白髪一雄

2020年01月11日~03月22日

東京オペラシティ アートギャラリー


 関西人が白髪一雄を東京で見ることもないだろうと、自分でも思う。尼崎市や兵庫県立美術館蔵の作品がずいぶんと混じっている。尼崎に足を運ぼうと思いながらついつい行けずじまいの間に、何度東京に来ただろうか。今回も初台のICCの企画展をめざして、ついでの訪問となったが、ついでのほうが圧倒的な迫力で迫ってきたのだ。

 私はオペラシティの企画力を評価している。どうしても見ておきたい展覧会がこれまでにも数多くあった。そこでなぜいま白髪一雄なのかという問いが次に発せられる。忘れ去られてもよさそうな古いスタイルの表現主義など、いまどきのスタイリッシュな若者の目に留まるのだろうか。疑心暗鬼で訪れたが、もちろん白髪を知る高齢者などは数えるしかいない。

 数点見ておけば、あとは同じようなものと思っていた浅はかさは、それなら何もそんなに量産する必然性はないとの一言で切り返される。2、3点で足りないから描き続けるのである。質を落とさないレプリカとしかみない市場の論理の延長上に、ふとどきな輩が登場する。

 工夫のあとは商売道具の展示に見つけることができた。足で描くという一元論は、スキーのソリや自作のヘラの改良を経て、多様化していく。仏教に帰依してからの、円相へのこだわりは、ヘラを車のワイパーのように使うコンパスとして機能している。大工道具にも似て、主人を亡くした今も、黒光りをして輝きを放っていた。

 足で描いたことは残された映像が証言している。残された作品よりもこちらの方が面白いが、古ぼけたモノクロ映像なので、記録以上の意味はない。絵の具の盛り上がりは、色彩が物質となって絵画礼讃を語り出す。が強烈だが、時折見せるも捨てがたい。怒り狂う点では、赤不動、青不動の対比も成り立つ。仏教、ことに密教にたどり着く推移がそこに読み取れるかもしれない。

 関西にいれば「具体」のメンバーとしての肩書きが先行してしまうが、東京では個としての評価が優先されると言ってもよいか。京都芸大の日本画出身という経歴は再考の余地がある。国画創作協会からパンリアルの伝統が息づく名門であり、徒党を組むという点ではダムタイプにまで引き継がれている。そして具体には属したが、個人的特性を貫いた人ではなかったか。東京はそれをおのずと個として評価した。仏教用語を借りれば唯我独尊ということになる。

By Masaaki Kambara