ハンガリー国立美術館展

日本・ハンガリー外交関係開設150周年記念

ブダペスト国立西洋美術館 & ハンガリー・ナショナル・ギャラリー所蔵

ブダペスト—ヨーロッパとハンガリーの美術400年

2019年12月04日~2020年03月16日

国立新美術館

 ハンガリーには1日だけ、プラハから日帰りで国立美術館を訪れたことがある。ここでしか見られないルネサンス絵画があったからだ。懐かしくもあった今回の展覧会だが、力を入れているのが、自国の画家の紹介であることはよくわかる。私たちのほうも、いい加減にフランス絵画のビックネームばかり追いかけるのはやめませんかという提案に耳を傾けてみる。オーソドックスな西洋美術史の教科書の時代区分に沿って構成されてはいるが、あくまでも自国の美術との関連性を重視してのことだ。

 はじまりはドイツルネサンスからで、次にイタリアルネサンスがくるのは、教科書には反している。その後、バロック・ロココとたどるが、自国の画家の登場は近代以降となる。通常の一般史ではあまり登場しないビーダーマイヤーを一括りにしているのも、この国ならではのコレクションの特徴を示しているようだ。

 こうした現象を、昨今のナショナリズムの台頭と連動させるのもどうかと思うが、鑑賞者の側にこれまでとは異なった視点が加味されてきたように思う。それはポスターに使われたのが日本では無名のハンガリー画家の人物画だったことからもわかる。モデルについても画家についてもなじみのものではないが、モデルの衣装の紫だけが、普遍性を持って、絵画の勝利を伝えるものになっている。会場のキーカラーもまた紫色で統一されている。

 ルノワールなども申しわけ程度に加えられてはいるが、日本に向けてのサービス精神と受け止めてよいだろう。横にハンガリー画家の大作を置くことで、策略も見え隠れする。ハンガリーに限らずとも、巨匠の駄作よりも新人の力作の方がずっと見ごたえがあることは多い。もっとも腐っても鯛ということもあるので、この判断は難しい。

 美術史の小難しい議論よりも、目に心地よい大衆性をよしとする風潮を、以前のように無視するわけにはいかない。ハングリーな報われない芸術家の魂の鎮魂歌であった美術史の良心が崩れ去ろうとしていると見てもよいだろう。浪花節や判官贔屓の日本人にとっては尚更なことかもしれない。

 華麗な現代のヒーローがそのまま美術史の教科書になるのなら、稼ぎ頭のランキングだけで数値化は可能となり、美術史的評価は崩壊する。漫画家を筆頭にピラミッドが築かれていく。確かに漫画家の展覧会は、美術館での開催が目立ってきている。美術館でさえ観客動員数で計られると、そうならざるを得ない。いつの頃からかはじまったミュージアムショップという民芸ブームに、同調する向きも多い。人だかりは展示室よりもミュージアムショップのほうだという現況は、ギャラリーで絵が売れない要因でもあるのだろう。

 時代錯誤で法外な値段のつく美術品売買と、みごとに二極化しているということか。生前一枚も絵が売れなかったゴッホに、美術史は加担してきた。今ではゴッホの限られた定数は、カタログにレゾネ化されて、本人の預かり知らぬところとなっている。さまざまな思惑が行き来するマーケットは、株価の動向を示す山の峰に沿いながら、生きもののように脈動を続けている。ハンガリーの紹介がうまく価値の拡散につながればと思った。

By Masaaki Kambara