第11章 シュルレアリスム

カトリックとプロテスタントマニュフェスト/夢の視覚化/キリコ:バナナと彫像/バルチュス:巨大な絵ハガキ/マンレイ:ダダからシュルレアリスムへ/遊び心/前向きな生産性/ダリ:不条理の演出/マグリット:デペイズマン(転位)/エルンスト:シュルレアリスムの技法/ヴェルフリ:アールブリュットの位置づけ

第123回 2022年1月8

カトリックとプロテスタント

20世紀に入って対立する前衛運動としてフォーヴィスムとキュビスムがまず登場した。色か形かという二者択一の絵画観を追及した。続いて起こってくる対立はここでのシュルレアリスムと、次章での抽象絵画の間での選択だった。これらの二者はほぼ同時期に生まれるが、逆方向をとる運動だったようだ。超現実と非現実を見比べれば、それがシュルレアリスムと抽象の対比だと気づく。ともに写実に対する身の置きかたのちがいを語っている。こえようとするか否定しようとするかのちがいはあるが、つねに現実世界が気になっているという点では共通する。

シュルレアリスムに反応を示す国や民族があるように思う。これに対して「抽象」(アブストラクト)を好む国もある。西洋を二分するキリスト教の宗教感情は、カトリックとプロテスタントの対立にあるが、この図式を前衛美術の二者択一に対応できないだろうか。現在では無宗教も多いし出発点の建国の理念は見る影もないのだが、この思いつきは単純なあらわれを観察するなかから生まれてくる。

シュルレアリスムの出てくる素地は、ダリの場合はスペインというカトリック的土壌にある。ベルギーとオランダというかつてはネーデルラントとして統一していた二国を比較すると、シュルレアリスムのマグリットやポール・デルヴォー(1897-1994)はベルギーから、抽象絵画のモンドリアンはオランダから登場する。オランダはプロテスタントの国として誕生して久しいが、その宗教観が今も芸術観にも影を落としているということはないだろうか。そのとき南半分はカトリックとして残り、現在のベルギーとなった。

もちろんオランダにもシュルレアリストはいるだろう。ベルギーやスペインにも抽象画家はいるだろう。しかしいたとしても必要以上に過小評価されているということはないだろうか。あるいは評価の対象となる前に埋もれてしまっているということはないのか。

スイスとオーストリアの対比も、オランダとベルギーの関係に似ている。戦後のオーストリアに登場するウィーン幻想派は、シュルレアリスムの系譜に属する。創始者のエルンスト・フックス(1930-2015)はユダヤ人だったがナチスから逃れるためカトリックに改宗している。スイスは宗教改革時からプロテスタントの発信地だが、その後カトリックと共存し続けたからだろうか、クレーには抽象とシュルレアリスムのふたつの前衛が同居しているように見える。

シンプルな透明感のあるモンドリアン的抽象と、ごてごてした豊饒なシュルレアリスムのイメージは、プロテスタントとカトリックの宗教感情の反映のようにみえる。この一七世紀の分類が現代でもまだ尾を引いているとすれば興味深いことだ。カトリックの宗教改革が俗的な驚異的イメージを強調したものであったことも、シュルレアリスムのトリッキーな大衆好みの俗物性を引きずるものであったことと対応する。かつてのカトリック大国が育てたカラヴァッジョやベラスケスの面影を、ダリに見出すことは可能だ。

パリの北駅を起点としてブリュッセルを経由しアムステルダムに向かう鉄道の旅は、食文化の変化にも反映する。17世紀のルーベンスとレンブラントの比較から、受け継がれた宗教感情の実情を絵画にみとめることができる。ルーベンスの飽食は描き出されたふくよかな娘の肢体が証明し、今もベルギー諸都市のグルメのイメージを支えている。

対してゴッホのオランダ時代はジャガイモを食うつつましい家庭料理が思い浮かぶ。つつましさが健康の源となる。「ジャガイモを食べる人々」(1885)でゴッホは貧しさを表現しようとしたわけではない。ひとつ光のもとで寄り添う健全が、ジャガイモに託した祈りによって結実したものだ。北に向かう旅路は、飽食のむなしさを思い知ることになる。パリとブリュッセルで食いすぎてもたれた胃には心地よくほっとする。

こうした宗教感情を西洋の絵画形式に引くまでもなく、禅宗文化はいまだに水墨画に反映している。その精神性は「水」であって、現世の活動をエネルギーとする「油」ではない。パリの方角でいえば、北駅と対比して南に向かうとパリからリヨンを経由して南仏に至る。この経路は、他国からの侵略を気遣わずに安心して中華思想を満喫できる旅だった。多くの画家が地中海をめざした。

第124回 2022年1月9

マニュフェスト

文化都市として最大のパリに花開いた多国籍軍の画家集団がエコールドパリだったが、都市自体が輝きを放ち、それに引きずられるように若者たちが集まってくる。ヨーロッパではその後、第一次世界大戦と第二次世界大戦が続くが、芸術もおちおち謳歌できない状況が続き、最終的にはナチスの台頭を許した。ヒトラーは芸術への興味は深かったが、好みはクラシックなものであり、前衛はことごとく弾圧された。

ここでは大戦のはざまをぬって起こってきたシュルレアリスムに目を向ける。明確な意図をもってマニュフェストを掲げる点で、エコールドパリとは異なる。イデオロギーも明確で、社会主義が政治形態として独立したが、ヨーロッパ全域を考えると、それは理念としてはあるが、現実の社会体制には至っていない。マルクスレーニンの思想に惹かれ、資本主義の世界を変革していこうという気運は強く、芸術運動にも組み込まれていった。エコールドパリでは集合してメッセージを発するというものではなかった。未来派やシュルレアリスムでは、マニフェスト(宣言)が重視されるようになった。

フォーヴィスムやキュビスムは宣言を立てて、その理念にのっとりながら活動を進めていくものではなかった。シュルレアリスム宣言あたりから社会的主張をことばで発して、それに同調する作家を吸収しながら、グループを拡張していった。シュルレアリスムでは絵画を限定的に考え抜くというよりも、社会のなかでどうアピールできるかをニューメディアとしての写真や映画を含めて、総合化された芸術運動としてとらえられる。

中心になったのは画家よりも文学者たちだった。1924年、アンドレ・ブルトン(1896-1966)がシュルレアリスム宣言を発表する。詩人の紡ぐことばにそって諸芸術が同調していく。それは突如出てきたというよりも前身としてキリコやシャガールの絵画世界が受け入れられていた。シュルレアリスムの世界観がそれらのイメージ世界を通して見えてくる。

第125回 2022年1月10

夢の視覚化

シュルレアリスムが求めたものは何だったか。絵画はこれまで目にみえる世界を追い求めてきた。20世紀に入りそれを乗りこえて、芸術は表現であるといい出した。作家の内面の個性的発露を外にぶつけていくものとして絵画はあった。そこでは現実はゆがめられたとしてもまだ形としては外形を温存していた。

シュルレアリスムになって絵画は何でも描けるのだという領域拡大は、目を開いてみえる世界だけでなく、目を閉じてみえる世界に目を向けるようになった。残念ながらそれは「願望」ではあっても「表現」ではなかった。目をつむってみえるのは、目で見ているのではなくて、脳裏に焼き付いている。それは意志の所産ではなく、本能の流出だった。それがくっきりとした形で絵にならないだろうか。

写実絵画の系譜は、写真術が登場して以降、絵画から遠ざかっていった。写真では撮れない世界を模索するなかで、その筆頭として「夢」に行き着いた。眠って夢を見ているときに目は開いているだろうか。自分ではわからないが、観察すればすぐわかる。開いていても閉じていても、目の前のものを見ているわけではない。目に見えるのに描かれてこなかったもので、なおかつ写真では撮れないものを、夢に見つけ出したのも、モダニズムがめざすメディアの特性の発見に一致している。あるいはファンタジーが支配する幻想絵画も思い浮かんだ。目に映る世界というよりも、心に描く世界が、絵の対象になる。

夢を描くのはモデルを前にして描けないという点では、原始の洞窟壁画に描かれた野獣とも共通するものだ。それは自己の表現というよりも、みえる世界の延長上にあり、写実主義の系譜が続いている。文字通り「写実をこえる」(シュルレアル)ものであり、日本語では超現実主義と訳されてきた。そこでは超現実であって非現実ではないという点が重要だ。非現実はあり得ないことだが、超現実は確率的には皆無に近いが、あり得なくはない世界のことだ。

超現実という概念はどこから来たのだろうか。宗教的体験と無関係ではないように思う。非現実ではない出来事のことを奇跡と呼ぶが、まれにしか起こらない。キリストでさえ死者を生き返らせたり、水をワインに変えるのは、大道芸のように幾度も繰り返したわけではない。奇跡を起こすパワーがなくなったとき、人心は去っていった。信仰のない者にとっては、現実と非現実しかなく、超現実はない。

奇蹟という語で奇跡を区別するとき、超現実という語の意味がさらに際立ってくる。キリストの奇跡を疑っても、ダリの描いた世界があり得ると信じるなら、そのときから信仰ははじまっている。神の奇跡だけではない。悪魔の奇跡もある。時計が飴のように溶ける光景を、人類は現実に目にした。

夢の世界は人間の欲望や願望であるなら、あり得るが奇跡的にしかあり得ない。絶世の美女と恋愛をする男の夢は、救世主の訪れを待ち続ける中世の信仰に等しく、一縷の望みにかけている。絵に描くと抑圧された願望が姿をみせる。

願望であることを証明するように、「夢を見る」という語法が拡大する。「いつでも夢を」という歌謡曲があったが、眠ってもいないのに「いつまで夢を見ているのだ」という罵倒の声が聞こえてくる。もちろんドリームの場合も同様だ。ただ夢は「みる」(see)ものではなく「もつ」(have)ものだという点が日本語とは異なり興味深い。日本語でも「夢をいだく」というが、そのとき日本人は眠ってはいない。夢のふたつの把握法は、絵画論を語る上でも重要だ。夢を見ることと、夢をいだくことは、見ることと触れること、つまり視覚と触覚とのちがいを伝えている。

ジークムント・フロイト(1856-1939)の精神分析学がシュルレアリスムを刺激するのは、印象派が光学と色彩学あるいは写真術を武器にし、ルネサンスが遠近法と解剖学を味方につけたのと同じく、当時最先端の学術的成果が芸術と協調した姿だった。ルネサンスでは科学、印象派では工学、シュルレアリスムでは精神医学だった。

夢を絵に描き夢判断を通じて、精神分析は治療の一環として役立ったが、画家はもっぱら創作の原動力に用いた。今後の絵画が生き残るとすれば、壁を打開するのは、脳科学なのか生命科学なのか。いまだ知られざる先端科学なのか、あるいはかつての哲学や宗教学への回帰なのだろうか。

第126回 2022年1月11

キリコ(1888-1978):バナナと彫像

ジョルジョ・デ・キリコはシュルレアリスムの先駆者のひとりだ。キリコの位置づけは難しいが、シュルレアリスムと結びつけることは可能だ。イタリアの美術運動は未来派が出てきて、これがダダやシュルレアリスムと近しい関係にある。キリコの場合は「メタフィジカ」(形而上派)の名で呼ばれる。「詩人の不確かさ」(1913)では広場上でバナナが脈絡もなくギリシャ彫刻と出会っている。バナナが大きすぎるのか、彫像が小さすぎるのかは、不明のまま投げ出されている。のちにシュルレアリスムのモットーとなる「解剖台上でのミシンとこうもり傘の偶然の出会い」に対応する。

バナナは食べるものなのでどこにあってもよさそうなものだが、これを絵画で描かれると見る側は困惑し、意味を付加して考えることになる。そこにキリコ独特の不可思議な世界が立ちあらわれてくる。イタリア人だがギリシャに生まれ、父親が鉄道技師だったということは、個人的な事情だが、絵にはギリシャ彫刻や鉄道が頻繁に出てくる。それはキリコにとっては論理的帰結をなすが、他者にとっては不可解なままである。

鉄道はいつも遠くを走っていて、現実とは思えない追憶の世界を形成する。父親は早く亡くなってしまっており、思い出や面影に連動する形で、辻褄の合ったものになっている。現実の世界を映し出しているように見えながら夢のようで、影は長く引き伸ばされ、広場には誰もいない。不気味な感じがするが、暗くはなくて、いわば白昼夢の世界を生み出している。この独自世界はシュルレアリスムのひとこまとして十分に見ることができる。

同じイメージが登場する。潜在化した被害妄想のように繰り返し登場する。トラウマは深層にこびりついて離れない。広場はギリシャにもあるしイタリアにもある。時計はあるがいつも止まっている。時が一瞬止まっているような静止的な絵である。もちろん絵であるから、時計は止まらざるを得ないが、それでも止まっているという印象を与えるのは、ルネサンス期のピエロ・デラ・フランチェスカの重厚さを彷彿とさせ、クラシックでもある。イタリアでは未来派が評価されているときの、その反動として動くものに対して全く動かないものを打ち出していった。アカデミックな手法を用いながらモチーフはシュルレアリスムを先取りして、夢のなかに出てきそうなイメージを組み合わせ、現実にはあり得ないような空間を生み出した。

1910年代の仕事は高い評価を受けるが、それ以降は90歳の高齢まで、その蒸し返しのようなリピートを続け、おおらかな絵にはなってくるが、初期のインパクトは失ったようにみえる。ピカソが繰り返し自己を否定して前進した姿と比較すると、ワンパターンの印象は否めない。

ユトリロとともに個人様式を若くして確立し生涯をかけて温める。1910年代に頂点に達したという点で両者は共鳴する。モダニズムがつくりあげてきた典型的な人格であり、ゴッホについてもおそらく大差ない。ちがうのは短命か長命かであるが、生存期間に関係なく同質の作品群が一定量必要なのはいうまでもない。

第127回 2022年1月12

バルチュス(1908-2001):巨大な絵ハガキ

キリコの描き出すシュルレアリスムを先取りした情景は、バルチュスに受け継がれるものだ。画集で見る限りはエロティシズムに目が向かう。少女愛の美学と呼んでもいい。しかし現物を目の前にすると薄っぺらな印象は全くない。

室内」(1952-4)という作品は室内に裸婦とカーテンを引く少女を置いただけのもので、絵ハガキ程度の情報量しかないにもかかわらず、サイズが大きいのに驚く[i]。そんなに大きな作品になる必然性がどこまであったのか、疑問すら感じる。もちろん室内が原寸大だというなら、そちらのほうが説得力はある。サイズの逆転を前にした驚きはシュルレアリスムに属するが、イメージをこえて油彩画の500年の伝統が重々しい絵の具のマチエールに沈潜している。イメージだけが氾濫するとバルチュスの画家としての存在感を見失ってしまう。

旧貴族の出身であることはロートレックを引き合いに出せば病的で、没落する階級が最後の花を咲かせる姿を思わせる。日本では三島由紀夫(1925-70)の美意識と呼応するようなところがあって、美しく終わるのを記録にとどめようとする。甘美で隠微な世界は思想的には対極にあるが、同世代の澁澤龍彦(1928-87)のデカダンスとも共鳴する。イタリア映画でいえば「ヴェニスに死す」(1971)や「ルートヴィヒ」(1972)でルキノ・ヴィスコンティ(1906-76)が描く貴族の最後の華にも通じている。貴族の退廃と少年愛を自身の血のなかに探り続けた。

少年愛や少女愛はさかのぼるとギリシャ彫刻の理想美に位置づけられ、ルネサンスのレオナルドが追い求めたものでもある。伝統的なクラシックな考えかたに根ざしている。「停止した時間」という印象は、バルチュスとキリコに共通するものであり、20世紀になってピエロ・デラ・フランチェスカが発掘され、現代によみがえってくる事情と歩みをそろえている。時間が停止して万物は石化して固まっている。


[i] 「バルチュス展」1984年6月7日~7月22日 京都市美術館

第128回 2022年1月13

マンレイ(1890-1976):ダダからシュルレアリスムへ

ダダからシュルレアリスムへの移行を跡付ける重要人物である。マンは人間、レイは光線を意味するペンネームだが、いかにも写真家にふさわしい名である。写真の技術は職業として十分なもので、好奇心はオブジェや油彩画へと広がりをみせる。印画紙上で直接露光させるレイヨグラムも遊び心あふれる実験である。自然を写し出す写真ではなくて、印画紙の上に光で描画していく試みだった。記録からスタートした写真術がアートとして独立するなかで重要な役割を果たした。

ネガを際立たせたような写真ならではの効果「ソラリゼーション」は、印象派が否定した輪郭線をくっきりと浮き上がらせて、色の粒が世界をとらえる唯一の要素ではないことを教えた。ファッション写真を思わせる商業性はスタイリッシュで、軽やかな機知あふれるものだ。作域はバラエティに富んでいて、芸術性の強いものもあれば大衆性に基盤を置くものもあり、聖と俗のはざまで仕事をやり続けた人だと思う。  

ニューヨークダダというくくりでは、制作よりも破壊への方向性が強い。デュシャンと同調するような側面は顕著にうかがえる。写真家がシャッターを押すだけの行為で完結する限りでは、絵筆を握り続ける画家に比べて、芸術に向かうスタンスはずいぶんと異なっていたはずだ。シュルレアリスムの運動のなかで写真というメディアに目が向かい、評価されるのは、写真のもつ二重写しの効果への興味を含むものだった。偶然できる思いがけないイメージはシュルレアリスムのキャッチフレーズのように使われるロートレアモン伯爵(1846-70)の詩の一節に結晶する。

「解剖台の上のミシンとこうもり傘の出会い」というみごとな組み合わせは、確かに詩人の創作ではあるが、絵画でも写真でも実現可能な可視性を備えている。この三者には何の脈絡もない。ふつうあるべき場所にない不可思議が謎をこえて美に昇華する。これはデュシャンが便器を展覧会場に置く前提ともなる。暗室のなかで異なったイメージを二重重ねにして写し出せるトリックは、この詩文の状況を簡単に実現することができた。たとえてみれば解剖台はキャンバスのことで、ここでは印画紙の置き換えとなっている。ミシンとこうもり傘は二重露光のことであり、この詩はマンレイの見いだした写真技法に対応している。

ひねりをくわえてマンレイは「イジドールデュカスの謎」(1920/71)という梱包作品を生み出した。正体不明の物体が布でおおわれロープでしばられている。写真作品は1920年だが、写し出された対象でみれば印画紙上で布とヒモが出会っている。実際の梱包はその前になされていたはずだ。のちのクリストの梱包アートを予言するが、ここではオブジェは写真を撮るためにつくられたかのようで、梱包自体はオーラを放つものではない。半世紀のちの再制作となるとさらに遠のく。写真のほうが神秘のヴェールにおおわれ、ずっと謎めいている。題名が示すように作家のねらいは「謎」にあって、中身を知らせるわけにはいかない。

梱包はひもを解くことができるが、写真は中身が何かを決して知らせはしない。展示に際しまちがって梱包を解いてしまった作業員がいれば、中身はすぐにわかってしまう。それに対し写真はいつまでも謎のままだ。しかも大きささえもわからない。巨大な梱包を思い浮かべるものもいるだろう。映画撮影のためのハリボテのセットを引き合いに出すと、中身を明かさないようにハリボテは撮影後即座に破棄される。

ここでは中身はデュシャンの場合の便器に対応させて、レディメイドのオブジェだとみると、回答はミシンだということになる。謎解きはイジドールデュカスがロートレアモンの本名だという伏線の隠し込みにある。マンレイには文字通りミシンとこうもり傘を並べた写真もあるが、説明的すぎて謎めいたものは見えてはこない。

第129回 2022年1月14

遊び心

ダブルイメージはシュルレアリスムの武器となった技法だ。自然を写し出すのが写真の出発点だが、暗室のなかで処理することで、マンレイはあらたな可能性を切り開いた。「ガラスの涙」(1930-3)はマンレイの諧謔的な名品だ。女の流す涙の位置に小粒のガラス玉を載せて撮影した写真だが、実際には涙の粒が大きくて不自然だ。その不自然さが女の流すガラスの涙という用語法に対応する。それは決して冷たくもなくて、肌にしみこむこともなく、ガラスのようにころころと転がるだけであり、「偽りの涙」という暗示を含んでいる。

モンパルナスのキキ(1901-53)をモデルにアングルの裸婦を思わせる背中を、ダブルイメージでヴァイオリンのボディに見立てた写真や、空に浮かぶ赤い大きな唇も、シュルレアリスムならではの、あるいはマンレイならではの独創性を生み出している。

イメージの連鎖が引き起こされる。裸婦の背にはヴァイオリンの穴に見立てたフォルテ記号が左右対称に書き加えられているだけだが、目を凝らしていてそれがヴァイオリンをこえて口髭のように見え出してくるとすれば、モナリザに髭を付けたデュシャンへのオマージュとも受け止められる。原図がレオナルドとアングルの美女だというなら、古典主義に向けてのパロディに他ならない。

作品名をデュシャンは好色な女を意味する「彼女の尻は熱い」というフランス語を隠し込んだ「L.H.O.O.Q.」(1919)と呼び、マンレイは「アングルのヴァイオリン」(1924)とした。髭を加えるだけで男女は簡単に反転する。髭を通じて背中が顔にみえだすとマグリットの夢想へとつながっていく。「凌辱」(1934)では乳房が目、ヘソが鼻になり、その下では女性なのにあご髭もはやしている。口髭ではなくあご髭だという点にも注目しておこう。日本にも腹に顔を描いて踊るし、胴の面(どうのつら)という妖怪もいる。西洋では胴体が顔になってそのまま足とつながるヒエロニムス・ボスのグリロ(頭足人)や中世ロマネスクの彫刻が、古くから流布していた。

第130回 2022年1月15

前向きな生産性

デュシャンとマンレイを比較してみる。ちがいはフランス人とアメリカ人という点にある。ニューヨークダダを起点とするが、教祖デュシャンのもつ不燃焼の神秘性を脱して、アメリカナイズされた前向きな生産性をマンレイに認めることができる。ダダの破壊からシュルレアリスムの建設へと展開する積極的なアメリカ人の典型的性格だ。

アイロンごての表面に無数の釘を貼り付けたオブジェ作品は、「贈り物」(1921)と名づけられるが、超現実というよりもいたずらっ子の遊び心のようにみえる。ここでも茶目っ気のあるアメリカが、ヨーロッパの深刻な表情を笑い飛ばしている。子どもの夢想ほどシュルレアリスムにふさわしいものはないが、それは子どもにとって現実そのものだという意味においてである。夢を現実そのものだという子ども心は長くは続かない。忘れたというよりも目をそらせたというほうがよいだろう。

ユーモアたっぷりの悪戯は、自殺者に扮した「自画像」(c.1932)にもあらわれる。首にロープを巻いてピストルを手にするが、表情は真剣に役柄を演じており、五時過ぎをさした置時計と裸のままの上半身が謎めいて、いつまでも目に焼き付いて残る。鏡を前にしての芝居がかった一瞬だ。時計は不自然にも私たち観客にみえるようにして置かれている。

のちの扮装する一連のセルフポートレートが一世を風靡する写真史のニューモードを先取りしている。さかのぼればクールベが描いた狂気の自画像と同質のものが感じ取れるが、ここではもちろんパロディであって、写実主義者の本気はない。さらにさかのぼるとデューラーやレンブラントやゴッホのなりきりの自画像を踏まえたマンレイの知的遊戯でもあった。

ピストルを手にしているのは、ゴッホへのオマージュとみることもできる。ゴッホが手にしたリボルバーは、そんなちゃちな短銃ではなかった。この小銃なら引き金を引いてくわえたタバコに火はつくが、回転式のリボルバーがライターになっているのはあまり見かけない。ゴッホの拳銃がリボルバーだったというのは近年の話題で、マンレイは知らなかっただろうが、ここでのパロディはライターでなければおもしろみを欠く。類似のシチュエーションを思い浮かべると、今日では困ったことに、マンレイを含めて誰の自画像を前にしても森村泰昌の顔に見えてしまう。

第131回 2022年1月16

ダリ(1904-89):不条理の演出

サルバドール・ダリはインパクトの強いイメージを増産した。「記憶の固執」(1931)で描いた柔らかな時計は、あり得なくはない光景とみればシュルレアリスムにふさわしいものだ。通常の温度では時計がチーズのように溶けることはない。三つの時計は少しずつ時間がずれている。7時に何分か足りないようにみえるが、午前中のことだろうか。時計が止まったままの光景はときに目に焼き付いて人類の記憶となる。それは大震災で壊れた時計の場合もある。大惨事が起こった時間がそこに定着する。

ダリの想像力はさらにふくらんで、十数年のちのヒロシマの悲劇を夢想できたとするなら、そのとき時計は確かに溶けて、その時間を指して止まっているはずだ。いま見るとそれは人間の死滅した「原爆の図」に見える。よく見ると裏返った時計に群がるアリだけが生きのびている。ニューヨーク近代美術館にあることは、かつて同じスペイン画家の平和の希求が、ここにあったことと連動している。

「ゲルニカ」は今、スペインに行かないと見ることはできない。ピカソの大作に対してダリのものは手に取るような緻密な表現だが、これが細密描写であるためには、ニューヨークでオリジナルを前にしたときの驚きが必要となる。画集で見ていたときと変わらないほど小さな作品であることが、多くの鑑賞者を驚かせることになる。

ダリは映画という新しいメディアにものめりこみ、今までの画家の系譜をこえて、広がりを見せている。シュルレアリスムは文学運動でもあったし、時間軸にそってドラマが展開していく映画とも歩調を合わせるものだった。ただしそのドラマは一般的には辻褄が合わないとしても、キリコの絵と同じく作家個人のなかでは十分に完結している。「アンダルシアの犬」(1929)での目やアリの肌を突き刺すような触覚感や、ヒッチコック映画「白い恐怖」(1945)に協力した無数の目に襲われる夢想などは、ダリ的世界を強烈にイメージ付けるものだ。

不条理の原風景は、ダリが自分の墓を見るという体験にも由来している。映画ではベルイマンの「野いちご」(1957)にも、棺に横たわる自分自身をみつめる老教授の妄想が登場する。文字盤のない時計とともに白昼夢ともいえるような衝撃的な映像となって記憶に残るシーンだ。雰囲気は似ているが同一人物ではなさそうなのに、死後の自分を見ていると解釈してしまう離脱体験に加えて、さらには幼くして亡くなった息子の名を次に生まれた息子につけるというわからなくもない親の論理が、息子当人に複雑に作用するということはありうる。

自分は影でしかないという幼児体験が、絵画から映画というメディアの特性に浸透していく。妄想の輪郭を必死になって目を凝らして見つめようとすると、自然とシュルレアリスムにたどりつく。影が実感をもってその存在を確認できるのは、ダリがサルバドールという名が刻まれた幼子の墓の前に立ったときだ。そのとき影は確かに自分の墓を見ている。ベルイマンの棺桶と対比すれば、同じ外観なのに顔がちがっていたのは、兄の墓を前にしたダリの心理を下敷きにしたものだ。

第132回 2022年1月17

マグリット(1898-1967):デペイズマン(転位)

キリコのバナナがギリシャ彫刻と並べられて驚いたのは、ふたつが異質な組み合わせだったからだけではなく、サイズの問題もともなっている。大きさを度外視するのは、夢の世界と一致するものだ。この原理をシュルレアリスムで多用するのはルネ・マグリットだった。イメージの魔術師の名が与えられるが、それは絵画としての価値を後退させるものでもある。手描きの絵画テクニックに驚嘆するわけではないのだ。

マグリットの場合、オリジナル体験はあらかじめ写真を通じて知っている驚異の追体験でしかない。「これはパイプではない」というパイプを描いた油彩画「イメージの裏切り」(1928-9)のことは知っているが、それ自体の大きさについては、知る必要を感じてはいない。そこでは絵とことばの関係だけが問題になっており、哲学者をおもしろがらせはするが、絵画をおもしろがっているわけではない。パイプの大きさについては棚あげにされてしまっているのだ。もしかりにそれが巨大なタブローであったなら、ひとめみてこれがパイプではないと理解することになるはずだ。大きさの度外視は、シュルレアリスムの原理に従っている。

小さいと思っていたものの巨大さに驚く心的状態のことをシュルレアリスムではデペイズマン(転位)と呼んでいる。ヒトを立たせて絵の大きさを知らせたり、マッチ箱を隣りに置いて対象の大きさに気づかせたりするが、多くは写真を通じての確証のことだった。写真の場合、実際はマッチ箱のほうが巨大なサイズであってもよい。デペイズマンは、驚きこそが美しいという美学にしたがう。

見立てのミニアチュールに取り組む田中達也(1981-)の遊び心は、現代でも広くエンターテイメントとして支持されている[i]。これを美術史に位置づけると、手法はシュルレアリスム、画風はポップアートということになる。異質なものを出会わせて、あっと驚かせる。サイズの逆転は「さかさまの世界」というボスやブリューゲルの時代から引き継がれるもので、正統派のパロディといってよい。

日常のありふれたものを題材にするのは、ポップアートの感性だ。フィギュアもまた村上隆をはじめネオポップの作家が好んだ嗜好で、その場合手のひらサイズのおもちゃのフィギュアを、彫刻サイズにまで拡大することで、アートへの変換を果たした。しかしここでは逆にミニチュアサイズに変換することで、パロディアートとしての自覚を得ている。

イマジネーションは最大限の広がりをみせるが、その思想はマクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙)との一致を語るレオナルド・ダ・ヴィンチの方法論とも共有する。大地から生える樹木は頭髪にあたり、大地を流れる川は血液に、自然の風は人の息に対応する。つまり人は自然そのものだというわけだ。それもまたデペイズマンである。フィギュアはイメージを誘導する小道具に過ぎないが、その変換の要の位置にさりげなく置かれることで、あっと驚く世界が誕生する。

一センチにも満たない精巧に作られたミニチュアのフィギュアなのだが、ここでの見どころはフィギュアにはない。それを日常生活で見かける何でもない日曜品と組み合わせているという点にある。台所のスポンジの裏のグリーン地が、テニスコートに見立てられる。ミニチュアのテニスプレーヤーをそこに置くだけで、この世界は完結する。一方スポンジのおもて側は、サーフィンをする波に見立てられている。大写しにされた写真では繰り返すスポンジの凹凸が、みごとなサーフィンの白波に変身している。

もちろんこのスポンジの考案者が、パロディ写真を前にして腹を立てて無断転載として訴訟に踏み切ることも可能だ。それによって話題を得て、パロディ裁判が芸術とは何かを法的に考えてくれることになる。ネオポップの時代、「訴訟」は話題作りを目的とするマスコミ操作に欠かせないアメリカ型の芸術制作に必須のアイテムとなった。


[i] 「MINIATURE LIFE展 田中達也 見立ての世界」2020年9月16日(水)~10月5日(月)大丸ミュージアム梅田

第133回 2022年1月18

エルンスト(1891-1976):シュルレアリスムの技法

ダリやマグリットのわかりやすさに比べるとマックス・エルンストは、十分に受け入れられてはいない。フロイトの影響を感じるにはエルンストの活動に目を向ける必要がある。シュルレアリスム絵画も一本の道筋では理解できない。大きく分けるとエルンスト型とダリ型の両タイプがあるように思う。ダリは自身の手描きのテクニックを駆使して、夢見たイメージ世界を綿密に再現してみせる。自身の意識で無意識を制御し、手描きの天然色写真に描き起こしていくのがダリの方法論だ。

これに対してエルンストは、フロイトが精神分析で使ったような、たとえば模様があってこれが何にみえるかというロールシャッハテストを試みる。描く側が決定してしまうダリの方法ではなくて、どうとでもみえる多義性をスタートに位置づける。エルンストが好んで用いたシュルレアリスムの技法がある。コラージュやフロッタージュやデカルコマニーなど、物質をはりつけたり、こすったり、たたいたりして、機械的にイメージを写し出していく。物質に紙をあててこすりつけると、物質が今までもっていて見えなかったものが見え出してくる。これによってエルンスト固有の神秘の森も誕生する。

木の節や切り株をフロッタージュすることによって、生命感をもった線の動きやリズムは、樹木そのものだが、見ようによれば生命をもった別の生き物に見え出してくる。命が紙に乗り移っている。見る側がそこにダブルイメージを膨らませていく。一枚の木の葉に紙をあてて鉛筆でこすりだすと、葉はいつの間にか巨大な樹木に変身している。尺度を逆転するようなデペイズマンによって、世界は一変する。モノの組み合わせを変えることによって驚きを演出する。

ダブルイメージとしてはエルンストのねらいは見る側の勝手な領域ということになる。ダブルがトリプルやフォースになる余地を残している。ダリの場合は作為的にダブルに限定して、そうみえるように誘導する。モザイクにしか見えない色の斑点も、離れてみるとリンカーンの肖像が浮かび上がってくる。この恣意的なトリックを好むか好まないかということだが、この両者のちがいもまた、スペインとドイツの風土や宗教性のちがいとして、歴史をさかのぼって見つめてみたい気もしている。

エルンストの手法は方法論であり、ダリのような手わざではない。画家としてのテクニックをもたなくてもよいことから、小学校や中学校の美術教材として、その後の美術教育に取り込まれていった。このちがいを仏教では自力と他力として区別する。自力は自分の力をきたえ、自らの手でつかみ取らなければならない。この精神を下敷きに登場したのが禅宗だった。この精神を実現したのが水墨画だった。

もちろん手を合わせて祈るだけですむ他力のほうが楽なので、ダリのほうがエルンストをこえて大衆性を獲得している。ベルギーに登場するマグリットもまたダリと同じく、他力による信奉者を増やすカトリック的土壌にあった。

自動筆記法(オートマティスム)もまた絵画制作だけでなく、美術教育やアートセラピーにとって有効な方策となった。シュルレアリスムを考えるうえで重要な概念で、ダリが創作に用いた方法だが、意識を離れて自由を獲得する術だった。絵を描くのは意識的な操作だが、意識に制御されない自由な創作をめざすと、意識する直前に手が動いている必要がある。頭で絵を描こうと考える前に、無意識下で手を動かすことによって、自分の意識下に眠っているものが自動的に絵になってくる。信憑性に疑いを抱きながらも子どもが描き殴りをする姿が説得力をもって見えてくる。

精神分析学が科学的根拠になっているのだろうが、これを通して無意識という魅惑的な世界に分け入ってゆこうとした。そこから出てくるのはダリのような緻密さというよりも、抽象絵画に近いようなものだった。シュルレアリスムが開発したが抽象絵画で応用されていく可能性を残した。子どもの描き殴りに近いが、描き殴っているなかでおぼろげに具体的イメージが湧き上がってくるということかもしれない。

クレーが「線は夢みる」というのも、このことをいっているような気がする。夢を見るのは人ではなく、線だというのだ。まるで線描が命をもって作者の意志に反して自立して動いていくという姿を思い浮かべるが、それは作者が気の付かない深層心理のことだろう。フォションは「形の生命」と呼んで、形態が自律して自己形成する姿に美術史の独自性を見つけるが、それも時代と社会の深層に横たわる無意識の領域だっただろう。

戦後になってアメリカで展開していくアクションペインティングでは、この自動筆記をポロックが抽象世界に導入して見せた。シュルレアリスムでの自動筆記は、手先による小品がおもだったが、戦後のアメリカでは身体ごと画面のなかで自動筆記がなされた。小説家がよくいう登場人物が勝手に動き出すという神秘主義に対応するのだろうし、表現主義を乗りこえようとして個人の力をこえた信仰による神がかりにも通じる。神が下りてくるまで待つのか、神を自分の手で引き寄せようとするのか。神道の巫女にも通じる創作原理をさぐる興味深い方法論だった。

第134回 2022年1月19

ヴェルフリ(1864-1930):アールブリュットの位置づけ

キリコはシュルレアリスムの先駆的役割を果たすが、イタリアでの動向は、シュルレアリスムに突き進まずに、未来派に未来を託すことになった。キリコの静止したイメージ世界を動きのある対極へと移し替える。フランスでは強引気味に先駆者としてアンリ・ルソー(1844-1910)をもち出す。ブルトンはヒエロニムス・ボス(1450c-1516)やジュゼッペ・アルチンボルド(1526-93)の再評価にきっかけをつくるが、シュルレアリスムというにはルネサンスは早すぎたかもしれない。

ルソーはアンドレ・ボーシャン(1873-1958)やカミーユ・ボンボワ(1883-1970)とともに、一般には素朴派に分類されるが、子どもの描いたような素朴さの背後に、緻密なディテールが隠しこまれている。その描写は決して子どもの範疇ではない。日曜画家ではあるが、考え抜かれたイメージ世界を展開させていった。現実をあまりにも厳密に描きすぎると現実をこえてしまう。

現代でもまだシュルレアリスムは健在だ。わかりやすく見てはっとさせるものがある。美しいという世界から驚きの世界へ、それは感動というものでもない。意外性による驚きがシュールのもち分だろう。それが美意識として完全に定着していったということだ。ここでアドルフ・ヴェルフリを引き合いに出すのは適切かもしれない。アールブリュットやアウトサイダーアートをイズムとしてどこに位置づけるか。素朴派との比較はよくなされる。精神に破綻をきたした思いつめとこだわりは狂気をはらんでいるが、純真無垢な魂のありかは、芸術的使命を担っているようにみえる。

アールブリュットというフィルターを通さないなら、どのように目に映るだろうかと問いかけてみる。アルファベットと数字が並ぶ絵画が、大量に残されているというのが出発点だろう。誰が何のために描いたのかという疑問が出てくる。楽譜も描き込まれているが、いつの間にか装飾に変わり、文字と数字も繰り返されるが、意味から放たれて絵画をかたちづくる一要素になる。

中世の写本を思わせる画面構成と古色は、キリスト教に根ざした伝統の上に立っている。落ち着いた色彩感覚と、新聞用紙を用いての幾分くすんだ色合いは、ケルト美術やメキシコのトーテムポールのエキゾティズムに通じるものがある。キリスト教圏の限られた地域で制作された、いまだ知られざる民族の手によるものではないかという見解も出てくるだろう。天使が空から落ちてくるイメージが見られるし、ロマネスク期に特徴的なモンスターの登場する装飾写本に通じるものがある。

写真のコラージュもあるので、それほど古いものではないこともわかる。あるいは現代にまで継承されている民族絵画の系譜なのかと思う。ウォーホルが目を付ける随分前から、キャンベルスープ缶が絵画モチーフとして登場しているのもわかる。1929年の日付が見られる一点である。全体を通して様式的には一定しているが、ひとりの作者を想定する前に、アボリジニの人たちの造形に共通するような、種族としてのマイノリティを考えたくなる。二萬五千頁からなる作品群は「王国」という名にふさわしいものだ。

キリスト教の聖書はトータルでいったい何ページあるのだろうか。それが王国を統一する原理となる。そこに構成された宇宙は、それが経典であることを教える。殺風景な空間に平積みにされた手稿の山は、重厚な存在感を伝えるシュルレアリスムとして、インパクトをもって目に飛び込んでくる。それはまたレオナルドの素描を満載した「手稿」とも重なって見えてくる。いずれにしても個人の制作の域を超越している。もちろんそれはシスティナ礼拝堂の天井画をひとりで描きあげたミケランジェロに向ける驚異のことでもあって、現実をはるかにこえて降臨する神がかりの姿にも等しいものだった。

草間彌生(1929-)の生み出す豊饒な増殖と量産も、独自の王国を築き上げており、シュルレアリスムの今日的展開とみなすこともできる。前に立つと現実をこえて生命の躍動がリアリティをもって壁面をうねりはじめる。1960年代にはすでに世界の大舞台にいた人だ。21世紀に入ってからも年齢を考えると異形(いぎょう)としか思えない驚くべき集中力を見せつけた。80歳は30歳よりも確かに半世紀も「新しい」という点で、モダニズムを踏襲している。

2017年の国立新美術館では膨大な量の作品群が新作として展示されている[i]。500点のうち130点が選ばれ大展示室にまとめられた。一望できるが、全てが2メートル大の正方形の同サイズに統一され、間隔をあけずにぎっしりと埋め尽くされている。一点ずつ見ていくこともできるが、全体を巨大な壁画とみなすこともできる。

ひとりで描きあげたことだけでなく、年齢のことを加味し、作風の多様も考え合わせると、神がかりな集中力にヴェルフリの再来を見つけ、この展示法をシスティナ礼拝堂になぞらえたくもなってくる。もちろんこの比較を通して、タブローの展示に対しフレスコ画のライブ感を想像すると、仰向けになっているとはいえミケランジェロは眠っているわけではなく、天井に向かって描き続けたルネサンスの偉大に脱帽することにはなる。


[i] 「草間彌生 わが永遠の魂」2017年2月22日(水)~5月22日(月)国立新美術館

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