STILLALIVE 国際芸術祭「あいち2022」

2022年07月30日 ~ 10月10日

愛知芸術文化センターほか


2022/9/17

 見ごたえのある意欲的な企画だった。多様な作家と作品を含むが、Still Aliveが統一テーマになっている。河原温(1932-2014)のコンセプチュアルアートから取られたもので、私は「まだ生きている」という電報を知人たちに送り続けたという神話的行為について、考えようというものだ。英文をそのまま読むと「私はまだ河原(or 瓦)のうえで生きている」となり、身投げし損ねた水死者のようにも聞こえる。かつてはトリックスターをさす河原乞食という差別語もあった。ふつうは河原温をメインにすえるには、動員力を考えれば勇気がいるが、愛知県出身ということでこの伝説の巨人をもち上げる理由がつく。こんにち人類はかろうじてまだ生きているという状態にある。言いかえれば瀕死の重症だということだ。これを出発点にして、人類の未来のこと、人と人とのコミュニケーションのこと、意思疎通の難しさなどさまざまな模索のもとで形をなしてきたアートが集められた。3年前「表現の不自由展」が話題になったことも、まだ尾を引いているはずで、加えてコロナ禍とロシアのウクライナ侵攻が終結をみない現況が抱きあわされてのタイムリーな開催となったとみてよいだろう。

 河原温の作品をまとめて見ることができたのは収穫だった。コンセプトだけで完結するはずのアートを残されたモノで綴る不条理を通して見えてくるものがある。私はまだ生きているという電文を打ち込んだ電報が集められて展示されている。これらが一堂に集められたということは、このコンセプトが実際に行われていたのだということを証拠づけるものだ。文学館が文豪の書簡を集めるのとも等しく、そんなプライベートなおせっかいはよろしくないという声もあるだろう。若い日に情熱にまかせて投函してしまった恋文も見つけ出されてしまうと、文豪の恥部にふれた喜びを読者に味わわせてしまうことになる。

 今日の報告書で重要な語にエビデンスがあるが、物的証拠を提示しないと信用してもらえないという世知辛い世情が、背景としてはあるようだ。そんななかで電文が集められた。郵便物は作者の手元には残らないという原理は、いわば拡散してしまった分身を拾い集める遺骨収集に似ている。遺骨を集めてとむらうのだと考えると、一概に意味のないことでもなくて、並べて比較することで見えてくるものがある。そこには相手の名前だけでなく、本人の住所や電話番号も記されている。今日では取扱注意に属するものだろう。

 「まだ生きている」という視点で見ていくと、興味深い作例に出くわす。樹木の年輪を問題にしたローマンオンダック「事象の地平面」Event Horizon(2016)を前にして考えさせられた。樹齢は長く人間をはるかに超えている。しかし伐採すればそこで命を絶やしてしまう。年輪がおもしろいのは、この点だろう。今回の展示品でいえば、2016年までの歴史を見てきたということで、一年ごとの大事件を書き込んでいたが、ここではエリザベス女王はまだ死んでいない。展示することで失われるものがある。輪切りにされた100年分の年輪は、会期中に毎日、一年ずつ増やして壁面に吊るされていく。つまり会期初めでは皆目見ることはできなったということだ。このパフォーマンスも興味深い思考の対象となる。

 百瀬文「ヨカナーン」(2019)は、サロメのオペラを下敷きにして、悲痛なまでの重厚な声の響きが、視覚化されている。ともに口パクと言ってもよいが、オペラの曲と登場人物の口の動きは合っていない。同時に男性は洗礼者ヨハネを、女性はサロメを暗示するが、男のせりふは女のセリフと同期している。女は男のボディスーツに埋め込まれた信号どおりに、動きを繰り返している。字幕で映画を見るように、視聴覚にずれがおこり、心と身体が乖離していく。女のほうは明らかに仮想だが、男のほうも、これが映像であるという限りは、もっと現実に近い仮想マシーンかもしれない。スーツを脱ぎ捨てて皿の上に首を乗せた男の裸体はまだ生きている。皿を枕にして静かに目を閉じる。サロメは私を見つめてという呪文を繰り返す。現代の恐怖ともいえるが小津映画を見るように、対話は見つめ合うことなく視線はすれちがっている。

 有松地区に足を伸ばしたとき、古民家はまだ生きていた。現代アートがなければ訪れることはなかったが、現代アートに色付けされて江戸時代から続く木造建築の年輪を確かめていたともいえる。21世紀の芸術祭が好んで用いるやり口ではあるが、前述の年輪が伐採という自殺的行為によって開示させた自滅にも等しく、土足で部外者が侵入しないと見えてこないものがある。まだ生きているという実感のことだ。古き良きものがとどめる崩壊に向かう耽美は、そっとしておくべきだと思いながらも、現代とのコミュニケーションを模索して楽しもうとしている。一般には開発か保存かという議論になるが、ながらく安らいでいた古民家にとって驚きの体験であったことは確かだ。

 コンセプトが先行する現況を反映して河原温とともに塩見允枝子(1938-)にスポットがあてられたことも興味深い。こんな作品を作りたいというコンセプトは、それが集まればまとまりをもったコンセプチュアルアートとなるが、それを具体的に再現すると興醒めになる場合も少なくない。このような図解は、失われた過去の作品の「再制作」に等しいが、素材だけが新しくなっても、コンセプトは古いまま、まだ生きているという論理だ。あるいはコンセプトは素材とちがって古びることなく生き続けるという表明なのだろうか。いずれにしても「不在感を楽しむ」という企画意図は、あらためてアートとは何かを考える原点回帰となった。壁に並ぶアクションペインティングがなぜか頼もしく目に映った。


by Masaaki Kambara