ジュリアン・オピー

2019年07月10日~09月23日

東京オペラシティ アートギャラリー


2019/7/19

 歩く人泳ぐ魚だけのことだが、見ていて飽きることはない。四角い柱の4面を循環して一人一人が歩き続けている。同じ人が何度も出てくるが、すれ違う人との速度にズレがあるために、同じ映像は出てこないようだ。リピートしながら永遠に歩き続けるというメッセージが聞こえてくる。問いかけている意味は、言葉にすると野暮ったくなるが、無言の動きでわかるのは、東洋的で禅的でもある。歩いている人々のすれ違う一瞬が、絵画として定着する。絵画が中心のように見えるが、絵画とは動画の一コマを拡大したものと見てもよい。拡大しても新しい世界が見えてくるわけではない。にもかかわらず、一枚の絵は天井に達するほどに大きい。ミニアチュールに目を近づけて見れば、効果は同じはずなのに、こんなにも大きな作品を作る必要があるのか。そんな疑問が出てくる。

 しかし目的が情報量の問題ではないとしたらどうだろう。「遠くからでも見分けられること」という命題をクリアすることを目的としていたなら、必然的にこういうサイズになったのだとわかる。遠くからでもわかることというのは、日常生活のレベルでは重要な要素であり、近代の芸術鑑賞のシステムが置き去りにしてしまったものでもあるのだ。鑑賞に適した距離が、美術館を仮想空間として設定される。近づきすぎてもだめで、遠ざかってもいない。タブローはそんな平均的な場を固定させてしまった。不自由になったと感じた愛好家もいたはずだ。そんなコレクターのために新たな方向が模索される。枠組みは同じでも今までとは違う作品のあり方があるはずだ。

 思っていたよりも一回りも二回りも大きくて、そのスケールだけで、十分な満足感を得ることになる。これは実はライブ感覚であって、画集では体感できないものだ。イメージだけを見ていて、ああこんなものかと見た気にならなくてよかった。そんな展覧会だった。その後、竹橋の近代美術館の廊下に掛かる電子版浮世絵版画は、いつも見慣れていたが、何気なく作者名を見るとジュリアン・オピーとあった。遠望の大橋に小さな自動車がゆっくりと行き来し、水面に映る影や逆さ富士もゆっくりとした波動を繰り返す。よく見ないと動画とは思えない静かな田園風景だった。今回の都市風景とも連動し、通底する絵画理念を認めることができる。


by Masaaki KAMBARA