2025年9月6日(土)~ 11月24日(月)
兵庫県陶芸美術館
2025/9/24
現代に生きる民藝というポイントの展覧会である。柳宗悦、バーナードリーチ、富本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎というビッグネームの展覧会は、これまで繰り返し見てきた。今回はそれに加えて、それぞれの血筋を追うことで、裾野をのばそうという試みに見える。
新人というわけではないが、民藝理解のための第二段階となるものだろう。民藝ふうを保ちながら、師匠の様式を受け継ぎ、なおかつ自身の造形を加える。それを作家性と呼ぶなら、民藝が嫌ってきた概念かもしれない。
無銘性という概念は、民藝運動にとって重要だが、無名性とはちがっているような気がする。今回の展覧会で、導入部に並べられたのは、朝鮮半島で生み出された、まさに無名の工人によって製作された器物である。
とはいえ時が経って無名になってしまったということもあるだろう。当時は有名だったが、今に残っていないということもあっていい。風雪に耐えて、作為的な手の跡が消え去り、自然の造形だけが残ったのかもしれない。
リーチを見ながら、荒けずりな造形性は個の表現にちがいないが、デザイン感覚に裏打ちされた、本来は相容れない対極の価値観が同居しているような気がする。リーチの造形の延長上に、ルーシーリーやハンスコパーを置くことで、民藝のくくりを広げようとしているようにも見える。彼らの安定の悪いうつわは、民藝への反逆のようにみえる。
どう見ても民藝とは似ても似つかないものが持ち出されているという印象だが、血の系譜を考えると、同じ血筋なのだと主張することはできる。親子なのにこんなに違うものかという驚きは、日常生活では茶飯事あることだ。
親を乗り越えようとして、子が対極の美を提唱することがある。それも親のスタイルを意識してのことだとすると、無関係で生み出されたものではないことになる。そして両者の対立は3代目に受け継がれて、解決の糸口が見つけ出される。
こうした継承のあり方が理想だが、何の疑問もなく親のスタイルに追随したり、ただの逆恨みに過ぎない場合には、発展は見込めない。今回は8名の作家に絞られて、紹介されていた。私たちがそれぞれの作品を、民藝の文脈で見直すことは重要だが、それぞれの作家に民藝運動の評価を、短くてもいいので、ことばで語ってもらうことが必要だった気がする。
ポスターに選ばれた黒い「土瓶」(駒井正人 2020年 )は、現代の民藝にふさわしいもののように見える。昔ながらの鉄瓶に見えるとすれば、土に根差した民芸品そのものであるし、しゃれたデザイン感覚は、現代の感性にアピールしようとしている。
もしこれが真っ白であったなら、ちがった見え方がしていただろう。土の匂いのする野暮ったさと図太さが、民藝をイメージづけてきた。にもかかわらず原点となった朝鮮半島のやきものは、汚れの混じった白い肌を持ったもので、素朴なかたちを特徴としている。
自然にできたおおらかさと言ってもいいが、そこに施された紋様は、消え入りそうな華麗な草花であり、この組み合わせが私たちの心に響いてくる。言ってみれば形は縄文なのに、紋様は弥生なのである。
縄文と弥生を対極の美意識として見てきた歴史がある。弥生土器は縄文のもつ荒くれた造形性を否定して、デザインのもつ日常性を対抗させてみたように目に映る。しかしそれが同じ日本の土壌から生まれた同質のものだと見れば、すでに縄文の中に、弥生の美が内包されていたとも言える。
民藝を一つの美意識ではなくて、民族の血の中に眠る二つの感覚を通して見直して見ると、視野はひらけてくる。ここで選ばれた8人の現代作家は、民藝という血によって結びついているのだとすれば、変容の底辺で支えているものがあるはずだ。
民藝を宗教だと考えればわかりやすいかもしれない。創始者である柳宗悦が残した膨大なことばかある。それをバイブルとして、製作が受け継がれていく。柳は美術家ではないので、実製作を行う者にとっては実現不可能な、ときには反発もいだくものもあるはずだ。
それも含めて聖典を鵜呑みするのではなくて、創作の礎にしてきた系譜があり、そうした血によって継承されてきた歴史に道すじをつけようとしている。プロローグは、朝鮮半島で生まれたやきものだったが、それに対してエピローグで挙げたのは、柳宗悦の息子のひとり、柳宗理の名だった。さすがにプロダクトデザインまでは、展示されなかったが、この企画者が民藝の展開として、そこまで考えようとしていたことがよくわかる。
血を強調することは、ときとして道を誤ることがある。歌舞伎や落語が血によって受け継がれてきただけではないことからもわかる。陶芸の世界もこれに似て、開祖から十五代以上続くのを競い合ってもいる。
民藝を横文字にして、インターナショナルなものにする意味はそこにある。リーチがイギリスに戻って展開したリーチポタリーの紹介が、新鮮に目に映った。肩を張らずに日常に埋没する必要がありそうだ。民芸ではなくて民藝だと、漢字にこだわっているうちは、まだまだほど遠い気がする。