は じ め に:絵画のモダニズム

原始の教訓/モダニズムを読み解く/イズムの変遷/モダニズムの横暴/タブローの歴史/絵画の終焉/イズムの綱渡り/

第1回 2021年9月1日

原始の教訓

19世紀も終わる頃、スペインのアルタミラで洞窟壁画が発見されたとき、ピカソは驚嘆した。それによってこの牛がスペインと結びつくルーツだと確信したにちがいない。しかし絵画のモダニズムはすぐには信用しようとはしなかった。何もかもが今までとはちがっていたからである。目の前にいる野獣を観察して写生したとしか思えない迫力があった。

なぜヒトは絵を描くのか。暗闇のなかでかすかな灯火を使って描かれた洞窟壁画を、原始人たちは今日私たちが見るような明るい絵として見ていたわけではない。こんなにみごとな絵だとは思ってもいなかっただろうし、腕に自信があるなら明るい光のなかで見てみたいと思ったかもしれない。

暗闇のなかでしか描かなかったのだろうかと再度問い直してみる。きっと明るい光のもとでも描いていたにちがいない。洞窟のなかにあったものだけが二万年近く残り続けたのだ。残っているものがすべてというわけではなく、地上にあったものはことごとく風化してしまったはずである。そんなふうに考えてしまうのだが、それは地上にしか美術がない現代の私たちの思考の限界なのかもしれない。それ以前に洞窟壁画にしても墓の内部にしても、私たちは見てはならないものを見てしまったような気がする

洞窟壁画は今では洞窟内部の配置図で見ることができる。そこから似ているなと思ったのが、ピラミッドの内部を描いた透視図である。自然と人工のちがいはあるとはいえ、まがりくねりながら奥深くまで続いている。ピラミッドの内壁にも象形文字と絵画が描かれている。ここでもやはり内部は真っ暗で誰のために描いたのかという現代の疑問は、ともに起こってくる。

洞窟壁画とピラミッドには一万年のへだたりがあるが、地球の歴史から見れば一瞬のことだ。現代の人種とは異なるといってみたところで、目で見て手で描いたことにはちがいはない。つまり大して変わってはいないということではないのか。言語で伝わらないものがあるとしても、血では脈々と継承されている。言語がない先史時代にはさらに濃厚な血の系譜があったはずだ。エジプトでピラミッドがつくられ、内部空間に通路を張りめぐらせて、まるで宮殿内のように壁面に絵を描いた理由が、そのまま原始人が洞窟壁画を描いた理由に通じるのではないだろうか。

旧石器時代は穴の奥深くに入り込むことが重要だった。そこが母体の子宮内での安らぎの空間だったように思う。人類最初のアダームは土という意味だが、ヒトは土から生まれ土にかえる。そこには生と死が同居している。胎内での誕生の時間が、土に根ざした死の闇と交差する。新石器時代になって視線は地下から地上に移動し、興味は土から石に変化する。洞窟に入るのではなくて、地上に石を立てるのだ。それは人類の進化の過程を追憶するものだ。

石を立ち上げるのは、人類が二本足で立ち上がった記憶を追体験している。ヒトの感覚は触覚から視覚へと移行する。巨石文化は土から石が生え出てくるようにみえる。おそらくは土を破って樹木が芽吹き、皮膚を破って歯が生える姿を思い浮かべたのだと思う。乳児に歯が生え出る記憶が大地に跡づけられるのだろう。

ピラミッドに先立ってつくられたストーンヘンジを空から撮影した航空写真の一枚が、ヒトの歯が生え出ているように見えたことがあった。もちろん今では半分以上抜けてしまっている。石の数は数えてはいけないという迷信はあるが、 抜けた部分を補って数えてみると三〇本前後あり、大きな口をあけたヒトの歯の数に対応しているのではないかと思った。円環を取り巻く巨石と歯の数の一致は興味深く、コスモスのマクロとミクロの共鳴とみることができる。

ストーンヘンジははじめ磨かれて白く輝いていたようだが、それも歯と連動している。歯が骨の一種だとすると、ストーンヘンジは白骨を祀る墓石だということになる。それは大地に向けて大きく口を開いている。歯は異界に通じる目印として、その地に打ち立てられたのだろう。キリスト教中世の壁画や写本では、大きく口を開いた「地獄の口」が地下の燃えさかる炎を見せて描かれている。

閉鎖された暗闇の絵画から、現実空間の造形へという進化は、人類史の歩みではあるが、絵画や彫刻が独立した一個の単体ではなく、宇宙を場として配置された指標として、地下には壮大な体系があったのではないだろうか。現代では原始も古代エジプトも美術館や画集に収まると、すべてが「一枚の絵」になってしまった。

イメージを膨らませると洞窟内をおおう石灰岩の装飾は地下に広がる白亜の宮殿のようにみえる。絵画がはじまって数万年、人類は今もまだ描き続けている。しかし様相は大きく変化した。少なくとも光のもとでしか絵は見られなくなった。

モダニズムの絵画について、「見るものではなくて、感じるもの」だとはよく説かれる教訓である。視覚だけで把握してきた絵画に触覚を加えることで、重厚な実感のあるものにつくりかえたかったのだ。目をつむって手さぐりで感じるというのがその方法だろう。そう考えたとき洞窟壁画が身近なものとしてあらわれてくる。目をつむらないと感じ取れない。

見ることと感じることはたがいに反発しあうところがあって、両者を結ぶ役割が必要となってくる。この地点で全感覚を通して絵画にのぞむ「体感」が問題となってくる。ここで扱うのは今から高々200年の変化の話題である。目を閉じたり開いたりする、試行錯誤にも似た堂々めぐりを前提にして絵画のモダニズムはつづられていく。

第2回 2021年9月4日

モダニズムを読み解く

現代美術は見ても聞いてもわからないが、読めばわかる。そんなふうにして図版に頼らずモダニズムを読み解けないだろうかと考えた。見ないで聞こうとするのは、ただの横着に過ぎない。聖書が読めない時代、絵を見せながら語って聞かせてきた歴史があった。その受動的信仰を能動化しようとして、自力で「聖書を読む」という進化がたどられた。

識字率が急速に上がってくるのは17世紀オランダでのことだった。比喩的にいえば、先史時代が歴史時代に入ったことを意味している。読めばわかる美術史は、その後「図像学」として定着するが、それに先立って重箱をつつくような長い退屈な実証研究が重ねられていなければならないのはいうまでもない。

近代絵画に描かれているモデル探しがはじまっていく。探し出せば大発見の満足感を味わえるが、同時にそれがどうしたという徒労感も味わう。大画家の隣に住む無名の住民の戸籍探しに時間を割くことも起こってくる。

古画の場合でも同様で、キリストの隣にいる聖人は誰かという疑問が、無名の市井人を探るに似た些末な関心として追跡されていく。洞窟壁画が先史時代のものだとわかるには、そこに描かれている野獣が今は絶滅してしまっているという事実が有効になる。近代絵画に描かれている人物名がわかれば、その生没年や年恰好から制作年が推定されていく。

そうした事実の積み重ねが重要だが、それはあくまでも写真のような絵画である場合で、昔の人を思い出して、のちになって描くことは、写真ではできない絵画の特性だ。モデルに似ていない、さらには抽象絵画では機能しない方法論だ。

もちろん原始の画家が、描き損ねている場合は、野獣は絶滅していないことになる。絵画のモデル探しは、芸術研究とはならないで、いつまでたっても芸術とは何かにはたどりつかない。

芸術とは何かなどという哲学的命題は必要ではなく、実証的データだけを提供すればいいのだという、割り切った感覚の渇きもあるだろう。あとは自分で考えてくれという突き放した教育論だ。

あまりドライすぎるのもどうかと思うと、実証と推理が半々というあたりに最終的にはとどまるだろうか。十を知って一を付け加えるという謙虚と、一を知るだけで十の空想をめぐらせる冒険と、どちらに与するかという選択だ。

近代研究であまりにも知ることが多すぎるとき、耳をふさいで限られたデータだけを受け入れるか、あるいはそれさえも否定して自身の感性と直観にゆだねるかということも起こってくる。記録の残らない先史の造形や謎めいた画家に惹かれるが、それらは逆に確固としたデータがものをいう領域でもある。

近代の検証は必ずと言っていいほど逆のことを証明できるデータが、存在している。どんな苦難な時代でも、苦しいという証言と同じくらい簡単に、楽しいという発言を見つけることができるだろう。

3回 2021年9月6

イズムの変遷

21世紀に入って20世紀とは異なった新しい動向が出てきているはずだが、美術史上で確定するにはまだしばらくの時間がかかりそうだ。21世紀の最初の20年間をどうまとめるか。

椹木野衣の企画による「平成美術展」として現代アートの30年を回顧した試みがあった[i]。平成は西暦2000年をはさんで、20世紀の10年と21世紀の20年からなっている。それは決して平静な時代ではなく、このとき用いられた「うたかた」と「瓦礫(デブリ)」というキーワードはヒントを与えてくれる。終末を前に世の無常を感じた「方丈記」からの引用の「うたかた」が、テロや震災を経てコロナ禍、さらにはロシアによるウクライナ侵攻につながるカタストロフの「瓦礫(デブリ)」に共鳴する。

かつて終末の日が過ぎたのに地球が滅びない姿に安堵し、平穏なのを感謝してロマネスク美術が誕生した。西暦1000年をこえたころの話である。ルネサンス美術もペスト禍の克服からスタートし、世紀末の終末観をへて西暦1500年をこえて高みに登りつめた。16世紀に入り最初の20年を盛期ルネサンスと呼ぶ。

しかし21世紀がそれとは異なっていたことは、平成美術展が分析した通りである。世紀末を過ぎたのにますます終末の予感が高まり、ベルエポックなどとはいえない日々を世界的規模で経験している。逃亡先さえ地球上にはなくなってしまったという閉塞感から、カタストロフを前に、それを記録すること、むなしくあがくこと、ひたすら祈ること、さまざまな対しかたが、かたちとなって拡散する。

悲観的な見方が先行するのはいつの時代も同じなのかもしれない。老化の末にゆっくりと終わるのではなくて、ある日突然ぷっつりと終わる。先走って「コロナ禍でおわる絵画のモダニズム」という表題を思いついたりもした。

ここではモダニズムでのイズムの変遷を追いながら、美意識と歴史とメカニズムを探って生きたい。19世紀から扱うが、20世紀の前半までは評価も確定している。イズムの変遷では新古典主義から始まって新表現主義あたりまでの大きな流れはくつがえることはないように思われる。

一方では絵画史の掘り起こしもずいぶんと出てくる。印象派の画家は重視され定着しているが、当時のアカデミックな美術のなかでは異端であり評価は低かった。しかし時代の流行はもちろんあって、印象派ばかりがアメリカや日本で高く評価されすぎたときに、当時主流であったサロン系の画家が見直されてくる。

逆転してしまった評価の是正を、押しなべて見る時期は必要だろう。アカデミックな作家の名は今では埋もれてしまっているが、消滅したわけではない。いわばお蔵入りをした状態にあるということだ。

時代を通じて古典派とロマン派は対立しているし、その後の写実主義と印象主義も対比をなす。ポスト印象派とその次に出てくる象徴主義も同様だ。イズムの変遷はひとつの考えかたがあれば、それに対立する考えが出てきて、次にそれを調和するものが出てくる。

弁証法の原理に従って推移していると見るのがわかりやすい。新古典とロマンの対立は、20世紀に入ってもフォーヴィスムとキュビスムに引き継がれ、抽象とシュルレアリスムへと至る。同時代を二分する前衛ではあるが、両極に分かれている。

両者をうまく折衷すればと思うが、それは難しい。シュルレアリスムでありながら抽象絵画であるということは考えがたい。ロマン派であって新古典派であることはありえない。どちらに身を置くかという選択になるが、両者が対立し続けるわけではなく、それを乗りこえるものがやがて登場する。

そうした歴史のメカニズムは興味深い。それぞれの時点で大きな役割を果たす個人がいる。それは時代が生み出したキャラクターである。もちろん本人の天分があってのことではあるが。


[i] 「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ)1989–2019」2021年1月23日(土)〜4月11日(日)京都市京セラ美術館

第4回 2021年9月8日 

モダニズムの横暴

画家が個人として絵を描くのは生涯を通してのことで、イズムを中心に見ていくと矛盾をはらんでいることがわかる。キュビスムはピカソとブラックがつくりあげるが、彼らが生涯にわたってキュビスムを踏襲したわけではない。

イズムは創始者の手を離れ広がっていく。ことにピカソはカメレオンのように変貌し、独自の歩みをたどっていく。作家の生涯とイズムの変遷の整合性が取れないとき、この矛盾をどう解決すればよいか。

イズムに引っ掛けて作家個人を押し込んでいくと、それぞれが若い頃の仕事に帰着してしまう。ピカソを評価するときにも、やはり早い時期におこなったキュビスムの実験が重要であることに気づく。これらの仕事にパワーを感じるのは、やがて確立していく様式の源流がそこにあるからだ。それは有無をいわずこちらに迫ってくるパッションを宿している。

美術史にそってみるとモダニズムは若い世代が権威を否定し続けた前衛運動の歴史となってしまう。高齢画家の絵ばかり並べると全くちがう絵画史がつづられるのではないか。そうすると歴史とはなんだろうかという話にもなるが、ひとつは芸術の歴史は早い者勝ちの様相を呈している。

そんなことは誰かが10年前にやっているということになれば、それを先駆けた人の名が重要になる。先駆者のあとは型の継承が続く。絵のよしあしからいえば、後続のほうが仕上がりはよくなってくるものだ。

完成度では計れないのがモダニズムとして継承されてきた。発想やコンセプトの重視がイズムの絵画史をかたちづくっていく。「新しいもの」がモダニズムの価値観として定着する。多くがせいぜい30歳代半ばくらいまでの仕事としてつづられていく。

80歳をこえる画家は数多いにもかかわらず、容赦なく切り捨ててきたモダニズムの横暴に目を向ける必要はあるだろう。高齢画家の時間の進行を考えれば30歳より80歳のほうが半世紀も新しいはずであるにもかかわらず。

作家個人の問題として、制作を続けるということは、つねに進化し続けているという確信があってのことだ。最後の作品が最高の作品でなければ制作を続ける意味はなく、傑作はという問いに「次作」と答える諧謔に、作者と論者の乖離を認めることになる。

難しいところはあるが、ことに近代以降の美術史は新しいものの歴史に終始してきた。今後も今までにない新しいものが生まれたときに歴史に名が刻まれていくだろう。

型を継承し深めていく作業が、その後に続くはずだが、そこまではフォローすることなく、継続した熟成段階で次の新しい伝統が生まれ、そちらに興味は移行してしまう。新しいものこそ価値があるという基準が近代を牽引し、モダニズムという名の思想的基盤を築いていった。新しいものが本当にいいのかという問い返しはもちろんあるが、いまだに近代の名残は延々と続いている。

イズムの変遷は美術の考えかたの歴史であり、絵画をキャンバスの上に絵の具を載せているだけの話だとすれば、そんなに大差ないものとして投げ返すこともできる。

5回 2021年9月9日 

タブローの歴史

近代は「タブロー」という額縁をもった絵画の歴史を引きずっている。額縁に収まる範囲の話だ。絵は額縁だけではなくて、天井画もあれば壁画もある。映像の時代と化した現代では絵画は「網膜上」にのるすべてのジャンルを従えた感も強い。油彩画の伝統を継承しながら、一方で否定し一方で深めていく。

いまでも油彩画が絵画の主流をなす。日本画も水彩画もあるが、デッサンを出発点として画面を構成し、油彩画でのタブロー形式がとどめをさす。日本画では掛け軸や屏風や襖があるにもかかわらず、額装をして額縁をもったタブロー形式で描くというのが主流になっている。そこでは西洋画と日本画に区別はない。

タブローとは何か。例えてみれば「茶碗」のようなものだと考えればよい。タブローは絵画の商品形態のことをいうのだろう。タブローは今ではアートの領域を超えて、情報流通の道具として、タブレットの名で引き継がれ大衆化している。持ち運び売買の対象になったのは、油彩画を生んだオランダで育てられた歴史であったことが実証する。

茶碗には飯を盛ることもできるし、茶を飲むこともできる。飯を盛るのに必ずしもそれが必要というわけではない。洋食の場合は皿に盛られるし、戸外の場合は握り飯でもよい。にもかかわらずすべてを茶碗で代用することも可能だ。

茶碗に対するこだわりは茶の湯を通じて芸術の域に達したが、茶を飲むというパフォーマンスを中心に位置づければ、茶碗は単なる道具にしかすぎない。茶碗が「手のひらの宇宙」だというならば、タブローもまた「世界に開かれた窓」として、ミクロコスモスを内蔵し、その枠内には現実とは遊離した別世界が熟成する。茶碗になぞらえるとすれば、それはおもむきのある格調高い伝統を築くものといえる。このとき美術館は確かに茶室と対応関係をなす。

「平面」という点でいえば、日常生活で出てくる工芸などの分野とは異なる。出発点は窓にある。ルネサンスでは絵画とは何かという問いに、壁にくりぬかれた窓だという。世界に向かって開かれた窓が絵画の定義をなす。それが額縁を発明し、油彩キャンバスという組み合わせが定着していった。作品の大半は何の疑問もなくキャンバスの上に油絵を載せている歴史だ。

その思い込みにヴェルサイユの時代に引き続き釘を刺すのが、19世紀末のアールヌーヴォーの時代である。このときタブローに対する疑問が出てくる。絵画から離れて建築や装飾をおもしろがり、ロートレックのように版画からポスターなど日常生活空間のなかに分け入るものをよしとする。

純粋なタブロー作家ではなくて、ガウディやガレという建築や工芸にシフトしなおしていく。ロートレックはタブローも残すが、一方で評価されるのはポスターの先駆的役割である。

それは今までの絵画を乗りこえる方法だったが、反動と潔癖はもう一度絵画に戻ってしまう。それが20世紀になってからのフォーヴィスムとキュビスムだった。絵画の新しい変革は絵画から離れた世紀末の揺れ戻しのようにみえる。油彩画は衰退して滅びてしまってもよかったのだが、一命を取りとめて再起を果たす。

今までにない新しい絵画というフレームを築く。それまでは自然を写すというのが主流だったのに対して、20世紀に入ってからは心の内面の世界を映し出そうとする。映し出すというよりも、外に向かって「表現」するという主張をしはじめていく。現実とは全くちがう世界が画面上に作り出されていく。ルネサンス以来のこだわりは、自然をいかに静止させるかということだった。

遠近法はその最たる武器だった。遠近法を否定するところから絵画は再出発して、最終的には「色の塗られた平面」だという定義にたどり着く。できるだけ奥行きのないフラットな絵を模索する。奥行きがあるというのはそこに遠近法が入り込んでいることだ。

絵画は遠近法を長らく引きずってきたが、それが足かせになって、本来自由であるはずの絵が思うように描けなくなった。印象派はそれにヴェールをかけてぼやかせたが、フォーヴィスムやキュビスムになれば、誰が見ても奥行きのない絵画を実現した。

6回 2021年9月11日 

絵画の終焉

今ではマティスとピカソは美術史で大きな位置を占めるが、ある意味ではこれは終わりかけた絵画というシステムを、歯を食いしばって守ろうとした人たちだった。こうした賢者のおかげで、いまだに絵が描き継がれている。その段階でまた新しいものを生み出していくスタイルと、古いスタイルの遠近法が再評価されて戻ってくる。

シュルレアリスムは遠近法に回帰するが、それは日常を写す手法ではなくて、ありえない空間をとらえようとした。遠近法を逆手にとってトリッキーな空間が驚異をもって受け入れられる。超現実主義の名は現実をこえ、レアリスムを否定するのではなくて、もっとリアルにという立場をとる。絵画での実現に深層心理や夢の世界が導入される。

見えているのに描かれてこなかったものはずいぶんとある。ひとつは「夢」で、それはみえるけれども、なかなか覚えていないし、みえる通りに描こうとしても、眠っているときには手は動かない。みえる通りになぞることはできず、つまりは洞窟壁画と同じで「記憶像」ということになる。そこには深層心理やフロイトの精神分析がこの時代に出てくるので、人間の心理学を絵画と連動させて、絵画制作の重要な要素にしていく。

見るとはどういうことかという絵に対する問いかけが生まれる。絵画とは何かという問いかけがそれにつづく。そして絵画とは何かという絵画が誕生する。今までは何の疑問もなく絵にしていた。しかしこうしたメタ絵画となると、いかにも絵画の形はしているがそうではないものが登場する。

今までは手で描いていたところに、モノを貼り付ける。布地や新聞紙がリアルに描かれているので近づいてみると、現物がそのまま貼り付けられている。かつてはみごとに描かれたカーテンがあって、まちがってそれを引きに行こうとしたものだった。コラージュやフロッタージュという絵筆を使わない方法は、キュビスムあたりから出てくるが、シュルレアリスムで多様化していく。

筆で絵の具を塗るものだとされていた絵画観を問い直す。貼ることによって絵画は確実に平面となる。マティスの切り絵もその延長上にあるものだろう。ピカソはオブジェを用いて視覚のマジックを試みる。

新聞紙のコラージュは、数十年で変色し、美術品としての価値を問い直す材料となるが、そこに現代美術の思考には興味ある事実を教えてくれる。油彩画に貼り付けられた布や新聞紙はその部分だけが、ときに剥がれ落ちてもいるが、風化に似たような移ろいの時間を味わうコンテンポラリーアートに変貌する。日本では古来「日月山水図」が描き継がれてきたが、ゴールドで描かれた太陽は腐食することなく輝いている。

対してシルバーで描かれた月は、今では多くが真っ黒に変色している。それは時の経過の証言ではあるが、月という存在自体の特性でもある。変質ではなく変容であって、「うつしみ」としての身の置き所は、いつも太陽の影でしかなく、白から黒へのグラデーションこそが、月のアイデンティティをなしている。

数百年後にはシルバーはブラックに変わるのだという事実を、中世のアーティストはコラージュをして楽しんだということになる。惑星を金属に見立てて視覚化させたことにまず驚くが、編年を楽しもうとした美意識があったとすれば驚異的なことだろう。

四季の移ろいや月の満ち欠けが人生になぞらえられる。それは人間の老いそのものであって、それでなければシルバーシートという語も登場しなかっただろう。銀が月と同一視できるなら、シルバーシートはムーンシートといってもよい。ムーンウォークという語には、月面のゆったりとした無重力の夢走が、老境のもつ動じない夢想と沈潜した無奏の語感に響きあっている。ムーンサルトという語もその後でてきたが、そこまでくるとシルバーにはついてゆけない。

7回 2021年9月12日 

イズムの綱渡り

20世紀初頭に絵画をどう乗りこえるかというあがきのなかで、実験が繰り返された。モノを貼り付けるといってもキャンバスの上に貼り付けるので、絵の形式は踏襲する。少し時代が下がると絵の具を分厚くもりあげるレリーフのような絵があらわれる。横から見ると影ができる。厚塗りの絵の具から、絵画は平面とされていたものがレリーフ彫刻という認識に変わる。ルオーの絵も油彩の場合かなり厚塗りで、モチーフが絵の具に閉じ込められている。絵の具を画面に塗っているというよりも、貼り付けているという印象だ。

絵画とは何かを問う引き金となる。やがてキャンバスに穴を開けたり切り裂いたりすることで、悲痛な最後のあがきが聞こえてくる。戦後の運動のなかでは、抽象表現主義やアンフォルメルの名で絵画の体裁はとるが、いかに絵画を乗りこえるか、あるいは動きそのものが絵画なのだというアクションペインティングという呼び名にこだわり正当化する。

狭いところに押し込められて、あっさりと絵を捨てる立場はある。1960年代、出発点は画家だが、ある時点で絵画を離れて、立体作品や映像に向かう傾向が見えた。原点は絵から出発しているところが興味深い。絵を起点にしながら戦後の現代美術が切り開かれる。原始時代からの絵画を絶やさないことが至上命令であるかのように綱渡りが続いていく。イズムの変遷が絵画の終焉を食い止めようとしている。

日本の場合も同じように海外の動向をいくぶん遅れて、追いかけて導入していく。興味深いのは西洋のイズムの変遷どおり推移していない点だ。西洋の絵画史は理路整然として、新古典主義、ロマン派、写実主義、印象派の順は起こるべくして起こる論理的必然だ。ルネサンス以来のアカデミックな絵の描きかたがまずあって、それに対立するものとして次代の思想が形成される。日本の場合基礎となるアカデミズムが入る前に、対立する印象派が先に入ってきて、その後場当たり的な節操のない軌跡を描くことになる。


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