第4章 いわさきちひろ

第551回 2023年4月4

1 出発まで

 いわさきちひろが童画家として、出発しようと決意したのは、昭和22年、彼女が28才の時であった。それ以前ちひろは、14才の頓に岡田三郎助に、21才からは中谷泰に師事して油絵を、また18才からは小田周洋について書道を習っていたが、それらを基礎としながら敢えて童画家としての出発に到ったことは、当時の童画史の流れの中にその一因を見つけることができる。

 ちひろの生まれた年、大正7年は、鈴木三重吉の主宰した児童文芸雑誌「赤い鳥」が創刊された年にあたり、その時に提示した「新しい童話と童謡の運動」というモットーに見るように、それまでのおとぎばなしを越えて文学としての童話へと展開してゆこうという、児童文学の大きな転換期であり、昭和11年に廃刊されるまで18年間の運動の中に、ちひろの幼年期はすっぽりとつつまれる。そうした文学運動と歩調をあわせて岡本帰一・川上四郎・清水良雄・武井武雄・初山滋といった童画家が育ってくる。もっとも童画という名称は、大正13年になって武井武雄が用いたものであり、その頃より「童画」というジャンル自体も確立していったと考えられる。そして、のちに童画家の登竜門とも呼ばれることになる絵雑誌「コドモノクニ」が大正11年に創刊され、そうした中からちひろ自身も武井・初山の絵を幼児体験として受け入れ、その感動をふくらませていったようである。彼女自身がのちに語ったところでは、「武井先生と初山先生の絵が頭の中にはいってるんです。ものすごくきれいでね。印刷技術もまだ発達してなかった頃なので、いま見たらどうか、わからないんですけど。だんだん成長していくでしょ、美的感覚が。そのときの感動がそのままで印象がふくらんでいくわけ」。恐らくちひろは、自分が幼児期に見た絵本を、戦争中に喪失し、記憶の中だけで幼児期の童画体験を増殖させていったものと思われる。そしてこの体験が極めて自然な形で花を開かせたことは、次の言葉からもわかる。「私はごく自然に『童画家』になったのです。…(略)…ある雑誌が私のことを紹介するのに『童画家』って書いたのを見て、“ああ、私は『童画家』なんだな”とはじめて自分自身で気がついたくらいなのです」。

 「コドモノクニ」発刊後、昭和2年には日本童画家協会が発足し、さらに同年、芸術的な色彩の強い「コドモノクニ」に対し、幼児教育と結びついた「キンダーブック」も創刊された。そうした活発な童画家達の動きの中で、昭和11年には講談社の絵本が刊行され、その後10年足らずの問に二百点以上の絵本が制作され、「岩波に文庫あり、講談社に絵本あり」と言われるまでになった。しかし、第二次世界大戦の勃発に先立つ昭和13年の児童図書の統制令を口火として、絵本は浄化・統合されることになり、数年ののちに「コドモノクニ」「キンダーブック」は休刊という形で終わってしまう。このように第二次世界大戦とともに童画活動も停滞し、「講談社の絵本」も、乃木将軍・東郷平八郎といった伝記絵本を含めて戦争絵本に変貌するということになるのだが、この間まだちひろは童画家としては活動していない。

 ちひろは、20代前半を戦争の中にすごした。その頃のことにふれてちひろは、次のように語っている。「私の娘時代はずっと戦争のなかでした。女学校をでたばかりのころは、それでもまだ絵も描けたし、やさしい美しい色彩がまわりに残っていて、息のつけないような苦しさはなかつたのですけれど、それが日一日と暗い、おそろしい世の中に変わっていきました」。幼ない日の童画体験は、一端そこで途切れてしまう。そして、この戦争という人類の不幸が、彼女の心の奥底に深く入りこみ、それがのちの彼女の創作活動に強く作用することになる。

 さらにもう一つ、青春期の不幸として、彼女は20才の時、結婚に失敗している。建築士岩崎正勝の三人姉妹の長女であったちひろは、昭和14年、気が進まぬまま婿養子を迎えて結婚し満州へ赴くが、この不幸な結婚は夫の自殺という形で、一年足らずの間で終止符が打たれ帰国している。そのことについてちひろは、その後何ら詳しいことは語っていないが、1972年に「大人になること」という一文で、漠然とこれに触れて、「人はよく若かったときのことを、とくに女の人は娘ざかりの美しかったころのことを何にもましていい時であったように語ります。けれど私は自分をふりかえってみて、娘時代がよかったとはどうしても思えないのです」といい、「生活をささえている両親の苦労はさほどわからず、なんでも単純に考え、簡単に処理し、人に失礼をしても気付かず、なにごとにも付和雷同をしていました。思えばなさけなくもあさはかな若き日々でありました」と回顧している。気にそわぬ結婚を押しつけた両親をうらむこともあったのだろう、「若かったころ、たのしく遊んでいながら、ふと空しさが風のように心をよぎっていくことが、ありました。親からちゃんと愛されているのに、親たちの小さな欠点が見えてゆるせなかったこともありました」とも語っている。

 その5年のち、すでに太平洋戦争ははじまり、事態が泥沼化してゆく中で、25才のちひろは、不幸な思い出の残る満州に、開拓団とともに再び行くことになる。この満州への二度の旅立ちは、結婚の失敗と戦争という、ちひろの青春の二つの傷跡を、相乗効果として残すことになる。満州という言葉に、ちひろは二つの悲しい記憶を同時に思い出してしまう。ここにちひろの陰の部分があり、彼女の心理の深層にある種のゆがみとなって定着するのだが、それがのちの創作活動に、マイナスの要素としてではなくて、平和の希求とたくましさという積極的な要因として働くのだということは指摘しておかねばならない。

 この事件に対する対応として、また戦争に対する憤りとして、戦後、ちひろは疎開先の長野で共産党に入党する。その後上京し、党活動と関連した形で、美術記者として記事及び挿絵を描きはじめる。その頃の作品はまだ線が固く、子どもを扱ったものにもちひろ独特の柔らかさは現れてこない。しかし弱いものへの愛情、弱いもののもつ美しさ・たくましさに向ける眼は、すでに開かれ、1948年に4ヵ月にわたって「労働戦線」に掲載されたコラム「女性の職場」では、働く女性の美しさが讃えられている。同じく「労働戦線」(1月6日付)には、自動車工場に働く工員の姿が「こまやかな瞳」と題されて点描されているが、その中で彼女は「この男性的な仕事場に、しかし、なんと労働者のヒトミのこまやかなことだろう。ふとすばらしく優美な感情が私の胸にながれだした」と書いている。彼女はすでにこの時、のちに子どものつぶらな瞳に見つけたと同じ感動を、働くものの姿に見い出していた。しかし、この頃の絵は、そうしたちひろの文章と十分に対応しているとは言いがたい。当時、ちひろはデッサンについては、赤松俊子(丸木俊)に師事しその影響を強く受けていた頃であり、赤松俊子・箕田源二郎・新居広治などが「人民のための美術の創造」を目ざして結成した前衛美術会に、ちひろもまた参加していた。のちに箕田源二郎氏の語ったところでは、ちひろは幾分粗暴でもあったこのグループの雰囲気になじめなかったようである。作風においては、赤松俊子の描線の荒っぽいまでの力強さを受け入れつつも、自己の本来の資質との隔たりがあり、それを乗り越えてゆこうとするところに、その後の作風展開の大きなモメントが隠されている。

 とにかくその頃のデッサンは、現存するものだけでも数百点を数える。そうした基礎の上に、1947年28才のときに、はじめての単行本「わるいキツネその名はライネッケ」をエモリ・モリヤの文章に従って挿絵を入れているが、そこでもカンディンスキーのグラフィックを思わせるような固い線描は、今だちひろ独自のものとはなっていない。しかし、幾分粗雑な力強い素描の中に、かえってちひろの新しい時代に向かう意欲が感じとられ、婦人民主新聞・中央公論・中華日報等の挿絵類の仕事にめぐまれる中で、28才のちひろは、画家としての出発を決意していったのである。

第552回 2023年4月5

2 出会い

 27才で共産党に入党したちひろは、30才の時に党活動を通じて、7才年少の松本善明氏と出合い、31才で結婚している。ちひろの受けとめた夫に対する印象は、のちにちひろが「わたしのえほん」の中で語っている。「お金をたくさんもうけようと思っている男の人は、たくさん知っていました。けれど、もうけまいと思っている人は、私ははじめてでした」。「わたしのえほん」は、1969年松本善明氏の選挙用パンフレットとして制作されたものであり、政治家と芸術家という一見相反するはずの二つの異なった個性のめぐりあいが、興味深く描かれている。二人は自分達夫婦愛の原型を宮本顕治・百合子夫妻に見つけ、心の仲人のように思っていたと云う。ある時、ちひろは松本氏に、百合子さんが宮本顕治氏より9才年長であることを話し、それがプロポーズヘのひきがねとなった。しかし、ちひろは自分が7才も年上であること、はじめの結婚に失敗していることもあって、結婚を踏みきってからも、不安と葛藤の毎日が続いたようである。1950年6月末から7月にかけての日記には、待つものの不安が綿々と書きつらねられている。それは、夫が両親の経済的困難の対処に、大阪に戻った時のものである。一人とり残されたちひろは、自分達の愛に絶望さえも感じ、夫が自分を捨てたのではないかという不安が、日々につのってゆく。「革命にプラスにならない愛情をぜんぜん否定している」夫に対して、ちひろは人民への愛情を全て夫善明におきかえて、革命のことを忘れていたのだと悔いる。しかし高まってゆく感情はどうにもならない。やがて待つものの苦悩が、諦めに変わろうとした時、一通の手紙がやってくる。そして一瞬のうちに喜びへとかわる。「革命家としての立派な態度で夫は男らしい文章をかいている。何回も何回も繰返してよむ。男はどうしてこう理論家なのだろう。私の感情的なのと何と正反対なのだろう。これは、芸術家と学者の差だろうか。けれどこの差が嬉しい。私にない反面をあたえてくれる夫、おお善明、最愛の夫」。

 このように、待つものの不安が極限までいって、一瞬のうちに喜びへと転化するというドラマチックな筋立ては、ちひろ自身の人生の軌跡だけではなく、その後の創作絵本の筋立てにも反映していったように思われる。1968年に制作された「あめのひのおるすばん」「あかちゃんのくる日」等は、待つという時間の流れの中に微妙にゆれ動く子どもの気持ちが、うまく視覚化されている。それはちひろ自身が、待っという行為の本質を、自己の体験としてよく知っていたからに他ならない。

 とにかく結婚は二人にとって、貧しいながらもすばらしい門出となった。結婚式の日、六畳一間の部屋で千円の大金を、全部花にかえて、二人はそれぞれの道を確認しあい、二つの約束を立てた。それは「人類の進歩のために最後まで固く結びあって闘うこと」と「お互いの立場を尊重し、特に芸術家としての妻の立場を尊重すること」の二つであった。結婚直後、ちひろは自画像を思わせる一枚の少女像を描いている。黒インクに淡彩で描かれたその姿は、真黒の瞳を持ち、風に向かってのびあがる瑞々しいものであり、二人の前途に喜びと期待を感じさせる。松本善明氏は、ちひろの想い出を語るなかで、自分たちの恋愛が「最高の精神状態でおこなわれた」と回顧している。二人は恋愛論を議論することは、あまりなかったらしく、その考え方はエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』にもとづいた「純化された個人的性愛」を基礎としていたという。ちひろは夫の理論の世界に意志と支えを見い出し、夫は妻の絵からあふれ出る暖かさの中に、自己の活力と安らぎを見い出した。この二人の夫婦愛に見る精神的な結びつきへの憧憬こそが、現在のちひろ芸術の人気を支える一因となっているのかもしれない。早逝した妻のために自宅の一部を美術館に開放した夫の姿は、今古東西あまりにもまれであるがゆえに、また美しく映るのだろう。

 松本氏は、ちひろを評価して「彼女は党が戦争直後の一時期に開設した宣伝芸術学校出身の数少い専門画家の一人であり、まさに党によって育てられた画家だった」と語っている。しかし、ちひろの描く作品は、必ずしも共産党員というイメージにふさわしくないと見られがちであった。あるクリスチャンが、ちひろに「あなたは共産党員なのに何故こんな美しい絵がかけるのですか」と問う。その時、ちひろは「共産党員だからこそかけるのです」と答えることができた。しかし、このように答えられるまでには、ちひろ自身の心の中で、様々な葛藤があったことは言うまでもない。イデオロギーが芸術をひきずり、美術をその手段として用いたことは、歴史において数多くの例を残す。ちひろ自身も、戦争直後固い線で措いていた労働者のデッサンから、子どもと母親を主題としたものが増えてくるに従い、やわらかい優雅な線にかわってゆく。その過程でたえずこの問題をひきずっていたと言えよう。1963年に「子どものしあわせ」の表紙の仕事をはじめたとき、やっとその問題がふっきれたようであり、その年にちひろは、「働いている人たちに共感してもらえる絵を描きたいと、ねがいつづけてきた私は、自分の絵にもっと《ドロ臭さ≫がなければいけないのではないかーと、ずいぶん悩んできたものでした」とそれまでの自分をふり返っている。

 画家は、自己の志向する意志が自己の生まれながらに持っている本性とうまくかみあわないために、その矛盾の中に妥協することもできず苦しむ場合がある。画家が何に目を向けるかは、その人の意志である。しかしそこに何を見つけるかは、むしろ本性に近い。ちひろが目を向けたのは、労働者であり、母であり、子どもであった。それらは、共通してある種の「弱さ」を持っている。しかし、こうした弱いものに向けるちひろの目は、逆に弱さの属性ではない暖かさ・明るさ・美しさといった強さを感じずにはいられなかった。ちひろの目には、全てのものが美しく・たくましく見えていたのかもしれない。次のちひろの言葉は、それを証明している。「私には、どんなにどろだらけの子どもでも、ポロをまとっている子どもでも、夢をもった美しい子どもにみえてしまうのです」。ちひろはのちに戦争を主題として、いくつかの絵本を製作するが、そこに描かれた子どもが効果的であるのは、戦火の中にあってさえも、子どもはやはり夢をもった美しい子どもであることを、作者自身がよく認識していたからである。それが戦争という暗いテーマを扱う場合の、唯一の救いであり、しかも最大の力を発揮する訴えともなった。

第553回 2023年4月6

3 母と子

 いわさきちひろが一牌有名になったのは、昭和29年1月に朝日新聞に掲載された「明るい弄ばえ」という記事によってである。そこには、家事に追われながらも、芸術との両立をはかる童画家岩崎ちひろが、2才になる長男猛氏といっしょに写真入りで紹介されている。当時ちひろは35才であり、すでにヒゲタしょうゆの宣伝のためのポスターを成功させており、油絵でも前衛美術会主催のニッポン展に「眼帯の少女」を、日本童画会に「玉虫のずしの物語」を出品している。

 この頃より子どもを描く柔和な線描に加えて、夢みるような紫の色彩が登場している。のちにちひろは、14才の頃に師事した岡田三郎助の紫の使い方に示唆されたと語ったようであるが、その雰囲気はむしろマリー・ローランサンのものに近い。しかし、ちひろはローランサンから直接影響を受けたというよりも、自分と同じ色彩感覚を持つもう一人の女流画家の存在に驚嘆したという方が正しい。ちひろは自己の色彩感覚及びローランサンとの出合いについて次のように語っている。「ももいろをいつごろから好きだったかおぼえていない。私のもっていたクレヨンは、みんなももいろが一ばんちいさくなっていた。ももいろの次は藤いろ、そして淡いみずいろ。少女雑誌の口絵かなんかで、はじめてローランサンの絵を見たときは、本当におどろいた。どうしてこの人は私の好きな色ばかりでこんなにやさしい絵を描くのだろうか」。

 このような淡い色に対する美的感覚が、幼児あるいは少女の主題と結びついて、ちひろの絵画世界は開かれてゆく。1953年以来、何度となく繰り返して描かれた「人魚姫」や「マッチ売りの少女」などアンデルセン童話の世界は、この淡い紫によって広げられたちひろ独自のイメージの宝庫であった。その点、1966年になって母と二人でアンデルセンの古里オーデンセに旅したことは、自己のイメージを確かめるためにも、ちひろにとって大きな収穫だったにちがいない。この一カ月余りのヨーロッパ旅行の間に、ちひろは5冊のスケッチブックを残しており、その成果は帰国後のアンデルセン作「絵のない絵本」の挿絵に十分に表わされた。それは若い人の絵本として出版され、色彩を一切用いずに、白と黒だけの世界であるが、水彩のにじみの効果の中に、私達はかえって豊かな色彩を感じずにはいられない。その後、死ぬまで10年たらずの問、同じシリーズで「わたしがちいさかったときに」「愛かぎりなく」「花の童話集」「万葉のうた」「たけくらべ」「赤い蝋燭と人魚」と描きつづけられていった。

 このように紫色の世界は、人々を夢幻なるメルヘンの世界に誘うとともに、ちひろ自身の失われた世界をも取りもどすことになる。戦争の痛手の中に一度は忘れ去られてしまった幼児期の童画体験が、ここで再びよみがえってくる。それは昭和26年、猛氏の誕生と非常に深くかかわっている。ちひろが画家として受けとめた子どもの姿態は、今までは目で感じていたのに対し、その後は肌で感じられるようになる。猛氏の誕生直後、ちひろはベッドでスケッチをはじめているが、デッサンの線が柔かくなったのもその頃からである。猛氏の成長とともに、ちひろの子どもに対する観察眼は鋭く、子どもに向ける愛情もより身近なものとなり、深まってゆく。そこには童心主義とも呼んでいい一つの思想が、横たわっているように思われる。松永伍一氏の言葉を借りれば、岩崎ちひろは「童心というものの特質に信仰めいたものをつなぎ、童心そのものが人間の中で、いずれは消えていくと知りつつも、それを防ぎとめ得るという逆説をテコに、それに賭けつづけた人」とも言えよう。

 1973年、ちひろは新潟日報に何編かの詩と絵を発表している。そのうち「雪のなかで」と題されたものには、ちひろが子どもをいかなる目で見ていたかがよく表わされている。

 

  雪のなかにはじめておりたった日

  こどもはそのひとみをいっぱい見ひらいて

  ………………………………………

  好奇心と感動でまばたきもできない

  こどもははじめて知るこの世のふしぎに

  いつもそのまあるいひとみを輝かす

 

子どもの瞳をいかにして表現するか、これが子どもを描く上でのちひろの課題であったように思われる。子どもの表情に対する追求は、1963年から10年以上続けられた雑誌「子どものしあわせ」の表紙の仕事に、明確に表わされている。その総数は150余点にのぼり、のちちひろ自身がその中から選んで「こどものしあわせ画集」として、一冊の作品集を出している。

 「こどものあどけないひとみだけが描きたかった。だから鼻も口も描くのがいやだった」という彼女の言葉に見るように、ちひろはしばしば子どもの瞳を強調するのに、真っ黒に塗りつぶしている。そのほとんどに眉はなく、鼻も口も小さい。それは子どもの愛らしさを表現する上で典型かつ効果的な方法であるが、それに加えてちひろは、卓越したデッサン力と子どもの動きをとらえる鋭い観察眼によって、子どもの心に生起する微妙な感情までも描き上げている。「ゆきのひのたんじょうび」の中で、友達の誕生日のろうそくをまちがって吹き消してしまった女の子の表情、「あめのひのおるすばん」で、電話のベルにあわててカーテンの陰に隠れて、出ようかどうか迷っている女の子の表情、「あかちゃんのくるひ」では、生まれたばかりのあかちゃんを連れて病院から帰ってくる母親を待ちながら、そわそわと落ちつかない女の子の表情などに、極めて適確に子どものゆれ動く微妙な心理がとらえられている。

 このような愛らしさの表現とは、もはや子どものためのものというより、童心を失ってしまった大人に対する鋭いメッセージとも受けとめられる。ちひろは幾度となく、自分がとくに子どものためにと思って絵をかいたことはないと発言しているし、ちひろの本は、子どもにわかるだろうかという質問に対しては、「子どもにわかったって、わからなくたって、そんなことは問題でないんで、お母さんがいいなあと思っていることが大切で、子どもにわかろうと、わかるまいと、いいんです」と答えている。まず母親が子どもの愛らしさを知ることである。そして、子どもにそれを語って聞かせるのである。このようにちひろにとって絵本は、母と子の心のふれあいを導く媒介であり、母親の肉声を通して、子どものイメージを広げてやる一対一の紙芝居でもあったのだろう。「子どもが、その幼い頭に知恵をいっぱいふくらませて、どんなに眺めまわしたってあきないで、お話が山ほど出てくる絵。これを立派な芸術にたかめることだ」という彼女の言葉は、従来の絵本の概念を乗り越えたものと言える。ちひろの絵本は、子どもにお話を伝えるのではなく、子どもがお話を創るのである。これは恐らくちひろ自身が幼児期に初山・武井の童画によって自己のイメージをふくらませていったという体験と関連するものと思われる。

 その点、ちひろの絵本に余白が多いのは、日本文化特有の余白の美というよりも、それを見る子どもにイメージを広げさせるためだったようにも思える。余白は、母がそして子が、自分のイメージに従って書きたしてゆくためのものであり、ちひろは決して自己のイメージを見るものに固定しようとはしていない。そうしたイメージの広がりの中で、私達は子どもの本来の姿に出あい、その真の愛らしさに気づくのである。「自然が芸術を模倣する」というオスカー・ワイルド流にいうならば、ちひろは子どもの愛らしさを見つけて、それを絵にしたというよりも、子どもの愛らしさというものを創り出したのである。

 子どもへの愛情は、ちひろにとって、すべての弱いものへの愛情であった。それは愛犬チロの場合についてもいえる。ちひろの「ひ」をぬいてチロと名づけられたこの犬については、松本猛氏がユーモラスに語っている。「ピアノの脚もとには古びた毛皮と座蒲団が置いてあり、そこには被女が可愛がっていたチロという雑種の犬が自分の部屋のように悠然と寝ころがっていた。…(略)…チロは、そのお客さんにお茶やお菓子が運ばれてくると、のっそり起きあがってきてソファーの横にお坐りし、彼女いわく『黒曜石のような瞳』でお客さんを見つめ、小首をかしげていた。---(略)…チロはわりに辛抱強く待つ方であったが、待ちきれなくなるとソファーに片足をかけお菓子を催促することがあった。そのたびにいわさきちひろは慌てて、お行儀の悪い犬で、といいわけをしたり、犬臭くて申し訳けない部屋で…とあやまったりしていた」。

 ちひろはこのチロをつれて、15年以上「赤旗」を配布しつづけた。1969年彼女は「わたしのえほん」の中で、我が愛犬にふれて「チロは、もうじき満十歳、私の新聞配りもそろそろ十年近くなります。‥-(略)…私はチロのためにも、どうしても新聞を配らなければなりません。あとチロはどのくらい生きるのでしょうか」と書いている。老いてゆく愛犬のゆく末を案じての言葉は、ちひろの方がチロよりも早く死んでしまった今となっては、余りにも悲しく響いてくる。その4年後、1973年、54才のちひろの体はすでにガン腫瘍におかされはじめていたが、14才になった老犬チロは、ちひろの筆の中で再び小犬としてよみがえった。その年、ちひろは絵本「ぼちのきたうみ」で犬の愛らしさを十分に描き上げた。そのうち莫青な海を背景に、白い砂浜を小犬と少女が駈けてゆく一枚の絵は、夢のような色彩と雰囲気を持っており、小犬に追いかけられて走る少女像に、ちひろは、自己の幼児期の婆を見ていたのかもしれない。「ポチの絵を描きながら、私はときどき家にまっている一四才の白い老犬のことを思い出しておりました」という彼女の言葉が示すように、小犬はもちろん若き日のチロであった。こうして一端は小犬によみがえった愛犬チロであったが、主人ちひろが死んで半年後、あとを追うようにして死んでいった。

 最晩年に描かれたこの海の絵は、同じく絶筆となった小川未明の「赤い蝋燭と人魚」で描かれた日本海の荒海の姿と対比してみると、そこにちひろの生涯を通しての二面性が現れていることがわかる。一方は弱きものに対する深い愛情であり、他方はちひろ個人のもつ強い意志の力である。未明の人魚は新潟の日本海を見なければ描くことはできないといって、ちひろはガンに冒された体をおして旅立った。ちひろの中には、こうした弱さと強さの純動する二つの生命力があり、それゆえに、晩年に同じ海をこのように描きわけることができたのである。

第554回 2023年4月7

4 絵本への情熱

 いわさきちひろは自己の絵本観について語った文章を1964年に残している。「さぎなみのような画風の流行に左右されず、何年も読みつづけられる絵本を、せつにかきたいと思う。もっとも個性的であることが、もっとも本当のものであるといわれるように、わたしは、すべて自分で考えたような絵本をつくりたいと思う。そして、この童画の世界からは、さし絵ということばをなくしてしまいたい」。この言葉は、1968年から武市八十雄とのコンビで開始される画期的な試み、至光社の絵本シリーズを予言した言葉としてふさわしい。それは物語の説明というところから出発した童画の歴史が、童画の説明のためにかろうじて文を残すという段階にまで引き上げようという実験的試みであった。ちひろの幼児期、「赤い鳥」を中心とした児童文学運動の中から巡生的に童画家達が育ち、ちひろは初山滋・武井武雄らの童画の中に、文章の説明以上のイメージをふくらませることができた。その意味では、童画は本文以上のものを語っていたのであり、絵画が文学では語れないものまでをも表現しえたのである。本来、児童文学においては、文章の理解力が乏しい幼児のために、説明の意味で挿絵が施されるのであろうが、幼児にとってはその意味あいは逆転される。幼児にとっては、「はじめにことばがある」のではなくて「はじめにイメージがある」。ことばをイラストレイトするものとして挿絵があるのではなくて、絵をイラストレイトするものとしてことばがある。その点からいえば、ちひろの絵は幼児の教育をめざしたのではなく、幼児の芸術をめざしたのである。

 「赤い鳥」の文学運動は、大人に従属した世界ではなくて、子ども独自の世界があるということを認識させた点では多大な成果があった。しかし、その運動を出発点として起こった「コドモノクニ」を中心にした童画運動は、それまで文学に付随していた童画を独立させはしたが、それが時代の眼界で、今だ文学を自己の付属物として用いようという発想の転換には至らなかった。ちひろは「絵本のためのことばがあっていいのではないでしょうか。絵をいつまでも児童文学に色をそえるためのものにとどめておきたくありません」という言葉を、至光社の絵本シリーズを進めつつあった1969年に残している。1968年「あめのひのおるすばん」に始まったこのシリーズは、その後ちひろが死ぬまで毎年「あかちゃんのくるひ」「となりにきたこ」「ことりのくるひ」「ゆきのひのたんじょうび」「ぼちのきたうみ」と続いてゆく。第四作「ことりのくるひ」ではその成果が認められ、ボローニア国際絵本展のグラフィック賞第一席を獲得した。

 ちひろはこのシリーズの中で、いくつかの実験を試みている。一つは、このシリーズでは、文はきわめて少なく、映画のモンタージュ理論にも似て、絵が物語を展開させる要因となっており、文はその絵の説明ないしは題名という感じさえ与える。それは、絵本を現代美術の独自なジャンルの一つに引きあげ、ページをめくることによって展開されてゆくイメージの世界、つまり他の視覚芸術の分野と異なり、しかも映像芸術ともちがった特殊な美意識を追求するという点で、美術に新しい方向性を示唆した。そうした試みは田島征三・安野光雅・若山憲・谷内こうたなど、文章にしばられることなく自分自身で独自の絵本を創作していった画家たちと共通した方向性であり、ちひろがのちに「無枕の絵を描きたい」といった言葉は、本という形式を取った絵画そのものであったと思われる。

 たいていの大人は、絵本をパラパラとめくってしまう。しかし、子どもにとって次のページを開くまでの時間は、期待と不安に満ちた重要な待ち時間であり、ある時にはページをめくることさえ恐ろしい場合もある。その二つの場面の間にある落差のために、子どもは果てしなくイメージを広げるのである。ちひろの絵は、あるイメージを固定しようとして描かれたのではなく、子どものイメージを広げようとして作用する。1964年にちひろは、絵本を一ページずつ丁寧に見てくれる子どもの見方の正統性をたたえてこう語っている。「函の絵をまず見て静かに開くと表紙の絵が出てくる。そして背文字のところを通って裏表紙をながめてから開くのである。見返しの色が表紙に美しくうつって次のとびらに展開する。それから口絵、中のさし絵とはいっていく。このことを考えずに描く童画家はいない」。これは従来の絵画を見る眼では決して把握できない世界であり、それを十分に理解してくれるのが、実は子どもであり、その「絵本を買って帰るやさしいおかあさん」であった。彼らはだれから教わったわけでもないのに、絵本の見方を知っている。ページをめくることによって未知なる世界が展開してゆくという期待感の中に絵本の美意識は成立し、一枚一枚のページを独立させて語ることはできない。「ゆきのひのたんじょうび」では、ちひろは証生目の前夜を描いたページで、少女の不安をつのらせ、次のページで真白な雪の日の風景を展開させている。このような絵本独特の効果は、美術館に原画を並べるだけでは決して理解できないものであり、それゆえに従来のタブローを越えたものとして評価しなければならない。いわさきちひろが至光社のシリーズで行なったもう一つの試みは、印刷という手段の可能性を追求したことである。堀尾青史氏は、ちひろの作品が1960年頃からよくなったとし、その理由を、印刷技術の進歩と関連させて、1960年に製版技術がガラスからフィルムヘ、さらに翌年には電子製版へと進歩したことをあげている。確かに、ちひろ独特の淡い紫色や水彩のにじみが、印刷技術の進展によって、より原画に近い姿を提出したことは明らかである。しかし、至光社のシリーズでは、それをさらに越えて、原画以上の面白さを印刷技術がひき出すまでに至っている。1970年に「となりにきたこ」を制作した折、ちひろは「原画よりずっと透明感のあるきれいな印刷になりました。こんな調子だと、原画展などにうっかり原画をならべたりしたら、たいへんなことになります」と語り、絵本作家にとっては、あくまで制作された絵本が作品であるということを強調している。このような視点は、本そのものが美術となる絵本作家にとって当然の主張であり、絵本と画集は明確に区別しなければならない。武井武雄も「本とその周辺」の中で「原画が見せられるのではなくて印刷されたものが見せられるのだ。裏返していうと、原画は版下であって作品ではなく、印刷になったものが即ち本当の作品だという事に気がつかなくてはならない」と指摘している。

 このようなオリジナルの崩壊は、複製芸術にとって欠かせない重要な課題であるとはいえ、ちひろの場合、原画はあくまでも重要な意味をもつ。いくつかの絵本の中で、その一枚一枚にちひろは自己の署名を入れているし、絵本の中で用いた原画の中で、出来映えのよいものをその表紙に用いていることからも、ちひろにとって一枚一枚の原画がきわめて大切であったことが暗に理解できる。ちひろは署名した一枚の絵の中に、完結した世界を見ていたのである。また、原画を返すことさえしない出版社に対して、ちひろは童美連(児童出版美術家連盟)を組織して、画家の著作権を擁護したことも、そのことに対するちひろの直接的行動であったと思われる。何枚かの原画の裏には「乞原画返還」「著作権法により原画は必ずお返し下さい」等のスタンプがおされており、出版社の扱いのひどさは、原画の随所に残されたセロテープの跡形や折れまがりから想像することができる。

 このように、ちひろは童画家の画家としての地位を向上させ、絵本画家にタブロー画家としての自覚を与え、しかも絵本にそれ独自の機能を与えることに貢献したのであるが、その実験的試みをいくつか行なったばかりで病にたおれてしまった。1969年に彼女は「自分が小さいとき読んだ絵本を、結婚するとき、生まれてくる子のために持っていく、というような、そんな絵本をつくっていきたい」と語っている。これはある意味では、ちひろ自身がそうではなかったことの表明であり、この言葉の裏側には、ちひろ自身が幼児期に読んだすばらしい絵本を、結婚する折に持ってゆけるような平和な時代・環境にはいなかったという事実が横たわっている。そのような背景で、この言葉の文字通りの意味、いつまでも母から子へと読みつがれてゆく絵本を自分の手で作りたいという願いは、彼女の意志の力を感じさせる。ちひろはきっと、自分の作った絵本を小さいとき読んでくれた世代が、絵本を捨てることなく育ち、結婚する日を向かえるのを待っていたのだろう。しかし、それを確かめるには、彼女の寿命は余りにも短かすぎたのである。

第555回 2023年4月8

5 戦火のなかの子どもたち

 ちひろに幼い頃、童画のイメージを植えつけたのは、武井武雄・初山滋等の童画家たちの作品であったが、その後戦争を体験する中で、忘れ去ってしまった童画を再び想い出させたのは、1951年の長男猛氏の誕生による。それと同じ意味で、猛氏の誕生後、逆の作用として、一度は忘れ去っていた娘時代の戦争体験が、1964年のアメリカによるベトナム侵略をきっかけとして再び想起してくる。

 ちひろは戦争をテーマにして、三冊の絵本を、至光社の絵本シリーズとほぼ平行して制作している。まず、1967年に「若い人の絵本」シリーズの一冊として「わたしがちいさかったときに」を出す。これは原爆にあった子どもたちの詩や作文を集めた長田新編『原爆の子』に絵をつけたもので、そこに描かれた子どもたちは、悲惨というには余りにも愛らしく、それゆえに見る者に彼らの哀れをいっそう誘うものとなっている。ちひろは童心社の編集長稲庭桂子と取材のために広島へ出向いたが、原爆記念館には足を踏み入れることができず、宿にもどってからも「この寝床の下にも原爆をうけて死んだ子どもの骨があると思うと眠れない」ともらしたと言う。それはちひろの感受性の鋭さを語ってはいても、彼女の憶病さを語るものではない。ちひろにとって原爆記念館はもはや訪れる必要はなかったのである。松本善明氏は「想い出」の中で「彼女はとくに無実の人が死刑になるのは耐えられないとよくいっていましたが、そういうことを考えるともう胸がしめつけられるようになってしまう性質だったのです」と語っている。このような感受性を持つがゆえに、ベトナム戦争もまた常に、彼女の中で意識の奥に隠れていたとはいえ生きつづけてきた終らざる戦後と同一視されるのである。1972年の「母さんはおるす」は、ベトナム戦争の中で懸命に生き続ける母と子の姿を描いたもので、そこでも悲惨さは極めて稀薄である。戦争をあるがままに残酷に訴えかけるという手段を、ちひろはある意味で乗り越えていたと思われる。1971年にちひろは「戦火のなかの子どものかわいらしさを描こうと思って、かわいい子どもを描けば描くほど哀しくなるでしょう」という言葉を残している。ちひろは、戦火のなかの子どもを、あえて愛らしく描くのである。戦火のなかでさえも、子どもは愛らしいものだということが正しいとするなら、その点で彼女は戦争をあるがままに描くのではなくて、子どもをあるがままに描いたのだと言えよう。

 この作品が、次の年の「戦火のなかの子どもたち」を制作する上でのワンステップになったことは言うまでもない。その年の5月に新宿の画廊で開かれた童画家グループ「車」の展覧会に、既にちひろはベトナムの戦火の中で親も家もなくした子どもたちを措いた作品を三点出品していた。この三点を土台にして、その後一年半の間に構想はさらに練り上げられ、1973年9月に絵本「戦火のなかの子どもたち」が完成する。絵本というには余りにも一点一点の完結度が高く、それでいて全体は一つの統一した流れの中に進行する。それは彼女の意識の中の戦争であり、彼女が娘時代に体験した戦争と、今行なわれている戦争が意識の流れの中で交錯しあっている。文は、当時22才になっていた猛氏といっしょになって考えられたもので、極めて少なく暗示的に付けられていて余韻を残す。その余韻の中に、見る側は自己のイメージを広げてゆくことになる。描かれた子どもたちは、堅く口を結び、その無言の表現の中に、私達はかすかなつぶやきさえも、聞きもらすわけにはゆかない。たとえば「風?かあさん?」という台詞をもつ少女の開いた手のひらには、実に複雑な意味あいが隠されている。風は少女が待ちのぞんでいたものなのか、あるいは、その訪れを恐れていたものなのか、知るすべもなく、少女として不安と期待の中に、風を起こしたものの訪れを待ちつづけるのである。戦火の中でそれは生か死かのどちらかしかない。

 戦争がちひろから奪ったものは、彼女の娘時代だけであったのに対し、ベトナムの戦火のなかに死んでいった子どもたちは、その一生を戦争のために奪われたのである。「戦火のなかの子どもたち」の最初と最後に付けられたちひろの詩「赤いシクラメンの花」は、そうした子どもたちに対する鎮魂歌に他ならない。「去年もおととしもその前の年も/ベトナムのこどもの頭の上に/爆弾はふった/赤いシクラメンのその透き通った花びらのなかから/死んでいったその子たちの/ひとみがささやく/あたしたちの一生は/ず-つと戦争の中だけだった」。この詩に添えられている血の色に染まった赤い花びらの一つ一つは、実は爆弾に花と散っていった子どもたち一人一人の亡霊なのである。一見して美しい花びらと子どもの顔のダブルイメージの中に、私達はちひろの驚くべきイメージを見つけることができるのである。このようにちひろの訴えは、あまりにも静かに語りかけられ、何げなく見過せば美しく目に映る画像のうちに、不気味なまでの彼女の感受性によるイメージの高鳴りを読みとることができる。そして、恐らくこれがちひろ絵画の本質であろうと思われる。

 飯沢匡氏は、それを「野の花の心」と称した。「ちひろ女史の作品は、一見都合的センスに溢れているようにも見えるが、しかし、底にあるのは、やはり野花の精神で、何ものにもめげぬ強い意志の力である」。野花(やか)とは、ちひろの死後生まれた彼女の知らざる孫娘の名であった。それはちひろが「ひさの星」や「戦火のなかの子どもたち」で描いた主人公たちの無口な中の心の強さに通じるものであり、ひたすら耐え忍び待ちわびる者の名でもある。そして、ちひろもまた、絶えず何かを待ちつづけていたのである。それは平和といってもよく、愛といってもよく、しあわせといってもよい。彼女は1970年7月26日に一枚のポスターを制作した。「ベトナムのこども/わたしたちの日本のこども/世界中のこどもみんなに/平和としあわせを」と書かれたそのポスターに登場する子どもたちの瞳は、すべて白く抜かれており、彼らの失ったものの大きさを十分に伝えている。少女の頬杖をつく姿や少年の爪をかむ仕ぐさに、彼らが待ちのぞむ平和の存在をかすかに感じることができるとはいえ、虚空を見つめる真っ白の瞳は、いまだ迫り釆るものの恐怖におののいている。

 そこに見られる不安と期待の緊張感は、一般にちひろが好んでモチーフにするものである。上野瞭氏はそれを「待つ発想」と称し、「岩崎ちひろの絵本は、常に何かを待ち受ける緊張感、あるいは何かを〈待つ〉内的葛藤が中軸になっている」と指摘する。待つものにとって、やって来る者が何者かわからないという不安は、戦争というテーマを扱う上での欠かせないモチーフであり、ちひろの中には絶えず不明なるものを待つという発想がつきまとっている。「もしもしおでんわ」や「あめのひのおるすばん」に描かれた電話は、待つものの不安と期待を表わす適切な媒体であった。留守番をする少女にとって、電話のベルは恐怖の訪れであり、しかも母からの知らせではないかという期待との二重構造の中で、その意味あいがゆれ動く。猫も驚いて飛びのく電話のベルに少女はカーテンに身を隠す。しかし、逆にいえば子どもが隠れるのは自分の存在を知っていてもらいたいからである。ある意味では隠れることは、子どもにとって逃げることへの防御である。いったん隠れたカーテンの除から再び顔を出す時、少女は留守を守る一個の人格として、自己を表明する。

 「こどものしあわせ」の表紙に用いられた、バラに隠れる子どもたちや、「あかちゃんのくるひ」で、ダンボールに隠れる少女の像など、ちひろはいくつかの「隠れる」というモチーフを扱っているが、それらもまた待つことの不安と期待に対する一つの対応である。隠れることによって、訪れるものの正体は正確に把握される。「戦火のなかの子どもたち」の表紙に用いられた横目づかいの少女の顔も、手の位置から見て、隠れるというモチーフで描かれたこの種の傑作だといってよいだろう。ちひろの描く、隠れる者の姿は余りにも現れすぎている。それは、隠れきれないこと・隠れそこなうことが子どもの常であり、ちひろはそこに逃げることを知らない積極的な意志の力を読みとったのではなかったか。

 傘に隠れた子どもの姿や、後ろむきの子どもの姿など、隠れるという行為に、ちひろの感受性は呼応する。それは恐らくちひろの陰の部分であり、へたをすれば、画面全体の暗さになり弱さに通じる要素でもある。しかし、隠れることを一つの待つ体勢として完結し、積極的な要素として作用させたところにちひろ芸術の開花があるように思われる。絵本「ことりのくるひ」が海外で賞を受けた際、一人の審査員が「これは弱さの中の強さだ」と評価したという。ちひろが好んでモチーフとした子ども・母・花はともに弱いものであり、しかも、それはまたたくましいものでもある。そうしたちひろの作品の底に流れる人間のたくましさが見失われて、うわべだけのかよわさ・かわいさのみが商品化されることに対して、私達は注意深い目を見開いていなければならない。

第556回 2023年4月9

6 ちひろの光と影

 いわさきちひろの世界に、常に付きまとっている暗い影があったとしても、私は不思議なことではないように思う。人間の不安であるとか、弱さであるとかを、十分に知り尽くしているからこそ、私たちはその共有する部分に共鳴するのであるし、あるいは無意識のうちに、深い影の部分を知ったうえで、ちひろの描く天真爛漫の子どもの姿に、響き会う部分を見つけているのかもしれない.

 暗黒が突如として、光へと展開する場合、いつも光は、影の部分を引きずってゆく。美術史の上からは中世末からルネサンスヘの移行がそうであった。

 いわさきちひろの生涯の軌跡もまた、それに類似する。幼い日「赤い鳥」の児重文学運動に伴って起こった童画の隆盛にはぐくまれて、ちひろは幸せな日々を過ごした。それだけに、戦争という重圧感が、ちひろの青春を覆い尽くす。親の決めた縁談に従った結婚が失敗に終わり、夫が自殺するという事件は、感受性の鋭いちひろにとって、想像を絶するものであったに違いなく、苦悶のうちに娘時代は過ぎ去る。

 ちひろが画家として自立する以前の、この二つの「影」が、以後の創作活動の下地として横たわっていることは、言うまでもない。この時、ちひろは、自己の全存在をかけてすべてを疑ったのである.そして、それがちひろの出発点だった。

 ちひろの描く健康的な子どもの姿に、時折、恐ろしい程の寂しさが漂うことがあるのは、このためかもしれない。雑誌「子どものしあわせ」の表紙に描かれた、大きな帽子を被った後ろ向きの少女が一人で海をながめる姿には、バックに広がる紫色の海の色合いによって、かつてちひろが味わったかもしれない人知れぬ孤独が表されている。同じく後ろ向きで暖炉の前に座る少女の姿も、かごに投げ入れられた人形と毛糸、そして少女の抱く黒ネコの目の異様な輝きによって、虚無の中に打ち立てられた、影の世界を感じてしまう。ちひろは、数多く後ろ姿を描いたし、「隠れる」というモチーフで子どもを描いたものも多い。

 青春を戦争に奪われたものが奪ったものの存在を見極めようとして立ち上がるとき、前向きに自立した精神の片すみで、いつも、青春の傷跡が影となって巣くっている。ちひろの絵画に私たちがひかれるのは、実は、自己の深い傷跡となったこの影の部分でさえも、意志の力によって、光の中へと導くことができるのだという祈りにも似た、ちひろ自身の強い確信のゆえではなかったか。

 ちひろの作品に感じられる「やさしさ」は、はじめからあったものではない。ちひろが生まれ変わろうと決意した日から「やさしさ」を創り上げてゆく過程で、はじめて影は光へと一変するのである。共産党入党は、その一つの証しであったように思われる。