キッド・ピボット『リヴァイザー/検察官』

2023年5月19日(金)19:00-20:30 · 

愛知県芸術劇場 大ホール


2023/5/19

 クリスタル・パイト演出によるダンス作品。演劇と舞踊の共演のように思えるが、字幕を読みながらの舞台の鑑賞は厳しい。ゴーゴリの「検察官」よりも、ダンスの鑑賞に興味がある場合は、ことばはむしろ邪魔になってくる。ことばを排除して純粋な身体の動きを抽象絵画のようにして見たいと考えているとはぐらかされてしまう。絵画史になぞらえれば具象絵画を否定して抽象絵画が出てきて、さらに両者を否定して具体絵画が出てきたのに対応するか。

 その場合なぜゴーゴリなのかと問ってみる。それがロシア文学だからというのも理由のひとつとなるだろう。本来はロシア語なのだからロシア人にはロシア語で聞かせる。つまりここでは英語での翻訳を録音してそれに合わせてのダンスなのだ。日本人には日本語の翻訳のほうがありがたい。この関係はアニメーションとその音声の関係に似ている。ことばに合わせてフリをつけるが、翻訳するとチグハグになりクチパクという現象が起こる。このずれは違和感ではあるが、そこに効果として見どころも生まれる。残響あるいはこだまと呼んでもよいものだ。

 字幕は暗くてまったく読めない。目を凝らしているとダンスが見れない。交互に目を上下させていると、めまいがしてくる。ゴーゴリ「査察官」を前もって読んできたので、字幕を読むのをやめる。まずは市長と検察官を見定めなければならない。女性はふたり、母娘で名前はアンナとマリアだったはずだ。これはわかりやすいが、あとはロシア人の名で覚えきれない。

 大げさな身ぶりを見ながら、セリフにぴったりと対応しているのだとわかるので、この録音された音声と効果音は必須のものとなる。ただしダンサーが発する肉声ではないという点で、オペラやミュージカルとは異なり、パントマイムに近づいている。さらに舞踊とも異なる。踊りや舞いといった独特のアイテムまでも犠牲にして、日常の身ぶりに回帰する。跳んだり回ったりするバレエの基本系が排除される。ピナバウシュをはじめて見たときの衝撃を思い出す。ここでも脚本に引きずられているという点では、日常の身ぶりに近い。

 なぜこんなダンスになったのか。絵画が文学性を排除した歴史を引き合いに出せば、逆行とも思える。その意図は何だったのか。読めない字幕で見ていたので、その効果を確かめるには至らなかった。バッハの無伴奏チェロをバックにしたダンスが流行っている。その場合、チェロは生演奏なので、ジャズの即興のような効果が期待できる。もちろん録音されたテープに合わせて踊ることも可能だが、互いに反応しあうコラボレーションにはならないだろう。即興といえども録音してメディアにされたものを聞いている限りでは大差はないともいえるものだ。

 直訳とみえていた身ぶりが、やがてことばを裏切りはじめる。この落差は意訳と言ってもいいが、テキストをなぞっていたアクションが、逆転してテキストがアクションをなぞっていく。それは身体と精神の関係を考えることで普遍化される。心身の分離と言ってわかった気になっているが、本来はひとつのものである。付かず離れずといってもいいか。そこに出現する違和感は、異化効果といってもよいものだ。録音された音声を音楽のように聞くという手はあるだろうが、どうしても意味に引きずられてしまうのだ。

 制作意図とは外れた勝手な鑑賞法になってしまったが、録音された音声とそれに反応する身体の関係が生み出す多様をおもしろいものに思えている。カラオケで音をはずしたまま最後まで歌い続ける場合と、のど自慢大会で伴奏のアコーディオンが外れた調子に何とかして合わせてくれる場合との落差を楽しんでいるような実験的な試みとも受け止められた。

 クリスタル・パイトの舞踊は以前にもNDTの日本公演で見ていたようだ。そのときは別の作家のものが強烈で印象が薄かったが、今回の動作と共通して、テーブルかバーをはさんでダンサーたちが饒舌なまでの大騒ぎをしていたのを思い出した。


by Masaaki Kambara