第3節 逆説の思考

第540回 2023年3月24

1 逆説の思考

 こうした逆説の成立は、天心自身の行動の中でも体現されてゆく。天心のアメリカの友人にサースビー姉妹、エマ(Emma)とアイナ(Ina Thursby)がいる。エマはオペラ歌手として国際的に活躍したが、二人は大の親日家としても知られ、明治36年(1903)の春に日本を訪れ5カ月間滞在し、天心の歓待を受けている。この年のクリスマス・プレゼントに天心は扇と印鑑を贈っている[i]。扇には小さく「Aina Sama 岡倉覚三」とあり、印鑑もまた豆つぶほどの小さなシャレたもので、それぞれ「艶麿」「愛那」の日本字をあてて彫りこんである。豪放な一見型破りな天心像から考えれば、矛盾するこまやかな神経と思えるが、同じようなことは小山正太郎さえも感じていたようで、天心について次のように語ったことがある。

 「君は事業に対しては、非常に勇気があったに拘らず、人に面しては小さな声で、やさしく話をする様な、なかなか如才のない、また非常によく気がつくので、何となく人を魅する所があった。門人などは随分叱り飛ばされたこともある様ですが、私共には面と向って激論されたことがない。兎に角人に接することは、なかなか上手であった[ii]」。

 色川大吉氏は天心を「矛盾の境り」と言ったが、それを受けて「『矛盾の塊り』として総体としてとらえることが、天心の実像に接近しうるゆえんではないか」とは孫岡倉古志郎氏の言葉であり、「『矛盾の魂り』が塊りであるかぎり、それを塊りとして保たせている中心の力がある[iii]」とは大岡信氏の解釈である。それは矛盾が矛盾で一貫しているということであり、同様に「天心」という号にも、そうした矛盾をこの文字の中に封じ込めようとする彼の意志が読みとれなくもない。

 天心自身、名に対する執着は強かったようで、はじめの「角蔵」を自ら14歳の頃に、「覚三」と改めたと伝えられている。屋敷の角(すみ)にあった蔵で生まれたという「いとも無雑作」な現実的命名は、彼にとって耐えられなかったに違いなく、こうしたこだわりも後ちに西洋の実利を否定して、東洋の理想を打ち出してゆく心情に通じるものがある。長男が横浜にちなんで港一郎、三男(実際は四男だが三男の弦三は生後まもなく没)が由三郎であるのに、次男の天心が「角蔵」では、確かに父と自分との「血筋のつながりに対してまで疑いを抱く」ということにもなっただろう。そして自ら選んだ「覚」はのちの彼の主題である「覚醒」(awakening)と結びつくが、父覚右衛門から引かれたと考えてもよい。しかしここで注目したいのは天心が次男であるのに、自ら「覚三」としている点である。この「三」という数字への執着は何を意味するのかは不明であるが、のちに異母姪との間に生まれた「三郎」という彼自身の隠し子の名の中に生き続けたとみてよい。ちなみに天心の長男は一雄であり、三郎は腹違いではあるが次男にあたる。

 「天心」という号については、岡倉由三郎によれば「胸の中程に出来た脂肪のかたまりが、草書の天の字のように、三段に分れて、厚肉の浮彫に似て見えた[iv]」ことから自ら命名したものだという。また塩田力蔵も同様に、「『天心』の号は、先生の胸部にイボを生じ、随って切れば随って生じつつ、遂に瘢痕が平仮名の『て』の字に似来れるよりの事にて、即ち胸に天の字あるに依れり[v]」と書いている。確かにこうした由来は、天心ならではの教祖的雰囲気の漂うものであろうが、ある意味ではこれならば「角蔵」の命名と大差ないことになってしまう。恐らくはもっと暗喩的な意味を込めての命名だったと思われる。私には「天心」の語が天に向かって広がる拡散と、中心に向かう収縮という矛盾を統一しようとする名のようにさえ思われ、この号が明治19年4月の文章にはじめて使われ、同年の欧州視察中の日誌にも登場することからも、彼が西洋と東洋の矛盾を統一しようとする意志と見えなくもない。

 天心の中国調査にカメラマンとして同行し、のち天心の誤ちの相手さだの夫となる早崎梗吉は、天心の号をもじつて「天真」と名乗っているが、ついでにいえば同じく黒田清輝の開く「天真道場」も、「天心」に対する語呂合せと見ることもできる。それは、久米桂一郎の父邦武の命名とも言われるが、天心が美術を「心」の問題として東洋の理想を押し進めたのに対して、黒田らは宇宙(天)の「真実」を美術に求めたのであろう。十条の規定の第一に「当道場に於て絵画を学ぶ者は天真を主とすべき事」とある。それは旧派の洋画家が本質的に殖産の「技術」を求めたと考えれば、「科学」を志向したという意味においては、実利を越えており、その点では天心一派との接点を見い出せたともいえる。

 天心は職務としての正式な文章や学術的な論文については、岡倉覚三と署名をしているが、美術批評や雑文については、別の筆名として「種梅鋤夫」「鉄槌道人」「渾沌子」などを用いている。中でも「渾沌子」については、東京美術学校が開校した明治22年頃に繰り返して用いられ、まだ矛盾さえも自覚し得ない渾沌の中に生まれ落ちた子というイメージが読みとれる。やがて明治27年頃から本格的に「天心」が用いられはじめた時、渾沌の中から現れた矛盾を統一する第三の道が想定されることになる。梅原猛氏も、やはり筆名に目をつけて、次のように言った。

 「のちの国家主義者によって、国家的思想の先駆者とたたえられる岡倉天心が、実は日本脱出の強い意志をもったはなはだコスモポリタンな人格であったということはまことに皮肉なことであるが、これこそ混沌子の混沌子たる所以のものかもしれない[vi]」。


[i] サースビー姉妹と天心との交友は、ニューヨークにある天心の一四通の英文書簡を紹介した、堀岡弥寿子『岡倉天心考』吉川弘文館 昭和五七年一六〇-六九頁  に詳しいが、サースビー姉妹の所蔵した他の資料は、福井市の白山家コレクションと呼ばれるものに含まれている。この扇と印鑑も同コレクションの一部だが、他には天心のセントルイス万博での英文による講演草稿や明治三七年に日本美術院の海外展として、ケンブリッヂで開かれた展覧会の出品作(大観、春草、観山、天心の日本画)、筆で書かれた大観のサースビー姉妹宛ての英文書簡、その他浮世絵やオペラ関係の資料と雑多であるが、すでに散逸しており、当初の全貌はわからない。

[ii] 梅沢和軒 前掲書 三六三頁。

[iii] 大岡信 前掲書 二八一貫。

[iv] 岡倉由三郎「次兄天心をめぐつて」中央公論 昭和一〇年一〇月号。

[v] 塩田力蔵「我が岡倉先生」日本美術 大正二年一〇月一八頁。

[vi] 近代日本思想大系7 『岡倉天心集』筑摩書房 一九七六年 梅原猛解説 三八六貢。

第541回 2023年3月25

2 行動と衣裳-比較としての西洋

 天心の行動を「彼の生まれ育った極めて特異な環境[i]」の中に見ようとする試みは、幾度となく繰り返されてきた。それは横浜という地理的環境であるだけでなく、天心の人格形成期の家庭環境のことでもあった。天心の母「この」は、横浜の三大女と異名をもつほど立派な体格で、それが見そめられて覚右衛門の二度日の妻になった人だが、天心が9歳の時に産褥熱で死んでいる。翌年父は大野しずと三度日の結婚をするが、これを機に天心は実母の菩提寺である長延寺に預けられ、家族と離れて一人淋しく暮らすことになる。

 こうした「母の愛というものを満足に享受し得ない不幸な児[ii]」という解釈は、その母性を最終的にはインドにまで求めたという点で、天心を語る場合のキーポイントになる。それは生身の女性よりも、もっと大きな母性が天心を引きつけていたということでもある。明治35年に「美術院を放擲してまでもインドに赴きたいとの情熱に駆り立てられた[iii]」こと、そして晩年のプリヤムヴィダ・デーヴィにあてた何通もの英文の恋文は、その対象が「天心の失墜を支えてくれる母性的なるもの、軟かく暖かい大地[iv]」であったことを教えてくれる。天心がまず英語を身につけ、その後実母が死に、預けられた寺で漢学を学ぶという少年期の推移に照らして見れば、英語は母親への思慕を、そして漢学はそれからの自立を意味する。しかしのちの天心の歩みからみれば、彼は一生英語に引きずられて生きることになる。

 天心が何とか東西の矛盾を解消し、第三の道を見つけようとしながら、最後には自滅してしまったという経過は、彼が太平洋を渡す架橋になるということが、つまるところは彼を根なし草にしてしまったのだということもできる。晩年に一年の半ばをボストン美術館に過ごすことになった時、天心はいわば「お雇い外国人」であったわけで、かつてのフェノロサの思いを自ら演じることになった。

 そして、それはまた「西洋の中の東洋」という、もう一つの矛盾を問題としてかかえることにもなった。つまり、アメリカでの東洋美術コレクションの充実という天心に課せられた使命のことである。かつて日本がフェノロサの知を利用したように、今度はアメリカが天心を利用した。すでに明治15年、日本でおちあったモース、ビゲロー、フェノロサの三人は「ボストンに世界一の日本美術コレクションを作ろう[v]」と話しあっている。それは日本が自国の美術品の価値に気づかないでいる隙を狙っての、いわば火事場泥棒のような後ろめたさの中で進行していた。当時は、奈良の大きな寺の塔さえ売りに出され、風呂屋が焚き物にしようと買ったが、壊すのに金がかかりすぎるので残ったという時代だった。

 モースは自分たちの収集した日本の美術品を前に「まるで隠れた傷口から日本の生き血が流れ出るようなものだ。日本人は自分たちの美しい宝を国外に流出させてしまうのがいかに悲しいことか分かっていないのだ[vi]」と言った。この時、通訳として同行していたのが天心ともされるが、この言葉が彼の心をとらえて、その後国宝の国外流出を制限する法律を生むことになる。しかし、その天心がやがてボストン美術館の充実のために自らの力をつくすという生涯の皮肉は、晩年の天心に一層の喪失意識を根づかせることになる。没年にあたる大正2年5月4日、天心はカルカッタのかの女性にあてた書簡の中で「私は二〇歳の時から、言わばずっと放浪者でした。十年前に娘を嫁入りさせてからは、私はめったに家庭に落着いていたことはありません[vii]」と書いた。

 この書簡を書いた二週間のち、天心は朝日新聞(5月18日)紙上でボストン美術館の紹介をしながら、同時に調査した日本・中国美術の収集品の流失のありさまに涙している。かつて天心はフェノロサを「日本美術の言はゞ仲買見た様なもの」と言いながらも、ボストン美術館の東洋美術品の充実を誇り、「日本人として一種の感慨が起らざるを得ん次第であるが、又翻って思へば日本美術の神髄を世界に発揮せしむる点に於て一便宜と云はねばならぬ[viii]」と言った。維新前夜の開国か鎖国かという議論を未だに引きずっているとも見られるこうした自己矛盾は、一方では彼が「あくまで行動の人であり、実施の改革を志し[ix]」ながら、いつも挫折に終ってしまうという意志の薄弱さに由来するものかもしれない。確かに天心の生涯は、彼の残した著作や日記という思索の跡よりも、むしろ逸話や書簡といった直接の行動記録によって綴られる。著作さえも常に話し言葉としての「対話」の形式をとって、読者に対する訴えという行為が先行しているようだ。


[i] スレンドラナート・タゴール「岡倉覚三-ある回想」一九三六年(橋川文三編 前掲書 山口静一訳 三三貫)。天心はこの時タゴールに、自分の家に起こった真実とは思えない不気味な話をしている。

[ii] 下村英時編『天心とその書簡』 日研出版刊 昭和三九年 一九頁。

[iii] 清見陸郎 前掲書一七五頁。著者はここで天心のこの情熱を「学者として、美術批評家として当然の希求」ととらえている。

[iv] 大岡信 前掲書 三五八頁。

[v] モースの日記『日本その日その日』による。富田幸次郎「ボストン美術館五十年」芸術新潮一九五八年八月号 二七九頁。

[vi] 山口静一 前掲書 一九六貢。磯野直秀『モースその日その日』有隣室 昭和六二年 二七九頁。D.G.ウェイマン『エドワード・シルヴエスター・モース(下巻)』蜷川親正訳 中央公論美術出版一九七六年 五九ー六〇頁。

[vii] 下村英時編 前掲書 四四五頁。

[viii] 「欧米に於ける日本美術」報知新聞 明治四一年八月一、二日(岡倉天心全集別巻 平凡社 昭和五六年一五二頁)。

[ix] 竹内好「岡倉天心-アジア観に立つ文明批判」昭和三八年(橋川文三編 前掲書一八三頁)。

第542回 2023年3月26

3 破綻する性格

 確かに松本清張が「内なる敵」といった、しめくくりのない、斑気の多い、投げやりな弱い性格として、天心を見直す必要もある[i]。そこに浮かびあがってくるのは、天心が「根っからの官僚」であったこと、アウトサイダーでありながら、常にそれに徹しようとする在野性が希薄であったこと、そして権力ヘのあくなき欲求ということになろうが、それはまた彼が常に今を生きる行動的人間であったことの証言でもある。

 例えば、天心失脚後の正木直彦東京美術学校長にあてた書簡に見るように、日本美術院と東京美術学校との関係を深めようとする工作がうかがえる[ii]。その結果下村観山、寺崎広業、六角紫水は、美術院の正員のままで美術学校教授となる。こうした天心と正木のやりとりから、在野にありながらアカデミズムに結びつき、これを利用しようとする天心の考えが浮かびあがる。

 天心のアメリカ暮しが「心理的には一種の亡命者に近かった[iii]」という点に、実は限りない彼の魅力と現代性が含まれていることも事実である。『茶の本』をはじめ、西欧で書かれた著作や言動は、西洋にあって何とかよりどころを見い出そうとする天心自身の叫びのようにも見える。その意味では『茶の本』や『白孤』が「呼びかけるのではなくすすり泣くよう」だとする伊谷隆一氏の指摘は正しい[iv]。そして「覚醒」が「引きちぎられた<夢>」のことだとするならば、目ざめを呼びかける天心の声も、夢みごこちで聞こえなくもない。欧米の多くの婦人たちを引き付けたのも、恐らくこの点にある。

 天心が東洋を語る時、いわば民族衣裳を身につけて、流暢な英語を駆使しつつ、常に比較材料としての「西洋」をもっていた。それは西洋に対する厳しい批判の言であっても、暗示にとんだ一種の詩のように響く。『東洋の理想』の冒頭、アジアが一つであると述べたあと、ヒマラヤ山脈の「雪を頂く障壁といえども、すべてのアジア民族にとっての共通の思想遺産ともいうべき窮極的なもの、普遍的なものに対する広やかな愛情を、一瞬たりとも妨げることは出来ない[v]」と言う時、西欧の読者はヨーロッパ美術がアルプス山脈をへだててイタリアと北方に分かたれることを想い浮かべる。さらに天心は同書で、周代とギリシアを比較して「物しずかで繊細な玉」と「ダイヤモンドの個人主義的なきらめき」という。また、美術院の置かれた二つの場所、上野公園と「五浦」は、ともに日本のバルビゾンになぞらえられたし、大観・春草に暗示的に語った「空気を描く法はないものかね」という問いかけも印象派の発想に通じるものだ。

 『茶の本』の名高い次のフレーズも、西洋批判というには余りにも詩的であり、感動的でさえある。

 「みずからの中の偉大なものの小ささを感ずることのできない者は、他人の中の小さいものの偉大さを見すごしやすい。普通の西洋人は、なめらかな自己満足にひたって、茶の湯の珍奇と稚気を構成する無数の風変りなもののさらに一例を見るにすぎないであろう。西洋人は、日本が平和のおだやかな技藝に耽っていたとき、野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国と呼んでいる[vi]」。


[i] 松本清張「岡倉天心-その内なる敵」新潮社 昭和五九年 二〇〇頁。

[ii] 明治三四年八月二三日付、岡倉天心全集6 平凡社 昭和五五年 書簡No.149

[iii] 大岡信 前掲書 二一〇頁。著者はここで一九二〇ー三〇年代のエコール・ド・パリを形成した exiles たちを連想している。

[iv] 伊谷隆一「(夢)と(覚醒)のはざま」現代詩手帖 一九七六年五月号(岡倉天心特集)一一九頁。

[v] 『東洋の理想』佐伯彰一訳(岡倉天心全集1 平凡社 昭和五五年 一三頁)。

[vi] 『茶の本』桶谷秀昭訳 前掲書 二六七頁。

第543回 2023年3月27

4 ピーコック革命

 こうした天心の東西比較論は、内面的には『茶の本』という著作の中に、そして外面的にはピーコック革命を先取りしたような、デザイナーとしての彼の民族衣裳の中に結晶した。彼が行動的人間であり、常に人の視線の中で生き続けたことを象徴するものがそこにある。それだけに彼の服装についての逸話は多く、ニューヨークでは新聞社のカメラを避け続けていたという天心ではあるが、その割りには残された写真も少なくない。

 天心24歳の欧州視察の折りに、すでに桃山時代のかぶき者を思わせるような異形異装で行動をしていたことは、いくつかの証言に見られる。既述のフィガロ紙の翻訳文では、「朝廷風の黒色服」であり、ヴェネツィアで天心を案内した長沼守敬も「岡倉氏は妙な外套を着てゐるので可笑かった[i]」と言う。実際にはそれは「三つ葉かたみ五所紋の羽織に袴着用という純和服の正装」であるはずだが、日本人の長沼がおかしいという限り、それを越えていたとも思われるが、この時の写真は残されていない。欧米視察中はこのような和装で通し、アメリカでは上司の九鬼隆一からいさめられたもしたようだが、新橋駅に着いた時は瀟洒な英国仕立の背広を着ていたという。洋装の天心の写真は珍しいが、その頃のものと思われるダブルの上着を着こんだものがあるが、そこにはのちの天心の厳しい顔立ちに比べて、細っそりとした若きインテリの姿が読みとれる。こうした洋服姿の天心は、国内では逆に目立つことになり「文部省差しまわしの二頭立ての無蓋馬車に乗り、駿河台通りを回って当時の住宅だった神田猿楽町の居に入った[ii]」という。

 こうした演出は、確かに芝居がかっており、この場合の衣裳はもはや和装とか洋装とかいう性格のものではなく、西欧でも日本でも不思議に映る、いわば逆説的なインターナショナルと言ってよいものだろう。そして話は有名な東京美術学校の制服に移るわけだが、ここでも天心は国粋主義という観点よりも、むしろ「目立つ」ということから出発したようだ。日本国内では和装でも洋装でも目立たないとすれば、どうすればよいか。「古いものこそ新しい」という彼の逆説めいた復古精神は、古代の衣裳を現代に蘇えらせるという解答を与えた。

 天心発案によるこの制服は、奈良朝風の闕腋の袍(けってきのほう)をかたどったもので、帽子も冠形の雅びなものであった。しかも天心は美術学校へはいつも愛馬「若草」で通った。これは後藤貞行が南部で探してきた純日本種のもので、楠公像のモデルとなった馬であるが、楠公像の完成後、おれがもらうというので天心のものになったと言われる[iii]。この衣裳を身に着け、海豹(あざらし)の長靴をはき、馬上で堂々とポーズをとった天心の写真も残されているが、その奇抜さについては、いくつかの逸話をあげる方がよい。

 明治22年2月11日憲法発布の日に美術学校の教官及び学生が、この制服姿で行列を行なったが、のち美術学校教授となる高村光雲の妻はそれをみて、「その行列は朝鮮人か支那人かというような風をして、頭に冠をかぶり、金襴の旗を立てて大勢が練って行きましたが、この行列が一番変っていました[iv]」と夫光雲に語ったし、これを着て学生として参列した横山大観も次のように言っている。

 「大学の人や世間の者が、何か異様の感をもって見ておりました。私はただ校則には従って着ておりましたものの、往来なんか歩いていると人が奇異な目でじろじろと見回すので、気の小さい者にはできる芸当ではありません[v]」。

 また宮城の前で錦の旗を立てて行列した美術学校第一期生の姿を見た板谷波山は「あれ(錦の旗)をたてていったもんだから、神主の学校だとみんないっていた。私もはじめそう思っていたんです[vi]」と回想した。その後明治31年には天心は、スキャンダルによって美術学校を失脚するが、その前年の9月に入学した高村光太郎も同様な感想を述べている。

 「その頃の美術学校の制服といふのはちゃうど王朝時代の着物のやうな、上着は紺色の闕腋で、頭には折烏帽子(おりえぼし)を被り、下には水淺葱(みずあさぎ)色の段袋を穿くといふ、これはすべて岡倉覚三先生の趣味から来たものであったが、どうも初めそれを着るのが厭で気羞かしくて往来を歩けないやうな気がしたのであった[vii]」。

 その後制服は金ボタンの学生服に変わるが、その間の事情については朝倉文夫が語っている。

 「私は正木校長になってから最初の卒業生であるが、この頃からは少しつつ学校も変って来て、岡倉天心校長が、天神様のやうな美校の制服姿で牛に乗って向島からやって来られるのでその他の事は大体想像されよう。生徒もこの天神様のやうな美校の制服で街を歩き廻ったものであるが、日清戦争が始って以来、服装が異様なために子ども達に『やい、チャンチャされると云う始末で、その故かどうかやがてこの服装は金ボタンの学生服に変ってしまった。それにしても文部省の学校にそうした服装の学校があったと云う事は今の常識では考えられない話である[viii]」。

 朝倉の言うように、のちには天心が牛に乗って登校ということにもなっていたようだ。この姿は確かに横山大観が繰り返し主題とした「老君出関」に描かれた「老子青牛に掛りて関を出づるの図」を連想させるものではあるが、塩田力蔵は大正2年の天心の追悼記事の中で、牛で出勤したのは後藤貞行であって、天心ではないと否定している[ix]

 美術学校長時代の明治26年に、カメラマンとして早崎梗吉を伴って中国を訪れた時、最初の朝鮮では美術学校の制服のままでいたようで、7月31日の日誌に「此日一笑スヘきハ韓客の服装ヲ見て驚き嘆きタル一事なり[x]」と書いて、自分たちが同国人と間違えられたのに驚いている。その後、中国奥地に入り込んでゆく中、早崎のカメラは天心の辮髪(べんぱつ)姿をとらえている。それは高階秀爾氏のいう「和服を愛しながら、必要とあれば、第一回中国旅行の時にそうしたように、辮髪胡服で中国人のあいだにまじって奥地まで踏みこんで行くような現実適応能力[xi]」ということにもなろうが、一方で中国の奥地では天心の武器であった英語が通用しないということでもあった。

 このことに対応して言えば、天心は和服は英語との併用によって効果をもつと考えていたようである。明治37年、天心に随行して渡米する六角紫水は「吾々も先生と同じように全部和服で参ります方がよろしいでしょうか」と聴いた時、天心は「それはどちらでもよろしいが、英語を自由に話せたら和服の方がよろしいでしょう」と答えたという。同様に長男一雄も「英語が滑らかに喋れる自信がついたならば、海外の旅行に日本服を用いた方がいい[xii]」という天心の言葉を伝えている。しかし、晩年健康が悪化し、最後のボストンの勤めを早めに切り上げて横浜に着いたとさ、天心は珍しく洋服を着ていた。大正2年4月12日付の朝日新聞には「今迄は大概の場合は日本服で押っ通して来た同氏は何時に似気なく背広にオーバーコートを着て」いたとあり、出向かえた令息一雄の、洋服姿の天心を見た驚きの声も伝えている。その後、五浦に戻り静養するが思わしくなく、さらに赤倉に引きこもり9月2日に没する経過を見れば、この横浜での洋服姿は、武器を失った退役兵のように思えなくもない。

 一方、インドでは天心は人の好奇心をそそるような奇妙な道服めいた服装で、各聖地を巡礼している。それは天心自身のデザインによる外套と頭巾で、シナ更紗を用いてカルカッタの仕立屋につくらせたものだと言う[xiii]。この道士のような格好は、明治43年の東京大学での「泰東巧藝史」の講義スタイルでもあったが、この頃にはそれは人目を引くだけでなく、優雅で上品なものにまでなっていたようだ。かつて天心と愛をかわした九鬼初子の子周造の思い出には「私は赤門を入って教室の方へ行くところで、向ふから岡倉氏が来られた。青色の支那風の服を着てゐられた。私は十年振りばかりで逢ったわけだが直ぐに岡倉氏とわかった[xiv]」とある。九鬼周造は「母を悲惨な運命に陥れた」天心の講義を聞いていないが、和辻哲郎などとともにこの講義を聴講した香川鉄蔵は、天心の衣裳について次のように書いている。

 「岡倉先生が召されていた和装は一風変ったもので、われわれはその『袴』が胴衣とどこでどう連結しているものか、不審であった。だれかが『ぽくも、いまに此のような服装を着てみたいな』と言ったほど、チャームフルなデザインであり、上品なスタイルでもあった。それは下村観山作の『天心先生』画稿の『道服』とも異り、もっと簡素な、仰々しい言いかたをすれば天衣無縫のものである[xv]」。

 以上、様々なエピソードで綴られた天心の服装は、確かに東洋を演出するためになくてはならぬものだったようである。そして、それが日本においても異様に見えたとすれば、それはすでに日本そのものが西洋化していたからでもあっただろう。いずれにしても、衣裳はそれをまとう人間によって、様々に変貌する。そして、遺品としては抜殻となっていつまでも残ってゆくのだろうが、衣裳はまたそれを身につけた人とともに死んでゆくものでもある。行動的人間の常に「今」を演出する刹那的な人生観が、天心の一連の衣裳を通してうかがえる。小山正太郎でさえ、天心の異様な服装については「尋常人の能せざる所」としながらも、内心では拍手を送っていたようで、次のようにも語った。

 「日本の美術を崇拝する人々が、洋服などを着て得々たるのは、岡倉君の所信に対して恥かしい様に思ふ。美術論では反対の位置に居る私が、かへって岡倉君の此の意志の継続せぬのを嘆いて、岡倉君を崇拝してゐる人がかへって君の意志に反いてゐるのは、をかしく思はれる阿々[xvi]」。


[i] 長沼守敬 前掲書 三二〇頁。

[ii] 松本清張 前掲書 四七頁。

[iii] 板谷波山「美術学校時代の岡倉先生」国華八三五号 昭和三六年 七五頁。

[iv] 『高村光雲回顧談』前掲書 二五九頁。

[v] 横山大観『大観自伝』講談社学術文庫 昭和五六年 二六頁。

[vi] 板谷波山 前掲書

[vii] 高村光太郎全集第9巻 筑摩書房版 昭和三二年 三二一頁。

[viii] 朝倉文夫「随筆集 衣、食、住」昭和一七年一月 五六頁。

[ix] 塩田力蔵 前掲書 七頁。

[x] 『支那旅行日誌(明治二六年)』(岡倉天心全集5 平凡社 昭和五四年一八頁)。

[xi] 高階秀爾「開かれた伝統主義者 岡倉天心」昭和五〇年(橋川文三編 前掲書 二四八頁)。

[xii] 岡倉一雄 前掲書 四二頁。

[xiii] スレンドラナート・タゴール 前掲書

[xiv] 九鬼周造「岡倉覚三氏の思出」図書一九八〇年一二月号一八頁。

[xv] 香川鉄蔵「聴講の思い出」一九六六年(岡倉天心全集 平凡社 昭和五五年 月報5)

[xvi] 梅沢和軒 前掲書 三六二頁。

第544回 2023年3月28

5 内なる西洋

 岡倉天心と小山正太郎は、従来、主に書と図画教育の論争を通じて、対立するものと見られてきた。しかし、明治前期のかかえる矛盾、つまり「和魂洋才」という文脈で考えると、両者は異質性よりもむしろ同質性の方が、強く浮上してくるように思われる。「和魂洋才」という造語の使用については、九鬼隆一が次のように語っている。「菅公が和魂漢才と云はれた其意に倣ふて、拙者は三〇年前から和魂洋才、和魂洋学と云ふ事を主張し、唱道し。(略)併し其頃は今日とは十倍も二十倍も全然欧化主義のみに傾いて、世上では大和魂など唱道すると、狂人の様に見傲された[i]」。

 天心にとっての「英語」、あるいは小山にとっての「洋画」はともに手段であって、その根幹には常に「和魂」あるいは、西洋に対するものとしての東洋があったと言ってよい。しかし、もし彼らと次代の若い世代の芸術家とに溝ができたとすれば、それは「英語」や「洋画」そのものが、単なる手段ではなくて、すでに西洋そのものであるという認識の差ではなかったかと思う。西洋の画材を用いて日本の歴史画を描くということで、天心は一時期日本の洋画を評価したことさえあった。ここにはいわば主題のみを日本に求めれば事足りるという、絵画としては安易な方向に流れてゆく危険をはらんでおり、その意味では黒田清輝の帰国は、こうした流れに対する反省としては大きな意味をもった。裸体画のスキャンダルはいわば、こうした主題主義に対する反抗ともいえる。すばらしい滞欧作を残した画家たちが、帰国後その主題を日本に求めることによって、薄っペらな看板絵に終わってしまった例は多い。黒田においてさえ、日本の風土やモデルを油彩で描くことに情熱を傾けながらも苦慮し続けた。

 天心は『東洋の理想』の中で、東洋化の規定として、足利武士の理想をあげて「剣を使うのではなく、剣そのものと化する」と書いた。この意味からいうと、天心自身は英語を使うことによって、むしろ極めて合理的な西洋精神を宿していたといえる。天心にとって西洋化が、即「近代化」ということであったとすれば、彼は西洋化を否定するために、その手段として極めて近代的な発想をしたことになる。押し寄せてくる「近代化」の波の中で、「ジャガンナートの車に轢き殺されたくなければ、その車に自から乗り込まねばならない[ii]」とも天心は書いた。逸早くそれに乗り込むことによって、天心は「比較」という目を得た。それはまた換言すれば、檻の中で牙を抜かれた虎のように、相対化された弱々しいロマン主義の芽ともならざるを得なかった。つまり、天心風の言い方をすれば、近代は野性の虎に向かって、殺されたくなければ、博物館(動物園)の檻に入らねばならないと教えたのである。

 天心の「旅」の軌跡をたどれば、彼はまずヨーロッパにゆき、そして中国へ、さらにインドヘという歩みをとる。私にはこの順序が、実は彼の思索の順序でもあったのではないかとさえ思える。彼は比較の目を通して、日本を「ロマンチックな純粋さ」、中国を「単調な空間性」、インドを「過剰なまでの豊富さ」と言った[iii]。このような相対的な視点は、彼が博物館の学芸員として「分類」という思考を常に身につけていたからでもある。しかし、同時にこの分類のむなしさをも知ってしまっていたところに、彼の聰明と破綻があったに違いない。

 「われわれは分類に忙しすぎて、享受する暇がなさすぎる」、「分類とは、結局のところ、われわれの思考を整理するための便宜に過ぎず」などの言葉は、「近代化」を通り過ぎた、いわば早すぎたポストモダニストの言ともとれる[iv]。この発言の前提として、天心のノートには盛んに系統図や図表が登場し、分類へのあくなき欲求が見られるのである。それにもかかわらず、先の東洋の分類の中に朝鮮が欠落し、その比較の対照として登場しないことを考えれば、その考察はのちの柳宗悦の比較論まで持ちこされたと言える[v]。しかしそこでは逆に、今度はインドが欠落してしまったことを思えば、実はこれもまた西欧的発想によるむなしい分類であったといえそうである。

 いずれにしても、東洋を見る前に西洋を見なければならないという要請は、ひとり天心が目指したというよりも、「文明開化」の時代そのものが志向した潮流であったと言える。そして天心は英語的発想ひいては西洋的思考をもって、最後に東洋という大ロマンを新大陸アメリカに向けて演じてみせたということになる。しかし、それも大いなる矛盾であって、いわば西に向かう船で東に進んだという比喩のごとく、具体的には天心と同じく、インドをめざしてアメリカに達したコロンブスとの比較において成り立つ、発想の転換でもあったようである。


[i] 九鬼男爵口授『有馬教育会講演』石川生速記 明治四二年 三二頁。尚、この方面の重要な研究は、平川祐弘『和魂洋才の系譜』河出書房新社一九七一年。

[ii] 「絵画における近代の問題」一九〇四年(岡倉天心全集2 平凡社 昭和五五年 高階秀爾訳 八一頁)。

[iii] 『東洋の理想』前掲書一九頁。

[iv] 松村忠祀「天心とは何か」福井県立美術館・美術館だより16 一九八一年 参照。「君の美術館は近代美術館かどうか、何を集めているのかと尋ねられ、明治以前の美術資料に触れると、何んだ博物館かといとも簡単に分類されていくことが今日の常識となっている時、天心の言葉ほど私を癒してくれるものはない」(二頁)。本稿では触れなかったが、天心の古美術に向ける情熱が当時の美術の前衛運動と結びついたという点は重要である。天心は自らの活動を、矛盾をこめて「新しい古派」(the New Old School)と呼んだ。

[v] 柳宗悦「朝鮮の美術」大正一一年(柳宗悦全集6 筑摩書房 昭和五六年 九三頁以降)。柳による中国、日本、朝鮮の各美術の分類は、大陸、島国、半島という条件にもとづき、地に安んじ、地に喜び、地を離れるという三つの行為が生まれ、それぞれが意志、情趣、悲哀に対応するところから、「悲しみの美」としての朝鮮観が誕生した。