越境者たち-BEYOND THE BORDERS コレクション展

同時開催:山下新太郎のファミリーポートレート

2020年2月15日(土)~2020年3月22日(日)

目黒区美術館

 アヴァンギャルドと言ってもよさそうだが、ここでは越境者と呼んでいる。美術における前衛を意味するとしても、運動体というよりも、個人的活動を重視してのことだと思う。

 第一章の諏訪直樹 vs 川村清雄が、はたして対比となっているのかどうかはあやしいが、諏訪の大作の圧倒的な迫力に軍配が上がる。明治に入り西洋画の日本での草分けのひとりがめざしたフロンティア精神と、形骸化した日本画を改革しようとした現代作家とに、確かに響き合うところはある。かつては和魂洋才という便利なことばが使われたが、今の時代は両者は複雑に絡み合っている。

 つまるところは「日本画」とは何かという議論の不毛にまでたどり着くのだろうが、日本画における大作主義の系譜を具体的にたどってみる方が、実りは多いはずだ。水平方向に果てしなく広がる画面は、一目で見渡すことができないほどで、視野からはみ出している。そこで歩きながら鑑賞することになる。

 右から左に歩みを進めると、いつの間にか巨大な絵巻物を体感している。幾何学的抽象はそこにさまざまな表情を埋め込んで、見立ての美学を確立する。三角形の緑は、そびえたつ山の峰を暗示するし、45度の角度で斜めに打ち込まれた格子縞は、波濤か雷鳴となって、北斎の霊峰を思い起こさせる。扇面も散りばめられて、色調ともに日本美の探究と受け止められる。

 川端龍子にはじまり横山操に受け継がれる日本画のダイナミズムと比較したくなる。その点でも経歴からは出てはこないが、日本画家だと見てよいだろう。六曲一双に飽き足らず、連綿と増殖する会場芸術は、以前平塚で見た岡村桂三郎の生み出す東洋美学を思い起こさせるものだった。比較すると、こちらの方が軽やかで、和のテイストを下敷きにしているようだ。現代の日月山水図だと言ってしまうと、越境者の位置づけを外してしまうことになる。

 第二章パンリアルへの興味は、先日神戸で二度訪れた下村良之介の毒気に、もう一度あたりたいと思ってのことだったかもしれない。三上誠は福井で、星野眞吾は豊橋で親しんできたが、今回はパンリアルという個を外れた相乗効果を期待した。展示点数は少ないが、それぞれが持ち味を発揮する。通底するものはあるが、日本画という思考法から発するテクスチャーへのこだわりに見出せるかもしれない。

 薄塗りから厚塗りへ、さらにはレリーフに近いまでに表面を盛り上げたという点では、やはり下村が群を抜いている。三上の場合は木片のコラージュだったが、ここでは紙粘土が粘りっこく地表を蠢いている。グロテスクなまでに変形した鳥は、近寄りがたいオーラを発するが、誰もが怖いもの見たさの目の欲望に耐え切れないでいる。そんな自虐的恍惚を満足させてくれる一作だった。

 山下新太郎の家族図の前に来ると、ほっとする。身近なものに向けるまなざしは、プライベートなのに普遍性を帯びている。対象に対する愛情は、下村の屈折した視線に毒されたあとでは、一滴の清涼剤のようにさわやかだった。画壇に認められ成功した洋画家の、日常の平和を共有することができた。

By Masaaki Kambara