蜷川実花・蜷川宏子 二人展
—写真とキルトが生み出す極彩色の世界
2019年07月20日~09月29日
金津創作の森(福井)
2019/9/4
ひとことでいうとカラフル、あるいはトロピカルという語がよく似合う。高松市美術館をはじめ何度か見ているので、今回はどんな趣向が盛り込まれているかを、楽しみにして乗り込む。母を思う娘の姿も見えるし、亡き父のオマージュとも受け止められる。キルトを写した写真が印象的で、子が親と一体化しようとしている。土日ならバスがあるようだが、平日の交通機関は、タクシーのみなので不便と感じるが、その分静かな一息つけるところだ。
金津創作の森は、はじめて訪れた。いかに福井に足を向けていなかったかということになる。40年前に福井に赴任して6年間住んだ。金津の森に置かれていたパンフレット類を見ていて、懐かしい名に出くわした。福井で現代美術を切り開いていったアーティストたちの、今の仕事を、私はほとんど知らないままだ。
先日、八田豊さんの近作を兵庫県立美術館で見たが、金津の森のギャラリーで開かれた橿尾正次さんや、長谷光城さんの個展のようすを、パンフレットからたどることができた。土岡秀一さんの福井の前衛美術をまとめた大部の書籍も見かけ、北荘・北美の展覧会を学芸員として担当した頃を思い出す。はじめての就職先で、必死になってその美術運動の軌跡を追いかけていたように思う。五十嵐彰雄さんの個展案内のDMも置かれていたので、ますます同郷の結束力を思い知ることになる。福井に生まれ、地元から離れることなく、地道に根をはる粘り強さを前にすると、私などの根無し草には、虚しいため息しか出てこない。
インターナショナルという名の幻想の価値基準は、そんなものなどないと一笑に付されて、虚しく崩壊してしまう。そんな中で、福井の作家たちの仕事に混じって、河口龍夫さんの金津での個展のパンフレットと野外展示を楽しんだ。恵まれた自然に何気なくアートを忍ばせる楽しさは、郷土を思う自己主張とは異なった意識からくるものだろう。少し前の黒部市美術館での個展も行きそびれたので、近作には接していない。その前のアーツ前橋で思いがけず、作品に接して以来ということになる。
金津の森も黒部と同じくらい、今の私にとっては遠い場所だ。もちろん河口作品を追いかけていたわけではないので、遭遇したという印象だが、この距離感が現代アートにとって、ある種の意味をなしている。それは見るまでに時間的な隔たりがあり、伝聞とその確認には、いらだちのスタンスが挟まるという点だ。これはエコーと言い直してもよい。気持ちの悪い時空間のズレの中に、アートの今日的課題が潜んでいる。
下ばかり見て歩く私には鳥の巣箱の作品は、行くときには気づかなかったが、引き返す時に目についた。一つ見つけると芋蔓式に見つかっていく。解説によると計28点あるようだが、木立から顔を出す鳥のように、巣箱が鳥に代わって出現したという印象である。小さいが黄色い蜜蝋の照り返しを前に、黄色いさえずりが聞こえた気がした。
もう一つは池にあった。何かが浮かんでいるのだが、これも案内の標識がないと意味をなさない。何気なく見ていて気づくのがベターなのだが、標識を頼りに探し始めるというのが常だろう。そんな目で見ると池のあちこちに何かが浮かんでいる。確かめたいので誰もが池に近づくことになるが、別の標識があって、危険なので近づくなと書かれてある。足を取られて底なし沼に落ち込むような気がして引き返す。
たぶん誰かが落ちたのちの標識だろう。作品制作後、何年も経っているのに、まだ浮かんでいるのを不思議に思い、素材を見ると、鉛・種子とあり、ますます不思議さが増した。2017年の作で、タイトルは「関係-時の睡蓮」となっている。ズームで撮影して引き伸ばして見ると、確かにモネだ。発見のアートは目の構造に刺激を与えてくれたようで、目を凝らして見つめる中で、踏みつけそうになったカエルやキノコを見つけることができた。長らく忘れかけていた自然観察という幼心を楽しんだ。