話しているのは誰? 現代美術に潜む文学の目

2019年8月28日(水)~11月11日(月)

国立新美術館


2019/9/27

 文学性をキーワードに現代アートの新しい動向を、6人の新作を通じて紹介するものだ。6という数字には大した意味はない。展示室が6室あるということに過ぎない。つまり一人一室という恵まれた環境が提供されている。一瞬の衝撃度によって見せるものもあるし、じっくりと読み込まないと見えてこないものもある。文学性という限りでは後者が主流ということになるが、美術である限りは前者が追求される。美術の自立する出発点が、文学性の排除であったことを思えば、文学性は美術の後退現象にも取られる。これを回避するために、文学性にもさまざまな様態があるのだと、但し書きが加えられる。

 広いスペースは、インスタレーションの見せ場としては申し分ない天井の高さも備えている。田村友一郎は天井を活用して、四方から見える3Dのデジタル映像を点滅させている。床面にはオールというか小舟の櫂が無数並んでいる。入り口から続くアプローチには、車の無数のナンバープレートが取り外されて、並べられていた。規格にあてはめられて量産された原型がある。使用者によって個々に変形されるが、ありふれた形が無数に並ぶ光景は、非日常の虚構的ドラマを演出してみせる。これも確かに文学性かもしれない。共同墓地のようでもあるし、無機質な数字の羅列にも等しい無感動なドラマを綴っている。

 ミヤギフトシは壁面に大小の写真が並ぶ。室内の窓越しに見えるおぼろげな風景写真がいい。まさに光景という語がふさわしい。淡い光の交錯が、人物不在の物語を伝えている。小林エリカの映像は、繰り返し炎を手のひらにのせている。繰り返される祈りのように見えるロウソクの並ぶ光景がいい。もちろんロウソクではない。指先にともる光である。絵を見るヒントは、短い詩画集としての機能の内にある。詩が全体を一つの統一体として完結させている。

 豊嶋康子の額縁もどきの絵画は、縦横無尽に壁面に増殖している。同じ高さで一定の秩序を保って展示された鑑賞用の絵画ではない。パロディを通してタブローの伝統を問い直す。絵ではないが絵のように扱われるメディアは、文学性を宿している。

 山城知佳子の映像「チンビン・ウェスタン『家族の表象』」は、インパクトの強い、奇抜な映画である。短編映画だが実験映画というには、文学性を残している。映画はなかなか抽象絵画のようには機能しない。リアリズムを求める映画は多いが、これは19世紀中頃の思想的基盤だ。その後キュビスムやフォービスムが出てくるが、あくまでも具象絵画だという限りでは、本作はこうした今となっては緩やかな前衛運動と歩みをともにしているように見える。

 北島敬三の重厚な油彩の肖像画と風景画のような写真がいい。スタイルとしては決して先端性を持つものではないが、写真が説得力を武器にして、信頼を勝ち得た歴史を体感させてくれる。土に生きる民族の叙事詩のように、雄大な自然を背後に忍ばせていて、それが肖像を包み込んで、説得力を加速させている。自然にたたずむ廃屋も、基本的には地に根ざした肖像群に属している。


by Masaaki KAMBARA