第9章 キュビスム

フォーヴとキューブ水の三体/ピカソ:カメレオン的変貌/量産の意味/ピカソの手/ピカソのオブジェ/ピカソの牛/ピカソの風景画/ブラックと宝飾デザイン/イタリア未来派/ピュリスム

第101回 2021年12月17

フォーヴとキューブ

フランスではフォーヴィスムから二年遅れてキュビスムがスタートする。ここではマティス対ピカソという図式をなすが、代表者同士の一騎打ちのように、最終的にはみえてくる。ライバル視されて語られるが、たがいによさを認め合っていたところはある。ピカソが黒人の造形をおもしろがるのも、マティスからの情報提供によるものだった。アングルとドラクロワのように画派の代表者に祭りあげて、対立の図式を勝手に作り出してしまう。

色か形かの論争はルネサンス以来、長らく続いており、その延長上にフォーヴとキューブがでてきた。キュビスムの場合、色彩は表に出さないで控えめにして、形を重視し徹底して考え直していく。先駆になるのはセザンヌであり、色彩は落とし込んで、形態をくっきりと見定めようとする。自然を解体して再構築する。分析から総合へと呼ばれている。崩して組み立てる。絵とはそのようにしてつくりあげていくべきものなのだ。

印象派のように目に映る現象をそのまま画面に貼り付けるのではなくて、工作をするように画面の上であらたな、現実世界とは異なった宇宙を構築していくのだとする。そうした意識は再現とは決別し、大きくいえば絵画は世界を創造するということだ。芸術は表現であるというフォーヴィスムとはちがって自然を見つめなおすという点で、世界観の変革を希求した。ピカソがキュビスムに入り、あらたな視覚革命をめざす。人間が見る世界ではなくて、物体が見られる世界に目が向けられる。

印象派も今までにないあらたな視線を導入したが、ここでは物体が主役になるような世界観が打ち出された。世界を組み立てるには画家は世界の外にいて、いわば神の目で物質世界を掌握しなければならない。人間中心の世界観である遠近法の延長上に、再現や表現が出てきたというなら、キュビスムはそのコペルニクス的転換であった。そしてそれは科学的にも正しい目だった。

この変革はかつて人間中心のルネサンスが衰え、大自然の雄大に気づいたブリューゲルや、その後古典主義に対抗してロマン派の崇高に目覚めたターナーの自然観に対応している。ともに大都市の繁栄がもたらした非人間的疎外からの反応だった。それは16世紀のアントワープであり、18世紀のロンドンであった。19世紀末のパリもまた病んでいた。

第102回 2021年12月18

水の三体

ピカソとマティスは、同時代人だから共通部分はあるわけで、アフリカの仮面への興味もそれを反映したものだ。オランジュリー美術館にそのコレクションが残されるポール・ギヨーム(1891-1934)の画商としての仕事のスタートは、アフリカの彫刻だったようで、繰り返し展覧会を開催している[i]。未開の造形は美しいものでは決してないが、二〇世紀に入り、飽き足らない都会人の憂鬱に、確固とした信条を与えてくれる救世主のような役割を果たしたにちがいない。

干からびて枯渇したようなアフリカの仮面については、フォーヴィストはそれのもつエネルギーに目を向けた。キュビストは歪んだかたちをおもしろがった。両者の関係でいえば、情念がかたちを歪ませたということだろうが、それは気体と個体との差のようなもので、水蒸気が一瞬にして氷になるわけではない。両者が出会うところには明らかに水があった。いい換えれば気体や個体を生む母体として液体があったということである。

この関係からフォーヴとキューブを生み出す源流として印象派があったことに気づく。モネが水面に目を向けたのは、ゆえなきことではなかったのである。「印象・日の出」(1872)はル・アーヴル港の水面の輝きからはじまる。アルフレッド・シスレー(1839-99)が水没した町の光景を描いた「ポールマルリーの洪水」(1876)が、ことに印象に残るのもそのせいだ。印象派音楽ではモネと同じ名のクロード・ドビュッシー(1862-1918)の交響詩「海」(1903-5)では流れる水の戯れが響いている。

そしてフォーヴィスムとキュビスムを止揚して出てくるのがダダであったとすると、マルセル・デュシャンもまた水に目を向けていたことが思い出される。「階段を降りる裸婦」(1912)は水のように流れ降りてくる。階段を昇るのでなく、降りてくるのはそれが水に見立てられているからだろう。「遺作」(1944-66)は「落下する水」を含んでおり、代表作は「」(1917)と題された噴水を内包した便器だった。

ここでも水が流れるということが重要であって、それは単なる既成のオブジェという個体としてのかたちの話だけではなかった。もちろんそこでは気体としての臭いは封印されていて、それでなければ展覧会に出品することはできなかった。それでいてその視覚はつねに嗅覚をともなっていた。マティスが窓にこだわったことは既に述べたが、それは風という気体のありかを探るフォーヴィストの視点だったと解釈できる。ブラマンクの疾走する風景もまた同様だっただろう。

キュビストが水分を含まない固形に向かったのは、彼らが選び出したモチーフからもうかがえる。ピカソやブラックには楽器が頻繁に登場する。楽器は乾いた音のする物体だ。それはセザンヌにとってのリンゴに対応する。それらは潤いのあるものとはいえず、枯渇して不動となった個体そのものである。セザンヌは潤いをなくし干からびていくリンゴを見つめつくしている。干からびてミイラになるまで見つめ続ける。ここでキュビスムはエジプトの造形と出会うことになる。色彩的には赤いリンゴが黒変するが、樹液の喪失だと見ると、それは液体が流れ出して固形として「存在」の極地にたどり着いた姿だ。

キュビスムの名の由来となったブラックの「エスタックの家」(1908)はごつごつとして岩山と化した立体の集積であった。アフリカの仮面は原始的情念がまずはじめにあって、それがかたちに作用した。しかし逆にかたちの歪みが情念を生むこともあり、フォーヴとキューブは一方方向ではなくて、行き来のできる補完的関係にある。


[i] 「開館30周年記念 オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」2019年09月21日(土)〜2020年01月13日(月)横浜美術館

第103回 2021年12月19

ピカソ(1881-1973):カメレオン的変貌

色をとるか形をとるかは、もって生まれた気質によるところがあるだろう。ピカソの場合は根っからのフランス人ではないので、生地スペインのもつ風土のもち味が、にじみ出ることはあったはずだ。出身はアンダルシアのマラガだがバルセロナに育つので、文化圏からはフランスに近い。ピカソのあとミロからダリへという形を追求するスペイン人の系譜が見えてくる。彼らはともにスペインにとどまっていれば世界的名声を得ることにはならなかっただろう。

パリに出ることによってスペイン勢の血がもう一度よみがえってきた。エコールドパリに近いような状況下、モンマルトルやモンパルナスに異邦人として住み着いて、自国を意識せざるを得なかった。同じく19世紀の日本でいえば幕末期の江戸や京で群れをなす薩長や九州勢に近い感覚だろうか。交友関係も同郷の映画監督や文学者も含み多様な刺激下にあって、絵画とは何かという純化の方向をめざした。

絵画は破壊の集積だというピカソのことばは、自分自身を作りあげるのではなくて、新しいものができればそれをつぶし続けることで、次のものを見つけていく。カメレオン的変貌とも称されるが、底流にあるのはキュビスムだった。世界を多方面から見て、それを合成していくというキュビスムの手法は、すでにセザンヌにその兆候を見出すことができる。

ピカソはキュビスムの美学を理論的に語った人ではない。直感的に美の様態を受け止めることができた人だ。今までと全く異なる様式が出てくると、まわりの仲間は驚異をもって受け止める。前衛精神が過ぎると古風な古典の時代に戻る。行動原理としては気まぐれな部分もあるが、見ようによれば女性関係が頻繁であっただけに、新しい女性が登場すると、絵のスタイルも変わってくる。スペインに根づくドンファン的欲情は、世界を多方面から把握する多神教的なキュビスムの視野と響きあうものだ。

オルガやジャクリーヌをはじめ、多くの女性の名が知られるが、ピカソにとって創作の源泉であり、ミューズの役割を果たしている。それは世界の創造に不可欠なものだった。世紀末の主題「宿命の女」は一神教たるキリスト教が生み出した男を引きずり込む唯一無二の誘惑者だったとすると、ピカソの場合少しニュアンスを異にしている。ピカソが意識して女性の名を9人数え上げられるなら、出発点では多神教たるギリシャ神話に出てくる霊感が宿る源泉としての9人からなるミューズだったということだろう。ミューズは女神のことだが、芸術の分類のことでもあって、絵画を第一位とするヒエラルキーを疑問視することがなければ、第九の芸術として漫画が取り上げられることもなかっただろう。

ミューズもやがては卑俗化していさかいを起こし、遺産相続など財産問題も絡んでくると、子や孫も巻き込んでいがみ合い、悲喜劇的様相も呈してくる。ピカソ自身は天真爛漫にして、スペインの血は陽気な印象を深める。年齢からも長いキャリアを誇っており、一般にはキュビスムに位置づけるが、20世紀はピカソとともにあったという意味からは、イズムの分類をこえてしまっている。

第104回 2021年12月20

量産の意味

アカデミックな技術はすでに10歳代初めで身に着け、しかもその段階で捨ててしまっている。今までのことを否定して、よくいわれるような処女作に返るという身構えは見られない。あっさりと身に着けた古典的技法を捨て去っている。1912年頃コラージュを思いつく時点では筆の力さえ否定する。長命だとしても生涯に5万点という作品数は、個人の制作としては驚異的な数字だ。大作も多いが晩年には日を増すごとに作品数が増えていた。作品名は日付に変えられており、制作年順に並べるのに苦労はない。

ピカソには 「アヴィニョンの娘たち」(1907)や「ゲルニカ」(1937)といった美術史上に燦然と輝く代表作がある。それらは美術の領域だけでなく、歴史的事件の証言でもあるが、ピカソの本領はそうした傑作よりも、むしろ毎日のように量産された膨大な作品群にあるのではないか。そこではまるで日記を書くように日々の記録が綴られてゆく。それらは自由奔放に、気ままに手のおもむくままに、まるで少年のようなまなざしが、いたるところで輝いている。ことに晩年の作品は、おおらかな人間賛歌に根ざしている。

もちろんピカソは生涯を通じて天真爛漫であり続けたわけではない。 若い頃には青年特有の絶望と社会の底辺に向けるアウトサイダーの目があるし、「絵画」とは何かという高邁な思索もある。こうした苦悩がピカソを支える原点ではあるのだが、私はむしろ生涯を通して何万点と描き続けられた無名の作品の蓄積のほうに興味がわく。確かにそれらは無名であってタイトルさえもたない。しかし制作年月日だけははっきりと記述されていて、なかには自筆のサインのかわりにおもて面に大きく日付だけが記されるものもある。こうした日々の記録は従来の仰々しい額縁をもったタブロー意識とは対立するもので、ピカソの目が絵画を離れ、版画や彫刻や陶芸、さらにはオブジェ制作に向かっていくのは当然だった。

絵画が目の仕事だとすると、それらは手の仕事であり、キュビスムという絵画理念も実はその点に由来している。手でさわるようにして絵を描こうとしたキュビスムの画家が、モノそのものに興味を移してゆく姿は、その後の現代アートの動向を先取りするものだった。ピカソが抽象絵画まで行きつかなかったのは彼の限界だったという通例の見方は実は正確ではなくて、彼は抽象さえもこえて、絵画の解体と再構築というその後の課題に挑もうとしていたようだ。

そこでは絵画は具象というよりも具体といったほうがよい。なぜそれほど膨大な量の作品を残したのか。それらは作品というよりも彼の日常のアクションの痕跡だったようにみえる。それらはすべて、優劣でははかりきれないピカソの私生活の断片であることだけは共通していた。あらゆる側面からピカソをとらえるキュビスムの目だったといってもよい。

ピカソの量産は、キャッシングマシーンのように一定の品質を保ちながら日夜吐き出されていく。もちろん体調によって増減するが、そういう金融政策を気にするのはピカソの仕事ではない。もし守銭奴のような亡者の姿が思い浮かぶとすれば、円空仏と比較することによって、その芸術形式を容認することができるだろう。身近にある木片を削り続けたこの遊行僧は、17世紀後半にピカソをうわまわる仏像を量産したが、それは創作というよりも、日々の祈りであり、信仰そのものとして機能する。それは自分の身体の一部を分け与えていくキリスト者の信仰と共通するものだ。

つまり「ピカソのパン」のことであって、日々の祈りの代価としての「聖餅」を意味した。実際の機能はもっとプラクティスで、巡礼の日々の旅先で残していく生活の糧であって、円空の場合は一宿一飯の宿賃に代わるものだっただろう。農家が生産する農作物に等しく、天候や健康に左右されながら、黙々と続ける勤勉が身を結ぶ姿にほかならない。それに群がる商魂についてはまた別の話となる。才能の代償が財産と堕落である場合は多い。

第105回 2021年12月21

ピカソの手

ピカソの風貌は、いくらかある自画像を見る限りではゴリラを思わせるようなたくましさが目につく。あえて自嘲的にデフォルメされてもいる。写真で残っているものは、がっしりとしているが、それよりもずっと柔和で穏やかな印象を与える。著名な写真家が映し出したものも多く、絵になる被写体であったにちがいない。健康そうで、なよっとはしていない。リラックスしていて、ときにふてぶてしくもある。

ロバート・キャパ(1913-54)の撮ったピカソもよく知られるが、ドアノーが撮影した横じまの囚人服のようなピカソの手が、その特徴をみごとに捕らえている。タイトルは「ピカソのパン」(1952)とある。写真家の遊び心ではあるが、テーブルに載せたあまりにも大きすぎる手は、フランスパンの指でできている。写真家の直感は、ピカソの指がフランスパンに見えたということだ。

ピカソにとっての手はパンを稼ぎ出す源泉をなすものだったが、自身の身体を分け与えるという意味をともなった。ここではピカソのまなざしは不条理に満ちている。フレームの枠外に目を向けていて、視線の先に何があるかを明かされない限りは謎でしかない。写真家はパンから目をそらせようとしてみごとな演出をして見せたとみることができる。

ピカソにとって手は重要だ。彼は手でふれるものしか描かないのではないだろうか。ピカソは大きな柔らかな手をもっている。それはみごとにモデルを変貌させるのである。すべてはピカソの手になじんでしまう。あんな手でなでられたらひとたまりもない。対象はすべてめろめろになってしまう。その場合、相手は女性であってもいいし、陶器であってもいい。キュビスムを思いついたのもきっとそんなところに原因があるのではないのか。手でおおいつつむようにして描けば、ものには裏も表もなくキュビスムの絵にならざるを得ない。モネが目の人だとすればピカソは手の人だ。モネはものの裏側まで描こうとは思っていなかっただろう。

女性遍歴を追っても興味深いだろうし、「泣く女」(1937)のリアリティは、歯ぎしりをして怒り狂う愛人を、手の届くような距離でふれることなしには、誕生しなかったものだろう。本人を知るものにとっては、この戯画のリアリティは最高のレベルにあったようだ。モデルの特徴をとらえる画家の基礎がしっかりと培われていたということだろう。モデルとの関係は、目の距離でなく手の距離だということだ。のちに繰り返し描かれた「画家とモデル」(1961-5)では、両者の距離は不自然なほどに近い。

バイタリティのある生涯だったのは孫のような子の存在からもうかがえる。豊かな手であやす子煩悩な姿を映し出した何枚もの写真がこのことを証明している。エネルギッシュで健康そうな老人は、写真からはあやしているのが、子なのか孫なのかもわからない。分散したピカソの作品群は、生々しい遺産相続の現実を伝えている。ゴッホなどに比べればうらやましい生涯だが、画家のステータスがハングリーを売り物にする時代を脱した証拠である。今日オークションの額面を競う醜いまでの現代アートのスノビズムは、ピカソをそのスターターとして、一直線で20世紀を駆け抜けていったといえるだろう。

ピカソの「破壊の集積」は、カメレオン的変貌を生む。青の時代があって、次にバラ色の時代が来る。前のものを否定して次のものをつくっていく。それは画家の恋愛遍歴のようでもある。新しい時代に入ったときには前のものは、自分のなかでは評価していないということが前提をなす。前歴を引きずることはない。青の時代を見ていると表現主義だろうと思う。世界を懐疑的に見るキュビスムの目ではない。思いつめた一途な目といってもよい。

やがてはキュビスムに至るとは、ピカソを知る誰もが想像もつかないものだった。それがバラ色の時代を経て、一挙に「アヴィニョンの娘たち」でキュビスムに達する。アトリエを訪れた仲間がこの大作に驚いたのも不思議はない。その懐疑主義が吹っ切れると、古典の時代の腕っ節の太いたくましい女性が登場する。

失恋で自殺したピカソの友人カサヘマスの死は、つねに話題になる。情けない男ではあるが、ピカソにとっては大事な存在であったにちがいない。ピカソなら自殺はしないはずだが、こうしたナイーヴな感覚が身近にいて、性格的には異なるものでありながら、自分にはない感性をうらやんでいたのかもしれない。青の時代はその追悼に捧げられている。その後もピカソの周辺には愛人も含めて自殺者が絶えない。カサヘマスがのりうつったこの時代のナイーブがなければ、私たちはピカソを誤解してしまうだろう。

第106回 2021年12月22

ピカソのオブジェ

陶芸作品のコレクションもピカソにとって重要なものだ。日本で所蔵されるものもよく知られている。鳥の姿をした顔などスペインのフォークロアや、ギリシャ神話からの豊かな発想をオブジェとして、自由な遊び心が際立っている。陶芸家との共同制作になるが、皿などは自由な絵付けとしてピカソの本領が発揮されている。一点限りしかないものでもあり、オリジナル性は担保されている。油絵とちがって色あせないし、割れないように気をつければ作品としての保存性に優れたものであることは確かだ。

ピカソの立体表現は陶芸だけでなく、彫刻も知られる。美術史上多くの画家が彫刻を手がけてきたことを思い浮かべる[i]。ドガの彫刻は彫刻家のルール違反もおかまいなしに、「14歳の小さな踊子」(1880)ではバレエダンサーのチュチュをひらひらとなびかせた。あっといわせるコンバインは、現在みると耐久年度の異なった布とブロンズの組み合わせが不思議な異化効果を放っている。この異化効果は先になぞらえた「日月山水図」で真っ黒になった月が放つ現代性に対応する。ゴーギャンの木彫はどう見ても、アフリカ彫刻に刺激される精霊の守り人を先取りしている。ピカソの場合、自然物や人工物の見立てから、オブジェといったほうがよいものに目が向かう。

陶芸は主に絵付けなので曲面上に描かれた絵画だろう。ミロの彫刻が絵画の立体ヴァージョンという点でおもしろみを欠くのに対して、ピカソのオブジェは圧倒的に興味をそそる。自然物が何かにみえるという限りでは、絵画のイリュージョニズムに従うが、それは物質が発するオーラに由来するものだ。絵画の場合でいえば、紙や布地がそれにあたる。もっといえば木版や銅版のわずかなささくれであって、それがプレスされることで、絵画とはなっているが、もとはれっきとした物質の様態なのだ。

自転車のハンドルとサドルを牛の角と顔に見立てたファウンド・オブジェクト「雄牛の頭」(1942)は、身近にある廃物が再利用されたものだ。サドルは尻の摩擦が繰り返されて、肉がそぎ落とされて引き締まった牛の顔に変貌する。スペイン人にはアルタミラ洞窟以来、何を見ても牛に見えてくるようだ。見つけ出されたオブジェは、漂流物が伝える魅惑であり、モノに託された未知の驚異のことだ。名も知らぬ遠い島からたどり着いたヤシの実ひとつが内包する香りであり味だった。

隕石でも流木でもいいが、洗い流されて時の造形の様相を呈する。今ではプラごみさえも廃墟と化した未来都市からたどり着いた環境汚染を伝えるタイムカプセルにみえる。ときには魚がつついた痕跡も丸みを帯びて、ペットボトルは顔を引きつって笑っている。

ピカソの彫刻を大上段に美術のジャンル分けを推す用語で呼ぶ必要はないだろう。この系譜は画家のもちあじとして日本では香月泰男(1911-74)が引き継いでいる。シベリアシリーズの息を詰めるようなシリアスのかたわらで、ほのぼのとしてなごんだ遊び心がオブジェに向かう。厳しい抽象的フォルムを絵画で追究した猪熊弦一郎(1902-1993)も、立体に目を向けたが、それらもオブジェというよりもオモチャというほうがよいものだった。肩の力が抜けた造形に、画家が真剣勝負を終えたときの子ども心の真実が見えている。


[i] 「描く、そして現れる ― 画家が彫刻を作るとき」 2019年9月14日(土)~12月8日(日)DIC川村記念美術館

第107回 2021年12月23

ピカソの牛

同じようにピカソの版画も版画家とのコラボレーションだが、独自の分野を開拓している。一枚のリトグラフがそれぞれの段階で多様に変貌する。「牝牛」(1945)でのステートのちがいが興味深い。黒々とした写実的などう猛さもあれば、シンプルな一筆描きで輪郭だけを残す牛もいる。そこにあるのは進化ではなく展開だ。

最終ヴァージョンをめざし、それを目的とするのではない点では、版画のロードムービーといってよい。各ステートで独自の作品となっていて、カメレオン的変貌の姿を認めることができる。時間は決定的瞬間に向かって落ち込んでいくわけではない。収束するのではなく、まんべんなく同質のまま推移し続けている。個を中心に世界を見ていては気づかない宇宙の原理を、このキュビスムの画家は教えてくれた。一枚の版画を多様な側面からとらえたキュビスム的展開といっていいだろう。

版画は絵画のアウトサイドにあって、版画家は自虐的にみずからを半画家と名乗ったりする。版画家の多くは画家をあこがれる。デューラーもレンブラントもピカソもすぐれた版画をのこすが、本業は画家として知られている。版画の「版」のもつオリジナリティとアイデンティティに気づいたときに、やっと版画は独立して反旗をひるがえし反画家となる。のちの反芸術という用語法もこれになぞっており、可愛さ余って憎さに至る人間存在の不可解を教えるものだ。芸術を目のかたきにしながらも内心は愛している。

ピカソの牛はスペイン人の血のなかで多様に展開する。真横からとらえた牛の姿は、アルタミラ洞窟壁画を通して、スペイン画家の自負心を確認する。闘牛を通して風土に根づいた古代ローマにおもいをはせる。この民族に根ざしたイマジネーションは、自転車=牛のイメージ操作を用いて、前衛映画を準備していたかもしれない。ダリとルイス・ブニュエル(1900-83)による実験映画「アンダルシアの犬」(1929)では、仔牛の角膜をカミソリで切り裂いたあと、このハンドルをもった自転車がよろよろと走る場面が長く続くが、突然ばたりと横に倒れる。理解不能な謎めいたシーンだが、これを自転車ではなく牛だと考えると、確かにスペインでの牛の倒れかたを思わせる。ゴダールの映画「勝手にしやがれ」のラストシーンもこれに似ている。

古代ローマの残酷な見世物は、スペインではながらく闘牛に残っていた。そこでは牛は暴れ回ったすえ、力がつきて急にバタっと横に倒れる。自転車の速度は牛に見合うものだ。そうするとこれに乗っていたのは、着飾ったマタドールだということに気づく。そこでは闘牛士もまた頭を路面に打ち付けて死んでしまっている。その後、牛ではなさそうだがロバにみえる腐乱した死骸がピアノに載って登場する。

第108回 2021年12月24

ピカソの風景画

土に根ざした陶芸がつねに触覚を原点にする点で、手にふれる距離感が、身近なものとして視覚よりも重要視されたことは予想される。このことがピカソに風景画が珍しいことと関係するかもしれない。風景画はピカソになじまないが、作品総目録をみればたしかに見つかる。キュビスムの源流であるセザンヌにはサントヴィクトワール山をはじめとして風景画が代表作をなす。キュビスムの名はブラックの描いた風景画のキュービックな形態に由来した。それは立方体の塊が集まっているようにみえる。自然を平面ではなく立体で見るのだというセザンヌの原理がそこにはある。丸・三角・四角ではない。球・円錐・円筒なのである。

ピカソのこれまで未見の風景画を見つけ、観察していると、風景と画家の間に距離感がないのに気づく[i]。つまり空気の存在がなくて画家と風景がじかに接しあっている。自然は自立しないで画家の吸引力に導かれて、かたちをゆがめている。ながらく続いてきた遠近法にもとづく空々しい風景ではない。人物はひとりも登場しないのに憂いを秘めた人間の風景となっている。

風景は自然を捨ててピカソの手のなかで変容をとげる。 あるときは丸みをおびて、木々はすべて丸々としている。あるときは時代の悲しみを映して町はゆがんでいる。さまざまな表情をみせる風景がそこにはある。自然が人間を見限ってしまった21世紀の自然観からすれば、それはまだまだ救いようのある時代だったにちがいない。少なくとも手の届く範囲にあるものだ。


[i] 「ピカソ展 : ルートヴィッヒ美術館コレクション」2007年7月24日~8月26日 岡山県立美術館(拙稿「ピカソ展に寄せて」山陽新聞7月23日)

第109回 2021年12月25

ブラック(1882-1963)と宝飾デザイン

キュビスムを語る場合、ピカソに同調して行動を共にしたジョルジュ・ブラックを外すことはできない。ピカソに比べれば地味な生涯ともみえるが、ボクシングをおこなうなど生活をエンジョイしていた姿も浮かび上がる。派手さはないが落ち着いた玄人好みのする秀作が目立つ。フォーヴィスムとキュビスムでは考えかたは対立するが、ブラックの場合は珍しく、フォーヴから始まってキューブに移行している。

ブラックの宝飾デザインも知られるところだ[i]。ギリシャ神話の神々が、シンプルな形に変容する。であったり、であったり、であったりするが、最後には鳥でも魚でも顔でもあり、しかももっとシンプルな形が見つけ出される。そしてその形がジュエリーになる。さらには拡大されてインテリアにもなる。

こうしたキュビスム的変容ともいえるメタモルフォーシス(変身物語)は、ギリシャの神々の話だけではなく、芸術のミューズの場合もいえるのだと主張する。装身具になれば、その形は護符のようなもので、身につけることで装飾だけでなく、身を守る役割も果たす。鳥=顔は簡略された象形文字となる。頭部の輪郭は顔が空を飛ぶというシルエットをなぞっている。ピカソにもこれに似たイメージ操作があったような気がする。

平面から立体への変容は、キュビスムが内包するものでもある。立体派という日本語名からもそのことはわかる。それは装飾とは相反するもので、ブラックをキュビスムと結びつけている限りでは、理解をこえる。ダリならばいざ知らず、ブラックと宝飾デザインとは結びつかないように思う。

装身具では縮小された形が、同じままでインテリアや彫刻では拡大されている。あるものは背面に回るとG.Braqueと大き過ぎるほどのサインが彫り込まれている。アンドレ・マルロー(1901-76)は「ブラック芸術の最高峰」と絶賛したという。そこでは若き日のレジスタンスの闘士は、キュビスム当時の価値基準では測れない、互いの保守的安定を認めあったのかもしれない。


[i] 「ジョルジュ・ブラック-宝飾デザインの輝き」2018年7月28日~9月17日 岡崎市美術博物館

第110回 2021年12月26

イタリア未来派

キュビスムと連携して未来派の誕生も、両者に興味深い対比をもたらしている。キュビスムの場合はあるものを見るのに多視点から見ていく。未来派のほうは、視点はひとつだが対象が動きはじめる。キュビスムでは対象は動かずに、それを見るものが動く。キュビスムが前と横と後ろをひとつの画面に統合させる空間の変革だとすると、未来派は過去、現代、未来をひとつの画面に統一した時間の変革だといえる。単純にいうとジャコモ・バッラ(1871-1958)の「つながれた犬のダイナミズム」(1912)のように、未来派では動いている犬に何本もの足が描きこまれる。

映像における残像効果を思わせるが、未来派が実験映像に興味をもつことにもつながっていく。イタリアに誕生した前衛が、船のへさきで風を切って疾走する「サモトラケのニケよりもレーシングカーのほうが美しい」と宣言したのは1909年のことだが、「フィガロ」紙上に掲げたパリに殴り込んでの旗揚げだった。もはや美術の中心地はローマにはない敗北宣言にも聞こえる。古代彫刻をルーヴル美術館に奪われた反旗とも取れるが、現代の美は確かにフェラーリやランボルギーニに結晶している。

のちに難破した巨大客船のへさきに勝利の女神に換えて男女を立たせ、ラブロマンスに結晶させた映画「タイタニック」(1997)は、古典主義を先導役にしたロマン主義の勝利を語る、みごとなイズムの協調だった。タイタニック号の悲劇は「メデューズ号のいかだ」(1818-9)から「ドンジュアンの難船」(1840)へと続くロマン派の系譜に属するものだ。

後者はバイロンの詩にもとづくが、くじ引きで人喰いの人選をする異様な漂流ボートでの情景を描いたドラクロワ作で、出世作「ダンテの小舟」(1822)とともにジェリコーへのオマージュとなっている。スピードに現代の美を仮託するのは、騒音を音楽に導入する前衛ともタイアップして未来派のダダ的性格を伝えている。マルセル・デュシャンが「階段を降りる裸婦」(1912)で人体を連続写真のようにつらねて描いたのは未来派と同調するものだ。デュシャンはその後マイブリッジの連続写真のようなアニメーションの原理を楽しんでいる。円盤上に描かれた円の連なりは「アネミックシネマ」(1926)と題され、目がまわるように螺旋を描いて回転している。

未来派の反動のようにして孤立するキリコの存在は、前衛運動の保守的性格を露呈するものとなったようだ。イタリアでは未来派のもっている先端的なものと、クラシックなものとが同居している。今でもミラノでのファッショナブルなデザインと、他方では伝統的なルネサンスや古代のローマを引きずりながら、新旧は同一地平にある。キリコの絵を見ていると一方で非常に新しい、他方で非常に古いものが、ないまぜになったような印象を残す。その後のシュルレアリスムに結びつくイタリアの前衛性に、キリコの立ち位置を見定めなければならない。

第111回 2021年12月27

ピュリスム

 ピュリスムはキュビスムのようには美術史上の評価は受けているわけではない。しかしそれが叫ばれる理由はよくわかる。建築家ル・コルビュジェ(1887-1965)が友人の画家と旗あげをしたのは、キュビスム全盛への反発からだった。絵画史ではキュビスムの評価は燦然と輝いている。しかし八方ふさがりになって絵画の殻に閉じこもることにもなってしまう。ピュリスムを開始した1918年頃のコルビュジェの絵を見る限りでは、楽器や食器による静物画の扱いは、キュビスムの影響下にあることは確かだ。レジェやブラックに類似して、それほど独創的ということにはならない。

 キュビスムは徹底して遠近法を解体したが、建築家たるコルビュジェにとっては、パースペクティヴを無視しては、自己の存在理由を否定することになってしまう。絵画にはキュビスムには見当たらない影が描きこまれている。キュビスムの触覚的な世界把握では影はできない。キュビスムや抽象絵画には影はないが、それは「絵画は影ではない」ということを主張するものだった。絵画が壁に投影された影の輪郭をなぞることからはじまって遠近法にたどりついた定義の正統をくつがえそうとするものだった。キュビスムふうでありながら遠近法に立脚することは、絵画を日常空間に解放することを意味する。自律をめざす絵画論ではなく、芸術の他領域と共闘を組むことになる。

建築は代表的な日常性に根づいた芸術だ。アールヌーヴォーほどに大衆的ではなく前衛性を保ちながら、総合芸術の方向を模索したということだろう。近年の展覧会ではファッションデザインとタブロー絵画を並べて展示することのできるコシノヒロコ(1937-)のミュゼオロジーは、ピュリスムの系譜に属するものだったといえるかもしれない[i]


[i] 「コシノヒロコ展 -HIROKO KOSHINO EX・VISION TO THE FUTURE 未来へ-」2021/4/8(木)~2021/6/20(日)兵庫県立美術館


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