奇蹟の芸術都市バルセロナ展

2019年06月29日~09月01日

姫路市立美術館


2019/7/13

 バルセロナという都市の近代的自立を二つの万国博覧会をエポックとして、インターナショナルな視点から見直している。ガウディはあまりにも有名になりすぎたが、バルセロナには、まだまだ知られていない作家も多く、層の厚みを感じ取ることができた。クリムトやシーレを見据えたウィーン展を先日見たが、都市を主役にしながら、ともに世紀末のアール・ヌーヴォーに開花した爛熟都市の様相を伝えるという点で共通する。

 一度目の万博は1888年、世紀末のアール・ヌーヴォーの時期、二度目は1920年代のアール・デコの時代と、両者は様式的な対比をなして、バルセロナを豊かなものにしていった。モダニズムの時代だけを抽出して展覧会は構成されているが、私が旅行を通して出会った美術は、何よりも中世ロマネスク時代のカタルニアだった。

 バルセロナへの私の訪問はこれまで三度で、最初は1977年、ガウディがまだ本格的には日本に紹介されてはおらず、近代よりもキリスト教中世の延長上で、サクラダファミリアを面白がって歩いた。まだ塔は一列しか建っていなかったが、足で上がり細い通路を行き来しながら、塔を渡り歩いて、バルセロナの街並みを眼下に楽しんだ記憶がある。黒くくすんだ塔の風格は、現在のような光に満たされた色彩感覚はなく、重厚なゴシックリバイバルとして理解していたように思う。驚異的ではあるが、ガウディを最先端のアートとして見る目は、私にはなかった。

 それ以上にカタルニア美術館で出会ったロマネスクの壁画や柱頭彫刻の素朴な味わいにのめり込んだように記憶している。スペインの風土とは理解しがたいエキゾチックな香りは地中海から吹いてくる風のせいだろうし、海沿いを考えれば南仏の延長上にある。古代ローマに根ざした異教的叛乱が、かたくななまでの芸術的心情を形作っているようだ。ピカソやダリやミロといったスペインにとどまることのない個性は、バルセロナという国際感覚が育て上げたものだっただろう。ピカソはバルセロナに根づいた伝統からの脱却をめざした。それは古代ローマでもアール・ヌーヴォーでもない、三次元的空間を解体する作業であった。ダリもやはり否定するものは同じで、それをピカソとは異なった方法で実現したように思う。

 ミロは確実な手ごたえを求めて、キュビスムともシュルレアリスムともちがう平面から立ち上がった立体的造形に実現しようとした。今回、ミロと共同制作をおこなった陶芸家の大作に出会ったが、その柔和な地肌を持った壺の表面は、若き日のベラスケスが描こうとしていたものであり、マドリッドの宮廷に入ってからは、忘れ去られてしまう資質だったように思う。宮廷文化とは対極にあるローカリズムとレジスタンスに根ざしているように見える。彼らはパリを経由することで名を成したが、バルセロナに埋もれている名も多いことを、教えてもくれる展覧会だった。

 その点、ガウディの発見はモダニズムに支えられての評価ではない。建築をパリに学んだわけでもなく、この土地に埋もれた土壌を発掘する考古学者のような視点が、獲得したものだったように見える。今回の展示では植物のように生え出した家具の装飾が際立っていた。二人がけの一つの椅子は、機能を超えた思索の深まりを感じさせるものだった。それは建築思想に根ざしているが、哲学と言い直してもよいだろう。その建築群はバルセロナに建てられたものと言うよりも、根を生やして成育したもののように見えてくる。石なのに樹木の精霊のごとく、深く根を大地に張り巡らしている。


by Masaaki KAMBARA