松居邦明展

2020年03月07日~03月29日

加計美術館(倉敷)


 コロナウィルスのおかげで、展覧会通いが一挙に減速した。人ごみを避け、人と接触しないことをよしとする。感染症が環境汚染を食い止める。見るという選択肢から、見ないという選択肢へ変換される。行くという価値観から、行かないという価値観に移行する。

 久しぶりの展覧会だった。没後一周忌を兼ねた墓参の意味も加わるが、質的にはかなりいい展覧会だと思う。わかりやすいだけではなく、作品が多くの重要な課題を宿している。それぞれは多くが偽トリプティークになっていて、全体を把握するには三方向からの視点が必要だ。はじまりは常に終わりの予感を秘めていて、見ようによれば無常観が漂う。

 はじまりは向かって右側からスタートする。その時、結末はどうなるのかとワクワクして絵の前を通り過ぎる。中央を横目に見て、最後に振り返る。この時あっと驚く場合は、ただの大衆小説に過ぎないが、世のうつろいの無常を感じたとき、純文学に進化する。

 手の変幻からはじまって、指先が奏でる積み木のリズムへ、さらには食器をクローズアップした静物画から、茫洋とした風景画へと、変奏していく。オリジナリティのある方法論は確立したとして、さあこれからの展開という時期に、作家自身が忽然と消えてしまった。

 メインの展示場所に置かれたすべり台の男女(本当はともに女性とのこと)のディプティークが輝きを放つ。正面から見ると、向かって右に女性、左に男性が着座している。季節がら雛人形のように見える。左右に移動すると男女どちらかが消えてしまう。愛の不確かさと取ることもできるだろうし、不確実な時代を象徴するものでもある。あるいはアンドロギュノス的性格を持った鏡写しの重なり合う半身像なのかもしれない。自身の半身を求めあうベターハーフの理想が、世界を二分して閉じられている。鏡の裏表では出会うことすらままならない。

 突然人が忽然と消えてしまうというトリックは、現実世界でも起こっている。かつては神隠しと呼んだが、現代では個人の愛憎であったり、国家の工作であったりした。もちろん突然死という必然もある。そしてこの不条理は20世紀という時代に誕生した映像というメディアが分け持つものでもあった。映画史の草分けの頃、メリエスが面白がったのもこの点だった。

 二重写しになった曖昧な世界に生きているという実感が、これらの作品に共感をいだく要因だろう。何ら手に触れる確かな実感がないというイメージ世界の不毛を、否定するでもなく、淡々と語り尽くしている作品群を通じて、同時代を共有する連帯が、輪を広げていく。

 モチーフが自然にまで広がったという点は重要だと思う。アナモルフォーズは、絵画の醍醐味ではあるが、西洋ではルネサンス以来、語り尽くされてきた。二本の手、あるいは男女を描き分けるのではなくて、一本の手が内包する豊かなメッセージに耳を傾ける必要があったに違いない。茫漠とした海の広がりが見せる宇宙の共鳴には、小手先ではない創造の神秘を感じ取ることができるように思った。仏教的世界観とも共感して、二元論を超越した絶対的真理にまで展開させていこうとしていたようにも見える。


以下は「松居邦明展」に寄せた一文です。

松居さんの手

 半世紀も前、若い頃のわたしの愛読書に、清岡卓行の「手の変幻」がある。そこでは絵画、彫刻、写真、映画などさまざまなメディアで表現された「手」の表情が分析されている。松居さんがその頃に生きていたら、この詩人はきっと飛びついて、名文にしてくれただろうと思う。

 あやうげな二本の手がある。指先も含めて手の全体は若々しくみずみずしい。差し伸べているようにも見えるし、拒絶しているようでもある。野心的なのに躊躇してもいるということか。蛇腹になったふたつの側面が、手の異なった感情を一つに統合する。顔が出てこないので、真意はわからないまま、人の感情の微妙なニュアンスを、見る側は勝手に思い浮かべる。

 モチーフが技法とぴったりと重なったとき、これだという瞬間が訪れる。松居さんの「手」は、そんな幸運に恵まれての誕生だったに違いない。シリーズ化して繰り返し表現している。手の習作を残した画家は多い。手だけを作品化した彫刻家もいる。画家である妻の手を写し続けた写真家もいる。

 ニュートラルな手には、男女の区別はない。労働者のふしくれだったゴツゴツとした手を、印象づけようとするリアリズムもあるが、イデオロギーを超えた地平で、二本の手がみごとなバランスをとっている。それは自身の左右の手であってもいいし、神とアダムの触れ合おうとする指先であってもいい。もちろん男女の恋愛論に持ち込むことだってできる。そして三本の手というヴァリエーションも生まれる。

 蛇腹アート(本人はシネマトグラフと呼んでいる)は同時に多方向の現象を、一瞬にとらえようとするものなら、絵画史の上からは、キュビスムの延長上にあるはずだ。見る側に移動を強いるという点では、パフォーマンスやインスタレーションの文脈で読み直すことも可能だ。会場をおおう大掛かりな設営を試みたこともあった。

 しかし蛇腹が日本では古くからあることを思えば、むしろ屏風絵や扇面画に対応させるほうがよいのかもしれない。生活空間の日常性に寄りかかるという点でも、コーヒーカップやピッツァ皿などに、モチーフを広げたユーモアにも対応するだろう。しかし日本古来の技法には、手を大写しにしたようなものはないという点で、松居さんの現代は輝きを放っている。

 手からはじまり、これまでさまざまなモチーフの可能性が探求されてきた。2004年の奈義町現代美術館での個展評を書いたとき、喜んでくれていた笑顔が懐かしい。ふくよかで柔らかい手をした人だったが、老いさらばえてしわがれた手の変幻にまでたどり着かず、逝ってしまった若きアーティストの無念に、合掌。

by Masaaki Kambara