第3節 1984年

第5章 斎藤義重

第571回 2023年4月24

1 黒のかたまり

 1980年代に入り、新しく現れたのは黒い板の枠組であり、やがて黒い板のかたまりへと発展していく。そして壁に沿った枠組の作品にしても,かつて東京画廊で見た時の印象と,1984年の展覧会に向けて準備された、東京都美術館の展示室で見るものとでは,まるで違っていた。画廊の小スペースで見たこの黒い物体の鉄のように沈みこんだ重さは,美術館内では「軽さ」に変貌していた。確かにそれは黒いラッカーという衣裳を身にまとった同じ板にちがいない。しかし見る者は黒のベールの内に,木という実在と鉄というイリュージョンを同時に見ている。それが作品の置かれた場の空間に触発されて軽重の印象を与える。そこで見る者は,この印象が実は作品に備わった属性ではないかもしれないという疑問を発する。つまり,「重い」「軽い」という印象は,作品を見ることによって生まれたのではなくて,作品を通して何かを見ることでいだいた場の意識だったかもしれない。その意味では確かに斎藤の作品は,枠組みとして備えられたインスタレーションという文脈で読み取ることができる。

 一方、この時点での最新作には同じ黒い板を用いながらも,かなり具体的なイメージが出てきているように思われた。それは戦後の具象的な人物像あるいは60年代なかばの《クレーン》《ペンチ》などの出現と似ている。それらは最初が油彩画,次がレリーフという形であったのに対し,今度は立体,つまり壁に従属しないものになっている。その意味では枠を構成するという《反対称》以降の流れの中に見るのではなく,本体を支える自虐的な笑いというやじろべえや邪鬼によせる作者の視点に共通するものであろう。あるものはまるで工事現場を思わせる黒い板の乱立であり,それは足場として,未完の建造物の支えとなっている。またあるものはレオナルドの構想した軍事兵器のように,装甲車の車輪投石器や大砲を思わせるが,これらもまた完成品というよりも永久に未完のまま残る人類の夢の縮図と言える。そこには徹底した実利が空虚に終わるというアイロニーすらうかがえるが,こうした実用に適しない実用的イメージの集積が,さらに巨大なVacantを縁取ることになるのである。そんな時,黒という色もまた実体の枯渇した,もうそれ以上影を作ることのないシルエットとみなすことができるだろう。

第572回 2023年4月26

2 黒の精霊

 斎藤義重氏の風貌を見ているといわゆる芸術家というよりも、江戸っ子の昔かたぎの木匠という感じがしてしようがない。それは大都会の片隅に埋もれようとするアウトサイダーのスタンスのように思われる。身をひそめて存在を隠すこと、作品に対して作者は黒子に徹すること、これがこの作家の美学ではなかったのか。

 事実、氏は東京生まれの東京育ちであり、画家が絵筆を握るように、ノコギリや電気ドリルを手に制作されてきた。そこには確かに意識の点で,1904年に生まれた氏と同世代の画家たちとの間に随分違った美意識が認められる。画家が絵の具の良し悪しに敏感なように、斎藤氏は板の構成に神経をとがらせている。そこには必然的に絵の具を用いて何かを描くという作業よりもむしろ、板のもつ特性をひき出すという、木匠が木の裁断を決する時の気分に似たものがある。それはイリュージョンが存在しない位置であり、まずそこにそれがあるというそのことから出発するのである。それをさぐりあてるには「勘」という以外にはない。

 自然が木を育成することが一つの出発点であるとするなら、その木を伐採して加工し、一枚の板を製材する時、それぞれの板もまた出発点となる。木がその生命を大地に依存していたとするなら、板はその根を絶やされた死霊である。しかし、この分断された精霊が人間のイマジネーションにとって重要な働きをすることはいうまでもない。木の死滅は板となって第二の生を開始する。

 「建築」とはまさにそういうところから発生してきた。斎藤氏の80年代の仕事は建築に似ている。それは完ペきな構築性という点からではなくて、常に場所との利害関係の中にあるという意味においてである。木に根がはえるように、建築も大地に杭を打ちこんでゆく。それは建築が架空の場には想定しえないことを表わしており、岩の上に建てるときと、砂の上に建てるときに同じ建築であるはずはない。つまり「自然」から、具体的には水の流れ、空気の移動といったささやかな肌ざわりの集積を読みとることによって、建築は出発するのである。

 人間の存在が、大地に根を持たないものの嘆きであるとするなら板もまた限られた生命の瞬時をせいいっぱい生きることになる。人の営みが常に建築に仮託される時、板は人間存在を保護するだけでなく、はっきりと人の輪郭を形づくるものとなる。すべては腕と脚を尺度として、手と足の延長である「道具」によって構成される。

 しかし、板は必ずしも人の営みを守るものとは限らない。人が住む前に、人はまず神の家を造る。それは人が生きる場所ではなく、死者が生きる場所であるといってもよい。つまり墓場のモニュメントこそが、太古以来人間にとって欠くことのできないものであった。そして、常に人はそこで「そびえたつもの」を志向してきた。それは根をもたないものが、己れを打ちつけるせめてもの意志表示であった。

 斎藤氏が80歳を迎えた頃の仕事は、こうした「そびえたつもの」を組みたてる部品づくりであったようにも思われる。そしてそれぞれには「複合体」という名称がつけられた。これらは直接、人間の生活に奉仕するものではない。しかし、これらはそうした人間生活の実用品に似ている。それは、人が神を人間の形に似せたのと同様であり、神の家も人の家に似せて造り、しかも、人の家の方が神の家に似せて造られたのだという錯覚をも抱かせる。「そびえたつもの」は、それゆえおのずと、人の「手」を思わせるし、大地に踏んばる土台は人間の「足」に相当する。水平方向に広がれば「橋」の暗喩となるし、垂直方向に向かえば「塔」を意識することになる。

 斎藤氏は最近のインタビューの中で、より「建築」に対する関心を深めている。「建築の場合、大工が来てまず土台をつくって柱をたてますね。屋根をその後つくる。その状態だと、柱だけあって壁がないんです。その状態というのは、ものをつくっていく進行状態ですね。新作はそういう過程をメタファーとしてつくってあります[i]」。従来斎藤氏の作品には「柱」は少ない。ほとんどは「壁」の作品であったといえる。それは素材として「板」を用い、「丸太」を使わなかったということに対応する。「丸太」は支える、「板」はおおうという役目をはたすとするなら、従来の斎藤氏の作品は、何ものかを隠すという方向、つまり「壁」の意識によって制作がなされていたといえる。それゆえ、作品は現実の壁に沿って広げられてきた。

 そして、ある日突然、「壁」に向かっていたものが自立するのである。その時作品は四方からの空気の流れの中に身をゆだねることになる。それは「柱」への憧憬と言ってもよい。「複合体」の一点で、板でつくられた車輪に軸として丸太が用いられたことは興味深い。しかし、そこではいまだ丸太は大地に打ちつけられたものではなく、大地にころがされたものである。

 前述のインタビューで、また斎藤氏はビラミッドを問題にして、次のように言っている。「ビラミッドがあのようにでき上がったのは、砂漠があったからですね。砂漠に対抗するためにあのような形体をとり、大きさになって、すべて砂漠との関係から出てきたと思うんですよ」つまりビラミッドは砂漠という場とともにあるというわけである。それはゆきつくところ、ビラミッドは砂漠を表現せんがために打ちたてられたメタファーだということになる。そして、ビラミッドに「空間恐怖」を感じるとするなら、その根源には「砂漠」というもののもつ不毛性が横たわっている。そこではもはや、ビラミッドは巨大なる権力の象徴といった単純な解釈はあてはまらない。

 斎藤氏は新作についてさらに言う。「そのものだけが実体じゃなくて、もう一つそれをあらしめているということ、そちらの方にウェイトをおくようになった」と。それはピラミッドから砂漠へという移行に対応するが、そこでは人間の力を越えた摩詞不思議なパワーが感じとられる。それは現代にあっては、もはや神と名付けることのできないものだ。木に生きづいた精霊でさえも、ここでは切り捨てられて、しかも黒くぬりこめられているのである。かって存在しえた木の精霊を切ることから、斎藤氏の板の思考ははじまる。しかし、それもまたパラドックスである。神にかわる自然の存在は、完ペきなまでの理性によって計算されつくされている。それでいてしかも、計算しつくされない誤差の微妙さに、震えをもよおすほどの霊感をいつも伴っているのだ。その意味では作品はいつも未完成のままであり、突如神の怒りを受けて崩れ去るバベルの塔のように、そびえたちながら震えているのである。

 

[i] 美術手帖19844月号。

第573回 2023年4月27

3 「ネクロポリス」あるいは、死者と出会う霊気

 1984四年に開かれた斎藤義重展は、東京都美術館を皮切りに栃木県立美術館、兵庫県立近代美術館、大原美術館、福井県立美術館を巡回した。これは全国5ヶ所で行なわれたひとつの展覧会というよりも、同じ材料を用いた異なった5つの作品だと見たほうがよい。展覧会後、部品は解体されるので、作品は展覧会のレポートを通じてしか残ることはない。

 ここでは福井での展示をレポートしてみよう。館内に入るとまず、エントランス・ロビーに「複合体101」と題された黒い板が乱立ぎみに置かれた光景に出くわす。それはまだ未完成のようであるが、「塔」をめざして、まるで建築現場か何かのようにそびえたとうとしている。しかし、それは建設中であっても、解体中であってもよいのだが、とにかく進行中のものが、中断してしまったような、停止の光景である。それでいて確かなモニュメントとしての手ごたえを伝えていることはいうまでもない。

 柱をくぐって企画展示室に入ってみると、何かしら冷やっとしたものが伝わってくる。その原因がどこにあるかは、わからない。そこもまた黒一色であり、ワンフロアの広い会場に並べられたえたいの知れない黒い諸物体に、今までの展覧会では味わえなかった奇妙な体験を、見るものは分け持つことになる。確かに本展は一面では回顧展という形式をとっているので、斎藤氏の現在までの歩みをたどる代表作が選ばれている。それらは二階と一階の別の会場に並べられているのだが、それらはともに新作を補足説明する役割しか与えられてはいないようだ。それほどに斎藤氏の近作「黒のシリーズ」は魅惑的であり、霊的でさえある。

 私は前節で「黒の精霊」として「板」が樹木の生命を絶やしたところから出発する復活後の生であると考え、これをあえて黒くぬりつぶすバラドクスについて述べた。それ以来、氏の近作にまつわる死のイメージを、私は追い続けてきたようである。

 この色のない世界に、氏は何を見出そうとしていたのだろうか。多くを語らない作者は、初日の講演会の席上、これらを「ネクロポリス」と名付けようと考えていたことを告白している。

 古代都市の墓地を意味するこのことばに、私は現代ではすでに失われた、かつての死者たちが生きる広大な土地を思いうかべる。それは、アクロポリスに代表されるギリシャ神殿のもつまぶしさが、常にその裏側に影の部分として秘めている死のイメージにほかならない。「死者の町」が、確かに一階の会場には現出しているのである。

 見ながら歩くという点では、そこに回遊式庭薗という見方も成立するが、そんな優雅ではない、張りつめたものがうっ積しあって、塗られた黒の胎内でうねりをあげているようだ。

 見るものは、回遊というよりもむしろ、この墓参を通じて、滅び去った何者かと出会うだろう。会場の入り口で私が感じた冷気は、葬られた死者たちに出会う時の、その霊気であったのかもしれない。進行しているものが中断した情景は、数夜のうちに滅び去ったボンベイの死の町のイメージであってもよいし、あるいは広島のそれであってもよい。すべては停止した形の中に、次に続く運動への恨みを秘めているのである。

 こうして、すべてを見たあとで、もう一度ロビーにもどる。その時、はじめ「塔」をめぎしてそびえたつように見えた「複合体101」が、実は崩れ去り再び大地にもどろうとする下降の最中であったのではないかという思いにかられるのである。絵画は進行を語らない。十字架に昇るのか降りるのかは、見る者の内にしかないのである。

 80年代の斎藤の仕事は、部品が残るだけである。作者が生きる限り、再構成は可能だが、作者の死とともに、部品はそれを購入した美術館の倉庫に眠り続けることになる。それは美術館という現代のシステムに対する果敢な挑戦でもあった。

第574回 2023年4月28

4 イリュージョンとしての生涯

 斎藤義重は作品の中に極端にイリュージョン(虚構)を排することを心がけてきたという。つまりそこに描かれたのは、イメージの写しではなくて、確実に手にとって触れることのできる物質感と重量である。にもかかわらず、彼の生涯は以外とイリュージョンに満ちている。虚構にさえ見える伝聞は、いつも実体を持っていない。そこに斎藤神話がまことしやかにささやかれるのである。

 彼は戦前に現在の作品の原形を多く制作していたというが、それらはすでにない。ペンキ屋に預けたまま行方不明になったという諸作品も、ほんとうにそんな作品があったのかという思いに誘われる。「再制作」というもののもつ重要な意味は、それがかつて生み出したという原像の写しであるという点であり、原像はもし仮になかったとしても、(喪失したのではなくて、実際に制作されなかった、あるいは制作したという妄想によるもの)、その「空虚」の枠組みとはなりうるのである。しかし今では再制作された作品が生きた年数が、再制作されるまでの年数を上回ってしまったものも出てきた。虚はますます実のベールに覆われて隠し込まれてしまうのである。

 斎藤の生涯の中には、不思議と無名の人物が登場する。前記のペンキ屋がそうであるし、戦前、彼に強い影響を与えたというドイツ帰りの美術史家も、名を明かされないままで置かれている。つまり彼らは無名であることによって、追跡されることもなく、やがて忘却の中に斎藤神話をかたちづくる一要素として沈み込んでいく。キュレーターの仕事はそれを根掘り葉掘り調べ上げることではない。やさしく忘れ去ることだ。

 彼は一時期文学をめざし、小説を書いたことがある。その内容についても克明に語っている。しかし、それらは発表もされていないし、もとになった原稿もない。つまり、それらは実際に書かれていなかってもよいのである。彼が新人賞を50を過ぎてから取ったということは興味深い。つまり戦前のことについては誰も知らないのである。彼は出発点において、すでに神話をかたちづくられる位置にあったのだ。

 私は戦前における斎藤の作品が虚構であるといっているのではない。戦争によってすべてが灰になり、無の地点から再出発したという事実が、斎藤をして戦前の仕事が現実に存在しなかったのではないかと思わせる可能性と闘わせるのである。それは戦災により、戸籍の原簿が焼失してしまった者に似ている。彼はその時点で過去を組み直し、虚構をつくりあげることもできるのである。もし仮に犯罪者であったとしても、それさえも浄化されるしまう。

 1999年、斎藤氏の制作活動はまだ旺盛に続いていた。鎌倉の近代美術館、群馬県立近代美術館を舞台に大掛かりな展覧会が続いた。80歳の制作現場に立ち会った私にとって、95歳の制作を見届けるには、余りにも遠くに退いてしまっていたようだ。15年の時の流れに青年の日の情熱は去り、中年の盛りを過ぎようとしていた。それに対して斎藤氏は今も変わらず高齢であり続けた。