テオ・アンゲロプロス
旅芸人の記録1975/ 狩人1977 / アレクサンダー大王1980/シテール島への船出1984 / 蜂の旅人1986 / 霧の中の風景1988/ こうのとり、たちずさんで1991/ユリシーズの瞳1995/ 永遠と一日1998/ エレニの旅2004/ エレニの帰郷2009/
第926回 2025年12月20日
テオ・アンゲロプロス監督・脚本、トニーノ・グエッラ、タナシス・ヴァルティノス脚本、原題はTaxidi sta Kithira、マノス・カトラキス、マリー・クロノプロス、ドラ・ヴォラナキ、ジュリオ・ブロージ出演、カンヌ国際映画祭脚本賞・国際批評家連盟賞受賞、140分。
ギリシアを舞台にして、父親(スピロ)の突然の帰宅によって引き起こされる、動揺と騒動を描く。父親は革命をめざし戦ったが、挫折してロシアに逃れた。32年の月日がたってギリシアに戻ってきた。
ロシア船籍の船による帰国だった。船にはウクライナの文字が見える。息子(アレクサンドロス)と娘(ヴーラ)が出迎えている。息子は映画監督で、仕事での活躍が紹介されている。娘は冷ややかに対するが、息子は父親の映画を企画するほどに好意的だ。
百人ちかい年配の男たちが集まっていて、一人ずつ順番に、私だよというセリフを繰り返している。オーディション風景なのだと予想できるが、その後に起こる父親の帰宅を暗示する。花売りの老人に出会うと、父親の面影を認めて追いかけていく。
港まで来て見失うが、そこには花売りとそっくりな、老いた父親が下船して待っていた。顔をあわせると、キスはしないのかと要求されて、2人の子どもはあわててあいさつにかえた。帰ると母親(カテリーナ)が待ち受けていて、感慨深いはずなのに、そっけなくもみえる。
家には家族や友人が集まっていたが、父親は長年の不在からか、他人行儀なようだ。部屋を閉めて妻と二人になったあと、父親は来たときの格好に戻って、家を出ていってしまった。息子は追いかけて、母親と何かあったのかと問いかけている。
父親が向かったのは、これまでも利用したことのあるホテルだった。息子は多くは語らず、明日の約束だけをして別れた。翌日車で向かったのは、かつて暮らしていた村だった。
父親は帰郷の思いを深めてながめている。住居も残っていて、旧友(パナヨティス)も顔を見せる。革命をめざした仲間で、その後敵対する関係になってしまった者もいた。ギリシアを捨てて逃げた男を、良くは思わない村人も多く、本人の気持ちとは裏腹に、出ていけという声も聞こえた。
父親が逃亡したために、母親が代わりに捕まり、大変な思いをしながら子供たちを育ててきたのだという、叱責の声もあげられた。父親はここにとどまろうとするが、もはや国籍はギリシアにはなく、死者として抹消されてしまっていた。
住み着くと言い張っていた父親が、いなくなったといって大騒ぎをすると、警察が動員されて捜索が行われる。所有地内にあった小屋が、火をつけられて燃やされた直後に、父親は姿を消していた。
旧友も加わり探しはじめるが、鳥をまねて鳴らす口笛にあわせて、返事をする鳥の鳴き声が聞こえたことから、放置された家屋に潜んでいることがわかった。母親が向かうと姿を現した。逃げるとすぐに隠れてしまうのは、昔のままだと見透かされている。
警察は息子に父親を逃亡させないよう脅しをかけて、迷惑そうにして去っていった。反抗的態度に警察は、父親を国外追放にしようとする。弁護士をつけて対抗しようとするが、時間的に余裕はなかった。
父親はとどまり、息子たちは戻ろうとして母親に声をかけると、母親は私はここに残ると言った。息子は仕方なく二人を残してきた。警察は父親に強制退去を迫ってくる。ロシア船に乗せようとして強制的に連れ出すが、船は出てしまったあとだった。
母親と引き離しボートに乗せて船を追いかけ、ロシア人を乗せたいとアナウンスするが、船長は本人の意志を確かめなければ許可できないと答えた。仕方なく連れ帰り、今度は国境外の国際的中間点として、浮かべたブイに放り出してしまう。
父親は荷物を持ったままブイに浮かび、雨が降ると傘を差した姿で放置された。折から労働者を祝う会が大々的に開かれ、国外追放される老人が話題にされ、妻が舞台に呼び出されて、インタビューを受け、ひとこと思いを訴えた。
妻はいっしょにいたいと繰り返すと、聞き遂げられた。さらにはいっしょに行きたいとさえ言うと、息子も驚くことになる。32年の不在のあいだに、父親はロシアに3人の子どもを残していた。
にもかかわらず母親のロシアについて行くという決断が、ここでのポイントなのだろう。今頃になってどんなツラを引っ提げて帰ってきたのだという、妻の怒りを感じ取って父親はためらいを示したはずだ。しかしその怒りには喜びがこもっていたのである。
母親は父親に寄り添って、ブイに浮かぶ姿が写されて映画は終わる。このワンショットはいつまでも心に残るものだ。明け方は近く、次の日のロシア船に乗せられることになるのだろう。
夫婦の絆について、大いなるアイロニーを感じさせる一作であった。映画タイトルを伝説上、愛の成就する島として知られる「シテール島への船出」とした意図を読み取らなければならない。フランス語名で知られるが、もちろんギリシアに実在する島の名である。
第927回 2025年12月21日
テオ・アンゲロプロス監督・脚本、ギリシャ · フランス · イタリア合作映画、ディミトラス・ノラス、トニーノ・グエッラ脚本、原題はO Melissokomos、マルチェロ・マストロヤンニ主演、ナディア・ムルージ、セルジュ・レジアニ共演、122分。
映画冒頭での展開がとにかくおもしろい。人間関係が謎めいていて、隠された真実を探ろうとするが、手がかりは多くない。無口な主人公(スピロ)の数少ないことばと表情を読み取りながら、推理していくおもしろさを味わうことになった。
主人公ははじめ何者なのかがわからない。先生という呼びかけが聞こえ、やってきた客とのやり取りから、教育関係の仕事かと思われたが、蜂蜜を集めて旅をする初老の男だった。古いが門構えのある家に住んでいて、娘の結婚式の日から映画ははじまる。多くの客を招いてお披露目をしている。
新郎は軍人のようで軍服を着ている。結婚後はクレタ島への赴任が決まっていた。新婦は部屋に小鳥が入ってきたのを見つけると、執拗に追っていく。飛び去ってしまったようで、小鳥は消えてしまう。小鳥は写されないままで、何かを意味させていたのだろうが、思わせぶりで象徴的だ。
弟がいて大学受験を前にしている。集合写真を撮るというが、主人公である父親の姿が見えない。娘を手放すのが悲しいからか、ひとり感慨にふけっているように見える。写真を撮るときも正面を見ないで娘の顔をながめている。
母親(アンナ)はトレイに乗せた食器を、2階から降りる階段でひっくり返して割ってしまった。父親が目の前にいてそれを拾うのを手伝っている。これものちの暗示を含むものなのだろう。
父親はその後も姿を消して、客が帰ったあとに戻ってくる。玄関で新郎新婦、妻と息子が待っていて、どこに行っていたのか探していたと言っている。車が止まっていて旅立つようだ。娘を父親が抱きかかえていて、絆の強さをうかがわせる。
息子はタクシーを探してくると言い、新婚二人の車に便乗して出ていった。残された老夫婦の会話が気にかかる。これからどうするのかと妻に問うと、息子の受験があるのでアテネに行くと言い、そのあとこの家は売り払うとも言った。
息子がタクシーに乗って戻ってきたとき、妻は乗ったが自分は乗らなかった。別れを告げて車が去ったあとには、トランクが残った。それをもって駐車場に止めてあったトラックに乗り込む。荷台には人がかかえる大きさの箱が満載されている。
のちの場面になるが、蜂蜜を集めるのに蜂の入った箱を、一定の場所に並べる。箱を開いて網に無数の蜂がいるのを確認しているので、私たちもその仕掛けを理解することになる。風が吹いて箱の蓋が開いてしまうときには、あわてて重しの石を乗せに走っていた。
自宅をあとにしてトラックが向かった先には、仲間たちが待っていた。ひとりは結婚の祝いに出られなかったことを詫びている。蜂蜜づくりを生業としており、春のはじまる時期に、蜂蜜集めの旅に出ていた。年齢を重ねて、毎年のように仲間の数が減ってくるのを嘆いている。昨年は10人いたが、今年は半数になっている。5台ほどのトラックが連なって走っていく。
出発地にヒッチハイクの少女がいて、どこでもいいから乗せていってくれと、声をかけてきた。これから退屈な蜂蜜集めの話になるのかと思ったが、この謎めいた少女の登場によって、俄然おもしろくなっていく。そっけなく次に止まるところまでと答えて乗せてやる。給油所に来て放り出すと、車道にとどまっている。
いつまでもいるので、まだいるのかと言って、腹が減っているのかと聞くと着いてきた。そのあとも警戒心がなく、常宿のホテルにまで着いてくる。ツインのベッドに勝手に潜り込んでしまう。
朝になって食料を買ってくると、眠っていた娘は起き出してきて、勝手に食べている。タバコを買ってくるので金を貸してくれと言って男のポケットに手を突っ込んで、紙幣を取り出した。
帰ってきたとき幼なじみに偶然出会ったと言って、見知らぬ男を連れてくる。止まるところがないので一晩泊めてやってくれと頼む。夜になってライトを消してしばらくすると、隣のベッドでゴソゴソとしだし、娘の喘ぎ声が聞こえるに至る。
主人公は部屋を飛び出して、向かえのカフェに行き、朝になって男が出ていった頃に戻っていく。宿代を3人分請求されている。勝手にさせたまま腹立ちもしないのは、理解しがたいものだ。
トラブルはできるだけ避けたいという防衛本能なのだろうか。野望を失ってしまったのちの、無気力と受け止めることができるかもしれない。娘が肢体を見せつけて、主人公に誘いをかけても関心を示さないでいた。
娘はやがて姿を消してしまうがその後、町で若い男と連れ立っているのを見かける。急ぎ足で逃げると追いかけてきて、探していたのだと言う。娘は先に主人公の日程表を見ていて、時間と場所の予想をつけていた。
二人は行動をともにすることになる。主人公が実の娘を訪ねたときには、トラックで待っていた。長女で親の言うことを聞かないことから家出をしていた。結婚をして夫婦でガソリンスタンドを経営している。
父親はかつての無理解を詫びにやってきたのだった。長女も打ち解けているようだったが、トラックで待っていた娘が、外は冷えると言って入ってくる。夫がその姿を見て、不思議な顔をしている。そこで中断してその場を去ることになる。娘はトラックには戻らず、バスに乗りこんでいた。
フェリーでの移動のとき、ひっそりとしたデッキで主人公が、急に娘に迫って覆いかぶさっていく。驚いた娘は拒絶するが、こんなのは嫌だということばを繰り返した。やがて二人は自然な流れで結ばれることになる。
長期入院をしている旧友を訪ねることから、主人公の経歴が知られる。大学時代の仲間で、ともに進歩的な活動をしていた。3人が集まりひとりは資産家になっていた。海辺に出ると、資産家はいつのまにか素っ裸になって海に泳ぎ出した。コートを着る時期であり、病人は寒さに震えている。
主人公は教師をしていたが、やめて家業を継いで蜂の旅人になったのだった。若き日の夢が挫折していた。無気力の要因はここにあったのだろう。美人の女子大生がいて、みんなして狙っていたが、主人公の妻になったことも明かされた。
主人公は妻を訪ねて、連れ戻しにきたのだと言って、過去へと誘い抱き合うに至る。息子ももうすぐ帰ってくると言い、妻が3人分の食事を用意しはじめると、主人公は逃げるように去ってしまう。
場面が切り替わり、蜂箱の脇に寝そべっていたところが映し出されるので、主人公の夢見た願望だったことがわかる。取り返しのつかない、引き返すことのできない決意をしてしまったのだった。
娘との旅は、思い出の劇場を訪ねる中でも、違和感となって受け止められる。劇場に一泊させてくれと旧知の仲間に頼むと、妻も会いたいだろうからと自宅に誘う。このとき娘が連れとして出てくることで、空気が変わる。舞台上で娘は裸体になって、主人公と抱擁をして、ライトが当たって脚光を浴びている。
娘は飛び立たせてくれと言う。それは女王蜂になるために、働き蜂に課された任務だった。プロローグとして、誰に語っているのかはわからないが、はじまりに先立って女王蜂の話がされていた。
娘は去っていった。主人公は茫然として、並んだ蜂箱を一つひとつ叩き壊していく。無数の蜂が飛び交って、主人公を襲ってくる。顔を覆うマスクも手離していた。大写しになった手に群がりはじめると、やがて動いていた指は止まってしまった。蜂の生態を人の生涯と比較することで、感慨深い物語となった。
随所に盛り込まれる、意表を突いたできごとは、ショック療法とも言えるこの監督の特徴だろう。花嫁が急に小鳥を追いかけ、主人公が急に娘に抱きつく。長い暗転が続き、闇の中で男女の交わりを予想させる音だけが聞こえる。
一人にされた娘が、立ち食いの屋台で待っていて酔っ払い、男の手にかじりついて血だらけになるシーンなどは、その最たるものだ。暗示的でいつまても尾を引き、考えさせられることになるが、決して結論には達しないのである。
第928回 2025年12月22日
テオ・アンゲロプロス監督作品、ギリシャ・フランス・イタリア合作映画、原題はΤοπίο στην ομίχλη、エレニ・カラインドルー音楽、タニア・パライオログウ、ミカリス・ゼーケ、ストラトス・ジョルジョグロウ出演、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、ヨーロッパ映画賞作品賞受賞、127分。
12歳の少女(ヴーラ)と5歳の弟(アレクサンドロス)がまだ見ぬ父親に会いに、ギリシアからドイツに向かう話である。毎日のように駅に来て、ドイツ行きの国際列車を眺めている。姉はリュックを背負って旅立ちの姿である。顔見知りになった屋台の店員が、今日も来たのかと言っている。
弟に声をかけて走り込むが、決まってドアは閉まってしまい、列車は目の前を走りすぎていく。ある日、声かけが早すぎて、列車に乗ってしまった。弟はとうとう乗ってしまったねと姉に語りかけた。
車掌がやってきて、切符がないことから次の駅で降ろされた。駅員によろしく頼むと預けられ、問いただされるが何も答えない。それなら警察の仕事だと駅員が言うと、やっと口を開いた。
母親から聞いていたのは、父親はドイツにいるということだったが、そのことは言わずに、叔父に会いにいくのだと言う。叔父のもとに連れていかれ、無賃乗車の報告がされ、引き取ってもらおうとした。
叔父は確かに妹の子であるが、ここに置いて行かれても困ると、引き取りを拒んだ。二人は母親からもやっかい者だと見られており、父親は誰だかわからないというのが真相だった。
少女はそんなことはない、父はドイツにいるはずだと信じて、あきらめなかった。弟も夢で父親と出会っていて、はっきりとその姿を覚えている。警察から逃れ、雪の降り出したのを見上げる職員の、時が停止したように固まった中を逃げていく場面が印象的だ。
弟と二人の無賃の旅が続いていく。旅すがら多くの出会いがあった。列車では車掌の巡回をかいくぐることになるが、徒歩でのヒッチハイクも経験する。空腹を満たす必要もあった。
弟は歩いていてたまらず店に入り、サンドイッチを注文している。金はあるのかと問われて、首を振るとテーブルの片付けを命じられることで、食にありつけた。
ヒッチハイクで親切に止まってくれたトラックの運転手もいた。どこまでだと問われると、その先までというあいまいな返事をしている。カフェでは食事もさせてくれたが、短気なようで店の客とトラブルになり、すぐに店を出てしまう。
子どもたちには車で食べるよう追い立てた。トラックに戻ると、仮眠をとるといって荷台に向かった。しばらくして運転席に戻ってきて、少女を誘っている。弟は横で居眠りをしていた。
覆いがされた荷台が長時間写され、男が降りてきて、その後少女が衣服を乱して出てくる。弟が起き出して、姉がいないので声をあげている。姉は遠くまで走り去っていた。その後体調を崩すが、弟には何も言わないでいた。
徒歩での長距離を案じて、声をかけてくれた若者(オレステス)がいた。大型バスを運転していて、旅芸人の一座に属していた。そのとき若者は一人だったので怪しんで警戒していた。団員は劇場の準備に出かけていたが、思うように仕事が入らなかった。
若者はバイクも持っていて、バスに積み込んでいた。兄のような存在となり、二人を前後に乗せて走らせて、食事の世話もしてやっている。劇団は不調で舞台衣装も売りに出るような始末だった。
若者は劇団から離れて、姉弟と行動をともにすることになる。バイク仲間の集まりにも連れて行くと、性能に目をつけた男が、譲ってくれないかと誘ってくる。若者は姉弟との絆を深めていく。姉も若者を慕っているようだった。二人が沈黙でたたずむ姿を、弟がじっと見つめている。
それでも姉弟の意志は揺らぐことはなかった。鉄道を選んだ姉は駅で待っていた兵士に声をかける。姉は国境を越えるまでの運賃を、先に窓口で聞いており、それに見合った額を兵士に対して、いきなりもらえないかと持ちかけている。
兵士はためらいながらも、その意図を理解して、線路を降りて列車の並ぶわきに向かった。少女も降りてそれに着き従った。面と向かうと兵士は、もじもじしながらも、罪悪感からか我に返ったように紙幣をポケットから出して、何もせずに立ち去ってしまった。少女は金を手にすると一目散に走り帰った。
車中では弟とふたり、ゆったりと座席に着く姿があった。手には切符を握っている。国境に近づくと、アナウンスがありパスポートの用意をするよう指示された。ふたりはまたしても列車から隠れて降りることになる。
夜中になりふたりは川岸にいる。ここを渡ればドイツだと姉が弟にささやく。ボートが用意され、暗い中を漕ぎはじめると止める声がかかり、暗転となり銃声が響く。銃声が一発なのが気にかかるが、それは一発では二人は殺せないだろうと思うからだ。
しばらくののち真っ白の霧に覆われて、二人の後ろ姿が現れる。この世のものとは思えない世界である。霧が晴れると正面に一本の大木があり、それに向かって歩き始めている。たどり着いて木を撫でる光景を映して映画は終わる。
そこには確実な手応えがあったように見える。それはまだ見ぬ父に触れた実感にちがいない。混沌から光が現れ、大地や樹木が顔を出す姿は、確かにナレーションで語られた「創世記」の一節にほかならない。
第929回 2025年12月24日
テオ・アンゲロプロス監督作品、原題はΤο βλέμμα του Οδυσσέα, To Vlemma tou Odyssea / Ulysses' Gaze、エレニ・カラインドルー音楽、ハーヴェイ・カイテル主演、マヤ・モルゲンステルン、エルランド・ヨセフソン共演、カンヌ国際映画祭審査員特別賞、国際映画批評家協会賞受賞、177分。
ユリシーズは古代ギリシアの詩「オデュッセイア」に登場し、各地を遍歴する英雄の名である。他方で青い蝶という意味もあることから、冒頭のイメージは誕生したようだ。
海岸に映写機を設置して、青い船が通るのを待ち構えながら死んでしまう老カメラマンがいる。青い船がやってきて帆を張ると、青い蝶が羽を広げたように見える。エーゲ海に映えて美しく、瞳とは美を定着させたカメラの眼を意味するのだろう。
20世紀の初頭、ギリシアの変動の時代を生き、国土を映像に残した映画術草分けの頃の二人の映写技師(マナキス兄弟)の足跡を追う。糸巻きをする女が登場し、当時の生活風景がモノクロ画面に定着している。
アメリカの映画監督(A)がやってきて、彼らが残した3巻の未収録の作品を求めて、戦火の続くサラエボにまで足を伸ばす。監督はギリシアには35年ぶりの訪問だと言っている。その頃に愛を交わした娘と似た女性を、町で見かけて追っていく。そんなに若いはずはないが、数十年前で時間は止まっていたということなのだろう。大通りでのデモの弾圧にまぎれて見失ってしまう。
監督の目的は映画博物館からの依頼を受けて、この兄弟の記録映画を撮ることだった。バルカン戦争から第一次世界大戦の時期で、ギリシアは落ち着ける地ではなく、兄弟も各地を転々としていた。
国境をいくつも越えて足跡を訪ねることになるが、まずはタクシーを雇って移動をはじめる。途中で困っている老女を乗せてやると、46年ぶりに妹に会いにいくのだと言っている。
聞いていた地名まで来ると、タクシーは止まりおろされるが、老女はおりてどちらに行けばいいのかがわからずたたずんでいる。にこやかに別れを告げてタクシーは先を進むが、親切があだになってしまったかもしれない。何十年たっても変わらない街並みはあるのだろうが、それとはちがって、戦争に明け暮れた地域なのだと理解することにもなる。
映画博物館は依頼したものの、予算は限られていた。監督は私的な目的でもあると言うことで、心配りをしてみせた。博物館を訪ねて、展示品を熱心に見ていると、声をかけてきた女性スタッフがいた。彼女もまたかつての恋人と同じ顔をしている。仕事を終えて帰宅を急いでいるようだった。
構わず監督は、兄弟のわかっている足跡を話す。映画館を経営したがうまくいかず、兄弟は別れ別れになり、死後に作品はユーゴスラビアの映画博物館に保存された。3巻はその中に含まれていたのだろうかと問いかけるが、女性スタッフには関心なさそうに見える。
監督は熱心に語り尽くして、それらは未現像なのだと言う。多分最初の作品で、何とかしてそれを見たい。それは世界を見たはじめての眼差しにちがいないと、監督である自分のことも引き合いに出して語る。
熱い口調は恋人に向かうように熱を帯びてきて、はじめ煩わしげにしていたが、やがて娘は引き込まれていく。最後に二人は口づけをするに至る。女にとっては勤務を終えて帰宅の列車内でのことだった。国際列車であり降りる駅を通り越して、男について国境にまで向かって行った。
列車を降りて国境を越えることになる。女はパスポートを見せてすんなり通過するが、男は足止めを食う。別室に連れていかれて尋問を受けている。まるで犯罪者に向かってのような口調で責め立てられた。監督も容疑者になりきったようにして受け答えをしている。
弟は逃亡してしまい、取り逃したと言っているから、監督は兄のほうだとみなされているのだろう。家宅捜査をされ、写真やフィルムは没収され、そこから武器や爆発物も見つかったことで、死刑の判決がくだったことも告げられる。
刑は戦後になってからになると聞いて、その場を離れ再度検問所を通過することになる。パスポートを出して見せると、今度は問題なく通過できた。女は遮断機の向こうで待っていて、何をしていたのかと問うが、我にかえることなく、つじつまの合わない返答をしていた。
不可解で奇妙な映像はさらに続いた。駅に着いたとき、窓から見かけた婦人を、監督はお母さんと言って追った。婦人も息子だと思って対している。屋敷に連れて行くと、一族が大勢集まっていた。
母親は列車が遅れたと言い訳をしている。祖父も叔父もいて、一人ひとりにあいさつをしていくが、監督はそれぞれの名前をしっかりと言うことができた。少女は姪たちに見え、監督にまとわりついている。実際には同年齢であるはずなのだと思い直す。
突然、父親が汚れた身なりで帰ってくる。ながらく囚われの身であったようで、みんなして祝福している。監督を呼び寄せて、息子だと確認して、大きくなったと感慨深げに語った。
次には治安維持の組織がやってきて、この家の主人を逮捕して連れ去っていく。新年を祝うパーティの最中だったが、気を取り直して1945年を祝って歌い踊っている。
さらに続いて人民委員会のメンバーがやってきて、2階にあがって解体された家具を持ち去っていく。同じように蛍の光のメロディが流れて、新年を祝う声は繰り返され、今度は1947年、さらには1950年おめでとうと言って喜びあった。
集合写真を撮るというので、何列かになって集まり、最後に呼ばれると監督が返事をする声が聞こえた。集まりのまんなかに加わったのは、はじめて見る少年であり、幼い頃の裕福な映写技師の姿だった。何気なく見えるのに、あっと驚く情景に驚嘆する。
3巻のフィルムを求めて先を進むことから、娘と別れを告げ、今度は川をくだる。巨大なレーニン像が解体されて、船に乗せられている。頭部が放つ瞳の眼力は驚異的だ。この船に便乗しての不法入国だった。行き着いた先はユーゴスラビアで、旧知のジャーナリスト(ニコス)が出迎えた。
映画博物館に向かうが、3巻のフィルムの行方は知られなかった。現像されないままあったが、現像の専門技術をもつサラエボの研究者(イヴォ・レヴィ)が持ち帰ったのだという。今は戦争が続いていて、終戦までは身動きが取れない。
監督はどうしても行きたいと言うが、自殺行為だと反対する。それでも強く望むと小舟でのルートを手配してくれた。夜の闇に隠れて目的地に向かう。同行した案内役は若い娘だった。
顔を見るとまたしても恋人と同じだった。早朝に川岸に着くなり駆け上がり、家屋に入っていった。自宅だったのだろう、大声を上げて嘆いている。夫を亡くしたのだということが、男女の並ぶ写真立てからわかる。
戦時下をフィルムを探してさまようことになる。町中では戦火のあとが残り、大砲の響きが続いている。見つけ出すが、映画博物館は破壊され、研究者は秘密の研究室をつくって、過去の映画遺産を個人的に管理していた。
3巻のフィルムも保管していたが、現像はされないままだった。失敗を恐れたことに加えて、警報が鳴れば避難を余儀なくされる状況では、現像もままならなかった。
監督の励ましと後押しもあって、現像室に閉じこもってチャレンジをしはじめた。娘(ナオミ)がいるようで、父親を訪ねてきた。見るとまたしても監督の恋人と同じ顔をしていた。これで4人目の登場となる。
自宅はこの研究室からは離れていて、娘は現像室にこもる父親とは顔を合わせずに戻っていった。現像は成功し研究者は監督のおかげだと喜び、ふたりして映写機をまわしなが笑いあっている。何が映っているかは、私たちには見えない。
霧の中で自分たちは日常生活に戻れるのだという。狙撃兵も狙いを外すので、霧の日には外に出てきて、民族音楽を奏でて歌い踊るのだ。二人も成功を喜んで浮かれて外に出ると、同胞が集まっていた。
娘だけでなく、研究者にとっては孫になる子どもたちもやってくる。監督は娘と顔を見合わせている。感慨深げに見つめあうのは、監督にとってはかつての恋人を、娘にとっては亡くしたのかもしれない子どもたちの父親を思い浮かべてのことだっただろう。
先に道先案内の女性とも同じような感覚に襲われて、抱擁しあうに至った。娘は監督がもう一度戻ってくることを懇願している。監督も帰らなければならないが、きっと戻ってくると約束をしている。
子どもたちが先を進み、悲劇が起こる。白い霧におおわれて何も見えないが、音だけが聞こえる。子どもたちが兵士に捕まり、母親が走り、銃声がすると祖父も続き、さらに銃が連射され、車が走り去る音が聞こえた。監督がたどり着いたときには、全員が殺害されてしまっていた。監督は狼の遠吠えのように、声を上げて泣いている。
第930回 2025年12月25日
テオ・アンゲロプロス監督作品、原題はΜιά αιωνιότητα και μιά μέρα、英題はEternity and a Day、エレニ・カラインドルー音楽、ブルーノ・ガンツ主演、イザベル・ルノー、アキレアス・スケヴィス共演、カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞、132分。
不治の病いをかかえた詩人(アレクサンドロス)と難民の少年との心のふれあいを軸にして、家族が織りなす人間模様を描く。初老の詩人は入院を決断して、旅に出るのだと言っている。犬を飼っていて、連れて行くことができず、預けることになる。
妻(アンナ)は亡くなり、家には3年前から身の回りの世話をする女性(ウラニア)が来ている。娘(カテリーナ)がいて結婚して独立しているので、犬を連れていって頼んでみる。父親との関係は良好だが、夫が犬を好きではないようで、嫌がっているのを感じ取って引き返した。
行き来に車を運転していると、驚きの光景を目にする。信号で停止したときに、少年たちが一斉にモップと洗剤を手にして走り出し、止まっている車のフロントガラスを拭きはじめた。
料金を要求しようとするものであり、同時に警察隊が少年たちを追いかけると、蜘蛛の子を散らしたように逃げ出した。主人公の車にも一人の少年が近づくが、警察に捕まらないように、車に乗せてやり、急発進してその場をあとにした。安全な場所まで来て、逃してやることでにっこりと笑いあって別れた。
その後、同じ少年が不良に絡まれて、トラックで連れ去られるのを目撃する。追いかけると、難民でやってきた子どもたちを集めて、人身売買する組織だと知る。
子どもを欲しがる家庭の男女が集まっていて、闇取引の場になっていた。主人公が客を装って潜り込んでいくと、少年たちが一列に並べられて品評会がされていた。そのうちの一人が、急にガラスを割って逃げ出した。
混乱に乗じて主人公は少年を抱きかかえて立ち去ろうとする。見張りの3人がにらみを効かせていたので、財布をはたいて、支払いをして少年を連れ戻すことができた。
山を越えてギリシアまで国外逃亡してきた、隣国(アルバニア)からの難民の子どもたちが数多くいて、この少年もそのひとりだった。バスに乗せて送り返そうと現金を渡すが、乗ったはずが降りてしまっていた。
食料を買いに目を離したすきに逃げ出そうとする。カフェに行き、タクシーを探して国境にまで届けてもらおうとするが、困難な事情はうかがえた。戦時下で村は攻められて破壊され、戻されても家族もいないのだと言う。
主人公は明日は入院を決めている。旅立つので連れてはいけないと断りながらも、むげに少年を切り捨てることもできないでいる。結局は少年を連れて移動することになる。二人がバスで並んですわり、にこにことして笑みを浮かべる表情が印象的だ。
海辺の村で結婚式に出くわして、新郎新婦が踊りあい、まわりで家族や友人が祝福している。フォークロアに根ざした音と映像が見どころとなっている。新郎の母親が登場すると、主人公の家での世話係の女性だった。引き取り手のない犬を、そこで預けるために連れてきたのだった。
亡くなった妻が回想場面で繰り返し登場する。若く肉感的な美貌の女性で、主人公を愛している。主人公の母親も出てきて、息子は優しいことばを投げかけるが、嫁への対向意識があるのか、人間関係がしっくりとはしていない。
主人公は詩人であり、ことばには敏感だ。少年の口ずさむ歌の歌詞に反応し、新しいことばを見つけてくれば、買い取るとも言った。落ち着きを取り戻した少年は、大人たちのそばに行って、会話に耳を傾けては主人公に伝えている。
ことばを買い取るという発想は、先行するギリシアの詩人(ソロモス)に由来するもので、主人公はこの詩人の研究にのめり込んでいて、詩作をやめてしまったのかと、自分の娘からも指摘されていた。マントを着たこの詩人が、海岸でもバスの中でも、くりかえし登場していた。
妻は社交的で多くの知人を集めてパーティを開くのを楽しみにしていた。主人公が孤独に詩作に向かうのとは対極にあるものだ。主人公との人間関係を、それぞれの人物像で個別的に見ていくと興味深い。
慈愛に満ちたものではあるが、深入りするものではない。娘への思いは強いが、夫に遠慮したものだった。以前住んで思い出の残る、海辺の屋敷を売却したと告げられると、怒りをぐっと抑えている。母親にも遠慮がちな他人行儀なものに見える。少年にも自分が引き受ける前に、できれば本国に送り返そうとするものだった。
飼い犬についてもかわいがるが、最後までめんどうをみるというような責任感はない。妻は亡くなっていて、今ではよき思い出しかないかもしれない。性格的には一致するものではないように見える。
主人公の「明日の長さは」という問いかけに対して、妻が答えた謎めいたことば「永遠と一日」が、この映画のキーワードとなった。妻の詩人としての語感のよさは認めていたのだろう。残された妻の手紙の保管を娘に委ね、読み上げてもらいながら、その響きを聞いていた。
一日は死期の迫った主人公に残された、最後の一日と対応するのだろうが、妻は3年前に亡くなっていて、夫の命が明日で終わるなどとは知るはずはない。最後の一日とその後の死というならば、「一日と永遠」というほうがふさわしい。それを逆転されたところに、この禅問答の真意はある。
それは詩的発想でもあるのだが、体勢が変化するわけではない。日常生活でいえば買い物をしてお釣りをもらうときのことを考えるとわかりやすい。海外旅行をするとしばしば小銭を先にくれて、あとから紙幣の釣りが出てきて、驚かされることがある。貰ってしまえばどちらも同じだではあるのだが。
主人公は最後に弱音を吐いて、少年に離れないでほしいと訴えている。少年は兄のように慕っていた仲間(セリム)を事故で失っていた。いっしよにいれば、自分は一人ぼっちになり、他の仲間と行動をともにすると言って去っていった。
妻も別れを告げ、同じように多くの知人たちと行動をともにしている。主人公は入院するのをやめるとまで言うが、突き放したように見える。少年と海岸のベンチにいるときに、医師と顔を合わせている。
入院を前にして外出していたことで、主人公はためらうが、医師は主人公の深刻な決意に、大した興味は示していない。こんなところで言うのもなんだが、私はあなたの小説や詩のファンだと言って立ち去った。この肩透かしの答えがなんともいい。
第931回 2025年12月26日
テオ・アンゲロプロス監督作品、原題はΤριλογία - Το Λιβάδι που Δακρύζει;Trilogia: To livadi pou dakryzei、エレニ・カラインドルー音楽、アレクサンドラ・アイディニ主演、170分。
ギリシア人の難民家族が、戦争と内乱に翻弄された悲劇を描く。50人を超える一族が徒歩で湿地帯を歩いている。川を挟んで対岸から、お前たちは何者だと声をかけられる。
先頭に立って歩く一家の主人(スピロス)がリーダーのようで、妻(ダナエ)と二人の子どもを連れている。男(アレクシス)は5歳、女(エレニ)はもっと小さい。年齢がわからないのは、自分たちの子ではないからで、ロシア(オデッサ)から避難する間に、親を亡くしてひとりで泣いていた幼児を連れてきたのだった。
一族は場所を見つけて住み着くことになる。歳月が立って、幼児は大きくなり、小舟に乗せられて帰宅する。子どもたちが名前を呼んで帰ってきたことを告げている。
幼児は娘になっていて、部屋に休ませると、小声で話す声が聞こえる。生んだ子は双子であり、子どもを欲しがる裕福な家庭にもらわれて行ったことが報告されている。
公にできない事情があったようで、出産も親戚筋をたよって秘密のうちに済ませていた。父親にはこのことは隠したままで、別に結婚が用意された。式の当日になって花嫁は姿を消す。
かけ落ち相手は同じ家族の兄だった。血のつながりはなく二人は愛しあって逃亡する。父親は烈火の如く怒りを爆発させる。車で移動中の楽団員に助けられ、トラックに便乗することになった。劇場内のボックス席を仕切って部屋にして住み着いていた。
その一室をあてがわれて落ち着くことができた。ヴァイオリンやクラリネットやトランペットを中心にしたジャズ編成で、駆け落ちした男のほうはアコーディオンの演奏で才能を発揮していた。
バンドのリーダー(ニコス)が目をつけて、仲間に引き込もうとする。突然娘の名を呼ぶ父親の大声が響き渡ると、リーダーは危険を感じ、二人を逃げさせた。居どころを探りあてた、父親の怒りは驚くような事実を明らかにした。娘は自分の妻であり、息子はそれを奪い去ったと言うのだ。
もちろん父親には妻がいて、息子の母親だったが、一族をまとめる権力者としての支配を見せるため、力を誇示しようとするものだった。娘はいつ父親が姿を現すかと、恐怖に怯え続ける。
息子の音楽の才能は知られることになる。演奏を聞きつけた、大手の興行主からも声がかかり、アメリカへの進出も話に出る。娘がそのやり取りを耳にしてしまうと、自分は置いていかれるのだと思って姿を消した。
夜の波止場で酔っ払いのグループから声をかけられて浮かれていたところに、男がかけつけて一人置いて行きなどはしないと宥めて、連れ戻すことができた。女は孤独を解消するために、産み落とした双子のわが子に会うことを望んだ。
ヴァイオリンを習う上流階級の生活を身につけていたが、男があいだを取り持ってやがてなつくようになり、結果的には二人を引き取って家族として育てることになった。
男の演奏活動も順調だったが、演奏中に突然恐れていたことが起こる。父親が姿を見せて、二人の前に立ちふさがる。娘をダンスに誘って、抱き寄せて踊りはじめた。息子は伴奏を担当していて、昔を懐かしく思い出させるメロディでもあることから、娘のステップはしだいに父親に同調していった。
暴力的に引き裂かれるのかと警戒したが、そうではなかった。父親は病いを得ており、踊りを終えて引き下がると、倒れて命を落としてしまう。死期を予感して、愛する娘を探しあて、会いに来たのだった。
父親の葬列は一族をあげて、壮大に行われた。遺体は棺桶に入れてイカダに乗せ、ゆったりと川を下っていく。遺族は同じくイカダに直立不動で並び、まわりには小舟が取り巻く。川岸には黒い旗を掲げた村人たちが列をなした。
父親の住む屋敷は、他の住民に比べて一際立派なものだった。父の死後、息子一家が戻ってきて住み着くが、ある日突然ガラスが割られはじめ、2階に逃げる。石を投げられ子どもたちはおびえている。権力を行使していたことから、それに反発する者も多かったということだろう。父親の飼育していた羊は何頭も、殺されて大木に吊るされていた。
加えて自然災害に見舞われ、一階に水が溜まり、二階に避難する。さらに村全体が水没してしまう。土地を捨てることを余儀なくされてしまった。生活が困窮しはじめ、男は家族を置いてアメリカに渡ることを決意する。
バンドで稼ぎ、市民権を得て家族を呼び寄せると言って船に乗った。戦争の影が大きくなってくると、双子の兄弟は従軍する年齢にもなっていた。内戦となり兄弟は政府軍と反乱軍に分かれて、戦い合うことになる。
父親はアメリカ人として従軍し、太平洋戦争で戦死した。オキナワでの過酷な状況を知らせる手紙が届いたのは、死後4年たってのことだった。娘もまた反戦運動を支援したことから、投獄され何度も収容所を転々とした。
息子たちが従軍したことが知らされると、その功績から放免された。息子たちの戦死を知ると、現地に向かい立ち入り禁止の区域まで近づいていく。息子の横たわる姿を肌身に感じている。見上げると水没したままの村の風景が広がっていた。
エレニというロシア人女性が、ギリシア人家族の中で最後まで生き抜いたという物語だった。私はいくつか大事なセリフを聞き逃していたのかもしれない。
一家の母親の存在は希薄で、長である父親の影に隠れている。母親が早く死んだというなら、父親は大手を振って、血のつながらない娘を、妻にできたはずだ。娘の妊娠相手はどこの誰かわからないよりも、兄だったという解釈が妥当なものになるだろう。
いずれにしてもことば少ない描写は、多様な解釈を可能にする。ロシア革命の発端となったオデッサから引き上げるギリシア人が、親を亡くした幼児を連れ帰ったというなら、この娘はエイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」で、母親がロシア兵に射殺され、オデッサの階段から落ちていく、ゆりかごに乗っていた、あの赤ん坊なのかもしれない。