聖地南山城—奈良と京都を結ぶ祈りの至宝—

2023年07月08日~09月03日

奈良国立博物館


2023/07/08

 さすがに国立博物館だという堂々とした見ごたえのある展覧会だった。興味は奈良と京都という二つの対立する美意識の間にあって、どのような様式の変遷をなすかという点にある。それは地域の問題であると同時に、時代の問題でもある。空間と時間はいつも連動している。時代は奈良の都が、京都に移るときに、一波乱があった。地域では今回の南山城ということになる。南山にある城のことではない。山城地方の南部のことだ。地名として盛んに出てきたのは、木津川と笠置だったが、ともに私の子どもの頃の記憶にある響きだった。

 私が生まれたのは木津川の近隣だった。といっても京都や奈良の話ではない。大阪の話であり、川は流域を形成して、時代をまたがって、共通の土壌を生み出してゆく。大阪湾の河口のことだったが、木津川をさかのぼっていくと、奈良にたどりつくとすれば、空間の移動はそのまま時間の移動でもあるということだろう。キリスト教文化では、キリストが洗礼を受けるヨルダン川は、さかのぼればエデンの園に流れる四つの川のみなもとにたどり着くのだという伝説がある。時空間をこえた壮大なイメージの邂逅があるのだ。木津川の洪水で何度も寺院は建て替えを余儀なくされた。それでもそこにこだわったのは川のもたらす文化のゆえだったのだろう。

 笠置(かさぎ)という地名は小学校の遠足で行った記憶があり、懐かしい響きなのだが、まったく覚えていない。今回の神秘的な信仰の造形と、風景写真を前にして、むかし来たことがあるような懐かしみのある感覚にとらわれたのは、デジャヴと呼ばれる忘れ去っている記憶が、呼び覚まされた一瞬だったのかもしれない。大阪に住んでいたので、奈良や京都はよく行ったが、奈良と京都のあいだは死角になっていて、足を踏み込むことがなかった地域だ。しかしそれも木津川流域文化とみれば、もっと親しみの湧くものであったかもしれない。現代の鉄道文化が見落とした、水上交通による文化の系譜があるはずだ。それに気づかせてくれる展覧会でもあった。今回のトピックは、木津川市にある浄瑠璃寺から修復を終えた二体が出品されていることだ。九体寺の名の通り同じ阿弥陀如来座像が9体並んでいるものだ。今回二点を比較すると、ともにみごとな出來ではあるが、微妙に印象が異なっている。間違いさがしのように見比べてみる。半眼ではあるが、目の開き方が少しちがうのが印象のちがいに反映しているように思う。

 奈良と京都の対比を天平と藤原の対比としてみるだけでは不十分だろう。そのあとにくる鎌倉時代での南都復興という合言葉が、二番目の一波乱となる。このルネサンス現象が奈良を息づかせるものとなったはずだ。そのとき南山城は重要なポイントに位置することになる。国境(くにざかい)は破壊時は戦闘の最前線ではあるが、平和時には豊かな文化の交流地、シルクロードといってもいい場所である。

 運慶とは一線を画する快慶様の立ち姿の地蔵菩薩像が目を引いた。質実剛健な気風が南都復興にはふさわしいものだとすると、快慶のもつ理知的な雅びさは平安朝の香りをとどめるもので、南山城という地にふさわしい遺産のようにみえた。


by Masaaki Kambara