開館10周年記念 

下村良之介 遊び礼讃

2019年11月19日~2020年02月16日

BBプラザ美術館


2020/1/26

 パンリアルの日本画の革新運動に属するが、旧来の日本画とは大きく異なっている。展示替え後の二度目の訪問である。それほど多彩というわけではないが、鳥の変貌がおもしろい。はじめ化石に似た骨ばった鳥が、やがて羽をもち、羽ばたいて、飛翔する。時には羽もない軍鶏が、鋭い足の爪を尖らせている。化石になった鳥は骨しかない。生命が石化したカタチの凄みは、芸術を超えている。紙粘土と絵具を用いて、究極の再現をめざしているように見える。

 化石であるはずの鳥が、いつの頃からか羽をもちはじめる。これは自然界では考えられないことで、芸術の勝利だ。さらに鳥は石を抜け出て、両翼を広げて羽ばたいていく。このスタイルの経過を見ながら思った。自然界に残された鳥の化石もまた、実は命が羽ばたいて飛び立った痕跡ではなかったのだろうか。確かに置き去りにされた骨格の痕跡は、グロテスクなまでの自虐美に満ちている。その抜け殻となった相貌は、のちに京の舞妓に嗅ぎ取った画家の嗅覚とも連動して、確固とした存在感を放っている。

 自画像が鳥になることもある。鳥が十二神将や能楽師の姿に見立てられることもある。繰り返し描かれた自画像は、いつも正面を向いてはいるが、破綻している。引き裂かれた自己の所在は、二重になった人格に由来しているようだ。能楽師の家に生まれ良之助と名づけられた跡取りが、良之介という名の画家となって変貌し、自立していく姿が、鳥の左右の羽に象徴される。一つの頭につながる左右の翼のバランスは悪く、身体を正確には二分してはいない。作品群を見直すと、自画像を取り巻く一対の組み合わせがあるのに気づく。魚がペアで泳いでいる。カラスとフクロウもともに二羽いる。もちろん番(つがい)と見てもよいが、一人の人格に宿る二面の自我を意味することは、もう一人の僕を綴った画家の詩からも察せられる。


by Masaaki Kambara