コレクションの20世紀

2023年04月15日~06月04日

名古屋市美術館


2023/5/20

 常設展とは別に記念展として所蔵品をどう見せるかには、どこでも頭をひねっているようだ。20世紀に制作された作品に限り10年単位で並べてみる。100点を選ぶと決めて、意図をもたずに出来の良いものだけを選ぶのがいい。選ぶ者によって好みはさまざまなので、出来の良さと言っても振幅をもつが、直感を信じて考えずに選んでいく。

 見どころは100年間の大きな流れが、10年刻みの細かな推移と、うまく対応しているかにある。ゼロ年代からはじまり、10年代、20年代と見ていくうちに、見えてくるものが、果たしてあるだろうか。疑問はそんな機械的な区分が効果的なものだろうかということだ。数字のマジックが有効なのは、区切りの年を人は何となく気にしているという心理学に由来する。様式上の変化を誘う社会的に大きな出来事がそれと一致するわけではない。世界大戦で分割される戦後は、第一次は10年の区切りで言えば、半ばではじまり、第二次は半ばで終結している。昭和も1920年代の半ばにはじまった。

 数字の区切り目であるゼロ年はどちらに入れるのかという問題もある。1940年は30年代なのか40年代なのかということだ。ここでは30年代の終わりと見たが、この数字の魔力は新時代の訪れと思えることが多いかもしれない。1900年という年を引き合いに出せばもっとわかりやすい。何かが変わるという時代の気分は1901年よりも1900年にあるだろう。しかし実際は20世紀のはじまりは1901年であって1900年ではない。目録は制作年順に並べて作品番号をふってあるが、実際の展示はそうではない。展示効果や作者の知名度や会場のレイアウト上の都合から入れ替えられる。もちろん制作年といっても、制作にかかった年月はさまざまなので、制作年順がオールマイティというわけではない。

 結論的に言えば10年単位で並べても何も見えてはこない。それでも作者をアイウエオ順に並べるよりも妥当性があるとすれば、それは美術を歴史でとらえるのが適切と信じているからだろう。これまで繰り返し1920年代は都市の時代、1960年代のポップアートなどと呼んできた。もちろん作者名順にも妥当性はあるかもしれない。小説家にはマ行が多いとか、ア行のほうがワ行よりも瞬発力があるとかの迷信をともなってもいる。幼い頃から学校ではア行から呼ばれてきて、とっさに身構える体勢ができているが、ワ行はまだまだとのんびりと、じっくりと構えることになる。時代がさかのぼればアイウエオではなくイロハ順になるし、外国人にはあてはまらない原理だろう。

 日本作家と外国作家をまぜて制作年順に並べることで見えてくるものがある。影響関係を見ようとすれば、日本は決まった年数、遅れているはずだ。交通の発達は10年単位で加速度を増しているはずだ。作家の感性が敏感に西欧に向かう場合もあれば、意識的に反発していることもある。あるいはまったく無関係に独立独歩、孤立無縁の場合もある。さらには個々の機関のアイデンティティがある。名古屋市美術館でいえば、エコール・ド・パリメキシコ壁画運動期のものを、収蔵方針に掲げているのだから、そこから引きずられてくる作品群の特徴がある。北川民次を中継として日本絵画がメキシコと結びつく。

 必ずしも地方の美術館が郷土と結びつく作品群を収蔵しているわけでもない。たまたま在住のコレクターが最寄りの美術館に寄贈する場合は、作品はコレクターの好みであって、郷土とは無関係の場合も多い。なぜここにあるのかという疑問を感じながら見ていくのも興味ある鑑賞法だが、すべてに法則はなく、混沌としている。この多様性の中で、個々の作品と対峙することにつきることがわかってくる。一元化した理念で全体を見るのではない自由主義を喜ばしいものとみることが肝要なのだろう。


by Masaaki Kambara