第89回 2023年2月1日

二十四の瞳1954

 木下惠介監督、高峰秀子主演。高峰秀子の演じる女は近代日本の女性史だ。彼女たちを通して昭和の女性像の変遷を綴ってみたいと思った。まずは代表作から、内容的には重く暗い映画であるが、高峰秀子という華のある女優の演技力によって、見ごたえのあるうえに、大衆的支持を得ることができたのだと思う。派手やかで艶のある映画にならなければ、ただの文部省推薦に終わり、160分は長過ぎたものにみえただろう。自転車を走らせて登場するこの都会的センスが素朴な島の子どもたちと実によい組み合わせを築き上げていた。いつも歌が聞こえてくるのはミュージカル仕立てであり、小学校唱歌ばかりなのに、華やかな調べを感じさせるものだった。懐かしいメロディに聞き耳を立ててもいた。

 それにしても痛烈な反戦思想である。戦後でなければ成立しないドラマだと思う。小豆島の岬の分校に赴任した新米の女性教師と一年生12人の交流が、その後の20年近く、昭和史の激動を見つめながら、描き続けられていく。物語は昭和6年からはじまる。子どもたちは6歳、そして12歳、20歳と年齢を重ねていく。瞳の数は24、男5人と女7人という内訳だった。6年間をともにして小学校を卒業すると学友はばらばらになっていく。

 6歳の子どもたちが12歳になったときはっとした。同じ顔をしているのである。そしてこの映画を制作するのに6年間待ち続けたのだと思った。何年間もカメラを回し続けた成果だとすれば、すごい映画に出会ったことになる。あとで調べてみてわかったのは、兄弟姉妹を使っての撮影だったようで納得したが、プロの役者を使っていたなら不可能だっただろう。

 そして8年後、20歳の年は昭和20年、つまり日本の敗戦直前ということになるが、男は兵役に着き5名のうち3名は戦死をした。女教師の夫も兵隊に取られ、骨になって帰ってくる。戦争をあおる教育などこりごりだと思い、学校を去る。日本では反戦運動をアカと称して排斥した。それはかならずしも社会主義思想を指すものではなかった。子の無事を祈る世の母はすべてアカということになる。

 リアリティは小豆島に根を張った土の香りのする子どもたちのセリフからはじまる。イタリアのネオリアリズモの映画運動と同調するように、何を言っているのか聞き取れないところもあり、英語の字幕でもいいので入れてほしいと思ったりした。今なら日本語の字幕が入るところだろうが、意味の通じないローカリティに身を委ねることが、ここでは重要なのだろう。

 主人公が戦後になってもう一度教師となって分校に戻ってくると、かつて小学生だった娘の子どももいた。親子で教えてもらうことになったと喜びが伝えられる。女教師の帰還を祝った会に集まったのは女は5人、男は2人、男のひとりは両瞳を失っていた。小学校の入学式で24の瞳が輝きを見せたのはほんのつかの間の日々だったということだ。この映画が制作されたのは、戦後の復興が軌道に乗りはじめた頃で、生き残った者の分かち合う墓参の念に裏打ちされている。戦没者の氏名を掲げた墓標が、高台にある墓地と場をともにして、瀬戸内海を望んで生き続けていた。

 完璧な様式美はカメラワークにも反映しているが、子どもを12人にして、男女を同数ではなく5:7にしているのも考えが行き渡っている。男5人のうち3人が戦死、2人は帰還するが1人は盲目になってしまったというのも、数字のバランスとしては行き届いている。子どもの貧富の差も、料亭の娘もいれば子守りの仕事があり進学できないもの、貧困で奉公に出るものなど、用意周到にバランスよく割り振られている。

90回 2023年2月2

カルメン故郷に帰る1951

 木下惠介監督、高峰秀子主演。カラー映画なので「二十四の瞳」のほうが先の映画だと思ってしまうが、実際は逆で3年前につくられている。当時としてはずいぶん思い切った派手な映画であり、赤い衣裳は日本初の総天然色映画として目に焼き付いている。

 浅間山を見晴らす故郷に錦を飾っての踊り子カルメンの帰還の話。高峰秀子のここでの役柄は小豆島の分校に赴任したはつらつとした女性教師とは対極にある。文部省が推薦する映画には、まずならないだろう。時間軸からいえばすれっからしの踊り子がその後の作品ではまじめな子ども思いの教師役に変貌するということになるが、都会と田舎という対比は共通した問題意識として引き継がれている。役柄の落差は演技力の幅でもあるが、ともに昭和の女である。

 都会的な価値観と封建的な田舎の基準とは相いれることはない。憧れと軽蔑は同居している。海と山という景観に対し、船と鉄道、さらにはバスという交通機関が、ともに絵になる役割をはたしている。今からみるとともにのんびりした田舎はいいなという郷愁だろうか。都会からとんでもない人騒がせがやってきたという印象だが、結構楽しんでいることも事実で、田舎はときおり刺激がなければ活性化されないのだとも語っている。いわば祭りのようなもので、村人とともに私たちも踊り子の歌と踊りを楽しんでいる。カルメンの父親の複雑な思いを坂本武が、笠智衆の一本調子なのに対して、じつにうまく演じていた。娘のヌードショーは親として見るに耐えないが、その収入を置いていったのはありがたくもある。ユーモアもあり味のある俳優である。以前見た五所平之助の「朧夜の女」でも、難しい役柄をみごとに演じていて感心したことがあった。

第91回 2023年2月4

稲妻1952

 林芙美子原作、高峰秀子主演、成瀬巳喜男監督作品。兄妹でみんな父親がちがうというとんでもない母子家庭での非喜劇である。男は兵隊に取られて戦死をした時代状況を浮き彫りにしているのだろう。男ひとりに女がトラックいっぱいといわれた時期に、婚期を逸しない前に片付けたがっている親や姉を前にして、結婚などして何の幸せもないことを、散々見せつけられた末娘の自立の物語である。娘はバスガイドをして収入を得ている。

 男にだまされながら無様な生きざまにしかみえない姉と、夫に先立たれて泣きくずれていると、隠し子を連れて女が訪ねてくるというもう一人の姉と、生きて帰ってきたはいいが、体中に鉄砲の球が埋まっているといって飲んだくれている兄を見ながら、いたたまれなくなって家を出る。

 下宿をしてまったく別世界の知的生活に憧れをいだく。そこには両親をなくしてもたくましく生きる兄妹愛があった。ピアノのある生活だった。母が訪ねてきて、娘は不満を口にする。生まれてこないほうがよかったと言って娘が泣くと、母も痛い思いをして産んで、懸命に育ててきたのにと泣く。女手ひとつで父親のちがう何人もの子を育ててきた苦労が思い浮かぶ。そのときに夜空に、このタイトルにある稲妻が走った。二人して泣いたあとそれまでとは何かが変わっていたようだった。帰宅する母を見送る二人の後ろ姿を写して映画は終わる。この末娘に見る女性の自立の姿は、同じく高峰秀子の演じた「細雪」1950での末娘の生きざまから引き継がれたものだろう。金持ちの優柔不断と比べると、ここでの役柄は堅実な好感の持てる性格に成長している。2年後の「二十四の瞳」ではさらに成長する。

第92回 2023年2月5

細雪1950

 四人の姉妹の物語。三女の見合い話の顛末を軸にして、四女の恋愛話と対比的に見ている。何度も見合いを繰り返すのは、何度も相手を変えて恋愛を繰り返すのと、ほんとうは大差ないのだろうが、伝統的な見方からすると善悪の差が見えてしまう。優柔不断な四女に対する風当たりは強いが、作家の目はこの娘を好意的に見ている。性描写も赤裸々な谷崎文学にしては控えめなので、差し障りのない代表作といえるだろう。

 艶やかな描写は白黒映画なのが残念である。冒頭は着物の帯を選ぶ場面からはじまるが、異なった帯の柄が映し出され、四人の姉妹のそれぞれの性格の差をみるようで、象徴的な演出に感銘を受けた。はからずも谷崎潤一郎のいう陰翳礼讃を実現するものとなった。陰影に溶け込んで絢爛は輝きを増すのである。

 原作を読んでいて印象に残った場面はほぼ忠実に再現されていた。映画では高峰秀子演じる四女が強烈な印象を与えるが、原作では三女の存在感が同じだけ強かったように思う。三女のキャスティングは難しいだろう。電話に出られないほどの気の弱い反面、しっかりした主張ももっている。ふたりの対比は単純には、積極的と消極的に還元されるのだろうが、ほんとうは人間そんなに簡単なものではない。矛盾した三女の性格を内弁慶として呼び替えてもいいかもしれない。

 二人の女の対照は、あかんたれのボンボン丁稚上がりの写真家の対比にも反映されている。背の高さや体重など容姿の対比は明確には書かれていないが、映画では似通った感じで、一目で違いがわかるほうがよかったか。もちろん若旦那が細面の美男子である場合も、背が低く小太りの場合も想定できる。

 洪水が起こって写真家が四女を助ける場面は、暴風雨などのカメラワークに苦心の跡が見られるが、原作の筆力をしのぐことはできないものだ。役者にもスタントプレイが要求されるので、ここではカットされている。写真家が入院して痛がる描写は原作でも記憶に残ったが、映画での演出も真に迫ってみえた。

 ラストシーンは原作では物足りなさが残ったので、尻切れとんぼの印象を与えないように、監督は苦心したようだ。静かな哀しい終わりかただったように思う。結婚で締めくくろうとする倫理観は、時代の反映だろうか。あるいは谷崎潤一郎の嗜好なのだろうか。夫はしっかりと妻を愛している場合が多い。痴人の愛のナオミにしても、妻の座を得ているし、妻の肉体に溺れる老人の変質的な描写も多い。脳溢血の恐怖をもかえりみずに夜な夜な性欲にふける赤裸々をつづった日記小説もある。

第112回 2023年2月26日

細雪1983

 市川崑監督作品、岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子主演。加えて次女の旦那を石坂浩二が、長女の旦那を伊丹十三が演じていて、原作ではぼんやりとしていた婿養子の存在感をくっきりとさせていたように思う。ことに石坂浩二は少し俗物性が過ぎるのではと思った。1950年作に比べてやはりカラー映画だけあって、桜の開花や着物の艶やかさが際立っていた。

 ラストシーンは三女と四女の結婚を暗示することで、ふたりの娘の明暗をくっきりとさせていたようだ。見合いの数を重ね、待つだけのかいがあって、良縁を得た三女に対して、恋愛を繰り返した四女が世間的には必ずしも受け入れられない敗者のように見せている。原作にある四女の妊娠騒ぎはカットされていたし、水害が芦屋を襲った際の出来事も四女にとっては重要なモメントとなるものだが、出てこなかった。

 高峰秀子が演じた前作の四女に対して、古手川祐子ではしたたかさが足りないのではと心配したが、はじめのお嬢さんが徐々に世間ずれをし、変貌してゆく姿は見ごたえがあった。前作では四女を中心に話は展開したが、ここでは三女役の吉永小百合の見合いの顛末にスポットがあてられて、ハッピーエンドとして話を締めくくったようである。もちろん対比をなすこの二人の姉妹、幸福論からいうとどちらが勝者かは、原作者にもわからない。控えめと我がまま、自力と他力、積極性と消極性、さまざまに言いかえられるだろう。同じことは長女と次女の対比についてもいえる。加えて本家と分家、子沢山と一人娘、厳格と解放という対比にもなっている。たぶんこれらは分類であって真偽でも善悪でも勝負でもない。


第93回 2023年2月6

妻の心1956

 成瀬巳喜男監督作品、高峰秀子主演。老舗の店が時代の流れに置き去りにされ、若旦那が喫茶店を開業しようという話。開店資金もままならず、借金をしながら希望をつなぐが、長男家族が失業をして引っ越してきて物入りになる。家業を継がずに家を飛び出して次男が跡を継いでいた。

 次男の嫁が主人公だが、喫茶店には積極的である。義理の母がまだいて家業の継続にこだわりを示している。妻の立場の遠慮や主人との行き違いもあって、居づらい思いをしている。主人の芸者遊びや自身の心の迷いもあって、借金の相談に乗ってくれた友人の兄に惹かれている。この銀行員を三船敏郎が演じていて、主人役の小林桂樹と、ついつい比較してしまう。男らしいいい男という点で、女心が迷ってしまうのもわかる気がする。

 どろどろとした不倫劇にならずに、夫のもとに返るのは、古い時代の妻を描いていて、ほっとする。心温まる場面が効果的なのは、先に見た映画でも、先立たれた亭主の保険金をみんなしてあてにする人間の欲望の醜さを見せつけられて、うんざりしたあとだったからだろう。庶民生活の俗的性格をさらけだしたリアリティは、娘に言い寄る小沢榮太郎が、はまり役ともいえる嫌われ役として巧みに演じていた。

第94回 2023年2月7

女が階段を上る時1960

 成瀬巳喜男監督作品、高峰秀子主演。戦後日本の経済が順調に伸びてゆく頃、企業の収益のおこぼれに群がる銀座のバーに息づく女たちの生きざまを描く。夫に先立たれバーの雇われマダムとなった女を高峰秀子が演じている。自分のもとにいた若いホステスが独立して、常連客を奪われてしまったり、雇い主からの売り上げの請求に追われたり、なじみの客からのプライヴェートな誘いを断ったり、実家に月々の仕送りをしたりと、金だけをたよりとする生活に疲れ切ったとき、もうひとつの選択肢として気弱なときに付けいられて結婚詐欺にもあってしまう。

 実直な結婚で社長夫人におさまり、めでたしめでたしで映画は終わるのだと思ってみていた。加東大介演じるやさしそうな男の手口に身をゆだねてしまうが、主人公だけではなく、見ている私たちもだまされてしまった。踏んだり蹴ったりの不運な女は、つきがなかったと一蹴することもできるが、時代のひずみが生み出したあだ花でもあって、愛おしくエールを送りたくなってくる。泣かないでしたたかに生きて、言い寄る男をあしらいつくす悪女になれとつぶやいてみた。体をあずけたあとに、転勤をつげられた最愛の客に、クラブのママとして見送りに出て、車窓から家族に対するしたたかさは、やっとプロになったのだと拍手した。

第95回 2023年2月8

あらくれ1957

 徳田秋声原作、成瀬巳喜男監督作品、高峰秀子主演。基本的には3年後につくられた「女が階段を上る時」と同じ内容だと言ってよい。設定された時代は異なるが、ふがいない三人の男の間を生き抜く強い女という点で共通している。配役も森雅之、加東大介、仲代達矢は似たような役柄なので、パターン化の印象は否めない。成瀬映画に定番の図式ともいえるが、それなりにおもしろい。

 最初は裕福な商家の後妻、次は病弱な田舎のインテリの妾、三番目では夫の見かけは悪いが洋服屋の本妻となる。夫はともに何かが欠けている。三度目で幸せにおさまると思いきや、夫が妾を囲っているのを知って爆発、若い奉公人二人を連れて、家を出て独立しようとするところで映画は終わる。

 夫婦喧嘩で部屋の中をホースで水びたしにするのを見て、気性の激しさには引いてしまうが、おとなしく夫に着き従ってきたこれまでの妻の定型とは異なった新しい時代を感じさせるものだった。うじうじしていないで、女も負けてはいないというのが気持ちいい。男の浮気にも黙ってはいないで、相手のところへ乗り込んで、取っ組み合いの喧嘩もする。「居酒屋」でルネクレマンが演出した激しい女同士のつかみ合いを思い出した。

第96回 2023年2月9

女の座1962

 成瀬巳喜男監督作品、高峰秀子主演。しばらく見続けていないと人間関係がどうなっているのか把握できない。ミスキャスティングなのかと思ってしまうが、ネックは母よりも娘のほうが年長ではないかというミステリーにある。現代の少子化の時代では考えもつかない複雑なドラマが展開されてゆく。兄弟姉妹が多いだけではなく、先妻の子と後妻の子が入り混じり、嫁や連れ合いや孫も加わって、ひとつ屋根に愛憎と思惑がうごめいている。長男の嫁がこの映画の主人公なのだが、自分を殺していて、控えめで目立たない。義理の両親と同居しているが、夫は三年前に死んでおり、中学生の男の子がこの家の跡取りとなるので、出ていくこともできないでいる。血のつながりがないので、この家で唯一の他人だといびられながらも耐えている。

 高峰秀子はこれまでのはきはきとした男らしい役柄に比べれば、古風な嫁を演じている。中野学校での市川雷蔵のように寡黙なのにオーラを放っている。セリフは少ないのに、見ているものの目を引き付け、存在感は際立っている。跡取り息子が自殺してしまうというのが、ここでのハイライトとなっていて、母親の期待が重荷になっていたのだと悔いて、ますます身の置き場がなくなっていく。

 長男の息子が亡くなったので、家を出てラーメン屋をしている次男が、財産をねらって帰ってきたがっている。九州に嫁いでいた娘も旦那が失業して、家族でこの家に転がり込んできている。互いに呼び合う呼称からわかりだしてくるのは、長女と次女は先妻の子で、その後に続く次男と下の娘ふたりは、後妻の子だということだった。あいだにもうひとり娘がいたか。ぼんやりと聞いていたので長男の母親はどっちだったかがわからないままだった。

 後妻は再婚してこの家に来たようで、前の結婚で生んだ子を残していた。その子がひょっこりと現れて驚かせる。兄弟が急にひとり増えたということだ。有能な車のバイヤーをしているようで次女が惚れてしまうのだ。次女は華道の教室を開いていて生活力はあり、外車を買おうとしている。が男はこの家の未亡人に惹かれている。このことからもこの二人とは血のつながりのないことがわかる。息子の家庭教師のことで相談しているのを、次女は嫉妬の目でみて悪意をいだく。この息子は色男で除災なく振る舞うが、母親から金をせびり、詐欺師まがいのこともやっているらしい。このことを知って嫁は、次女の暴走を食い止めようとするが、逆に嫉妬と見られ、次女はますます敵意を募らせていく。

 針のむしろの感があるが、両親は自分の子の誰よりも、長男の嫁をたよりにしている。家を売って小さな家で三人で暮らそうと持ちだしたところで、映画は終わる。迷惑な話だが年寄りのわがままとも言えないし、自身には身寄りもいない。さあどう判断するだろうか。余韻を残してあとは自由に考えてみてくれと言っているようだった。何もかも捨てて自由に生きるには、次女のように手に職をつけていないとなあとも思ってしまった。

第97回 2023年2月10

娘・妻・母1960

 成瀬巳喜男監督作品。家族の絆の物語である。5人の兄弟姉妹と母親との間の心のかけひきを描いている。子どもは男は2人、女は3人だが、長男夫婦が親の家に住んで、母親の面倒を見ている。その嫁を高峰秀子が演じている。ひかえめで遠慮がちな性格だが、家事全般をこなしている。子どもがひとりいてこの家にとっては初孫である。長女は夫が死んで嫁ぎ先を追い出され、保険金をもって実家に戻ってくる。おっとりとして職業には向かないが、母親思いの優しい性格で、原節子が演じている。この二人の古いタイプの女性を中心に、まわりにいるドライな家族、ことに次男の芸術家を気取る写真家や幼稚園に勤める次女との落差を見せようとしているようだ。

 保険金の額は100万円だが、長女の全財産だ。今では10倍くらいになるだろうか。みんなしてそれをねらっている。香典の額が500円というのが出てくるし、長女が実家に戻ってから生活費として家に入れるのが月々5000円、同居の妹は安月給なのに2500円を出している。長男は金融関係の仕事をしており、嫁の叔父がそこから融資を受けている。小さな工場を経営しているが思わしくなく、さらに借金を申し出て、長男は独断で自分の家を担保に金を借りて貸してやる。長女からも50万を借りていた。結局は会社は倒産し、肩代わりに家屋を手放さざるを得なくなる。弟や妹は財産分与の権利を主張し、親の面倒を誰がみるかという話にまで発展する。

 次女は一人息子の家に嫁ぎ、その母親と同居している。女同士の息詰まる緊迫にいたたまれず、アパート住まいを提案するが、逆に母親のほうが家出をしてしまった。夫婦は共稼ぎで教師をしているが、資金不足で姉から20万円を借りていた。実家の母が間に入ってなだめやくを引き受ける。義理の母は体験で老人ホームに来ていたが、ふたりしてここも悪くはないなと共感しあっている。

 母親の身の振り方は描かれないまま終わる。長女は見染められ京都の旧家に嫁ぐことになり、母を連れてゆくといい、長男の嫁は今まで通り引き受けると言った。母親は申し出をともに断るふうにみえるのは、中身は不明だが老人ホームからきた封書が写し出され、公園で同じような身の上にある独身の老人と出会って楽しげに微笑む姿から察せられる。老人は乳母車で子どもをあやしていたが、孫ではなく仕事としてよその子のお守りをしていた。母の還暦を子どもたちが集まって、みんなして祝い、イチゴのショートケーキをうまそうに食べた団らんから間もない離散だった。このとき一個80円と言って驚いていたのが記憶に残っているが、今の800円だとすると確かに高い。見るとイチゴがたくさん入っていて一切れがかなり大きく、うまそうに見えた。あらためてカラー映画だったのに気づく。この日は見終わってからケーキ屋に走ることとなった。

*くわしい内容と画像の多くはこちらを参照ください

第98回 2023年2月11

笛吹川1960

 木下惠介監督作品、高峰秀子主演。原作は深沢七郎。ここでは生んだ子の四人を全員戦さで失う母を演じている。戦国時代の農民が武士に憧れて村を離れて死んで帰ってくる姿は、昭和史の現実と抱き合わせに考えられている。洗脳の恐ろしさは、兄から弟へ、さらには妹にまで及んだ。母親は何よりも子の身の上を心配するものである。連れ戻すために悪い足を引きずりながら出かけ、自分自身までも深みに落ち込んでしまう。判断のできない純真な心をどのように導いてやればいいのか。三男は戦さを嫌がっていた。兄ふたりを呼び戻そうとして、ミイラ取りがミイラになってしまった。自分も負け戦さに身を委ね、主君に忠誠を尽くして死んでしまう。妹までも呼び出して道づれにしてしまう。親でさえ口出しできない大きな力を前にして、どのようにすれば、食い止められるか。こんな悲痛な叫びがこだましていることは確かだが、解答はない。妻子をすべて失って老いた父親だけがひとり生き延びた。

 映画づくりとしてはかなり異色なカメラワークが多様されている。映画が白黒からカラーに切り替わる時期である。時代劇の重厚さは白黒で保たれながら、ところどころに挟み込まれる色彩の感情が、冷静、夢想、動揺、疑念、不和、無念と姿を変えながら展開してゆく。笛吹川にかけられた一筋の橋を何度も走って馬が往来する。家は橋のたもとにある。その地響きが聞こえたとき、決まって訃報がもたらされる。真夜中のときもあった。

第99回 2023年2月12

二人で歩いた幾春秋1962

 木下惠介監督作品、佐田啓二、高峰秀子主演。復員をして職が限られ道路工夫として働いている夫と、家族で現場に住み込みの小間使いをしている妻が、一人息子の成長を楽しみに生きる戦後二十年にわたる苦労話である。灯台守といい道路工夫といい、辺境での家族愛を伝えようとする。詩歌がはさまり、歌も挿入されて、ミュージカル仕立てになっているのは、この監督に特徴的な作風で、労働者が貧困にあえぐ姿を映し出しているのに、華やいだ気分にしてくれる。驚くべき事件は常に起こっているが、大事に至らずに終わっているのは、ハッピーエンドにつなげるための抑揚のあるメロディとして機能している。

 仕送りが足らず生活に追われ、勉学がおろそかになり、子は自分の能力の限界を知る。そのはてに大学生活を断念して戻ってくると、母は父が怒りを暴力に訴えるのではないかと気を揉んだが、逆になんとしても勉学を続けて、卒業してくれと頭を下げる父の姿が印象的だった。それを否定した子に対し、母親のほうがおもわず息子の頬に手をかけてしまう。あきらめて道路工夫の家庭の子にふさわしい仕事につくとの決意を翻して、もう一度やってみると言って京都に戻っていく。付き合いの始まっていた娘に家庭の貧困を告白し、別れを告げての帰宅だった。

 仰げば尊しのメロディが聞こえてきて、卒業できたのだとわかる。式が終わったあとの場面には、カメラを引いてのフレームの中に、両親を含めて四人の姿があった。今度はバトンを子が引き取って幾春秋を二人で歩いていくのだと暗示している。若々しくさわやかな倍賞千恵子の顔がちらっと見えた。夫婦の愛が子に通じる。妻が夫の初恋の相手との再会に嫉妬することもあった。怒りながらもいつもユーモアがあった。夫婦は同級生で、生まれた月が同じ、日も一日違いだった。結婚した月も同じだといって笑ってみせた。

100回 2023年2月13

銀座カンカン娘1949

 高峰秀子、笠置シヅ子主演。戦後日本に活力を与えた歌といってよいのだろう。この曲名は笠置シヅ子の名とともに記憶されているが、映画では高峰秀子も同じだけしっかりと歌っている。比べると歌はさすがに笠置に軍配はあがるが、芝居は高峰がうまい。灰田勝彦が高峰とペアを組んで歌い、結婚にゴールインするまでを描くので、映画は高峰秀子を中心にして展開する。戦後東京に下宿する画家の卵が、ひょんなことから映画や歌の世界に足を踏み入れ、下宿先で青年と出会い、歌を通じて心を通わせていく。

 戦後の復興に向かうなかで、さわやかに未来の希望を感じさせる前向きな映画である。戦争一色に明け暮れた過去を払いのけて、アメリカ型の文化が浸透してくるが、締めくくりを落語にしたというのが粋な演出にみえる。テンポのよい落語の一席は、日本のミュージカルとうまく呼応して、結婚のスピーチは落語仕立てにするのも悪くはないなと思わせた。喜劇ふうではあるが、大笑いではなく、ほのぼのと喜びが込み上げてくるという点では、荒唐な芸術家気取りが日常生活に目を向けることで、それ以上のものを見つけ出していった。都会からの旅立ちは、明日の希望をつないでいる。

第101回 2023年2月14

煙突の見える場所1953

 五所平之助監督作品。ふだんは2本にしか見えない煙突が、3本に見えるときがある。家に帰ってみると赤ちゃんが一人増えて、部屋に置かれて泣いていた。神からの授かりものなのか。それにしても近所迷惑なほどに泣き続けている。捨て子が社会現象にもなった、戦後の生活事情を背景に展開する、子宝に恵まれない夫婦の話である。幼心に、いたずらをしているとサーカスに売られるとか、橋の下から拾ってきた子だなどと言って脅かされた時代であったことを思い出す。

 夫婦は上原謙と田中絹代が演じている。頼りない夫と、しっかり者の再婚の妻を中心に、二階に間借りをしている高峰秀子と芥川比呂志の四人が織りなす悲喜劇。妻は過去を隠しているが、その謎がゆっくりと解き明かされていく。煙突はほんとうは四本なのに、場所によって三本に見えたり、二本に見えたりする。全部が重なって一本になってしまうときもある。影になってこの4本が水面にゆらめく映像は意味ありげで美しい。この象徴性がドラマの展開に重ね合わされて、効果的に用いられている。

 戸籍が二重になっているのも、敗戦のどさくさから起こった事件だろう。重婚が判明すると罪に問われるとうろたえる夫婦を前に、その真相をつかもうと動き出す下宿人は、前のだんなの安否を捜査して、赤ちゃんの出生の秘密を突き止めた。自分が産んだ覚えなどないが、夫が疑いをいだくのももっともだ。前妻にその後に生まれた子を押しつける、とんでもない前の亭主の存在には唖然とするが、夫婦はこの血のつながりもない子を愛おしく思ってきている。実の母親が引き取りに来て、さらに考えさせられることになった。高峰秀子はマイクを握るウグイス嬢だったが、悲観的なもう一人の下宿人の尻をたたき、晴れやかな前向きな性格で、ともすると暗くなる映画を華やぎのあるものにしていた。

第102回 2023年2月15

六條ゆきやま紬1965

 松山善三監督作品、高峰秀子主演。映像表現としては大げさで、カメラワークや効果音はアート性をねらって不自然なところはあるが、俳優の演技力で支えられていたように思う。それにしても雪におおわれた寒々とした映画である。温泉芸者がみそめられ伝統工芸の由緒ある名家に嫁ぐが、夫に先立たれ、家を追い出されるまでの姿を、叙情たっぷりに描き出している。実家は雪国の貧困家庭である。

 嫁として仕事をてきぱきと取り仕切る力量を持ち合わせているが、家名を重んじる母親や親戚一同の冷ややかな振る舞いと陰険な仕打ちを受ける。特に母親役の毛利菊枝の演技が際立っている。味方になって手助けをしてくれた奉公人とあらぬ噂まで立てられて出てゆく。資金繰りに奔走し、無形文化財という技術の伝承の道筋だけは立てて、啖呵を切って出てゆく姿は、頼もしくもあり美しくはかないものでもあった。奉公人を演じたフランキー堺は、ふたりして汽車に乗り込んだが、みずからをわきまえて身を引いて次の駅で去ってゆく姿が、ドラマをさらに美しいものにしていた。

 そこで映画は終わるが、その後を勝手に想像してみると、芸者に戻り金の工面をしてくれた旦那の誘いを受け入れて、妾になるという選択肢はある。借金の相談にいったとき誘われたが、妾でしょと言って笑って、今の家には本妻として入ったのよと切り返していた。そこからがこのドラマの復讐劇の始まりとなるにちがいない。だまって引き下がる女ではないはずだ。黙って亡き夫の意志を継いで、陰ながらこの伝統工芸を支えるかもしれないし、別の工場を建てて本家と対抗してもいい。味方になる職人は多いのだから。

第103回 2023年2月16

恍惚の人1973

 有吉佐和子原作。森繁久弥、高峰秀子主演。妻が死んだショックで急にぼけてしまった義理の父と同居の嫁との息詰まる駆け引きの物語。人間もしまいにはこうなるのかと誰もが考えさせられるテーマであるだけに、こうなりたくはないという思いを共有しながら、どうしようもなく身につまされる現実が、次々と展開されていく。

 亡くなるまでを描くが、そこでほっと胸を撫でおろしたのは、見ていた私たちだったかもしれない。介護老人という共通語が今では定着しているが、そういう施設がまだ一般化しない頃の話である。負担は嫁の肩にのしかかっている。息子も娘も顔を忘れているのに、嫁だけはしっかりと覚えているというのが、偽らざる真実として、誰もがそんなものだろうと納得してしまう。

 妻は逃げ腰の夫に対して、いったい誰の親なのと、言いたいことは言うのだが、見捨てるわけにはいかないでいる。かつては嫁いびりもしてきたようなのだが、今は頼りきっている老人のわがままは見るにたえないが、無邪気でもある。嫁は怒っているが夫に対するよりも優しい目をしている。トイレががまんできないというような、年寄りには多かれ少なかれ訪れる、共感できる共通する生理をよく観察して、若い女が好きだという社長シリーズでみせた森繁久弥の素地も加味して、リアリティある演技に、わかるわかると感心する。感化されたようで、ボケたふりをして家族に「もしもし」と言ってみた。

第104回 2023年2月17

放浪記1962

 林芙美子原作、成瀬巳喜男監督作品、高峰秀子主演。若き日の放浪の苦労話をつづった自伝小説の映画化。貧困にあえぎながらも、なりふりかまわず生きるたくましさがあった。旺盛な生活力を発揮して、文学を捨てることなく、流行作家として成功するまでの姿を描く。結婚を繰り返し、男運が悪いのは破滅型の美男ばかりを追いかけた報いでもあるが、その自虐的な恋のかけひきが、詩と小説の原動力となった。目じりが垂れてこれまでの高峰秀子とはちがってみえた。野暮ったいメイクと役づくりとで、美男美女の夢うつつの恋愛劇にはならないことで、身につまされるようなリアリティを獲得できたように思う。文才がなければただの人なのだということもよくわかる。

 「放浪記」が出版されたのち、多忙な執筆に明け暮れる後年の日々までを描くが、庭のある豪邸住まいと、かつての住み込みや一間しかない生活苦とが対比をなしている。そこには化粧を落とした品のある風格を備えた女流作家の姿があった。それはまた女優高峰自身の素顔のサクセスストーリーとも重なってくる。加東大介演じる、かつて幾度も袖にされた決して美男とも言えない隣人が、事業に成功してこの邸宅を訪れており、恋愛対象であったひ弱な美男の文学青年たちを凌駕して、粘り強い片愛のかたちが、たのもしく目に映った。

第105回 2023年2月18

浮雲1955

 林芙美子原作、成瀬巳喜男監督作品、高峰秀子、森雅之主演。悲しい映画である。戦時中に外地で出会って恋仲になった男女が、いつまでも尾を引きながら、腐れ縁ともいえる関係を続けていく。男には妻があり、ちょっとした遊び心であったかもしれない。それを間に受けた女の悲劇と解することもできる。あきらめきれない男にすがりついて、病いをおして屋久島まで渡り、そこで死んでしまう不運な女を高峰秀子が演じている。

 こぎれいな若い娘に出会うと、すぐに声をかけて、その気にさせてしまう男は、確かにいるらしい。自分もそれに引っかかったひとりだと思うと、女はあきらめざるを得ないことになる。しかも後悔することはないようなので、さらに始末に悪い。そんなに腹が立つのなら綺麗さっぱりと別れればいいのにと思ってしまうが、それができるならとため息をつく。できるならドラマにはならないということだ。摩訶不思議なのは人間の恋ごころのことであり、それが人間の本質でもあるのだろう。

 放浪記で体験した心の葛藤を、いくつか小出しにしてまとめあげた物語ということができる。屋久島にゆくというのは男が女から逃げ出そうとした最終的な決断だったのに、連れていってくれと訴える姿は、それまでの勝気な女の敗北宣言のようにみえる。このときやっと男も女に優しくなったようだった。女の遺体を前にして平伏して泣きくずれる姿は、フェリーニの「道」でのラストシーンを思い起こすものだった。

第106回 2023年2月19

名もなく貧しく美しく1961

 松山善三監督作品、高峰秀子主演。小林桂樹とともに耳の聞こえない夫婦役である。これでもかこれでもかと不幸が追い打ちをかけてくるが、しまいには幸福になりかけた家族のなかで、最大の不幸を課して物語を締めくくる。それはあんまりだと作者の非道を非難したくなるのは、誰ものことだろう。喜びの絶頂でぷっつりと糸が切れてしまうのが、交通事故の特徴でもあるし、主人公の死は論理的必然を無視して不条理でもある。

 サイレント映画をみるような静かな美しさがあった。ときおり手は動いているのに字幕のつかないところがあった。文脈からわかるのだが、もどかしい思いを残したのは、耳の聞こえるものへの冷徹な批判だったかもしれない。ことに列車に乗り込んで窓越しに交わす手話は、だれも気づくことのない至福の瞬間でもあり、心の絆を確認した見せどころでもあった。それだけにそのあとに訪れる悲劇は、誰もが納得できないものとなった。ハッピーエンドにしないことで、残された家族の結束を見せようとしたのかもしれない。

第107回 2023年2月20

カルメン純情す1952

 木下惠介監督作品、高峰秀子主演。踊り子カルメンの風変わりな生き方を描いたシリーズ第2作。第1作はカラー作品だったが、こちらは白黒映画。歌と踊りはここでも健在だが、色彩がないだけ前作に比べると地味な印象が残る。貧しく生き抜く名もない女のイメージをくつがえし、高峰秀子の女優としての幅の広さを見せようとする。シリアスに対してコミカルを前面に出している。職業の割には案外に純情な姿にエールを送るのだが、サクセスストーリーとはならず、恋は実らず身を引いて泣き寝入りするのは、物足りなさが残る。

 芸術という語がさかんに出てくるが、ここでの恋の相手は前衛芸術家で、そのヌードモデルとして声をかけられて、芸術に憧れをいだくところから、一方的な思いをつのらせていく。男には婚約者がいて結婚を目前にしている。ただし愛し合っているわけではなく、互いに財産目当ての打算的関係にすぎない。前衛芸術家のつくったオブジェを気にいるところから物語はスタートする。喜劇仕立てなので、前衛は茶化されて、金持ちの遊びとしてしか見られてはいない。思いが通じて男のほうも愛に気づいてハッピーエンドになるというストーリーを期待するが、そうとはならず女は男の幸せを願って身を引く。椿姫のようなというセリフも出てきたが、古いタイプの階級意識がまだまだ生き続けた時代なのだということもわかる。

第108回 2023年2月21

春の戯れ1949

 山本嘉次郎監督作品、高峰秀子主演。22歳にしては小娘の役から大店の女将の役までをみごとにこなす女優としての力量にまずは脱帽。宇野重吉や三島雅夫など味のある舞台人を向こうにまわしてのやり取りは、堂々とした風格を感じさせるものだ。

 男は夢に生き、女はその実現のために引き下がり、待ち続けようとする。夢破れて帰ってきたとき女は待ってはいなかった。これが簡単なあらすじである。船員となってパリ、ロンドン、ニューヨークに行くことが若者の夢であり、身近な相手と添い遂げて狭い世界に満足することはできないのだ。すがりついてとどめる気持ちをひるがえして、船に乗るよう女はいうが、男は恋仲になった娘を置いてゆくことはできない。このままつつましい家庭の幸福を手に入れてハッピーエンドで終わるのかと思ったが、ここからの展開がドラマチックである。選択を誤ったのかもしれない。夢をやぶるのは愛するものの選択ではないという涙ぐましい決断は、浪花節を愛する日本人には美しく目に映る。

 男は立ち去ったとき、女の腹に子を残していた。2年近く音沙汰不明のなかで、娘は子とともに引き取りたいという独り身の旦那の申し出を受け入れる。ふつうは若い娘目当ての悪役として登場するのだが、全くの善良に、見ているほうも拍手してしまう。勝手に出て行って帰ってこないほうに、悪意をいだきはじめる。2歳になった子を、自分の子のようにかわいがっているところに、男が帰ってくる。女の心は揺れるが、決意は昔の男に帰るということではなかった。このときの長ゼリフがなかなか説得力があっていい。波瀾万丈と言ってよい物語展開に、これしか落とし所はないと、詰将棋のようにみごとな論理的帰結に、唸りながら映画は終わった。男は海へと去っていった。岬には赤子をだいてみつめる女の姿があった。まあ仕方ないか。

第109回 2023年2月23

喜びも悲しみも幾歳月1957

 木下惠介監督作品、高峰秀子、佐田啓二主演。「おいら岬の灯台もり」というフレーズのほうが映画のタイトルよりも有名だろうか。日本の端を北から南まで灯台守として勤務する家族を追う。はじめての見合いで結婚し、妻を灯台に案内するところから映画ははじまる。海をみはらす風光明媚に、岬のさきに立つ灯台はエーゲ海に突き出た神殿のように白く輝いている。こんなうららかな新婚生活なら灯台勤務もいいなと思いきや、北海道の極寒に転勤となる。最初の出産もそこであった。ソリを走らせて助産師が来るまで待てずにいたが、父親が意外とたのもしく、オロオロすることなく産み落とした。

 子どもはふたり、男女であるのも典型例であるし、その後成人して親許を離れ、子どものうち息子が死に、悲しみに打ちひしがれるまもなく、娘が嫁ぐ喜びを味わうのも人生の喜怒哀楽の縮図となっている。最後は老夫婦ふたりとなり、ほっとした安堵で映画はおわる。そのとき勤務する灯台は瀬戸内にあり、二十四の瞳の舞台を思わせる落ち着きと安らぎがあった。もちろん現実にはこのあと夫婦はどちらかが先立つことになるのだが、映画ではそこまでは描かない。「笛吹川」では一人取り残された男の姿を、最後に写し出したが、直視はしたくない悲しい余韻を残すものとなっていた。

 日本の沿岸をめぐる転勤は、子どもの成長ともにあった。同時にそれらは日米開戦後の標的にもなった。一種のロードムービーであるが、家族の問題としてとらえると、山田洋次の映画に引き継がれていくものだろう。転勤族や単身赴任という現代のテーマにもあわせて考えることのできる課題であるにちがいない。単身赴任などという語がない時代の昭和の女性像として、女性の生き方を見直すこともできるだろう。いや女性などと性差で言わないほうがいい、単身赴任は性差をともなわない語であるのだから。

第110回 2023年2月24

無法松の一生1958

 稲垣浩監督作品、三船敏郎、高峰秀子主演。もうすでに誰かが解釈しているかもしれないが、無法松の一生を聖ヨゼフ伝としてみようというのが、ここでの私の提案である。一人息子を育てる未亡人をかげながら支えるあらくれの車引きの生涯をたどる。小倉生まれの玄海育ちである。気性は激しいが、心根はやさしい。淡い恋心をひとことも伝えることなく死んでしまった。こんなことをいうと元も子もないが、女のほうはたよりになるたのもしいお人よしと割り切った気持ちだったかもしれない。男の気持ちを察しながら、あたりまえのように接し、好意にあまえ続けたようにみえる。奉公人でもないのに母子を守ることを運命づけられているのだと、男は使命感を感じていたのだろう。男にとって女は聖母マリアのように目に映っていたにちがいない。とすれば彼は夫であるのに妻を純潔のまま保ち、肌に触れることもなかったキリストの父ヨゼフにあたるのだとわかる。この心理は日本人には理解が難しいが、この映画がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得したのは、キリスト教世界にとって、含蓄ある男の生きかたにみえたからだろう。

 舞台は北九州の小倉である。男が行き倒れのようにして死んで倒れていたのは、雪に埋もれてであった。九州だからといって暖かいわけではない。北九州は日本海側なので、じつは雪国なのだとわかる。雪景色が悲しい世界を映し出している。南国にみる雪の情景は、キリスト誕生の風土とも同調している。エルサレムに生まれたはずなのにクリスマスは今では雪景色になってしまった。

 けんかばやいが一途な男の純情とロマンティシズムは、富久娘のポスターを飲み屋からもらってきて、部屋の壁に貼り付けてある光景から察せられる。それは和服姿であるが可憐で、どこか聖母子を描いた伝統的な画像に似ている。九州に広がった隠れキリシタンのマリア観音を連想してもよいだろう。酒も好きなのだが、飲まずにこの母子のために貯金していたようで、死後ふたりの名義の預金通帳が出てきた。男の美学に徹した生きざまではあったが、理屈では理解できない悲しい死にざまでもあった。人力車の車輪が「運命の輪」を思わせて、回るシーンが繰り返し映し出され、宿命を暗示して印象深かった。

 高峰秀子はここでは三船敏郎との共演だったが、東宝映画のカラーには染まってはいない。小林桂樹や加東大介が出てくれば東宝映画だし、森雅之や佐田啓ニの場合は松竹映画の路線に属している。5社映画全盛期に、専属とはならずフリーで仕事ができた稀有な存在だった。ヌーベルバーグには先立った世代なので、松竹では監督は木下恵介や成瀬巳喜男だったが、逆にこれらの監督を大成させたともいえそうだ。

第111回 2023年2月25日

この広い空のどこかに1954

 小林正樹監督作品、佐田啓二、久我美子、高峰秀子主演。ひとつ屋根の下に住む家族の、気持ちの行きちがいと、その克服までの物語。みんなもとはいいひとなのに、戦争を体験し、ちょっとしたひずみでねじれてしまう人間関係の不可思議が写し出される。母親は後妻だが、主人は店を残したまま先立ってしまった。先妻の息子が残された酒屋をついでいる。嫁をもらって同居するが、子どもはまだない。後妻の子もふたり同居していて、上は女で戦争で足を痛めて不自由な体になってしまった。この役を高峰秀子が演じている。28歳になっているが自分のからだのコンプレックスから、性格も悪くなってしまい、結婚もできないでいる。この俳優の意地悪そうな表情をはじめてみた。もう一人は男で大学生、この広い空のどこかにしあわせがあると、現実離れした理想を追って、夢に生きている。一般には能天気と呼ぶが筋は通っている。

 娘と嫁との間には、女同士の目に見えない火花が感じ取れる。このふたりにはともに、かつて将来を考えたことのある男性がいて、久々に訪ねてくる。このときの家族のそれぞれの反応が微妙に異なり、さざなみが立ち始める。嫁は訪ねてきた昔なじみに心を開き、今の不満をいっそうつのらせてしまう。夫は妻がそのまま去ってしまうのではないかと気が気ではない。一方、娘のほうは会うことができずに家から逃げてしまう。今の自分の姿を見られたくないからだ。気を取り直して戻るが、すでに帰ってしまっていた。家族から娘の足のことが話題になったと伝え聞く。たとえ足がなくてもその人に変わりはないということばを涙ぐんで聞き、追いかけて旅立つ決意をする。そして無謀にも行ったまま帰ってこない。都会では見られない山並みに囲まれた自然が写し出され、引きこもりの心から立ち直りの啓示となったことがうかがえる。

第113回 2023年2月27日

宗方姉妹1950

 小津安二郎監督作品、田中絹代、高峰秀子主演。大佛次郎原作。古風な姉とハイカラな妹の対比で見せる女の生きかた。京都に住むなかで社寺仏閣に囲まれた落ち着きのある風情にときおりはさまれる神戸の光景が、対比をなして二人の背景をかたちづくっている。姉と互いに心を寄せ合っていたのに添い遂げることのできなかった男の役を上原謙が演じている。いつも洋装でフランスからの帰国後、神戸に店を構えている。自分の意志を通すというよりも、相手の思いを聞きとげるというスタンスは、ある意味では優柔不断でもあるということだ。

 姉の夫は知的エリートではあるが、職を失い家に閉じこもり、飲んだくれている。いつも和服で部屋に閉じこもり、性格も暗くなり、妻が昔の男と会うのを疑ぐり、暴力までふるうことになると、姉は別れることを決意する。夫は職が決まったとやってきたとき、珍しく洋服を着ていたが、すでに遅く二人は新たな第一歩を踏み出そうとしていた。その直後に夫は謎の死をとげる。アルコールが引き金となった心筋梗塞のようだったが、姉は夫の死が事故だとは思えず、決意をくつがえして、思いの相手に別れを告げる。男はいつまでも待つと言ったが、亡き夫の霊が引き止めているようでもあった。ほんとうに職が決まっていたのかも怪しいが、死んでみればそんなことはどうでもいい。

 妹役の高峰秀子は、狂言まわしに徹したが、いつも姉のしあわせを願っていた。姉の思いを知って神戸に出向き、自分もまたこの優柔不断な男に引かれて、結婚を迫ったりもしたが、気を取り直して恋のキューピットになろうと奔走した。粗暴な義兄を嫌い、姉の幸せを、私たちも妹とともに願うのだが、案外姉は今の夫のかつての姿を頼もしいものと思っていたのかもしれない。亡くしてみると記憶の夫は、かつて憧れた相手よりも愛おしくみえたにちがいない。そう考えないとこの逆転劇は理解できない。

 高峰秀子が上原謙の気を引こうとして戯けてみせるしぐさに、思わず引き込まれてしまうのも、ユーモアのセンスに満ちた品のよさを感じさせるものだ。ことばには出さなかったが、読み取らなければならないセリフがある。舌を出して笑うしぐさが何回か出てきた。思い切りスリッパをけとばすシーンも、ことばにならない感情表現としてはみごとだった。

第114回 2023年2月28日

乱れる1964

 成瀬巳喜男監督作品、高峰秀子、加山雄三主演。何としても悲しい最後だった。このあとスキャンダラスに伝えられることを思うと、やりきれない思いのする、後味のわるい結末になってしまった。シナリオライターの指先ひとつでハッピーエンドにだってすることはできるのに、これでもかこれでもかと悲しみに追い討ちをかける自虐性には、あきれもするが、悲恋にすることで美しい魂の浄化を求めたかったのだろう。

 夫が死んでからも嫁はこの家にとどまり、酒屋を切り盛りしてきた。成瀬ごのみの家族構成である。戦争で男子をなくした戦後の時代を反映したものというほうが正しいか。当然同居する義理の姉妹とは微妙な確執が生まれる。弟が兄嫁と結ばれるという、効率を優先させた解決策に移行した家族も、現実にはあっただろう。このドラマの場合も、この選択肢はあったはずだ。しかしシナリオライターはそうはしなかったということだ。

 嫁いできたとき義理の弟は7歳だった。18年後25歳になった弟から、愛の告白をされた。歳の差もあり悩んだ末、身を引いて実家に戻るつもりだったが、弟が追いかけてきた。しかし表面上は次のようにみえるだろう。二人で家を出て逃避行をこころみたが、温泉宿で男のほうが死んでしまったと。家を去る口実に好きな人ができたと言ったはずが、誤解とはならなかったのである。温泉宿で一夜を過ごすという突然の思いつきが仇となった。女は別れと取ったが、男は希望と取ったのである。希望は裏返すと絶望となり、死へと導いた。小指に結ばれた紙縒りは、心中をした男女のかたわれのようにも見えてくる。紙縒りを見とめて悲壮な思いで駆け出す。酔っ払って崖から落ちたようだが、引き金となったのは明らかに絶望だった。このあと見えてくる地獄図を思えば、美しく終わるには、後追い自殺しか私には思いつかない。母にとっては息子を二人ともなくしてしまった。

 映画をついつい俳優で見てしまうことがある。ここでは加山雄三との共演だったが、先日みた「宗方姉妹」では、高峰は上原謙と共演していた。実際には二本の映画には14年ものへだたりがあったが、今日では年を逆にして続けてみることさえできる。父親に求婚してふられ、その子から求婚されてふったということになる。別の映画では加山雄三に会いたくて駆け出して車にひかれて死んでしまったこともあった。高峰秀子にとって、若大将との相性はあまりよくなかったようにみえる。

第115回 2023年3月1日

馬1941

 山本嘉次郎監督作品、高峰秀子主演。寒々とした雪に埋もれた村で、馬と少女イネとの交流を描く。今ならレースに出場する競走馬の飼育ということになるだろうが、軍馬が日本各地に求められる時代を背景にして、馬で一儲けしようという野心からのスタートだが、貧困のなかで手放さざるを得ない事情が重ね合わされてドラマとなっている。馬の出産のようすが時間をかけて写し出され、生まれたばかりの子馬が立ち上がるまでの何度も繰り返される姿を、見つめる人の目と重ね合わされながら、感動的に追いかけている。

 はじめは子馬が手放されるが、そのときの母馬が草原を走りまわる映像が印象的で、どこへ行ったのかと気が狂ったように駆けめぐっている。わが子を探す母に見えてしまうのだが、馬の感情について知識はなくとも、生物に備わった本能だと思うことで、普遍的な宇宙のいとなみに通じる原理を知ったようで、静かな感動呼ぶ場面だ。少女は自分が紡績工場に働きに出るから、子馬を買い戻してくれと親に訴える。帰省して馬の群れのなかで母馬のハナを見つけるが、よく見ると子馬のほうだった。住み込みの長い時の経過を読み取らせる場面である。

 二度目は母馬と別れを告げる。手放して換金せざるを得ない家庭の困窮が伝えられる。少女は泣きはらしている。馬の競売はセリにかかる声が執拗に数字を繰り返す。最後に軍人が高値でセリ落とした。軍馬としてさっそうと出向く行進を写さざるを得ない当時の事情も伝わってくる。時事的背景だけでなく、雪の中でのかまくらやナマハゲ、祭りでの東北地方ならではの舞踊など、年中行事が写し出され、臨場感を高めて、日本の伝統を伝える記録映像としても価値を高めている。

第116回 2023年3月2日

綴方教室1938

 山本嘉次郎監督作品、高峰秀子主演。この頃はまだ監督というよりも演出と言っていたようだが、製作主任の名で黒澤明があがっているのが目に留まった。

 貧しい時代の貧しい家庭で、ひとりの少女が経験する子どもごころの動揺を、きめ細かに描き出している。日常生活で感じたことを隠さずに文章に書くことを教える教師が、雑誌に紹介した少女の文章が波乱を引き起こした。聞き伝えでの中傷を、そのまま文章にしたことから、引き合いに出された相手が立腹してしまった。父親が仕事をもらっている相手であったために、大騒動になってしまう。はじめ喜んで近所にふれ回っていた母親が急変してしかりつける。教師があやまりにきて、立腹する相手にも会うが、取り返しはつかない。

 小学校六年生の少女を高峰秀子が演じている。12歳の子役なのに、のちのエッセイストとしても大成する姿を彷彿とさせるし、その後演じることになる放浪記の林芙美子の貧困のなかでの執筆にも通じるものがある。両親を見ていてどうしてこんなに聡明な子が育ったのかと思う。小学校を卒業したばかりなのに芸者に売りに出されるのではないかと不安がらせる家庭でもあるのだ。父親が常勤の職を得て一息つくが、毎日の食にも事欠く状態だった。腹が減るので布団をかぶって母子が寝て、父がその日の稼ぎをもって帰ってくるのを、じっと待っている姿があった。日雇いの父は、仕事にあぶれて早くから帰ってくることもあり、そのとき不安げに子どもたちの顔が暗くなるのをカメラは写し出していた。

第117回 2023年3月3日

人間の條件 第1部純愛編・第2部激怒編1959

 小林正樹監督作品、仲代達矢主演。中国大陸での民間企業の仕事は、軍需産業に支えられた軍からの依頼だった。中国人労働者を統括する28歳の梶という若きエリート社員を仲代達矢が演じている。兵役を免れて、妻をともなっての渡航だった。中国人の捕虜が軍から送り込まれて、工事が進められていくが、ヒューマニズムに根ざした精神が崩れてゆく過酷な現実を写し出し、それに直面し格闘する姿を追っている。労働者の立場に立ち、信頼と裏切りを目の当たりに見ながら、憲兵隊に逆らったことで拷問の末、ポストを追われる。召集令状が届くところで映画はおわる。主人公は人間の条件の何たるかを、捕虜のひとりであった中国人老師から教わった。処刑されたものと思っていたこの師が、仲間とともに脱走したことを知って、大声をあげて笑った。

第118回 2023年3月4日

人間の條件 第3部望郷編・第4部戦雲編 1959

 主人公梶の軍隊生活を追う。男世界の粗暴で理不尽な暴力が連綿と続くなかで、妻が単独で面会にやってくる。過酷な映画を見るものにとってもつかの間の安らぎとなった。無謀な行為ではあるが、愛の確認のためには必然的な決意だったにちがいない。沼地に足をとられ生死の淵でのさまよいから目覚めたとき、陸軍病院にいて若い女性看護師の白衣を見て、目に焼き付けた覚醒は、もうひとつの希望となって、見るものの心をもときめかせてくれた。救いのない時代に灯されたかすかな光ではあるが、会おうと念じれば必ず会えるという確信的な信念が、再会を約束するものとなっている。

 第4部では女性は登場しない。敗戦の戦雲がただよう過酷な戦闘のまっただなか、旧友が少尉としてやってきて、上官として上等兵の梶と再会する。一瞬の希望を感じる場面だ。正義感から新兵の訓練にあたるが、逆に古参兵からはいじめ抜かれ、旧友は板ばさみになり、戦争が激しさを増すなかで戦死をしてしまう。ソ連が侵攻をはじめ多くの日本兵が命を落とした。28名の新兵を率いた梶は屈強な身体をもち、なんとか生き残ったようで、ソ連の戦車が頭上を通り去ったあと、立ち上がり原野をさまよう姿で映画は終わる。

第119回 2023年3月5日

人間の條件 第5部死の脱出・第6部曠野の彷徨 1961

 ソ連軍に追われ敗走するところから始まり、命つきるまでを描く。延々と逃亡し続ける目的はひとつ、妻のもとに帰ることだった。荒野ではどちらに向かって歩くのかさえわからない。ソ連軍以上に殺意をいだいたのは、同胞のはずの日本兵だった。生き延びるために人を殺すことになるが、ロシア兵の場合は心の痛む迷いであったが、日本兵に対しては憤りのすえの確信だった。

 高峰秀子は第6部になってやっと登場する。避難民の女のひとりとして、いわば端役で多くのセリフがあるわけではないが、存在感のある堂々たる風格だった。徹底抗戦するつもりの主人公が、一瞬にして投降を決意する重要なセリフを含んでいる。説得力のある演技だったが、それが主人公を死へと導くことにもなった。社会主義に理想を見出していた当時の進歩的な日本人にとって、ソ連が過酷な捕虜の扱いをするものとは思っていなかったこともあったかもしれない。実際にはシベリアに送られての強制労働を思えば、その実像が見えてくる。

 10年前の映画なら高峰秀子は主人公の妻役だっただろうし、そのときはどんな演技をしていただろうかと思い浮かべた。仲代達矢との共演では、年長の姉さん役のイメージが定着してしまっているのに対して、新珠三千代は初々しく芯の強い女性像をみごとにつくりあげていたように思う。ここでは避難民の娼婦役を演じる岸田今日子が一瞬、新珠三千代に見えるときがある。それだけの出演だったが、輝きをはなっていた。梶に思いを寄せる女は多い。深入りすることはないが、女には冷たく目に映る。高峰秀子の役もそんなひとりであり、口には出さないかすかな素振りをうまく演じていたように思う。

第120回 2023年3月6日

雁1953

 森鴎外原作、豊田四郎監督作品、高峰秀子主演高利貸しの妾という世間から白い目で見られる自分自身と対決しながら、帝大の学生との恋愛をあこがれ夢破れる姿が、描き出されている。学生は一度は女の色香にひかれるが、自分を取り戻し、ドイツ留学というエリートコースを突き進んでいく。表面上は淡い恋心で終わってしまったということだが、今の環境から逃れたいという悲痛な叫びがあった。

 学生との出会いは、格子窓から見える散歩姿だった。いつも決まった時刻に通り過ぎる。目と目があって学生が会釈をしたことがあって、それ以来心待ちをしていた。学生のほうも美貌に惹かれてのことだった。さらに二人を近づけたのは軒先にいるヘビを退治してくれたことからだった。映画でも大きなヘビを生々しく映し出していたが、原作を読むともっとリアリティがある。吊るされた鳥カゴに首を突っ込んで鳥を丸呑みにしているヘビを出刃包丁で切断する。手に取るように一部始終が書かれていて、医師でもある作家の観察眼と筆力を感じさせるところだ。原作では娘も学生も美男美女となっているし、高利貸しも40過ぎだが優しく魅力的な面も強調されているので、映画と比較してみると、少し印象を異にする。高利貸しはもとは大学の小遣いをしており、学生相手に金を貸したのがはじまりで、この恋敵の学生とも顔見知りであるという伏線が引かれている。

 色香に溺れるという限りでは、高利貸しも学生も変わりはないのだが、20歳そこそこの娘にとっては、親子ほどに歳の離れた男の欲望は、醜く嫌悪感に満ちたものだった。飴を売り歩くしがない父を思うと、世話をしてくれるという旦那からの申し出を受け入れるしかなかった。呉服商をいとなみ妻に先立たれたと聞いていたが、そうではなかった。割り切って考えると、自身の美貌を武器にして、主導権を握ることも可能だったはずだ。そんなふうにみえたときもあったが、顔には見せずとも耐え難い屈辱だったということだ。

 手玉に取るほどの悪女にもなりきれず、開き直って生き抜くという選択肢も捨てて、自己主張をしはじめるのである。なりふりかまわず自由を主張するには、明治の女性には限界だったかもしれない。ふたりが派手な同じ傘もっているのが効果的で、映像として目に焼け付いている。本妻が嫉妬の果て押しかけてくるのを、おどおどとしておびえている。明治時代の小説を昭和の、しかも戦後の新しい価値観で映画化されていることを考えると、泣き寝入りしない開けた結末を予想させてもよかったかもしれない。タイトルにある禁猟の「雁」をしとめて持ち帰る象徴性は、後ろめたさに潜む人間の欲望を写し出すものでもある。雁が禁猟であるというを知らないと成立しない後ろめたさでもあるということだ。

第138回 2023年3月26日

朝の波紋1952

 五所平之助監督作品、高峰秀子主演。キャリアウーマンが、仕事だけが生きがいではないという事実に気づくまでの物語。大企業に勤めるおおらかな社員と競争社会を生き抜く中小企業の悲哀が、対比的に語られている。戦後猛烈に競争を繰り返し、繁栄をもたらした日本経済の実態を背景にしながら、見落としてしまった人間のこころの問題を考え直そうとする。おおらかであるためには経済的基盤が前提としてあって、それを余裕としなければ、人に優しく接することもできないということだろうか。

 凡庸なサラリーマンであるが、資産があり、大邸宅に住み、休みの日は和服で茶道をたしなんでいる。大学時代のボート部にOBとして参加するスポーツマンでもある。趣味の良さと品の良さを備えた人物を池辺良が好演している。人の良さはお人好しとも言い直すことが可能だ。野良犬をかわいがるこころは、それを飼う貧しい少年にも向けられる。犬を介して少年とは友人関係にある。少年の母は事務員をしていると偽っているが、ほんとうは温泉町で住み込みの女中をしていた。

 少年が居候としてあずけられているのは親戚の家で、そこにはもう一匹の飼い犬がいて、対比的に描かれている。室内で飼われているこの犬に対して、繰り返し写される粗末な犬小屋が対比を強調している。

 姉のようにみえるこの家の娘は、得意の英語を生かした優秀なキャリアウーマンであるが、急に入った仕事に約束をしたコンサートを簡単に断ってしまう面ももちあわせている。少年の友人が一目ぼれをしてコンサートのチケットが手に入ったので行かないかと誘うのだが、簡単に承諾するのは娘のほうも好感をもったからだろう。このときまだ互いに名前も知らない。

 娘に心を寄せる同僚がいて敵意をむき出しにする。野心家でいずれは独立して実業家として成功しようと考えている。娘にプロポーズしたときに、この夢を打ち明けている。娘が考えさせてくれと答えるのは、企業戦士としてのこれまでの生きかたを疑問に思いはじめていたからだ。少年と野良犬に目を向けはじめるのは、野良犬を捨てるよう言われた少年が家出をしたときだった。少年の友人とともに会社を休んでまで、探しに行く。コンサートの断り以来、はじめてのデートの実現が、ここでは対比されている。かつては仕事のために断ったが、今は仕事を断っている。未使用のコンサートのチケットは記念にもらっているが、行った以上に価値のある、高価な思い出となるものだろう。

第139回 2023年3月27日

愛の世界・山猫とみの話1943

 少年院に送られる不良少女の改悛までの物語。手に負えない15歳の不良少女を高峰秀子が演じている。最後までひとこともしゃべらないのかと思うほど無口で粗暴な役である。付き添われていなかの収容施設まで汽車とバスに乗り継いで向かうが、途中で脱走をはかる。付き添ったのは勤めて間がない女教師で、必死になって追いかける。追いついたとき泣き崩れたのは教師のほうだった。少女は呆然とながめている。

 その後も親身になって子どもに接しようとするが、なかなか通じない。収容されている子どもたちとのコミュニケーションがうまくとれず、つかみ合いのけんかの末、施設から逃亡して山に逃げる。幼い兄弟だけで暮らす家に入り込んで、無断で飯を食ってしまう。子どもたちが戻ってきて腹を空かせて悲しむ姿を見て、ふたりの前に出て「私が食ってしまった、ごめんね」とあやまるのが、私たちの聞くはじめてのセリフだった。そこから少しずつ人間らしい姿を取り戻していく。

 父親が長期間の稼ぎに出ていて、帰るのを待っているのだという。母親はいない。不良少女は姉のような親しみをいだかれ、頼られて生きることの喜びを感じてゆく。蓄えを食い尽くしてしまうと、村まで降りて畑から食料を盗んで兄弟に分け与えるようになっていた。目撃者からは、施設から逃げ出した山猫のような少女だといううわさが流れて、しだいに追い詰められていく。追われて戻ったとき、盗んできた食料を残して立ち去ろうとするが、幼い兄弟がついてきた。

 ちょうど父親が長旅から戻ってきたとき、子どもたちはいなかった。山猫にさらわれたのだと聞いて、父は猟銃を手にして追いかける。撃たれるのではないかという予感がおそう。猟銃を撃つ音を聞いて、同行していた女教師は気を失ってしまう。少女は逆に女教師が撃たれたものと思って、倒れているのを見つけ抱きかかえる。目を覚ましてふたりは、互いに無事を確かめて抱きあい、はじめての涙をみせる。

 これが改悛の瞬間だった。道徳的にみえるが、はじめの少女のふてくされた反抗的態度はリアリティある演技で、最後にみせるさわやかな笑顔との落差を見せようとしている。戦争中という時代を反映してか、お国のためという語もさかんに登場する。戦時下の統制のある時代だが、偏見をもって見るのではなく、この時代がかかえた気分として解釈する必要があるだろう。少女はどこで覚えたのか、みごとな乗馬の腕前を見せていた。さっそうと裸馬を乗りこなす姿は、もはや不良少女のそれではなかった。軍馬を飼育する少女を描いた「馬」1941という映画を思い起こすシーンでもあった。

第140回 2023年3月28日

我が家は楽し1951

 心温まる映画である。父親は課長ではあるが、貧乏所帯に子どもが四人、上のふたりの姉妹は画家声楽家、ともに修業の身で、勤めを持たず、下の兄妹はまだ幼い。母親が内職でミシン仕事をして家計を補っている。母親は若い頃に画家を志望したが、結婚後は子育てに追われ、夢を断念した経験をもっている。子どもの夢をどうとしてでも実現させてやりたいという思いから、芸術に向ける子どもたちを支援している。画家の卵の長女役を高峰秀子が演じているが、何度も落選を繰り返し、母親は絵をもって娘の尊敬する画家を訪れるが、「努力しだいで」というのがやっとのレベルだと思い知る。ある日母親のタンスを開いた娘が、そこに入っていたはずの衣類や装飾品がすっかりなくなっているのをみて驚く。叔母の紹介から勤めを見つけるが、俗物根性を目の当たりに見て、愛想をつかしてやめてしまう。

 家族の仲があまりにいいので、何か不幸が起こるのだと不安をいだかせる。父親がよぼよぼしているので、帰宅が遅くなると下の息子が車に引かれたのではというセリフが、見ているほうも気がかりにさせる。勤続25年の表彰を受けて、夫婦で買いものに出かけたとき、確かに車に引かれかかった。買いものは表彰でもらった月給2ヶ月分にあたる金一封をあてにしたもので、子どもたちへの贈り物を中心に、自分たちの分は控えていた。帰宅して内ポケットに入れていたはずの封筒が消えていた。満員電車に乗っていた場面でスリの騒ぎがあったときには、確かにあったはずだった。

 長女には恋人がいるが、結核の療養中で見舞いに行ったときに、ツーショットが写る。その後の高峰秀子と佐田啓二のゴールデンコンビなのに気づくが、ここではまだ脇役で、その後悪化して死んでしまい不幸に終わってしまう。長女を中心に見ているが、両親を演じた笠智衆と山田五十鈴の味のある演技は見落とせない。ことにおっとりとしているが、しっかりと夫と子どもを見つめ続ける母親がいい。

 長女が母親を描いた肖像がやっと展覧会に入選し、母子で喜びあう。借家を追い出されることになり荷造りをしているときに、買い手である隣居の一人暮らしの老人が下見にくる。そこで家族の姿を見て、落選した自分の邸宅を描いた絵を見て、考えを改めたようで、この絵を買い取り、そのまま住み続けられることになり、一件落着のうちに終わる。サラリーマンが働き続けても自宅一軒もてない現実が、下敷きにされている。隣の邸宅をあこがれて描いても入選はできない。身近な母親を描くことでやっと絵は出来上がるのだということも伝えている。

第141回 2023年3月29日

女学生記1941

 真珠湾攻撃が1941年12月であることを考えると、まだのんびりとした日本の平和が感じ取られる映画である。女学校の生徒たちの日常を映し出しているが、戦争に向かう足音は徐々に聞こえ出している。通りには乳飲子をおんぶしながら千人針を求める女性がいる。何人かが一針を縫って通り過ぎていく。女学生が通りかかって一肌脱ぐことになる。千人針が何かがわからなければ、このシーンは理解できない。手がかりは明日までに預かって仕上げてくるといったとき、学校には千人以上の生徒がいると言ったのと、できあがって手渡したときに言う「ご無事を祈っています」というセリフにある。出征兵士の無事帰国の祈願であることは、説明なしでは外国人には、まずわからないだろう。女に生まれたかったか、男に生まれたかったかという担任の男教師からの質問があった。その回答から女性の権利が主張できる時代になったこともわかるし、男に生まれて飛行兵になりたかったという返答もあった。

 授業風景もさかんにでてきた。文学や物理学に混じって、論語の暗誦や勤労奉仕と呼べる畑仕事もあったが、軍事訓練はまだなかった。卒業までにはまだ一年半あったが、担任が夏休みを前にした教室で学校を去ると言ったとき、全員が涙ながらに引き止めた。ごく普通の教師のようにしか見えなかったが、別の学校の校長として転任するという出世の報告だった。だれひとりおめでとうと言ったものはいなかった。時代がもう少し下がっていたなら、これは召集による出征の報告になっていただろう。

 高峰秀子はメガネをかけていて、クラスのリーダー格の役だが、主演というわけではない。千人針の婦人を山田五十鈴が演じていたが、柔和な微笑みの中に、不安を隠し込んだ演技が的を得ていた。もう三年もすれば嫁に行くという年ごろの、若いはつらつとした集団のパワーが強く印象に残っている。宿泊をともなった旅行ではしゃぐ姿は、今も変わることのない平和な情景だった。どうしてこれが崩れ去り、戦争へと一目散に傾斜していったのか。今となっては考えさせられることになるものだ。こんな素直な生徒たちばかりなら、女学校の教師は夢の職業であったにちがいないが、教師像もまた時代とともに、みごとに崩壊してしまう。

第142回 2023年3月30日

秀子の車掌さん1941

 成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演、井伏鱒二原作「おこまさん」。1時間足らずの短編だが、時代の流れに取り残されてゆくものの悲哀を、悲壮感ではなく、はかなさやもののあわれの美学として、美しく歌い上げている。バス一台を走らせているバス会社の運転手と車掌の奮闘記である。いなかのバスはオンボロぐるまという歌詞のままの世界が描かれている。赤字路線なので廃止は時間の問題である。社長はすでに見限って、良からぬ事業に手を出しているようで、評判はよくない。悪徳非道かというとそうでもなく、道理をわきまえた部分も持ち合わせている。最近は気前がよく、なぜか機嫌がいい

 乗客はまばらだが、手をこまねいているのではなく、何とかして盛り返しをはかろうと、高峰秀子演じる若い車掌は頭をめぐらせている。路線バスだが時間通りに動いているかは疑問で、途中で止まって自宅に立ち寄ったりしてもいる。用事をしている間、バスは止まったままである。急ぎの客がいると職務怠慢もはなはだしいということになるはずだが、急ぎの客がいれば逆に、たぶん定刻を無視して、猛スピードを出すにちがいない。臨機応変と言ってもよいか。すべてがおおらかでアバウトな生活風景が見えている。急がない生活の豊かさを、教えてくれる。

 新しくできたバス会社に負けないよう、車掌が提案をする。古株の運転手が代わって社長に掛け合ったのは、車中で観光案内をするという案だった。社長はあっさりと承諾し、文章を考えてくれたホテル住まいの東京から来た小説家にも御礼の金一封を出した。今までにはないことで、気前のよさが何かおかしい。小説家をともなってガイドの練習中に、バスは事故を起こす。はじめ保険のことで虚偽の裏工作をしようとしたが、関係の知り合いも多い小説家がなかに入ると、社長はとたんに弱腰になっていた。

 新しくなったバスで再出発をしようというところで、社長の機嫌のよさの理由が知られるところとなる。バスを高値で売り払っていて、明日から営業を停止するというのだ。バスの乗務員には知らせないままで、ふたりは観光ガイドをはじめようとするが、合唱している女学校や盲人が乗り合わせて、機会を逸している。三人連れの旅行者が乗り合わせてやっと実現する。街道や川の歴史なども語るなか、笛吹川の説明が聞こえてきた。このバスの沿線のローカリティが思い浮かぶのと同時に、高峰秀子が演じた「笛吹川」という時代劇を思い出すことにもなった。20年もあとに木下惠介によって撮影される映画ではあるが。

第161回 2023年4月18日

衝動殺人 息子よ1979

 木下惠介監督作品、若山富三郎、高峰秀子主演。重厚な映画である。動機もなく殺人を犯した罪は、どのように裁かれなければならないか。それを加害者の側ではなく、被害者の家族の側に立って考えようとする。一人息子を突然の殺人で亡くした両親が、泣き寝入りするのでなく立ち上がる。50年たった今でも、衝動殺人はあとを立たない。誰でもよかったので、そこに居合わせたのは運が悪かっただけのことだ。これがこの狂気の理屈である。

 映画として感動的ではあるが、泣き寝入りしないで立ち上がるためのマニュアルとして見ることができるものだ。被害者の会はだれかが大声をあげて、それに賛同をしてあとに続くものがいないと成立しない。情報を提供する新聞記者の支援も欠かせない。加害者を守る法律はあるが、被害者の家族を守る保証はない。国がその救済を義務付ける法律をつくるために、被害者宅を一件一件まわる男がいた。理不尽な殺人が新聞に掲載されると、どこにでも出かけて行って呼びかけた。経営していた工場を売り払い、私財を投げうっての活動だった。この役を若山富三郎が演じている。悪夢を忘れたがっている家族も多く、門前払いもされた。こころざしなかばにして倒れると、そのあとを妻が受け継いだ。高峰秀子の映画出演、最後の役である。北朝鮮による拉致被害者の会をも思わせる、息の長い苦闘の記録だった。

 ドキュメンタリータッチで、重苦しい気分が続くが、花を添えたのは、吉永小百合や中村玉緒や大竹しのぶの女優陣で、美貌と存在感と演技力を分けもった。見るのにつらい重いテーマであっても、映画は楽しくなければならない。かつては高峰秀子に託された役柄である。息子には婚約者がいた。結婚を間近にした悲劇だった。その後の身のうえも写し出されたが、短い場面でも心の動きを、大竹しのぶがみごとに演じていた。難しい役柄である。婚約者が殺されたという経歴が、世間には疫病神のように見えるのだということも痛感した。これをテーマにしても映画が一本撮れるなと思った。