第11章 デューラーとドイツ絵画 

ロホナーとケルン派/デューラー/自画像/メランコリー/隠された十字架/目だまし/グリューネヴァルト/クラナッハ/ホルバイン/アルトドルファー/山の系譜/バルドゥング

第350回 2022年8月30

ロホナーとケルン派

ドイツ絵画ではデューラーがひとり傑出している。さらにそれを取り巻いてグリューネヴァルト、アルトドルファー、クラナッハ、ホルバインなどの画家が続く。リーメンシュナイダーをはじめとする木彫の系譜も見逃すことはできない。さらにはデューラーに先立つケルン派のロホナーやショーンガウアーの版画についても紹介が必要だろう。

 ドイツルネサンスをここでは一章でまとめて見ておきたい。流れとしてはネーデルラントの絵画史のように長くはない。はじまりはデューラーの少し前くらいから。ファン・アイクなどがネーデルラントで出てくるのと比べると半世紀も遅れている。地域的にはイタリアには近く、イタリア影響は受けやすいということだ。

 ドイツルネサンスの出発点はケルンにある。ここはドイツでは西の外れ、ネーデルラントに近い地域だ。鉄道で行くと駅を降りた真正面に大きく大聖堂がそびえる。ケルンはライン川の流域で川の河口で海まで続く。海上貿易でも中世を通じて栄えた町だ。そこにケルン派というドイツルネサンスの出発点に位置する画派が出て来る。代表的な画家がシュテファン・ロホナー(1400c.-51)、この大聖堂のなかに彼の作品もある。ケルンの町の美術館ヴァルラフ・リヒャルト美術館にも質のいい作品が残っている。

 そびえたつのは黒い岩の塊のようなインパクトの強い大聖堂で13世紀のものだ。そのなかにロホナーのマリアの祭壇画(1440c.)がある。これも美術館ではないので、ロウソクの光で見るため、照明効果はよくない。色合いは赤茶けて見える。ひとりひとりの顔立ちを見るとロホナー独特の柔らかな感じがなかなかいい。ロホナーの作品はあちこちにあるが、「キリスト生誕」(1445)を描いた小品ではマリアよりも窓越しに見ている三人の天使がとてもいい。まんまるの顔がなかなかかわいくて、これがロホナーの特徴となっている。作風はプリミティヴで家畜小屋にいる牛や馬やロバにしても非常にかわいらしい。丸い目をしていて天使の目とよく似ている。

第351回 2022年8月31

デューラー

 ドイツには北方の持っている独特のゲルマン民族の血があって、それはデューラーなどの作品のなかで、うまくイタリア的なものと混ざり合う。ここでのテーマとしてはオールマイティな画題をこなしたアルブレヒト・デューラー(1471-1528)の作品を追っていくことと、比較的ひとつの仕事だけで一生を終えたデューラー以後に出てくる画家たちの作品を見てゆきたい。

 クラナッハなどは日本でもよく知られる画家のひとりだが、実際にはワンパターンな風俗画的な宗教画に終始した感がある。宗教改革などが嵐のように吹き荒れた時代であり、その意味では作家としてゆっくりと絵を描いてもおれないような時代だった。

 デューラーにしても今ではドイツを代表する作家として重要視されているが、実際にはイタリアからの影響を強く受けた作家だ。二度ほどイタリア行きを試みているが、イタリア行きの理由には当時ドイツに流行ったペストやいろんな病気から逃げるということも入っていた。妻も子どももいたのだが家に残してひとりでイタリアに向かったという悪口も残っている。実際にはイタリアで学んで一流の画家になるという野心の現われであっただろう。

 デューラーは大画家のゆえんだろうか、いろんなジャンルをこなしている。それは17世紀のオランダでレンブラントという名が飛びぬけているのと似ている。それ以外の作家は一芸には秀でているが、いろんなものを満遍なく描ける力は持っていなかったようだ。だからいつの時代にもオールマイティの天才がひとりいて、それ以外の画家はそれぞれのジャンルに長けた専門家へとすみわけが進んでいく。

 フェルメールは17世紀のオランダで、今では非常によく知られた画家になったが、彼の絵は確かに優れてはいるが、ジャンルとしては人物と室内画だけに限られ、決してレンブラントほどの幅の広いものではない。デューラーからレンブラントへと引き継がれてゆく系譜がある。そのなかでデューラーは銅版画を手がけた。レンブラントも大画家であると同時に大版画家でもあった。レンブラントの場合はエッチングだが、デューラーではエングレーヴィングと木版画をともにこなす。木版画だけでも修業をするのに10年はかかるだろう。銅版画でも同じだけの修業を要するが、それだけではなくて画家として生きる方向性を取る。絵画がジャンルとして優位にあったことを思わせる。版画を捨ててまでも絵筆を握りたがる姿は、メジャーにこだわりつづける今日の野球界に似ている。デューラーは若い頃に版画技法はマスターをしてしまい、それ以降は画家として大きな祭壇画にチャレンジしていく。

 イタリアのオールマイティのように彫刻にまではデューラーは目を向けなかった。しかしエングレーヴィングや木版画という手法は、考えようによれば木彫や石彫とそう変わらないようなものともいえる。視点をかえれば十分彫刻家にもなれただろう。デューラーの持つオールマイティというのは、レオナルドと似た部分があり、レオナルドからの影響を見ることもできる。レオナルドと同じくデューラーにもたくさんの観察記録が残っている。スケッチをしながらメモ書きを残す。

 デューラーになるとケルン派のような稚拙さは消える。ケルンは西よりだがデューラーのいたニュルンベルクやミュンヘンは山間部ドイツ南部に位置する。山を越えればすぐにイタリアだ。ケルンがネーデルラントに隣接していたのと対照的だ。この時期のドイツはイタリアとネーデルラントの間で揺れ動いていた。

 もとは父のもとニュルンベルクで一人前になったデューラーだが、マルティン・ショーンガウアー(1448c.-91)という版画家のもとで仕事をしたいと考えていた。ショーンガウアーを訪ねるが少し前に死んでしまっており、仕方なく帰郷する。初期のデューラーはショーンガウアーの持っている緻密な銅版画油彩画のスタイルに目が向いていた。

第352回 2022年9月1日

自画像

 デューラーには自画像がずいぶんと多い。12・13歳の自画像も残るが、今では小学生ほどの年齢だがとんでもなく早熟で、今とは比べ物にならないデッサン力を備えている。早くから技術力を叩き込まれていたことがわかる。今の学校教育のシステムではないので同じように計ることはできないが、職人技を20歳くらいまでにとことん身につけてしまったようだ。

 生涯を通じて自画像を繰り返し描いている。それは作家としての意志表示であり、ポーズを取りナデシコを持つ姿には、客観的に自己をとらえようとするまなざしが見える。自分自身をいろんなものに置き換えて、現代でいえば他人を借りて自己を追求する森村泰昌のような感じかもしれないが、当時としてはファッショナブルな衣装であり、気取った感じも見える。それぞれに描いた年代を書きこみ、ちょっとしたメッセージを入れる。自己主張型の絵画だ。

 窓を開けて向こうに景色を描きこむというのはネーデルラントからくるスタイルであろう。上半身で手の部分までを重ねてあわせるというのは、モナリザのパターンでありレオナルド影響が見える。髪の毛のちりぢりになったようすやカールのなびかせ方も、デューラー自身の髪型だったのかもしれないが、レオナルドふうの演出とも見える。

 AとDを組み合わせたモノグラムが頻繁に出てくるが、特に版画の場合のデューラーの商標になる。著作権はこの頃から主張されるようになるが、図柄がずいぶんと斬新なので、それをまねていろんな版画家が海賊版をつくる。それに対してデューラーのものについてはアルプレヒト・デューラーの頭文字AとDを組み合わせたモノグラムを入れる。それが入っていると本物だ。海賊版が横行するほどデューラーの版画はもてはやされていたということでもある。

 これが1500年より少し前の状況だ。早い時期に版画家として名を成す。1500年には自分自身の自画像を、面長で髪の毛を真中から分けて、左右にたらしたキリストの顔立ちに置き換えて描いている。自分を真正面からとらえ、キリストに見立てているということだ。正面像は信仰の対象であり、これまで自画像の多くはスリークォーターで、目だけを正面からとらえてきた。自分自身を信仰の対象とするというのは一種のナルシズムであり、これには意図的な操作が必要だ。ことに自画像は鏡の前に立つので、自然にまかせればおのずとスリークォーターになったはずだ。1500年は区切りの年であり、世界の終末もささやかれたが、デューラーもこれを意味のある数字として特別視していたようだ。審判者キリストに自分を見立てるというのはクリエイターとしての自己表明である。ここでも四行ほどの自分自身のモットーを書き込んでいる。

 デューラーの持ち味は線描にある。水彩画でもそれは発揮されている。今まであまり描かれなかった野ウサギ(1502)雑草(1503)など日常の目に触れるもの、その気にならないと目につかないようなものに目をつけている。それぞれにモノグラムと年号が入る。自分の自己主張と記録の日付が入るので整理がしやすい。水彩画はウィーンのアルベルティーナ素描版画館に名品がそろう。

 水彩画の一点では夢に出てきた光景(1525)も絵にしている。1500年という終末思想が引き継がれていたが、空から突如黒い雨が降る夢を見たという。その夢の話が文章で書かれ、その上にスケッチを残している。黒い雨というのは広島に原爆が投下されて、その直後に黒い雨が降ってきたというイメージとかぶさってきて興味深い。当時は原爆などないのだが空から真っ黒な洪水のような雨が降るという夢を見る。恐ろしいイマジネーションの人物だという気がする。

第353回 2022年9月2

メランコリー

 晩年の大作では、「四人の使徒」(1526)を描いたものがある。福音書を書いた四人の聖人はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネである。ここではマタイとルカは、ペテロとパウロに入れ替わる。それぞれ四人を人格的に描き分けている。この四人は、あとからつけられた理屈なのだろうが、人間には「四気質」つまり多血質、胆汁質、粘液質、憂鬱質があり、血の気の多い怒りっぽい性格はだれで、ねちっこい性格はだれといったような気質の分類である。人間の性格をふるいわけるのにヨーロッパでは四つの分類があって、その原理をデューラーも絵にするときに用いたということだ。同時にそれは「水」「火」「土」「大気」という四大元素とも対応する。

 15世紀後半期には四気質のうち、メランコリー(憂鬱質)という気質が芸術を生み出すものとして重要視されてきていた。それ以前はメランコリーというのは精神疾患を伴い、一風変わったことをする人にあてはめて社会からはみ出たものとして分類されていた。ところがこの時代になって、芸術家というのはメランコリーにとらえられ、本来ならそういうちょっと変わった人間として追いやられるのだが、そうではなくてミューズの女神によって支えられた芸術家の原動力という意識が高まってきている。憂鬱質という今までは犯罪者が受け持っていた精神分裂的な要素を、ものづくりというクリエイションとイマジネーションにとって、源泉になるものだと考えはじめていたのである。

 デューラーにも底辺にはこの考えがあり、それをもとに四つの気質を描き分ける。四人の使徒のそれぞれの顔立ちを見ていると、年齢もちがうし、それぞれが粘液質や胆汁質という人物にあてはめられている。右から2番目はマルコで怒りっぽい性格の多血質であることが顔立ちから見える。右側のパウロは目をやぶにらみのように視線を向けて、執念深そうな雰囲気をうかがわせる。

 左の若者はヨハネだろう。聖ヨハネはいつも若者の姿で登場する。聖人であっても歳は取るのだが、絵の上で出てくる時は必ず若者であり、キリストの横にぴったりと寄り添っている。この場合のヨハネは神経質そうな顔立ちをしており、私にはこれが憂鬱質にあてはめられているように見えるが、実際は聖パウロが憂鬱質にあてられている。これはデューラーがニュルンベルク市に贈ったもので、ただ単なる人物画ではなくて四つの気質を人物にあてて普遍化したものだ。

 「メランコリア」(1514)という銅版画では羽根のある天使が思い悩み考えこんでいるようだ。肘をついて考えこむポーズはメランコリー(憂鬱質)の図像の典型的なものになる。ものを考えるということなわけだが、メランコリーの気質をもった芸術家のシンボリックな表現である。

 切り出された石の前で考え込む姿は、まるで彫刻家のようだ。よく見ると石の表面にはうっすらと人の顔が浮かびあがるが、それはこれから彫り出そうとする石のなかに埋め込まれた人体を暗示する。このポーズはあちこちに出てくる。イタリアでもミケランジェロが「最後の審判」(1536-41)で同じようなポーズを取った人物を描いているし、ロダンの「考える人」(1902)にまで引き継がれていく芸術家の近代的苦悩の系譜と取ることもできる。このポーズから芸術家は手の人から頭の人へ、つくる人から考える人へ、つまり職人から思想家へと大きく変貌を遂げることになる。 

第354回 2022年9月3

隠された十字架

 デューラーの肖像画ではそれぞれが丹念に描き込まれ、線の画家という感じが強い。色の使い方は人工的で不自然さが目立つが、色を使わないものの方が際立った出来映えを示す。肖像画でデューラーがよくやる工夫だが、眼の瞳の部分を見ると窓の枠が描き込まれて十文字が刻まれていることがある。左の方に十字の枠をもった窓があって、そこから光が入っているという発想だが、ファン・アイクが描いた凸面鏡の原理を引きずっているようだ。

 デューラーの描く目をよく見るとこうした細工は意外に多く、意図的な描きこみとしか思えない。ファン・アイクの場合も瞳に白いハイライトはつけるが、明らかに窓とわかる田の字型の入れこみはないようだ。その意味ではデューラーでは意識的な宗教的シンボル、いわば「隠された十字架」だが、これがマリアだから理屈がつくが、キリスト教徒とは関係のない普通の肖像画のなかでも、彼は目のなかに十字架を隠しこんでいる。ただ室内にいる人の目に窓から入った光が映ることはあるし、窓は多くの場合十字の窓枠をもっているので、目に見える通りに描いたと主張することはできる。それならば十字架の描き込みはすでに建築学のなかにあった。

窓枠は田の字型でもいいのに、下のシャフトを長くして十字架を暗示させている。キリストの十字架による受難を通過して、光は天上に達する。ゴシック教会の堂内は、光がステンドグラスを通過して神の国を実現するものだった。近代になってもデンマークの画家ヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864-1916)の静謐な室内画には、十字架の窓枠を床面に浮かび上がらせた作例がある。もしこの部屋が画家のアトリエだとすれば、窓からの光は北側からもたらされることになる。北側の窓から差し込んだ奇跡の光が、神秘の十字架を浮かび上がらせている。

第355回 2022年9月4

目だまし

 自然描写の見事さは何でもない雑草を丹念に描いたスケッチに見出される。アルプス風景もイタリアに向かう道すがらで、何気なく描かれたようだ。「アルコ風景」(1495)という小さな村の風景を写したスケッチでデューラーがおもしろがったのは、これが実写による実景のはずなのだろうが、岩山をよく見ると人間の横顔が浮かびあがっている。これは意識的なことなのだろうか。目があり鼻があり口があるような人間の横顔のシルエットを持つ岩山がたぶんあったのだろうが、さらに意図的に顔に見えるように手を加えたようだ。デューラーの持っているイマジネーションの世界と描写力が、うまく調和し、スケッチだと言われればスケッチだし、顔を隠しこんだだまし絵だといえばそうとも見える、そういう微妙な虚実の中間地点を楽しんでいるようだ。

 いろんなスケッチのなかには枕(まくら)を描いたものもある。なぜ枕を並べてたくさん描かなければならないのか。枕を何気なく投げてできるかたちがおもしろかったということだったのだろう。そこにできるいろんなしわのなかに、しわを越えたものを見つけていく。見ようによればいろんなイメージが浮かびあがる。それも意識的にデューラーはやっているが、いくつかには明らかに人間の横顔が見えるように誘導している。ひとつ見つかるとあちこちに人間の顔が浮かび上がってくるというしくみだ。これは偶然にできるかたちのなかに潜んでいる何か神秘的な、人間のイマジネーションをくすぐるものが、絵を描いたり芸術創造の場合の根っこになるのだということだろう。

 アダムとイヴの銅版画(1504)ではきわめて細かな描き込みがされている。ここでは楽園での原罪が表現される。イヴはすでに自分の左手にリンゴをもっている。右の方で蛇からリンゴを手渡されている。たぶんその手渡されたリンゴをアダムに「おいしいわよ、あんたも食べてみる」といって渡すという流れになるのだろう。

 アダムの方はまだ純心無垢で、イヴからもらったリンゴを食って知恵がついた。この場合はイヴが先に食ったという話になる。悪に染まるのは女性が先だということなのか。ここでは蛇がイヴに手渡すところを描いている。それ以外にいろんな描きこみがあって、アダムが枝を持っていてその先にインコが止まっている。これはお喋り、無駄話を意味するのだろうか。男のおしゃべりは通念とは反している。

 足下には動物がたくさんいる。アダムの真下にはネズミがいて、木の幹の下に猫がいて、猫とネズミがにらみあっている。当時から猫とネズミは対立関係にあったということだ。ふつうはネズミが逃げて猫が追いかけるのだろうが、ここではネズミも自己主張してにらみ返している点がおもしろい。「ヴィーナスとマルス」の主題では、ふたりの間にしばしば恋愛を暗示するセクシャルシンボルが置かれたことを思い出すと、アダムとイヴの間にはもはや愛はなく、犬猿の仲のように見える。創世記によれば女は神が従順であることを願って、男の肋骨の一本から造ったはずなのに、ここでは男女の対等を主張しているようだ。最初の妻はリリト(リリス)といったが、すでにアダムのもとを去っていた。イヴもまたそこには優位さえみえて、クラナッハに至ると、ウーマンパワーの主題と連動して、イヴの積極性に対してアダムの臆病が目立ちだしてくる。

 イヴの後ろには牛がいて、ウサギが右にいる。ウサギもアダムとイヴの絵のなかにはよく出てくる。これは繁殖の象徴というのでよく使われる。生めよ殖やせよというときの象徴だ。さらに後ろに獰猛な野獣もいるし、さらによく見ると背景に切り立った岩があって、その先にヤギか羊が一頭、崖から下をのぞいているシルエットが見える。これも時折出てくる図像だ。「キリストの誘惑」という主題でこれと同じものが出てくる。そこではキリストに悪魔が問いかける。お前はこの崖から飛び降りることができるかと誘いかけるのだ。ここでは羊が谷底を見ているというのは、羊が犠牲のシンボルでキリストその人の置き換えだと考えると、よく理解できる。

 母親を描いた素描(1514)は、非常に力強いデッサン力に支えられている。63歳のにらみのきいた眼光の鋭い人物像だ。

第356回 2022年9月5

グリューネヴァルト

 デューラーに続くマティアス・グリューネヴァルト(1470/5-1528)の作品は、そんなに残っていないが一点だけ「イーゼンハイム祭壇画」(1511-5)というとんでもない大作があって、その一点のためにグリューネヴァルトというあだ名が記憶される。その後のドイツ表現主義のルーツになる作品だ。これはあだ名であって「緑の森」という意味だが本名はマティアス・ナイトハルト・ゴットハルトという。この祭壇画は北方のなかでは規模としては最大級のものだ。北方の美術はイタリアに比べると面積が小さく、ファン・アイクのヘント祭壇画などは全体として大きいが、いくつもの作品が組み合わされて、複合体をつくっているわけで、それを考えるとグリューネヴァルトのものは大規模なものだとわかる。

 そこに出てくるグロテスクは、当時の社会状況と宗教改革のなかで人間の不安感を背景にしながら生み出されたものだ。キリストが首を傾けて磔刑にかかるのが祭壇画の中心部分だ。クローズアップをして見ると迫力が伝わる。キリストの肌を見ると一面に棘が刺さり、血がにじみ出ている。聖セバスティアヌスの殉教の姿にも見える。痛々しい表現をこれでもかこれでもかと見せ付け、皮膚感覚に訴えかけてくる。その意味では当時の宗教改革の悲惨さや社会不安を思いきり見せ付けてくれるという感じがする。聖母子像ではマリアが幼児キリストの頭をひねりつぶしているようにさえみえる。

 ドイツの持っている表現主義は、ルネサンスとは言いながら非常に感情の起伏が激しく、感覚的で肌にチクリとくるようなセンシュアルな表現が濃密に含まれる。それを通してのちにヒトラーの狂気に歓喜する民族の血を感じ取ることもできるかもしれない。

 「イーゼンハイム祭壇画」は、現在コルマールというフランスの田舎町にある。ストラスブールから少し入ったところ、スイスのバーゼルからも近い、アルザス地方ということだ。フランスとはいえドイツ語がよく通じるところである。もともとはイーゼンハイムにあった祭壇画だが、近辺のコルマールに移された。街並みはドイツふうの雰囲気を残し、清潔で美しいところだ。そこにウンターリンデンという修道院の建物を改装した美術館があり、そのなかにこの祭壇画が置かれる。ここを訪れる美術ファンはたいていこれを見るのが目的だ。

 サイズも大きく二重の扉を持つ。現在では扉をはずして開閉しなくても見えるように別々に展示している。中央にいる十字架にかかるキリストは肉体をだらりとさせて、その重みのために腕を支える梁の横木もしなってしまっている。左にいるのは聖セバスティアヌスで体に矢が刺さる。右は聖アントニウス、これは先にあげたファン・デル・ウェイデンのボーヌ祭壇画がやはり病院に置かれたもので、それと同じ聖人の組み合わせをもっていた。

 イーゼンハイム祭壇画ももともとはイーゼンハイムにあったアントニウス修道会がもつ病院施設のなかに置かれていたことがわかっている。当時はアントニウス病と呼ばれる病気があって、身体に壊疽ができて、やけどのような痛みを伴い、やがて四肢が腐って死に至るというものだった。切断すれば何とか生き延びれるということで、外科的治療が修道院内で行なわれるようになっていく。今では麦角中毒というもののようだが、当時は原因不明の奇病だった。現代ではエイズなどを思い浮かべればよいが、この原因不明の病気を祈願する聖人としてアントニウスが知られる。キリストの体にいくつものただれが見られるが、それは当時の病状を写しこんでいるようだ。

 扉の裏には右に聖母子、左は「神殿の少女」といわれるが画題がはっきりとつかめない。二重の扉はさらにキリストの磔刑の裏にキリストの復活を描き、光の玉のようになって空中に浮かぶ。右は受胎告知だが天使の顔立ちと指先には奇妙な雰囲気がただよう。色彩的にはカラフルだが、扱いはともに不可思議だ。もうひとつは聖アントニウスの誘惑と、同じ聖人が砂漠で聖パウロスと出会う場面がくる。誘惑では聖人が髪の毛をひきちぎられ、棍棒でたたきつけられるところが生々しく描かれる。左の隅にカエルのように腹を膨らませた怪物がいるが、その皮膚もただれていて、この病気の症状を写している。扉を最後まで開くと聖アントニウスが鎮座する彫刻であり、古い祭壇画形式となっている。グリューネヴァルトにはその他にも作品はあるが、この祭壇画一点に尽きるといってもよい。

第357回 2022年9月6

クラナッハ

 ルカス・クラナッハ(父1472-1553)は人物画で傑出する。人物といってもことに女性像に優れたものがある。いくぶん悪女的な魅惑に満ちた女性像サロメやヴィーナスなどを繰り返し描く。もちろんユディトや聖母マリアなど聖女を描く場合も大きなちがいはない。宗教画がテーマの場合もかなり風俗画に近い扱いがされる。ユディトは自らの手に剣を持つ。彼女は勇敢な聖女であるが、これとほとんど同じ構図とポーズでサロメが描かれる。こちらは悪女で皿の上には洗礼者ヨハネの首がのる。ユディトの場合は宿敵ホロフェルネスの首だった。両者は確かに描き分けられてはいるがクラナッハ自身には聖女であろうが悪女であろうがたいして変わりはなかったのではと思えてしまう。ともに世俗的な要素の強いものだ。

 「ロトとその娘」も宗教的主題だが、ショッキングな世俗性を抱えている。父親を誘惑する実の娘の話だ。ソドムという悪徳の町から逃れる途中、ロトの妻は天使の忠言に反して、後ろを振り返り石の柱になってしまう。ロトは娘二人と逃れるが、子孫存続のために父親を酔っ払わせて娘が迫るというものだ。とんでもない近親相姦の話だが、そういうものが画題として好まれた。当時宗教的なテーマにカモフラージュさせながら、風俗場面をおもしろがって絵にすることがずいぶん行なわれていて、クラナッハはその代表的な画家のひとりだ。

第358回 2022年9月7

ホルバイン

 ハンス・ホルバイン(子1497/8-1543)は肖像画家として知られる。「エラスムス」(1523)は当時随一の人文主義者を描いたものである。攻撃的な風貌を持つルターの肖像と比べると知的な神経のこまやかさを感じさせる顔立ちがうまく捉えられているようだ。「大使たち」(1533)は肖像そのものよりも、下部に描き込まれただまし絵によってよく紹介されるものだ。ドクロが描かれているが正面から見てもわからない。左斜め下45度の角度から見ると浮かび上がってくる。絵は真正面からだけ見るものではないという意志表示でもある。もちろん室内のどこに置かれるかでこうした表現が有効となってくる。階段のあがっていく壁面に置かれる場合だと、斜めから見る時に正しく見えることが必要だっただろう。昇りきってしまうとそうは見えない。

 ホルバインはまた肖像画に伴う小道具類、テーブルの上のグラスや壁掛けなどの織物の質感の表現にも優れた腕を持っていたことがわかる。宗教的な画題では「死せるキリスト」(1521-2)は迫真に飛んだもので、マンテーニャが足下からとらえて迫力を出したのに対し、ここでは真横からとらえ、狭い空間に押し込められたキリストの遺体からは痛々しさが伝わってくる。

第359回 2022年9月8

アルトドルファー

 アルブレヒト・アルトドルファー(1480c.-1538)という画家はドナウ派というグループの中心になるが、風景画家として知られる。まだこの時代では風景画家といっても風景だけを独立して描くところまでは至っていない。ふつうは風景が独立するのは、16世紀の後半から17世紀になってオランダでのことだ。ここではそれ以前の風景画であって、いわゆる写実的な、写生に基づく風景画ではない。それは、あるひとつの物語がまずあって、それを取り巻く自然環境の方が登場人物そのものよりもどんどんと重要度を増し、主人公の座を奪いはじめるという流れのなかにある。

 アルトドルファーの「イッソスの戦い」(1529)は風景画のルーツになる。風景といってもそれは画面上方で、地中海をそのまま写しこんでいる。地図を見ながら描いたのだろう。奥のほうにジブラルタル海峡があり、アフリカが見える。そこまで描きこまれるが、アレクサンダーの戦いなので、想定そのものは歴史画である。それほど大きな絵ではないが、人物ひとりひとりの表現が大変細かく何人いるのかというほどパノラマ的に広がっている。アリの大群のような人物のひとりずつを画家はていねいに描き分けている。風景画ではあるが人物ひとりひとりが風景のなかに入りこみ、溶けこんでしまっている。

 ネーデルラントではブリューゲルあたりの作品が似たような経過をたどっている。ブリューゲルの場合は16世紀後半になるので、アルトドルファーよりも少し時代的には後のことだ。風景に対する目というのはドイツのほうがオランダよりもはやかったということか。たとえばアルプス周辺にすむものは早くから雪景色などに目が向いていた。雪景色が美しいという目はそう早くからは育ってこないものだ。大自然は猛威であり、魑魅魍魎の住むところだった。ケネスクラークの「風景画論」は、山の恐怖から書き起こしている。

 日本なら富士山に雪が積もっている絵は、早いものなら奈良時代くらいから出てくる。山を被写体、絵のモチーフとして選ぶということが早くからあったが、ヨーロッパの風景画の場合、山を人間に見立てるような人格のあるものとして見なし、それを絵にしていくというのは、かなり遅くならないと出てこない。中世ではまず出てこないし、16世紀くらいになってやっと出てくる。

 風景画の歴史のなかで、アルトドルファーはパノラマ的な絵、今でいえば航空写真というか飛行機から見たような山岳風景を描いている。航空写真から抽象化されてやがては「地図」にいたる。もちろん飛行機などはないから、山の頂上から見えるような景色をまず念頭において、もっと上から見たらどうなるだろうかということだ。つまりはイマジネーションの世界である。現代では飛行機で我々が見るような景色を風景として描くというスタイルがここで出てくる。ある意味では人間の目というよりも天上から見た神の目で世界をとらえているのだともいえる。

 風景がどんなふうに見られて、どういうかたちで絵になってきたかを追ってみると、その当時のそれぞれの時代の世界観、ものの考えかたが見えてくる。風景についてはイタリアよりも北方のほうが早く芽生え、ドナウ派がその出発点をなす。アルプスの風景やドナウ川流域の自然に自然と目が向いていくということだ。

 自然に対する感覚について、ふつうヨーロッパの自然観は人間が中心で自然はそのバックを覆っているものだという考えかたが強くて、どうしても人間を中心に見るイタリアルネサンス型のヒューマニズムが定着するが、その意味では新しい世界観がイタリアに対立するかたちで、ドイツのドナウ川流域あたりから出てきたということだ。それは東洋の自然観と似たようなところがあり、日本や中国の自然観は人間対自然というヨーロッパ的な対立図式ではなくて、自然のなかに人間がいるのだという了解からくる。中国の山水画などもこうした自然観から生まれてくるわけだ。

 同じようにドイツの森という、メルヘンのもっているイメージが人間を越えたものとして表現されはじめていくという流れがある。ドイツにリーメンシュナイダーをはじめとする木彫の伝統が生まれるというのもこれに連動している。木と石は彫刻の素材だが、自然に向かう彫刻家の対し方が異なっている。木彫は木にひそむ命を引き出そうとするが、石彫は生命を欠いた石に命を吹き込もうとする。

 これは要素としてイタリアルネサンスとは対立していくものだ。やがてはそういう自然のもっている神秘性なり偉大さなりは、イタリアでも見る目ができあがってくる。レオナルドなどはそれをいち早く受け入れた作家で、モナリザのバックに出てくる風景は、東洋的ともとれる自然の持つ神秘性が表明されている。

第360回 2022年9月9

山の系譜

 15世紀段階のイタリアではそういう風景に対する目はまだまだ十分育っていなかったようだ。日本の場合富士山を早くから描いたということと、中国の山水画の影響が11・12世紀頃には入ってくるので、その段階で東洋的な自然観が根付いていた。もともと日本の神々の世界も自然宗教をベースにしているので、およそ偶像崇拝はしないし、自然の持っている山や石が神そのものであった。風景なり自然と直結していてそれが富士山など人格をもったまるで人間の肖像を描くような調子で山を描くというシステムに反映していった。

 その流れがたとえば北斎が浮世絵で富岳三十六景を描く流れにまでつながっていく。ヨーロッパに浮世絵の影響が大きいというが、その後ヨーロッパでの確固たる山に対するイメージとしてセザンヌがサント・ヴィクトワール山を描く。セザンヌの描いた山は人格を持った山だ。それは彼が今までの伝統的因習を払拭しようとしてリンゴに向けたまなざしとは異なっている。どこの山であってもいいというわけではなくて、セザンヌが住んだエクス・アン・プロヴァンスのサント・ヴィクトワールというその山なわけだ。それを何度となくセザンヌは連作にしている。それは山が持っている人格を肖像として描くようにして写し出しているということだ。その山のとらえ方は北斎が富士山を描いたかたちに非常によく似ている。

山には人脈がある。サント・ヴィクトワールを絵にする前提として日本の浮世絵、しかも北斎の富嶽三十六景というような富士というものが類型としてあったのだと言える。セザンヌが富士山をまねてサント・ヴィクトワールを描くと、今度はセザンヌの山が定形になってしまってその後の山を描く場合のサンプルになる。セザンヌ以降にいろんな作家が山を描くが、セザンヌ信奉者ならどんな山を描いてもセザンヌふうの山になってしまう。ひとつのパターンから逃れられないということだ。

 次にはセザンヌの描いた山が日本に入ってきて、日本の洋画家たちがセザンヌのサント・ヴィクトワール山ふうの山を描く。九州の洋画家なら桜島であってもいいが、それがセザンヌの山とよく似ている。もとをただすとそれは富士山から来ているわけだから、日本の洋画家の描く桜島は富士にも似ている。つまりは日本の浮世絵がヨーロッパに行って、ヨーロッパで印象派に与えた影響が逆輸入されてきて、日本の洋画家たちはその段階で無意識の内に浮世絵を受け入れる。最初日本にいるときには浮世絵について、洋画家たちは見向きもしなかった。日本画でも同じで浮世絵なんてとんでもないという過小評価がされていた。それが海外で評価されるととたんに見る目が変わってくるという情けない話でもある。美術史という狭い専門領域でも浮世絵の研究者は、狩野派と奈良仏教から始まった日本美術史からみると、ながらく学術的とは見なされず、好事家の扱いをされていたようだ。

 油絵の歴史で風景画をたどってみるとセザンヌに行き着き、セザンヌからさらに浮世絵に行き着く。本来ヨーロッパでは風景というのは目に映らなかった。山などは魑魅魍魎、もののけが住んでいるところで、そんなところは長くいるところではないし、楽しみで見るようなところではなかった。その内じょじょに東洋的な自然観が、老荘思想のようなものとともに入り込んできてずいぶんと変わってくる。出発点でのヨーロッパの庭園は、幾何学庭園で整形された刈込みもきっちりとしており、自然そのものを消してゆく作業だ。自然を封じ込めていくことをめざしていた。そこに東洋的な自然観が入り込んでいった。いつの時点で入りこんだのかは難しい問題で、たとえばレオナルドに東洋の水墨画の影響があるという指摘があるが、15世紀の段階にイタリアで中国の山水画の自然観が入りこんでいたという可能性はある。考えてみるとモンゴルの時代ジンギスカンからフビライへという流れのなかで、日本にも攻め入ったが、ヨーロッパにも向かい、その段階で宋元絵画を含む文化もいっしょに流れ着いたのではないかということだ。

 時代が下がるとグスタフ・マーラー(1860-1911)が東洋的な思想を「大地の歌」(1908)などに取り込むが、その意味では東洋の神秘やエキゾティックなものに対して19世紀以降は常に目が向いていくということはあるようだ。「大地の歌」は確かに音で描写した風景画だ。アルトドルファーの風景の目覚めは北方を考えるうえで重要だ。ただこのアルトドルファーも風景だけが、他のジャンルに比べて特出しているように見える。デューラー以外の作家は、それぞれがワンパターンという印象をぬぐえない。

第361回 2022年9月10

バルドゥング

 ハンス・バルドゥング・グリーン(1484/5-1545)はクラナッハを少しマイナーチェンジしたような画家だ。エロティックな画題が目立つ。「死と乙女」(1519-20)は男が女をレイプしているように見える。実際は死の象徴である骸骨が若い女性にまとわりついている。つまり、死というものは誰にでも訪れるものだという人生訓を語るものだ。ヴィーナスと目隠しのキューピットも一見するとエロティックに見える。鏡を見ている若い娘は人生の四つあるいは七つの時代の一場面をかたちづくる。赤ちゃんの時代、若者の時代、老人の時代などへとつながる。死の象徴としての砂時計が若い娘の頭に載せられており、いつかあなたにも死が訪れるというメッセージに聞こえる。空気の透明感はスイスのアルプス地方を思わせる。コンラート・ヴィッツ(1400/10-45/6)の湖のような水面を渡る聖クリストフォルスは、のちのホドラーセガンチーニにつながる要素をもっている。

 彫刻ではドイツルネサンスでひとつの流れを築いている。ローテンブルクというロマンティック街道の中心になる町にはティルマン・リーメンシュナイダー(1460c.-1531)の「最後の晩餐」の木彫像が見られる。木造彫刻はドイツで展開する。ふつうヨーロッパの彫刻は大理石やブロンズだが、例外的に良質の菩提樹などに恵まれたドイツでは木彫が発展した。ファイト・シュトース(1450c.-1533)の木彫作品などは、上から彩色をするので木彫というよりも人形という感じの強いものだ。ミュンヘンの市立美術館にはエラスムス・グラッサー(1450-1518)の名で知られる「モリスダンス」の群像が残される。激しい動きを特徴とするムーア人の踊りの一瞬をみごとにとらえたものだ。


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