第3章 15世紀前半のフィレンツェ美術 

絵画の独立/世紀初頭のフィレンツェ/彫刻からの出発ルネサンス建築/ドナテッロマザッチオの「絵画の重み」/貢の銭/ウッチェロフラ・アンジェリコフラ・フィリッポ・リッピルネサンスの第二段階

第262回 2022年5月27

絵画の独立

15世紀の幕開きとともにフィレンツェで、一気にルネサンスの華が開く。絵画のマザッチオ、建築のブルネレスキ、彫刻のドナテッロの登場である。その後絵画は、フラ・アンジェリコ、フィリッポ・リッピ、ウッチェロへと受け継がれ、着実にルネサンス様式は発展してゆく。ふたりの画僧が描いた聖母にみる聖俗の表情のちがい、遠近法の魔術に魅せられた画家のテクニックなどが見どころになる。

 ジョットから一世紀下がって、15世紀に入りここでは前半期の美術を追ってみたい。美術といっても絵画が中心になる。絵画の歴史というのは原始時代からあるが、中世の間は建築に附随していた。それがルネサンスになって独立していく。その出発点になるのがジョットからはじまるイタリアルネサンス絵画史である。ジョットの制作活動には建築も加わっていたようにすべての芸術ジャンルを手がけてなおかつ、最終的に絵画となる。

 なぜ絵画が他の領域を制覇できたかという点が重要だ。中世を通じて画家は職人だった。そのなかで絵画が独立して他を支配下においていく。その原動力になるのが遠近法の発見である。遠近法によって絵画は、彫刻も建築もやきものも何でも絵にすることが可能になった。絵画はイリュージョン空間を生んだが、それによって壁の向こうにまるでもうひとつの部屋があるかのような空間の広がりが演出された。

 本来、絵画は平面のものだから、平面の上に色を塗るだけで原理上は絵が成立する。しかし遠近法が発見されてから、絵によってすべてのものが「再現」できるということになった。近代絵画を念頭に置けば、表現さえも再現できた。マチスの絵を斜め横から見た絵も、そこでは描くことができた。レオナルド・ダ・ヴィンチに至るまでがその盛りあがりの時期だが、そこから先はそれをどうアレンジしていくかで現代までつながっているといっても過言ではない。

 20世紀になってからは、絵画は不協和音を切り捨てて、絵画自身で独立する。そこから抽象絵画も出てくる。抽象絵画は文学と手を切って音楽と手を組んだ。逆にいうとルネサンスで培われた遠近法をいかに否定していくかというのが、絵画のその後の目標になっていく。遠近法とはつじつまの合った文学的整合性のことだ。遠近法は不条理を至上命令とした近代・現代絵画の流れからみると目のかたきにされる。絵画のモダニズムは遠近法の弱点に攻め込んだ。目には触れても、手には触れられないという不在感を攻撃のターゲットにした。しかしよく考えてみると14・15世紀の段階で遠近法が出てきたおかげで画家の今のステータスが築かれる。美術にはいろんなジャンルがあるが、絵画が中心だという伝統的な考えがあって、それがながらく引き継がれてきた。

 レオナルドは万能の天才と評価されるが、なかでも特に絵画にゆきつく。解剖学、築城術、建築設計、楽器演奏もおこなうが、絵画に集約される。頭のなかで考えたことはすべて絵になる。文章に書いて文学になってもいいのだが、レオナルドの場合はもちろん文字も多いが最後には絵画になる。それは芸術や美術というよりも科学といったほうがよい。レオナルドは観察眼を備えた「目の人」だった。もうひとりの目の人であるモネと比較すると、異なるのはあらゆる知を駆使して目の人になったという点だ。モネはあらゆる知を捨てて純粋な目の人をめざした。そこには近代の幕開けと終わりの差がある。それは知の信仰と知の虚無の差だろう。「知」のむなしさが近代の終末を彩り、それを結晶させたのが印象派だった。やがては一瞬にして地球を壊滅させるような武器の開発がめざされるとすれば、それは英知のむなしさ以外のなにものでもない。

 ルネサンスでは、人間の英知のシンボルとして絵画があり、それが頂点に達する流れである。本章はその二段階目になる。ジョットの予感した遠近法空間をいかに自分のものにしていくかという流れといってもよい。前章のジョットの時代、絵画はようやく奥行き表現を感じ取るようになった。意識的に奥行きを表現する。見る方もそういう目に慣れてくる。ちょうど子どもが大きくなる段階で、遠近法の空間が身についていくように、最初は平面の上に絵を描いていて、奥行きが感覚としてわからなかった。遠くにあるものは小さく見えるのだということすら、ある意味ではわからなかったはずで、小さく人間が描かれればそれはこびとか子どもかということだった。子どもの顔立ちすら必要ではなく「小さな大人」として描けばそれで事足りた。

 そこに描く側と見る側の共通の意識、共通の理解の上に立って「遠近法」というシステムを構築する歴史がはじまる。ジョットが先駆的な仕事をして、いったんそれが途切れてしまい、国際ゴシック様式の装飾主義に向かう。「装飾」は空間をとらえるという絵画の方向性とは逆行する流れを築く。装飾に向かうのか、あるいはしっかりとした骨組をつくり上げていくのかという二者択一である。ルネサンスの精神は表面を覆う装飾ではなくて、芯になるような骨組をまずこしらえて、それに肉づけをしていくという考えである。

遠近法は骨組からスタートする。見える通りに表面を描いているわけではない。建築でいえば柱からはじめ、それを梁で渡し、壁を埋め込んでいく。「透視図」という訳語が最適のものだ。人体でも骨からはじめ、肉をつけ、衣服を着せる。透視図に対応させるとそれは「人体解剖図」となる。つまり解剖学は人体の遠近法のことである。レオナルドが思考したように、大自然の構造は、人体に反響している。ルネサンスでは十二単衣を一枚ずつ丹念に着込んでいくのだが、表面上の現象だけを問題にすれば、十二枚を一挙に着てしまってもよい。

 中世の装飾主義は、表面をなぞって細かい装飾を施していくが、人間を描いていても背筋が通っていないような絵が出てくる。それがルネサンス以前の古い形式のものだ。ジョットが骨太の人物像を描き始めるが、継承されずに装飾主義に走ってしまう。これが14世紀の後半の段階だ。

第263回 2022年6月2日

世紀初頭のフィレンツェ

 世紀のあけたとたん、フィレンツェの町にジョットの再来のような気分が出てくる。なぜ出てくるのか、ひとつは風土の問題があると思う。フィレンツェはメディチ家が支配を拡大し、このスポンサーがキリスト教とは異なる文脈をめざす。キリスト教の古い中世の因習を突き破ろうというとき見つけたのが古典古代だった。ギリシャ・ローマでできあがったかたちが、ルネサンスで再度よみがえってくる。

 中世の装飾とは違うという点で、「骨」を大事にする。レオナルドが最終的に解剖学にいたるというのも、表面はどうでもよくて、表面を取り除いたときに骨がどうなっているかがわかれば、人間は理解できると考えた。絵画も彫刻も骨組や心棒をまずつくって、そこに肉付けしてゆけばよいという発想である。心棒に粘土をくっつける塑像はもちろん、石彫も表面をけずりとって骨にまで至ろうとする行為である。そこに行きつくまでの流れだ。美学的に言えば「かたち」と「構造」という対立項をかたちづくる。

 ジョット再来の画家として知られるマザッチオが登場する。建築ではブルネレスキからアルベルティ、彫刻ではドナテッロからヴェロッキオへという流れがある。ヴェロッキオはレオナルドの師匠にあたる。ブルネレスキとドナテッロにあわせて、画家としてマザッチオが出てくる。絵画・彫刻・建築が足並みをそろえて、15世紀になったとたんにフィレンツェで開花する。同時進行だが、ここではまだ絵画は支配権を握ってはいない。それぞれが同じだけの力をもっていたといってよい。その後、彫刻をやめて建築家に転向したり、絵画をあきらめて彫刻家になった話などが加わると、じょじょにジャンル間にヒエラルキーができてくる。

 ジャンルのちがいはあるが、最終的には万能をめざす方向性がある。フィレンツェには大きな美術工房があってそこではプロジェクトを組んで、助手をしながら師匠の絵画の手伝いをし、一方では彫刻や建築を手がける。そういうトータルな芸術プロジェクトと見なすことができる。徒弟に入って自分の才能がどちらに向いているかで、最終的に彫刻家になったり画家になったりということだ。ミケランジェロもドメニコ・ギルランダイオ(1449-94)の工房にいたおかげでフレスコ画の技法を身につけており、その後の絵画制作に役立つことになる。

 ここではフィレンツェの15世紀前半期の絵画を中心に見ていく。知名度で列挙するとマザッチオ、フラ・アンジェリコ、ウッチェロ、フィリッポ・リッピ、カスターニョ、ポライウォロなどである。それ以外にも山ほど画家はいる。これ以外にも山ほどすぐれた作品はある。

 日本でのフィレンツェルネサンスの試みともいえる倉敷の大原美術館に比べると、メディチ家のオフィスであったウフィツィ美術館がどれだけの規模を誇っていたかがよくわかる。美術館だけでなく、街中が、都市そのものがルネサンスだったのである。現代の人口で比べれば、もちろん倉敷のほうが大きい。

第264回 2022年6月3

彫刻からの出発

 前章ではルネサンスの幕開けで、絵画の出発点としてジョットの話をした。14世紀の段階で彫刻表現は、このジャンルの性格でもあるが、どっしりと重々しいものが見られる。ピサ出身のジョヴァンニ・ピサーノ(1250c.- 1315c.) はまだ13世紀末でルネサンスからいえば早期であるが、ジョットが絵画で出てきたのと同じように、卓越した表現に行きついている。顔の表情や手のしぐさは感情を的確に写し出している。ジョットが絵画で人間のドラマを表現したものの彫刻版だ。絵画に比べて日本ではまだ十分に紹介されていないが、彫刻史の層の厚みをうかがわせる先例だ。

 15世紀のフィレンツェの幕開けは、サン・ジョヴァンニ洗礼堂からはじまる。フィレンツェの中心はドゥオーモ(カテドラル)であるが、その並びに八角形をした洗礼堂があって、そこに扉に使うレリーフの彫刻のコンペをすることになる。それが1401年の話。世紀が変わって最初のモニュメントとしてレリーフのデザインを一般公募して、そのときに何人もの若者が作品を出してくる。そのなかで最終的にふたつの作品が残って、どちらを選ぶかというのだが、甲乙つけがたいという話になってくる。その一点がロレンツォ・ギベルティ(1381-1455)、もう一点がフィリッポ・ブルネレスキ(1377-1446)である。

 題材は「イサクの犠牲」で、旧約聖書から取られたものだ。父親アブラハムが息子イサクをナイフで殺そうとしている場面である。なぜ殺そうとしているかというと、信仰心を試そうとして神はいけにえを要求する。息子を神に捧げよというのである。ここでは犠牲として息子イサクを手に掛ける父親アブラハムのジレンマの一瞬をどうとらえるかが問題となる。殺そうとするぎりぎりの瞬間に待ったがはいる。最終的にはギベルティが第一席になる。ブルネレスキが負けるがともにまだ20歳代の若者だ。

 ギベルティでは剣の切っ先を息子のイサクに突き刺そうとする一瞬をとらえる。天使が天上にいてそれをはらはらとして見守っている。アブラハムの持つ剣の鋭さ、そしてその視線と目の力が見る者に伝わってくる。一方ブルネレスキでは、息子のあごに手をあてて、こちらに向けながら剣を突き刺そうとするのだが、かたわらでは天使が父親の腕を握って、とめようとしている。どちらがよいかは判断が難しいものだ。あるドラマの一瞬を、ともにとらえてはいるのだが、少しニュアンスが異なる。決定的瞬間はひとつではないということがよくわかる。アブラハムが息子を殺そうとする決定的瞬間と、子が覚悟を決めるそれとは微妙に異なっている。今ならイサクは不条理な殺害を前に逃れようとして、もっともがいていてもいいはずだ。生きるのをあきらめるなというのが、戦争に明け暮れた敗者に向けてのメッセージとなる。

 当時の流れとしてはギベルティの方をよしとした。その後ギベルティはこれを出発点として、彫刻家として世に出ていく。それに対してブルネレスキは、これで彫刻をやめてしまって、建築家に転向する。ブルネレスキは彫刻でギベルティにやぶれることで、ギベルティ以上に建築家としてルネサンスに確固とした地歩を築くことになる。今だったら彫刻家が建築家になったりはしないだろうが、当時としては何でもできる万能の時代であり、それぞれが人間の造形活動としては同じだというニュアンスもあった。建築士という国家試験もない大らかな時代だといってもよい。国家試験などなくても、工法的に安全な建物をつくる責任感の生きていた時代でもあった。

 この作品は現在レリーフのまま美術館に収められている。これをもとにしてギベルティの方はサン・ジョヴァンニ洗礼堂にブロンズの扉を制作する。天国の門をはじめ洗礼堂の周りを取り囲んでいる。洗礼堂は八角形をしていて、キリスト教では洗礼をするというのは、天国に入ることと同様の意味がある。8は7日で完結する天地創造の次の日で、永遠を意味する数字だ。「天国の門」(1425-52)はそれにふさわしい主題だといってよい。この門を逆転させて19世紀にロダンが「地獄の門」(1880-90)をつくることになる。そこにあるのは門だけで地獄はない。洗礼堂にあたるものはなく、門は閉ざされたままだ。門を開いたときにみえるのは別世界ではなく、現実世界が地獄そのものだという意味がこめられる。

門を形成する限りでは、これらは彫刻なのだけれども、みかたによれば絵画でもある。絵とも彫刻ともつかないようなおもしろさは、凹凸があるので真横近くから眺めると、人物が浮き上がっていたり、顔が後ろのほうにまで回りこんで丸彫りになっていたりしている点である。それはまるで3Dを用いた飛び出す絵画だ。レリーフ彫刻とは遠近法を用いて描かれた絵画のことである。レリーフ仕立てで扉に埋め込まれたギベルティの自画像はその究極の表現である。

第265回 2022年6月4

ルネサンス建築

 ブルネレスキは建築家になって、サンタ・マリア・デル・フィオーレというフィレンツェのドゥオーモの丸天井(1417-34)を設計する。その横に立っているのがジョットの鐘塔だ。洗礼堂はドゥオーモの正面に立つ。この数十メートルの範囲にルネサンスの胎動が集約されている。このようにブルネレスキは規模の大きなドームを設計するという方向転換を果たす。ブルネレスキのルネサンス建築はフィレンツェに行けばあちこちに見られるが、パッツィ家礼拝堂(1450c.)もその代表的な一点だ。

 ルネサンス建築は、規模としては大きくもなく小さくもない。人間的規模というのがその特徴だ。中世のゴシック建築は天に向かってそびえる大規模なものだった。人間の力を超えたものを表現したが、ルネサンス建築は人間が手を広げた尺度を基準にしている。あまり大きいと落ち着かないし、小さいと狭苦しく感じるが、その間には絶妙なバランスを保つ一瞬があって、ルネサンス建築はそれを求めてつくっているようにみえる。ブルネレスキからはじまってアンドレア・パラディオ(1508-80)に至ると心憎いほどの自然なリズムとハーモニーが体感される。素通りしてしまうこともあるが、立ち止まって見直してみると、ぴったりと人間の感覚に入りこんでくるような建築が多い。

 パッツィ家礼拝堂もそうした一点で、何の変哲もないと見ようとすれば見えなくもない。内部は方形の礼拝堂で、装飾としてはシンプルだ。ゴシックや、ルネサンスの後に出てくるバロック建築が、装飾過剰なのに対して、ルネサンスでは非常にあっさりとしていて、幾何学的には完璧な黄金分割にそっているように見える。人間の尺度をもとにして、人間の尊厳を伝えるもので、目に心地よい造形である。母の胎内にいる安堵と感じれば、それも建築と人体の共振でもあって、遠近法は解剖学と呼応しているのだ。ステンドグラスにおおわれたゴシック教会は、聖母マリアの胎内を演出したものだった。

加えていえばバロック建築は人間のサイズしかないのにイリュージョンは目をだまし、天国にまで達するような遠近感を体感させるものだ。そこではゴシック建築の上昇感を実現するが、目をつむって耳をそば立てると、そのちがいははっきりとしてくる。中世の建築の時代は、完全に絵画の時代に置き換わったのだとわかる。カテドラルの耳に反響する体感が、目の刺激のみに特化していった。しかしこれも現代では目をつむっても耳までだませるような音響学が進化している。スタジオやコンサートホールという選択肢とともにカテドラルという音響までもデジタル処理で選べるものとなった。ここでの建築空間はワンルームで十分であり、さらにはヘッドフォンの誕生を先取りしてもいる。

第266回 2022年6月5

ドナテッロ

 建築のブルネレスキに対して、彫刻ではドナテッロ(1386c.-1466)が出てくる。ギベルティは少し古い中世的なものに肩入れしたふうでもあるが、ドナテッロはルネサンスの幕開けの彫刻を代表するにふさわしい人物である。ダヴィデ像(1408-9)はその代表作である。ダヴィデの若々しいみずみずしい表現というのは、ルネサンスの伝統として引き継がれていく。その後、ミケランジェロにまで続くダヴィデ像の系譜をかたちづくる。ドナテッロでは足元に、首をはねられたゴリアテの頭部が置かれる。ミケランジェロに至るとそうした生首はなくなっているので、ダヴィデであってもなくてもよさそうなものに変化している。

 ドナテッロではポーズも少し腰をひねっていて、イタリアよりもギリシャ彫刻のクラシックの時期のものを学んで、たどりついた成果であるようだ。大げさな動きではなくて落ち着いたポーズをめざしており、見る方は違和感なく入っていける。大きな像ではなく、顔立ちも帽子をかぶりながら、現代でいえば佐藤忠良(1912-2011)の彫刻などに受け継がれていくような甘美さがうかがえる。

 ドナテッロは晩年になると一方で荒っぽい、人間の内面をえぐりだすような作品も出てくる。好き嫌いはあるが、そこが今までの作家とちがう魅力だ。ミケランジェロでもそうだが比較的若い時期は、均整の取れた理想形を追求するが、晩年になるとしわがれた荒々しい素材の肌が剥き出しのものが出てくる。ドナテッロの場合、表現された人物は「マグダラのマリア」(1453-5)ではあるが、それは通例の肉感的な娘の姿ではない。目は落ち込んで、正当な表現ではなくて内に秘められているどろどろとした内面が、吹出してきたようにみえる老女なのだ。

 青年期の作風がその対極にあるのは、ミケランジェロの場合と共通する。ともに高齢まで生きたゆえでもあるだろうか。フィレンツェのサンタクローチェにある木彫「十字架にかかるキリスト」(1406-8)は、中世を通じて表現されてきたものだが、ドナテッロの場合はわかりやすくいえば「かっこいい」。キリスト自身の肉体の重みも確かにあるし、かといってあまりにも肉体が重いと、見ていて苦痛を感じさせる。ここでは十字架にはりつけられているのだけれども、痛みを感じさせない神々しさと気品がある。晩年の「マグダラのマリア」と比較すると半世紀も前の制作だ。

 中世ゴシックのものは痛々しい感じのするものをめざしたが、ルネサンスの本流はたとえ傷つけられていても高貴な姿を崩さないというのが特徴である。しかし、足をふたつ束ねて釘一本で貫くというのは、身体感覚に訴えかけてくるものだ。もともとはそれぞれの足に一本ずつ釘が打たれたが、それがいつの頃からか足を重ねて一本の釘で打ち付けるという絵や彫刻が出てくる。これによってキリストの痛みは伝わってくる。もちろん手にも釘が刺され、この三点で支えられている。本当ならば肉体の重みというのはもっとぐったりとするのだろうが、そこまでしていないのがかえって気高く目に映る。ギリシャ彫刻にあってはラオコーンのような生々しい痛みを表現しないのが、クラシックの本質であった。

 磔刑像を比較すると、同じイタリアで11・12世紀頃にでてくるのは、首を少し傾けることによって死者を表現するが、あとはたいした工夫もない。釘が刺さっているが肉体には下に向かう重力があるとは見えない。重力があってしかもなおかつ痛みを感じさせないようにセーブするという技術力が、ルネサンスでは問われることになる。ブロンズではなく木彫であるだけに釘にうがたれた肉体は生身の痛みをもって見るものに迫ってくる。鋳造されたブロンズとは異なり、木彫だと釘は確かに打ち込まれているのである。木が血や涙を流したりするだろうか。自然界を探せばリュウケツジュ(龍血樹)という赤い血を流す樹木も見つかる。ドナテッロの木彫のキリスト像の顔から血が流れたという証言も残される。20世紀になるとマグリットは、大理石彫刻に血を流すことで、このイメージをみごとに逆転してみせた。

第267回 2022年6月6

マザッチオの「絵画の重み」

 彫刻の場合は肉体というのはそのまま土や石など現物の重みがあるので、見ていて重量感は伝わってくる。絵画ではたかが絵の具であって、絵の具がいくら重みを表現しようと思っても、軽くしか見えない。そこで絵のなかでどれだけ登場人物の重みをもたせて表現できるかというのが、重要な課題となる。

 実はこの点でマザッチオ(1401-28)の絵画が真価を発揮することになる。「聖ペテロの殉教」(1426)を見てみよう。磔刑にはいろんなかたちがあって、キリストはまともな格好ではりつけられるが、その後いろんな聖人が殉教し、ここでは逆さはりつけにされる。キリストと同じでは畏れ多いというわけである。これを見ると確かに頭に重力がかかっているというふうにも見える。しかも本当ならこういう状態で保てられるのかという疑問も出てくるが、そこが宗教画で聖人たるゆえんである。

 殉教をして死ぬ聖人は大勢いるが、その場合聖人は痛みを感じてはいない。普通だったら火あぶりになったり、あるいは皮を剥がれたりして死ぬ聖人がいるが、痛々しい表現というのは絵の上でやろうと思えばできる。しかし聖人は痛みを感じていないということなら、ふつうの人間が感じるような痛みの表現であってはまずい。そこでは毅然とした顔立ちであることが基本となる。そうみるとマザッチオの聖ペテロの場合は適切なものと見えてくる。画家は感情描写ができなかったわけではない。

 マザッチオの代表作はフィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂内のブランカッチ礼拝堂にある。決して目につく建築物の目立った位置に置かれているわけではない。聖堂内部の奥まったところにチャペルがあるがその一角をなす壁画だ。ここで彼がやった仕事が15世紀のはじまりできわめて重要なものとなる。正面から見ると、今ではかなりの剥落があり、色の再現は難しいが、線とかたちは十分にとらえられる。全体の構成としてはコの字に取り巻いている。中心になるのは「貢の銭」(みつぎのぜに)、その並びにアダムとイヴの「楽園追放」がある。その真向かいにも同じアダムとイヴが出てくるが、こちらはマゾリーノ(1383-1440c.)という画家のものだ。それをマザッチオのものと比べると、そのちがいがわかる。

 マゾリーノではただアダムとイヴがいて、立っているにすぎない。横に知恵の木があって、蛇が顔を出している。楽園を追放される前の「原罪」の場面である。誘惑に負けてリンゴを食うのだが、そのときマゾリーノではふたりは無表情なままだった。それに対してマザッチオが描いた楽園追放では、ことにイヴは泣き出しそうな顔をして、天を仰いでいる。彼らは聖人ではないので、きわめて人間的な表情を見せる。アダムの方もめがしらを押さえている。こういう楽園追放の表現は今までなかった。

 アダムとイヴが楽園から追われるというのはどういう意味をもっているのかということを考えさせる作品だ。そういう神学的な解釈も含めて、人間のドラマとして表現していく。追放というのはいつの時代でもある。その場合に何らかのリアクションがあって当然で、胸に手をあてるというのがその後悲しみの表現として定式化していく。住み慣れた楽園を追われる感情描写がここで適切になされるようになってくる。

第268回 2022年6月7

貢の銭

 となりにある「貢の銭」では、人間を群れにしておいてかたまりで表現するというジョットの手法を受け継ぎ、重なり合う群像の表現に成功している。中世の頃には人物群を段にして上下に並べていっただろうが、それをしないで同一平面上に頭の線をそろえる。不自然なほどみんな背丈が同じだ。その後ピエロ・デラ・フランチェスカがこれを引き継ぐことになる。向こうの人物は奥まって見えるので顔と顔の間に入りこんでいる。これによって空間が層をなして奥まっていくという見え方がする。これを見たときに当時の人としてはかなり奥行きがあることを感じる。

 しかも後ろ姿の人物がいる。ジョットの絵のなかにずいぶん後ろ姿の人物が出てきたが、それ以前では後ろ姿は積極的には描かれなかった。今でもそれが画面の中央にドーンと置かれるということはない。いわば常識をくつがえしている。しかしこれがあることによってどういう意味をもっただろうか。

 中心はキリストである。「貢の銭」の話はキリストの奇跡が主題だ。キリスト一行が関所を越えるとき通行税を払わなければならず、そのときキリストが奇跡を起こして池にいる魚の口からコインを吐き出させるという話だ。左ではペテロが池に行き魚の口からコインを集める場面、右では関所の役人にコインを払うという場面が描かれる。中央では池に行くようにゆびさすキリストが描かれる。

 キリストが奇跡を起こす一場面をとらえたところである。そこでキリストを囲んで人物が群がる。そのなかに何も後ろ姿の人物をひとりもってくる必要はない。ところがこれがあることによって当時の人たちが見たのは、この後ろ姿の人物の足先が少しもちあがっており、ここが実は重要だ。しかも画面のすれすれにあることから、これを見たときに、現代の私たちにはそうは見えないかもしれないが、当時の人たちはこの人物がこの画面から落ちてくるのではないかという緊張感を感じたはずだ。

ルネサンスは絵画表現で人物を大地に踏ん張ってしっかりと立たせた。しっかりと立っている人物を描くことができた。しっかりと立っているからこそ、ここでは落ちるのではないかという感覚も誕生したのである。この人物だけが縁のぎりぎりのところにいて、キリストは少し下がっており、さらに向こうに弟子たちが取り巻く。後ろ向きの男はキリストの弟子ではなく、キリスト一行をさえぎる役所の番人であることは、ペテロが通行税を払う男と同じ衣服であることからわかる。

 舞台のすれすれにいて観客席に落ちてきそうな臨場感を与える。この後ろ姿が役人だとすると、私たちは関所の側にいてキリスト一行を前に見ている。演劇はたいてい場面を真横からとらえるが、ここでは出来事を正面からとらえているのだ。のちにマンテーニャが死せるキリストを足元から描くのも、ここでのマザッチオからの遺産ということがわかる。絵の枠は関所の門に見立てられている。これがあることによって舞台を写したものではなくて現実の世界を写しているようなトリックすら感じられる。ペテロが魚をとらえる左画面と通行税を支払う右画面を横顔でとらえ、中央画面を真正面に置くことで、キリスト側に立てば、関所の役人は足を踏みはずして、地獄に堕ちろと言おうとしてもいる。聖人たちを崖っぷちに置くわけにはいかないのだ。

その後レオナルドが「最後の晩餐」(1495-8)を描くが、これも不思議な絵だ。ふつう食事をするのに一列に並んですることはない。ところが芝居や舞台上で食事をするとき、あるいはホームドラマでもそうだが、後ろ姿というのは余り出てこなくてみんな一列に並んで食事をする場面が出てくる。とても不自然だが、演劇の並びかたになぞってつくられている。

 映画がはじめて登場したとき、リュミエールが撮った子どもの食事のシーン(1895)は、赤ちゃんをはさんで両親が一列に並んだものだった。それはいかにも自然に撮っているという感じを抱かせるものなのだが、よくよく考えてみるとそんな食事の仕方はない。カメラを意識してつくられた場面なのだということがわかる。その意味ではマザッチオのこの後ろ姿は舞台あるいは絵になるものとしては、当然想定されていなかったもので、中世ではまず出てこない。ジョットが開始してマザッチオが完成させた空間描写だったといってよい。もし見るものがこの後ろ姿に舞台から落ちてしまいそうな臨場感を感じたとするならば、すでにこれは壁画とはいえ額縁をもったタブローの理念が成立していたということだ。

 そこにいる聖人の顔のアップを見ると、いかにもギリシャ彫刻を思わせるような堂々とした顔立ちである。しかもしっかりと足を踏みしめて立っていることがわかる。キリストをはじめすべて立っているがそれぞれがしっかりと足が地に付いている。

 ジョットの頃にはまだ十分になされていなかったバックの風景描写がマザッチオになると各段に進化する。季節感が表現できるようになったといってもよい。中世を通じてバックを金地にする場合、季節感はありえない。ジョットの場合も不自然な山のかたちがずいぶん多かった。ここでバックの冬枯れた寒々とした光景がはじめて絵になったのだ。冬のもっている、もののかたちではなくて雰囲気あるいは気分を表現できるようになりはじめた。人物の描写に比べればまだ、風景描写は物足りない部分があるが、その後徐々に進展していく。その後この風景描写を受け継ぐのは、フィレンツェではなく、ヴェネツィアだった。

 マザッチオは28歳で没する早熟の天才だ。早逝したお陰で、若々しい晩年作が誕生する。これらの絵を見ている限りではどう考えても20歳代の若者が描いたものには見えない。非常にどっしりとしていて、40歳あるいは60歳という年輪をへた人間像のもつ表情を自ら知っているものでなければ、なかなか描けないようなところまで行きついているような気がする。人間というのは年齢ではないなという感じがするが、マザッチオが早く死んでしまったということが、ルネサンスでは大きな痛手だったにちがいない。

 フィレンツェ駅前にサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の広々とした堂内の左側廊にもマザッチオの遠近法を駆使した壁画が残る。殺風景な堂内の壁面にこの壁画だけが残るが、遠近法による驚きの一瞬に出会うことができる。現代ではこんなものではもはや驚かないほど遠近法に慣れてしまった。主題は「聖三位一体」(1427-8)で、キリストが十字架にかかっていて、後ろに父なる神がいて、天上から精霊の鳩が降りてくる。奥まったところに引き込まれていくような空間描写がなされている。一点に集中する遠近法を巧みに使って表現した絵であり、手前にいる人物は先ほどと同じく階段のすれすれのところにひざまずいている。空間も層をなして奥まっていくような描写がすぐれている。

第269回 2022年6月8

ウッチェロ

 サンタ・マリア・ノヴェッラの建築はブルネレスキの後を継いだレオン・バティスタ・アルベルティ(1404-72)によるものである。ここの正面のファサード左手を脇から入っていくと回廊になっていて、その壁面にパオロ・ウッチェロ(1397-1475)の描いた「ノアの洪水」(1447)がある。ここは屋外の吹きさらしの状態にあり、保存状態は劣悪である。それにもかかわらずここでも遠近法を駆使した表現が光っている。ウッチェロはマザッチオの死後もその後を継いで、遠近法表現にのめりこんでいった画家である。遠近法をおもしろがって夜も寝ないでこれを研究していた。遠近法がおもしろくて仕方がないということは、残された作品からみえてくる。素描も残されていて、頭の構造がどうなっているのかと思うくらい複雑な空間を、遠近法を駆使しながら描いたものもある。

 ここでは遠近法を用いてノアの箱舟を描いている。箱舟についてはどんな大きさでどんな格好をしていたか、残された情報は一致していない。人間はノアの一家が8人だけだが、地上にいる動物のペアをすべて乗せたということだから、相当大きなものとして描かなければならない。ウッチェロは箱舟の外側のふちどりを描いている。ノアの一家以外の人間は、箱舟から外に放り出されている。洪水がやってきて、おぼれかけている者もいる。箱舟というが通常の舟のかたちをしていたかどうかも定かではなくて、箱のようなものが浮かんでいたという考えもある。ウッチェロのものを見る限りでは非常に細長い箱という感じだ。溺れそうになる者のなかには、浮き輪を首に巻いているのもいるし、へりにすがりついているのもいる。浮き輪のドーナツ型をしたダイヤ柄の円周が見事な筆致を示す。

 「サンロマーノの戦い」(1450c.)は夜の場面で、馬が転倒して腹と尻の方から見た、普通とは異なった角度から描き出している。馬を横たえてじっとさせておくこともできないだろうから、短縮法を用いた難しい写実が求められる。もとは一部屋を飾った壁画だったが、現在は同主題で図柄のちがった三点の作品が残り、ウフィツィナショナルギャラリー(ロンドン)ルーヴルの各美術館に所蔵されている。

 小品ではオックスフォードのアシュモレアン美術館に、板にテンペラで描かれた「夜の狩猟」(1470c.)がある。美術館内部の雑多に並んだ絵画の間でひときわ目立ち、きらりと光っている。深深とした森の闇のなかに沈み込んで行く光景は、投火光によって浮かびあがった夜の狩猟のようだ。犬が飛び跳ねながら奥に向かって遠ざかっている。奥まっていく描写はみごとだが、夜景では幾何学的遠近法は使えない。犬が方向を変えながら奥に向かって走っていくリズムによって奥行きを表現している。ウッチェロの場合、この作品を見るとかなり装飾的であるが、一方で遠近法を駆使した奥行き表現とのバランスを保っている。

第270回 2022年6月9

フラ・アンジェリコ

 こうした遠近法への傾斜に対して対抗するようにして出てくるのが、フラ・アンジェリコ(1390c.-1455)である。ウッチェロは遠近法に魅せられていったルネサンス人だが、それに対しフラ・アンジェリコは修道僧でもあり、絵も描くので日本流にいえば画僧といえる。室町水墨画の雪舟などを思い浮かべればよい。遠近法を駆使した空間描写のおもしろさよりも、むしろ興味は主題の方に向いていた。キリストやマリアの登場するドラマとしていかに表現するかに眼が向かう。

 フィレンツェのサン・マルコ修道院に48点のフレスコ壁画(1437-46)を残している。それぞれは個室になった小さな僧房に描き分けられるが、中でもよく知られる「受胎告知」(1440-45)は、二階に上がる階段の正面にある。画面の左からは現実の光が入りこんできて、絵画上の描かれた光と錯綜する。受胎告知は聖母マリアがいて、大天使ガブリエルがあなたのおなかに神の子が宿りましたよと伝える場面である。そのときのマリアの表情が、ここでの見どころとなる。さきにシモーネ・マルティーニの受胎告知を見たが、そこではギクッとしたようないぶかしげな顔立ちが特徴的だった。アンジェリコの場合、マリアは天使の声を敬虔に受け止めて、胸に手を合わせる。顔立ちも唖然として驚くような、あるいはひるんでいるようなものではなく、心積もりをもって身構えているようで、敬虔さが伝えられる。神の子の母になる覚悟は、もちろん凡庸な子を生んで、ごくふつうの家庭の幸福を味わいたかったという感慨を含んでいる。宗教的な敬虔さがこの画家の特徴となっている。同じ主題で、逆に天使が立っていて、マリアがひざまずいているものも同修道院には見られる。その後マリアは晩年のボッティチェリに至ると神の母になどなりたくはなかったという悲痛なゆがみが見えているのも興味深い。

 アンジェリコの師であったロレンツォ・モナコ(1370c.-1425)にも受胎告知が見られるが、比べるとバックは金地で中世の名残が残る。アンジェリコにいたってマザッチオからの系譜を窺い知ることになる。中世を通じても受胎告知は数多く描かれたテーマだが、平板な表現は否めない。ルネサンスを彫刻で実現したドナテッロでは、やはり天使がひざまずきマリアが立つ。マリアは読書の手を休め、穏やか間表情を浮かべて天使の方を見ている。レリーフだが斜め横から見るとマリアの顔ははっきりと裏側の頬まで彫り出されている。

 サン・マルコ修道院には、その他、キリストのあざけりを扱った寓意的な表現のなかに聖ドミニクスが描かれている。このポーズが甘美で印象深い。ことに手の表情が際立っていて、まるで飛鳥時代の広隆寺の弥勒菩薩を思わせるようなところがあり、センチメンタルな感じもするが、敬虔な祈り、あるいは黙想と瞑想(メディテーション)へといざなうものだ。こうした感覚的描写がこの画家の特徴となる。

第271回 2022年6月10

フラ・フィリッポ・リッピ

 天使の画家フラ・アンジェリコと同世代でもうひとり、同じように修道僧で絵を描いたフラ・フィリッポ・リッピ(1406-69)がいる。彼は俗世界にどっぷりとつかった、日本では生臭坊主にあたる。描く絵はフラ・アンジェリコに比べると、生々しく肉感的な感じがする。アンジェリコはマリアを描いていても、女性としての魅力よりも慎ましさの方が勝っているが、リッピの方は魅惑的な女性としてのマリアが前面に出される。

 「聖母子と二天使」(1465)では画面のなかに額縁があって、額縁の前にマリアがいるという奇妙な構造になっている。ふつうだったら背景だけでよさそうなものなのに枠を描きこんでいる。枠の手前にマリアがいるので、バックには風景でなく風景画が置かれていることになる。窓枠というよりも、額縁に見える。正確に言えば額縁のように見せている目だまし的なトリックである。なぜこんなことをしたのだろうか。謎めいているのはもう一点、二番目の天使がよく見ないと見つからない。マリアの顔立ちを見ていると彼の弟子として知られるボッティチェリの描くものと非常によく似ている。しかもこれを見ている限りでは、修道僧なのだがかなり世俗的な人物であることがうかがえる。生涯についてもわかっていて、ある尼僧と駆け落ちをしたと伝えられ、俗世の世界に生きた人物でもある。このモデルはまさにその女性だったともいわれており、その意味では彼女は確かに額縁から抜け出してきた現実のマリアであったにちがいない。フィリッポは子どもまでもうけており、画家として成長し、フィリピーノ・リッピ(1457-1504)と名乗った。このトリッキーな額縁の構成は、のちにフランスでニコラ・プッサンが自画像に用いることになる。

 フィリッポと同時代のものではサンタ・マリア・デル・フィオーレの堂内にアンドレア・デル・カスターニョ(1421c.-57)の描いた騎馬像(1456)が残る。壁画に描かれた騎馬像だが、騎馬像は彫刻でも表現されるし、絵画でも表現される。制作の難度からいえば、明らかに彫刻の方が難しいだろう。絵画ならどんなふうにしても支えられるが、彫刻の場合は何とか三本の足で支えないといけない。レオナルドには幻の騎馬像というのがあったが、ここでも重い胴体を細い足で支える困難に直面していた。

 また肖像画ではピエロ・デル・ポライオーロ(1441c.-96)のように真横から見るポートレートが、この当時盛んにつくられている。ここでもバックは風景になっており、もはや金地ではない。青空で雲があり、地平線が非常に低いというような絵になってきている。また「アポロンとダフネ」(1470-80)のように神話的テーマが頻繁に見られるようになる。ヴィーナスと聖母マリアという比較の目も生まれるが、ギリシャ神話はそれまでは異教の主題であり、大手を振って評価されていなかったものだが、じょじょに絵のテーマとして登場してくる。

第272回 2022年6月11

ルネサンスの第二段階

 ここでの話の骨格としてはジョットを引き継いで第二段階、マザッチオが自然を見てそれを正確にとらえられるようになったということである。それと絵画の時代の幕開け、絵画がいかにして独立していったかという問題、遠近法とイリュージョン、つまりもの自体は実在しないが、あるように見せるという絵画の表現力が、いかに確立していったかという問題だ。

 加えて画家の生涯の記録に人間くさい逸話が残る。伝記作者が伝える逸話を中心に枝葉がつけ加えられていく。フィリッポ・リッピが尼僧と恋に落ちて、かけおちをしたという話、マザッチオはお人よしで、人に貸したお金はすぐに忘れるのに、人から借りたお金は忘れずに、二度も返したというような笑い話もある。

 ウッチェロというのはニックネームで、鳥という意味をもち、それについての逸話もある。中にはヴァザーリがつくりあげた逸話もあったはずで、ギリシャ時代からの名画家の話と変に対応しているものもある。ゼウクシスのブドウの話は、古代の画家にまつわる逸話の定番だ。ブドウをあまりにもうまく描いたので小鳥が来てつついたという。日本では雪舟が涙でネズミの絵を描いたというのと同じ部類に入るだろう。中国にも「画龍点晴」の故事いわく目を入れると絵から抜け出す龍がいた。こうしたエピソードをおもしろおかしくまとめたのがヴァザーリの列伝である。

 さらにこの時期の画家や彫刻家がいかに変わり者であったかという話は、ルドルフ・ウィットコウアーの「数奇な芸術家たち」(1969)に詳しい。これを読むとずいぶん変なやつがいるのだなというのがわかる。ミケランジェロが風呂に入らないほど制作に没頭していて、靴も脱がずにそのままベッドに寝ていたが、最後には靴を脱いだときに足の皮までいっしょに剥がれてしまったという話がある。とにかくルネサンス期から一風変わった芸術家がうまれてくるのだということと、それにまつわる話が紹介される。

 絵画がいかに他のジャンルを支配したかという文献としてアルベルティの「絵画論」(1435)が知られる。建築家であるはずのアルベルティがこれを書いているという点が重要だ。遠近法は建築と絵画に共通した原理だ。絵画は神の力を含んでおり、自由人にふさわしいものだといって、絵画を持ち上げている。そして画論はピエロ・デラ・フランチェスカ(1412-92)の遠近法理論からレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)の絵画論へと引き継がれていく。

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