2024年09月14日~12月01日
大阪中之島美術館
2024/11/08
あっと驚くような無数の糸にとらわれて、身動きの取れなくなってしまう現実を前にして、見つめ続けている自分がいる(1)。赤い糸で出来上がった赤い家が並んでいる。かき分けてなかに分け入りたいと思いながらも、触れることもできない。鑑賞者のもどかしさを感じながら、目を凝らして見る。複雑に絡みながら繭のように保護された、何もない「空洞」を見つめている。
増殖という語が浮かんでくるが、赤い糸は生命体のように、振動に反応して増幅している。白い糸が蜘蛛の巣のように張り巡らされた部屋がある(2)。水が張られていて、のぞき込めるようになっている。水面に水滴が落ちると波紋をつくる。その波紋が空気を震わせると、垂れ下がった糸が、微妙に反応する。糸というには太すぎるかもしれない。糸は多様に変容する。ここでは赤い糸と白い糸が対比をなして、感情をむき出しにしている。
語感がミステリアスに、自己表明をしている。アイという響きに、日本人の感性は、「愛」を感じる。英語圏ではそれは「私」でもあり、「目」でもある。さらに「地と血」(2013)という映像作品では、「血」が「土」と同調する。日本人にとってはただの言葉遊びに過ぎないが、インターナショナルな目は、そこに神秘主義を見つけだす。
初期の映像作品「バスルーム」(1999)は、バスタブで泥だらけになって、のたうちまわるセルフポートレートである。モノクロ映像は、泥だらけの顔の大写しを、血だらけの恐怖とダブルイメージにして楽しんでいる。悪趣味の恐怖映像とも言えるが、バスタブであることがわかると、安心して入浴図だと知ることになる。どろんこ美容の美女は、醜悪なまでの試練にたえて、美しくなろうとしている。
私が塩田千春に出会ったのは、この映像作品からだったが、赤い糸のイメージが、定着する前のことだった。東京国立近代美術館で開催された「水浴考」と題した企画展の一点に加えられていて、強い衝撃を受けた。その後、糸を使った造形で第一線の現代作家となっていった。混沌のなかでの水浴図に原点があるように見える。インドではガンジス川に浸かる、みそぎとなるものだろう。
糸は透明の管となると、裸婦に巻き付いて、赤い血液が循環する。身体が小刻みに痙攣している。そのたびに毒毒と鼓動を響かせている。もちろん血液ではないことはわかっているが、この虚構のパフォーマンスに驚異する。かつて広島の現代美術館でもこれと似た装置に出会ったことがある。海外の作家だと思っていたが、この作家だったのかもしれない。ヒロシマがかかえる負の遺産とも同調するイメージだと思う。
美しくもあるグロテスクを支えているのは、きわめて個人的な脅迫感なのだろうが、現代人に共通したものだからこそ、共感を呼ぶ。「つながる」というアクションが、キーワードとなっている。糸が結ばれているのを見ながら、その労働量に圧倒される。それは個人の制作を超えていて、数十人の力がひとつに結集したものだ。のたうちまわっていた個人の狂気が伝染していって、美に昇華されたようだ。
同時に個人の持っている怨念が解消されて、調和へと至ったようにみえる。それはそれで見どころではあるが、原点であったドロドロした情念が消えてしまう怖れも宿している。見世物としてエンターテイメントに至ったという意味でもあるが、物量からすると以前東京の森美術館で見た個展を超えるものではなかったかもしれない。
中之島美術館も大きな施設ではあるが、現在5階では塩田千春展がひらかれ、4階ではピカソから草間弥生までを網羅した大規模なモダンアート展が開催されている。世界の巨匠を敵にまわして、塩田千春がひとりでこれと対抗したという図式になっていた。結ばれた糸を見ながら、会期を終えると、ほどきようがなく廃棄される姿を思い浮かべる。
ここで「むすぶ」と同時に「ほどく」というアクションに目を向けることになる。絡み合って癇癪を起こして無理矢理に力づくで、きつく結んでしまうことにもなるはずで、そこに人間の本性をみるならば、ここではあまりにも整然としていて、からまることもなく秩序を保っている。その姿の是非を問うてみたくなる。
「恩讐の彼方に」という小説があり、大分に行ったときに「青の洞門」を訪れたことがあった。巌窟を30年をかけてひとりでくり抜いたものだ。手伝おうとするものもいたが、拒絶していた。今では機械を導入して、何十人もの手を借りて、簡単に掘り抜くことができるだろう。歩きながら体感して、鑿の一振りを目の前に認めたときの、震えるような感覚を、しっかりと覚えている。
現代アートでこんにち隆盛を築いている、大がかりな見世物を前にして、改めて考えさせられることになった。5年前の森美術館でのときとは異なり、あっと驚く一過性ではないものに、最近では目が向くようになった。村上隆の有無を言わさない物量による、豊穣の満腹感への不信とあわせて、気にかかる現象だと受け止めている。
重要なのは、物量に圧倒されるのではなくて、その底流に沈殿している見えない糸に気づくことだ。その意味では現代ドイツに住んでいることが功を奏しているのだと思う。オペラの舞台装置とつながることにもなるし、多和田葉子の新聞小説の挿し絵の仕事は、ドイツ在住であるからこそ、実現したものだろう。挿し絵の一枚一枚は、誰の手も借りずに実現した、「つながる私」ということになる。
華やかさの中にある、孤独感や寂寥感に気づくと、はやく日本に帰ってこいと声をかけたくなってくる。天井から吊るされた白く長いドレスが、空中をくるくるまわっている(3)。会期中は9時から5時までの間、回転するだけが仕事だ。純白のウェディングドレスだとすれば、着られるものもいないまま、スポットライトに照らされて、壁面にはくっきりと映し出された、黒い影に変わっている。
つながりたいという暗示は、無数の手紙が開封され花吹雪のようになって、空中を飛びながら、赤い糸にまつわり続けている絡められている光景によって実現した(4)。蜘蛛の糸が何ものでも絡め取ってしまう姿に似ている。かつてはピアノであり、椅子である場合もあったが、ここでは手紙である。目を凝らせば文面は読める。おみくじと同じで、他人の秘密には深入りはしたくないものだ。みんなでつくりあげるアートという点では、オノヨーコにも同調していくものだろう。アイを語るものには、共通して愛する者を失った寂寥感がある。