森美術館開館20周年記念展

ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会 みんなで学ぼう、アートと世界

2023.4.19(水)~ 9.24(日)

森美術館


2023/06/26

 美術は学校では科目のひとつである。美術をアートと呼び換えると、それは単に美術だけではなく、他教科にもまたがるのではないかというのが、ここでのテーマなのだろう。興味深い企画だと感心し、いろんなことを考えさせられた。そして考えることがすべての科目にまたがる基礎であることを改めて思い直した。

 国語・算数・理科・社会という主要科目に音楽と総合、さらに哲学が加わるが、英語がない。英語である必要はないというなら、外国語と言い換えてもいい。もっと不思議なのは美術がないのである。これはたぶんわかっていて、意識的に避けているのだろうが、ここに現代アートの体質があり、現代美術との差異もある。もちろん「現代美術」と現代の「美術」とのちがいもふまえなければならない。

 現代美術と現代アートのちがいは、簡単にいえば時代の推移のことで、荒けずりなものが、洗練されていったとみていい。難渋なものがファッショナブルになったということだ。鑑賞者には流行の先端をゆく若者が多いが、本来は学んでほしい学童がひとりもいない。これは当たり前だ。今日は月曜日で学校に通っている。労働者もいない。本来は美術鑑賞に適した老人も少ない。よぼよぼの老人は、この六本木界隈にはふさわしくないのだと自戒する。

 授業は国語からスタートする。入口にみえるのはコスースのスコップだが、コンセプチュアルアートの教科書で、科目は国語ということになっている。ホンモノのスコップと写真に撮られたスコップと、スコップを定義した辞書の一節が拡大されている。これは英文なので日本人には解さないとすれば、科目は国語というよりも英語なのだろう。字幕スーパーもない。書かれている意味はどうでもいいという表明だろう。スコップの3つの様態を前に考えろというのなら、哲学にふさわしい。そしてこの三者にないのは描かれたスコップ、つまり旧来の美術が含まれていないということである。

 スコップを前にいろんなことを考えさせてくれる。スコップに置き換えて、コスースには椅子もあるが、こちらのほうが有名だ。なぜかというと、私たちが椅子を描いたゴッホのみごとな油彩画を知っているからである。それならセザンヌが好んだリンゴを用いると、もっとおもしろいものとなったはずだ。しかしこれでは作品にならない。リンゴは腐るからである。ここに美術とは何かを問う、コンセプチュアルアートの立ち位置がある。つまり作品にならなければならないという、美術品売買のルールにしがみついてもいる。裏返せばセザンヌの偉大は、美術のアイデンティティを確立したという点にある。

 米田知子の連作写真もまた国語科の授業だ。谷崎潤一郎の手書きの文章をメガネごしに写している。メガネという見るための道具を、文学と抱きあわせるという発想はおもしろい。文学はふつうは文字だけが活字となって一人歩きしていくものだ。そこにヴィジュアルを加えることで、生命を与える。オールマイティでないのは、文筆家のすべてがメガネをかけてはいない点だ。今回は選ばれていなかったが、安部公房のメガネなどは特徴的で、没後にあっても作家のひととなりをくっきりと浮かび上がらせるものだったのを覚えている。

 社会科はわかりやすい。社会的意識が高く、社会へのメッセージを含んでいれば、ここに分類可能だ。社会彫刻の名で知られるヨーゼフボイスの黒板が続く。日本に来たとき、講義に用いた黒板が消されずに保存されていたものだ。さしずめ教祖の残した遺品といえるもので、世の宗教はたいていがこういう形で継承されてきた。ドイツ語で書かれているので、これも社会科というよりも、科目としては外国語だ。多くが写真撮影可能だが、コスースとボイスは禁止になっている。つまり旧態依然として古くからの美術品としての扱いを主張しているとみると興味深い。

 アイウェイウェイの3点の組写真をおもしろく見た。この写真を見ておもしろがるためには、作家が手にしている壺が、極めて高価なものだという基礎知識が必要だ。題名を信じるなら「漢時代の壺を落とす」ということだ。中国は陶芸の宝庫だ。何のためらいもなく落として割ってしまっている。しかしそれがほんとうに高価な品であるかどうかはわからない。そういう解説を読んだだけの話で、鵜呑みにする必要はない。この3点の写真の前に展示ケースに入った壺が置かれている。同じ形をしているが、壺は割ってしまっているので、この壺ではない。壺にはCoca-Colaという文字が読める。彼が割ったのは、古い中国の伝統だったが、アメリカの資本主義の商標であったのだとも解釈したくなる。これももちろん暗示のままなので真意がどうだったかはわからないままだ。

 この調子で見ていくとおもしろくて、美術鑑賞にはならない。見ないで考えてばかりいるのだ。限られた時間の旅行者なので、ひと通りみてあとで考えようと思った。考えたい作品は山ほどあったが、見終わると、きれいに忘れてしまっていた。美術鑑賞はやはりその場で考えないといけない。作品を前にしたときに、直感的に感じ取った真実、ライヴ感覚が美術にとっての命なのだろう。

 最後は音楽と体育の授業だったが、前衛音楽の代名詞にもなったジョンケージの4分33秒を模したマノンデブールのビデオ作品「二度の4分33秒」があった。長さは13分だったので、作品意図には反している。楽譜をめくる姿が写される。3楽章からなるのだろう、途中で3度タイマーをストップする音が入る。無音なのだから、たぶんなにも書かれていない楽譜だ。演奏家が楽譜を目で追いかけているのがわかる。そして私たちは読書法に黙読というのがあることに気づく。そしてケージの演奏が決して特殊ではなかったのではないかと思いはじめた。観客が聞き入っている姿が映されている。鳥の声が聞こえてくれば、自然主義だろう。耳鳴りが聞こえるなら病気だろう。動悸とは言わないまでも、血液の流れるかすかな音を感じるとすれば、死ぬまで続く生命の讃歌となるだろう。必要以上のことを考えることになるとすれば、それが現代のアートの力なのだと思う。


by Masaaki Kambara