石内都展 見える見えない、写真のゆくえ

2021年04月03日~07月25日

西宮市大谷記念美術館


 大掛かりな展覧会を横浜で見た記憶が鮮明にある。今回は自作を自由に取り込んでインスタレーションを楽しんでいるように見える。フリーダカーロの身につけたコルセットや義足や衣服を写し出したシリーズが並んでいる。この衣服を着ていた絵が確かあったなと記憶をたどる。会ってもいないのに画家の顔を覚えている。絵画は衣服を描いたイメージなのに写真は衣服そのものだ。同じ部屋にヒロシマのシリーズが同居していて、被爆者が身につけていた焼け焦げた、血のこびりついた衣服が写し出されている。どこまでがヒロシマかがあいまいにされている。顔をもたない衣服が共通して悲鳴をあげている。

 別の展示室ではひきつった皮膚がクローズアップにされている。刺し傷の痕跡が残っているようだが、一見では人体のどの部分かはわからない。隣にはサボテンの痛々しいトゲの生えた肌がクローズアップにされている。シリーズが解体され、別のシリーズに組み合わされる。作品歴を通して通底しているものがあることに気づく。死を前にして走馬灯のようによみがえる記憶にひとしく、時間を自由に行き来する。自作をコラージュにして写真のゆくえを探っている。

 ハートマークの小窓が三つ壁にうがたれた廃屋が、写し出されている。写された頃にすでに廃屋であった被写体は、今はもう存在してはいないだろうが、写真では今も廃屋のままだ。

 母親の使っていた口紅を大写しにした一枚を見て、ライフルの薬莢にしか見えなかったことがある。この驚きは写真家のねらいだったはずだ。女の飛び道具だという意味が一番わかりやすい連想だが、そんなパワフルな輝きを見せるものではなく、うらぶれた場末の日当たりの悪さがただよっている。

 本体を無くした遺品の表面をしつようになぞっていくのがこの写真家のスタイルだ。リサイクルショップには、そんな遺品が満載されている。


by Masaaki Kambara