第11回I氏賞受賞作家展 李侖京・築山弘毅 ウツシヨノカガヤキ

2022年04月22日~05月29日

岡山県立美術館


2022/4/26

 李侖京(イユンギョン)が見せるのは、鮮烈な赤である。民族の色だと言ってしまうと、たぶん短絡がすぎることになるだろう。2人展なのでいくぶん控えめなので、調和を保とうとする遠慮が狂気を鎮静させている。草木染という伝統的技法を現代アートで実現する。染織と日本画は相性がいい。その意味でもこの2人展は有効なものにみえる。李さんが大学院で師事したのは紬織の人間国宝として知られる村上良子さんだった。伝統を伝える渋味が、現代アートの暴走を食い止める。近年、ダンスとのコラボなど、自己主張するのではなく、他のメディアとの境界を探ろうとしているようにみえる。ほおっておくと極度な表現主義におちいるのに歯止めをかけ、情念をやさしくおおいつつもうとしているようだ。アートのみならず、ウィンドウディスプレイなどデザイン領域への展開が期待できるものだ。庭師として名高い重森三玲の書院とでもコラボは可能だ。

 ほとばしる赤の情念が暴走するのを、これまで何度か目にしたことがある。ひとりではたぶん自己増殖して崩壊へと向かうのではないか。異国の地で生きる不安や、そこから引き起こされる崩壊感覚も魅力的ではあるのだが、上昇と進化を目にしたいと誰もが思っている。真綿のように柔らかくつつむ繭のような造形の誕生は、その必然的帰結だとすると納得がいく。ときには逆転して赤い糸のほうが繭を傷つけようとして触手を伸ばしている。おおいつつむはずの繭が囚われようとしている。赤と白がせめぎ合いながら、葛藤を繰り返す。不思議なことに、やがて白い繭は染まって「赤い繭」が生まれる。今回のメインになった赤い繭は、芽吹いた命を乗せた小舟になっている。それが実を宿した枯れ枝だと見れば、葬送の水脈を認めることにもなる。しかしすべては暗示的で、解釈は読み取る側の邪推を読み取ることにしかならないだろう。つまりは黙って見ていれば伝わってくるものがあるのだ。

 会場では赤い画面の日本画が両者をつなぐ結束になっている。一瞬、李さんが絵画にまで手を出したのかと疑ったが、それは築山弘毅のスペースに属するものだった。沈み込んだドス黒い赤であるが存在感を宿していて、発散する赤ではなくて、吸収する赤というのが適切か。日本画と言ってよいのか戸惑いながら、荒々しい画面に静かで無機質な棒グラフがリズミカルに上下している。画面は湿潤な重厚さが漂っている。漆純という語をあててもいい黒光りのする表面だ。棒グラフはメタリックで、為替相場や株式の動向を示しているのだという。こんなモチーフが絵になるという驚きと、日本画という伝統的な外観との落差が、現代アートという文脈を際立たせる。

 意図しない動きへ向ける創作の追随は、意図しようとして、意志を反映してきたこれまでの制作原理を、白紙に戻す。制御できないいらだちが、画面をおおう無数の傷となって、自己主張を繰り返す。そのなかでグラフの上下運動は超然として、意志を曲げることも、生命を絶やすこともない。この二重写しが、冷静と情熱のあいだをゆききする。それが赤と白あるいは繭と糸のあいだにある工芸の感覚的な絆と共鳴しあって、二重奏をかなでている。

 緊張感のある、よい企画を見せてもらった。キャリアを積んではいるが、まだまだ知られていない作家たちである。芸術表現でも人はついつい偶像崇拝をしてしまうものだ。「THEドラえもん展」も悪くはないが、キャラクターにたよらない美術の純潔を応援していきたいとあらためて思った。パトロンとしてのI氏賞展の継続と人材の育成に期待する。加えてドラえもん展とだきあわせにして支援する県立美術館のかげの力もあわせて。

*2015/01/25 「李侖京 Lee yunkyung の絞り染め



by Masaaki Kambara