンヌ映画祭監督賞受賞、原題はL'Argent、トルストイ原作。題名はフランス語でマネーのことである。ブレッソンが目をつけるモデルは、いつも意表をつくが、人間との関わりにおいて、大きな意味をもつものだ。今回の主役は偽札(にせさつ)である。一枚の偽札がもたらす悲劇を、それに関わった人々の私利私欲をえぐり出しながら、考えさせられることになる。

 珍しく続けて2回見ることになった。おもしろかったからではない。わからなかったからである。ことに後半の話の展開が急で、省略が多い上に論理を逸脱していて、意味不明だった。見落としたり、聞き漏らしたら最後、まったくわからなくなってしまう。おかげで比較的短い映画が、3時間の大作になった。

 高校生だろうか、子ども(ノルベール)が父親にこづかいをせびっている。友だちからの借金もあるというが、父は聞き入れず、決められている以上は出してはくれない。助けを求めて別の友だち(マルシアル)のもとに出向くと、高額紙幣を一枚取り出してきて、使ってみようと持ちかける。よく見ると偽札だった。写真店に行って小さな額縁を買う。女店員は高額紙幣を嫌がるが、しかたなく受け取っておつりを渡す。

 店長があとで偽札であることを見破って、妻にあたるのか、対応した女をしかりつけるが、警察に届けるでもなく、使ってしまおうと言っている。たまたま給油車で集金にやってきたドライバー(イボン)に、それで支払うことになるが、疑ってはいない。持ち帰ってから偽札に気づき、警察ざたになる。青年が疑われるが、身の潔白を証明するため、警官に同行されて、先の店に出向く。対応したのは男の店員(リュシアン)で、偽札を渡したことを認めようとはしなかった。警官はドライバーへの疑いを、さらに強めたようだった。店主はほっとして、この店員の対応をほめて、お礼に小銭をつかませている。偽札だと気づきながら使うことで、無実の罪人をつくってしまったのである。

 偽札をもっていた張本人の学生にまで捜査は及ばなかった。使ったのは彼の友だちのほうだったが、この気弱なわが子をかばって、父親が手をまわし、息子にまで捜査の手が達しないように、裏工作をしていた。ドライバーには妻(エレーヌ)と幼な子がいた。何の罪もないのに疑われ、職を失うことになってしまう。虚偽の発言をした店員は、店主から点数を稼いだだけではなかった。値札を書き換えて、上前をはねてもいたし、気を許したすきに鍵を盗み、金を持ち逃げすることにもなる。

 ドライバーにはさらなる不運が訪れる。失職して妻子を養う必要から、不正な仕事に加わって、警察に捕まってしまう。3年間の懲役になったが、面会にきていた妻にも、やがて見放され、子どもの不幸にも遭遇する。直接の面談ではなく、手紙でのやりとりで、子どもの死が知らされた。手紙はすべて開封され、検閲で都合の悪いものは届けられないでいた。

 歯車が狂い、奈落へと落ち込んでいく、ごく普通の男の顛末は、刑期を終えたのち殺人鬼へと至る。面会に来て立ち去る妻に、刑期を終えたら三人でこれまで通りに暮らそうと訴えていた。まわりの人間の少しづつの思いやりのなさが、つもりつもって、ひとりの人間を滅ぼしてしまったのである。銀行に入ったのを目にし、大金を手にする老女のあとを追っている。家族の世話と家事を切り回す、見るからに人の良さそうな愛すべき老人だった。老いた天使といってもよい、この世のものとは思えない存在を、周辺にいる私欲にとりつかれた、小悪魔たちにぶつけている。

 男はここに居ついてしまう。老女のするジャガイモの収穫や洗濯を手伝っている。男はここに来る前にホテルで殺人を犯していたが、そのことを打ち明けても、老女は驚きもしない。金はレジにあるわずかなものしか奪ってはいなかった。元ピアニストの父親がいて、ピアノを弾いているだけだ。得体の知れない男を追い出すように言うが、老女は受け入れない。車椅子の子の世話もしている。亡くなった夫や妹たちのことも、身の上話として男に語っている。バケットを買いに出たとき、同じくバケットを買っていた警官たちと出くわしている。いかにもフランス的光景だが、裸のままで持ち歩く長いバケットどおしがすれちがっている。殺人捜査をしていたのだろうが、彼女は無表情のままだった。

 善良な人たちを巻き込んで、不条理な残虐劇が展開していく。しかも淡々として、唖然とするほどに、何が起こったのかと、目を疑う。斧が振りかぶられて、闇に消え去っている。カットをつなげずに、長回しで通したら、超一級の血みどろのホラー映画になっただろう。暗いなか犬が部屋を行き来して死体を確かめ、吠え続ける効果音だけが、耳に残っている。

 地獄の様相にもかかわらずラルジャンという名の高額紙幣は、我関せずに無表情で、しれっとしているのが、さらに恐ろしい。ラルジャンはここでは固有名詞になっている。締めくくりはいつも月並みな、金を出せということばだ。金がほしいわけではない。金がどこにあるのかを知りたがっているだけだ。

 彼が言ったのは、「金を出せ」ではなくて、「金はどこだ」である。老婦人が家を出たのをみて、彼は不在の部屋中を探し回っていた。ラルジャンはどこにいるのかを問うたのである。お前のためにどんな悲劇が生まれたことかを嘆く、とどめの一言だった。猟奇殺人を前にいつも耳にする、そんなことをする人には見えないというセリフと、ラルジャンは共鳴しあっている。

 ラルジャンにたどり着くには、いつも隔たりがある。この映画では、銀行の窓口と自動支払い機が対比的に描き出されていた。その隔たりは、鉄格子の向こうで面会する夫と妻の姿でもあった。獄中での面会は、前作の「スリ」でも象徴的に描かれた。そこでは愛の隔たりだったが、ここでは逃げ去る者を救う安全弁の役割を果たしている。

 その境界は老婦人が住む家屋を隔てている橋にも似ている。彼女を尾行する殺人鬼は、はじめその橋まできて、ためらって引き返していた。その先は聖域であり、楽園の光景を暗示するものである。庭に咲く木の実は、命を共有する糧となるもので、口に含むだけで幸福感を得られるものだった。

 犯行の翌日、殺人鬼はホテルでの殺人と一家皆殺しを、酒場に居合わせた警官に自白した。第一回目、ぼんやりと見ていると、このセリフによって、はじめて殺人が行われていたのだと気づくことにもなった。映像は闇に消え去り、ことばは耳にこびりつくのである。殺人は多くの場合、当事者以外の第三者には見えないものだとすれば、自白のほうにリアリティはあるのかもしれない。とはいえ余韻を残す不可解な結末だった。クレジットもないままに、そこでプッツリと映画は終わる。ブレッソン最後の監督作品となった。