第15章 ポップアート

ポップカルチャーウォーホル:機械になりたい/無数に並ぶ壮観/ポップアートの哲学/イズムを排する思想/リキテンスタイン:保守的前衛の成功/画商の存在/ホックニー:華麗なる同性愛/工藤哲巳:檻のなかの自由主義/籠の鳥/ポップの擬態/ライリー:オプアートからの脱皮/リヒター:リアリズムの写実とぼかし

第184回 2022年3月10

ポップカルチャー

 ポップのもとになったポピュラーは大衆という意味だ。大衆性の強い流行を指すが、はやるがすぐにすたれるという言外の意味も含んでいる。ポップコーンの語感と対応し、ポンポンと飛び跳ねるようなリズミカルな軽やかさを響かせる。50年代の抽象表現主義の湿り気を帯びた重苦しさの対極にあるような形で、ふってわいたように登場した。舞台はアメリカ、アンディ・ウォーホルという名がひとり輝いている。

ポップアートという名称そのものは、アメリカではなくイギリスで成立したようだ。アメリカで登場するウォーホルやリキテンスタインよりもイギリスのリチャード・ハミルトン(1922-2011)やホックニーなどのほうが主流なのかもしれない。大衆化路線でいうとポップミュージックではブリティッシュポップ、ことにビートルズに尽きるともいえる。

イギリスに始まりアメリカに波及して世界中に知れ渡ったということだ。大量生産をしていくなかでデザインを通じて大衆化していく文化の形だろう。産業革命のはじまったイギリスから出てくる新しい美意識が下地になっていた。イギリスにとどまっていれば大きな展開にはなっていなかっただろうが、アメリカにわたることでアメリカ型のポップアートに変異し、感染力の強いものとなった。映画ならチャップリンやヒッチコックを思い浮かべてもいい。

ビートルズやローリングストーンズなどの音楽を見ている限りでは、アメリカに比べてイギリスに格調高いクラシックな重厚性が備わっているようにみえる。ビートルズにはモッズルックとともに仕立てのいい紳士服がよく似合う。アメリカにとってイギリスとは何かをついつい考えてしまう。実家という日本語に対応するものだったか。嫁ぎ先から戻ったときの安堵の気分にも近い。血の蓄積による根深さが自由と開放を求めるとすれば、アメリカで開花することは目に見えている。

アメリカでは英語圏だけではない。ロシア系であったり、イタリア系やスパニッシュ、さらにはアジア系が加わり、雑多な民族がことにニューヨークを形成していて、この無国籍の王国に民族のるつぼがなす文化の可能性を切り開いていった。インターナショナルを旗印に、自己主張したいけれども埋没してしまって、都会のなかで顔をもたないような、悲観的な考えかたが底辺にはある。

投げやりな態度にあらわれたり、ドラッグにおぼれる反芸術的な方向性は、デュシャン以来引き継がれているもので、ポップの先駆的なものとしてデュシャンのレディメイドを引き合いに出すことはできる。デュシャンもアメリカ人ではなくて、芸術大国フランスからやってきて、開拓者精神はあっただろう。フランス人たる自負心もあった。同時に自分自身の居所はしっくりこなくて、芸術破壊的な方向付けを反芸術としておもしろがるようになった。

抽象表現主義の具体的なイメージをもたない、見るほうが勝手に考えろというものが、まず前提としてあって、はじめは新鮮だったが、どんなふうに見ればよいのかがわからず、難解さがともなうと、じょじょに大衆の手から離れていった。具象的なものと抽象的なものは対極をなすものだったが、それを組み合わせて新しいものを生み出していきたい。そうした試みが前章のジョーンズやラウシェンバーグだった。

ポップアートでは絵画から離れ、グラフィックという概念が定着していく。絵の具のもり上がった重厚さが抽象表現主義の売り物だったが、ポップではイメージはあるのだが、内部に浸透することなく表面に貼りついているだけにみえる。メディアとしてはシルクスクリーンがしっくりくるようで、印刷物で代用可能なものがめざされた。

写真はどこまで写しこめるだろうか。何度も塗り重ねて出来上がる漆器やポロックの抽象を問題にしてみよう。目は奥の層まで見通せるが、カメラは表層をしか把握しない。そうすると人間の器官の優秀さが賛美されることになる。しかしはたしてそうなのかと問い直してみる。「お前の目は節穴か」という適切な日本語がある。人の目のほうが、何も見ていないのではないか。つまりは個人の問題であり、奥まで見通せる英知もあるが、何も見ない凡庸な目もある。この視点がポップアートの哲学となる。表面をすくい取るだけで十分なのである。

第185回 2022年3月11

ウォーホル(1928-87):機械になりたい

60年代ポップアートは、チェコから来た移民の子としてピッツバーグに生まれたアンディ・ウォーホルが、何気なく語った決め台詞によって決定されていく。「私は機械になりたい」という過激な発言がある。常識的な画家の願望として「カメラのような目になりたい」や「カメラの目で世界を眺めたい」というのであれば過去から継承したとも取れるだろう。機械万能の時代がきて、人間が不在になっていくなかで出てきた悲観的な見方であると同時に、機械に対する信頼感が一方にはある。作家の書斎にあたるものは画家にとってはアトリエだったが、ウォーホルはファクトリー(工場)という、作品よりの製品を生み出す場の名称を好んだ。

メタリックなものへのフェティシズムは、フェルナン・レジェ(1885-1955)に近いものがある。レジェの描くメカニックな絵を見ていると、ポップアートに出てくるくっきりとしたイメージと対応する。レジェはキュビスムで上がってくる画家名だが、ポップの文脈で見直すこともできる。キュビスムのままでは、新時代の機械やロボットは動いてはくれない。ただカクカクとした初期のロボットの動きは、せいぜい4コマからなるキュビスムの世界の把握法に対応はする。キュビスムの否定というよりも、その延長上で機械の未来を予想した楽観的な世界観がポップアートと共鳴したように思う。

ジャスパー・ジョーンズがはじめた「標的」などのクリアなイメージは、大衆的な誰もがなじみのものである。現実そのものでもあると同時に抽象性をもった記号でもある。物質と観念が行き来する両義的な存在に目を付けたという点では、先見の明があった。ポップなイメージはジョーンズがさきがけ、やがてウォーホルがコミック漫画をとらえ、その後リキテンスタインの代名詞になっていく。キャンベルスープドル紙幣では同じものが並ぶ光景に目を向ける。パターンの繰り返しはイメージそのものよりも、無限に広がる壁紙のように中心をなくしている。

このアメリカ型の美意識は、美術館のなかにある一点限りのオリジナリティに感動していた眼が、ある日美術館がスーパーマーケットに代わってしまったような逆転劇を演じる。スーパーに行って商品が山のように積まれている光景を見る。ふつうはそんなものは眺める対象ではなくて、そのなかから一点取り出してレジに進めばいいはずだが、ふとそれが絵になる風景であることに気づく。そら恐ろしい光景でもあっただろうが、アメリカの豊かさを象徴するものだった。

レジに行く途中で立ち止まり見上げる。現代ではアマゾンの巨大倉庫をイメージし、コストコを思い浮かべれば、これまで日本やヨーロッパでは経験したことのない規模である。崇高と名づけた大自然を前にしたロマン派の風景画家の驚異に対応するものだ。スーパーには同一が無数に並んでいて、中心はない。客によってニーズが異なるからだ。オールオーヴァーの抽象表現主義が残した遺産を、それを否定したはずのポップアートが受け継いだ。ともにデモクラシーの個の王国がたどりついた美学だとすると、美の殿堂がスーパーマーケットに置きかわる必然は確かにある。

第186回 2022年3月12

無数に並ぶ壮観

これが新しい美意識の出発点となった。大量生産大量消費は、コカコーラであったり、キャンベルスープであったり、それぞれが無数に繰り返すことによって、新しい表現の可能性として見えだした。一本のコカコーラではない。無数に並ぶ壮観のことである。そういう目が育つと、あとはポップアートという名前が独り歩きして、様々なアイテムをモチーフとして加えていく。大量生産は見ようによると軍隊に似ている。ベトナム戦争の泥沼に入っていく時代だった。イメージ操作なのかもしれないが、アメリカ兵は一糸乱れない行進とは結び付きにくい。自由主義の旗印は、ナチスとも社会主義ともちがってみえた。

同じものがベルトコンベアで大量に流れてくる光景は、人間性からすると画一的でもあるが、前向きの生産性を美として内包するものだった。それは溶鉱炉からオートマティックに鉄板が流れでる重工業の未来を写し出した高揚期の日本映画のひとこまでもあった。山田洋次(1931-)の映画「下町の太陽」(1963)にはそんなポジティブの喧騒が写し出されていたと記憶する。

シルクスクリーンを通じて絵になるアメリカが神話化されていく。「エルビスプレスリー」(1963)や「マリリンモンロー」(1967)などのモデルは、肖像画といえば従来から引き継がれたものだが、一点限りのものではなく、何点も繰り返されるような複数性を特徴とする。オリジナルは一点限りという考えを覆すためには、版画という媒体は有効だった。そこに少しずつ色ちがいというヴァリエーションを加え、形は同じだが多様性をもたせる。色ちがいは印象派が見出した美意識である。時間とともに赤くなったり青くなったりするのである。

肖像画が唯一無二を特徴としていたことを考えると、それは反逆である。マンガのキャラクターがクローズアップされて絵画の主人公になる。モンローにしてもキャラクターだったわけで、本人とは関係なくブロマイドが独り歩きしていく。神話化されてヒーローが拡散され、売り出されて商品となる。デザインとは一線を画して、アートの世界では商品については無頓着でいた。そこに無視もできないという感覚と同時に、新しい美学が誕生してきたのだった。

キャンベルスープやコカコーラにしても、スープやコーラを描いているわけではない。描かれているのはパッケージであって、中身は隠されている。こってりとした、そそるような、さわやかな口のなかではじけるような、直接的な触感を描いてはいない。ポップアートが求める表層は、フェティシズムであって、肉にまで至らない高度な文明の所産である。

スープ缶を見るだけで食指をさそい、食欲がそそられる。それはセクシーな仕事だった。同調するようにウォーホルには執拗なまでに繰り返されたハイヒールのデザインが残っている。それは裸体画を描かずに、着衣画を見ていて裸体を思い浮かべる嗜好に通じるものだ。裸体像を把握できていないと着衣像は描けないとすれば、レオナルドを師とするクラシックな絵画論でもある。

第187回 2022年3月13

ポップアートの哲学

ウォーホルはその後、大衆的なイメージを離れて、交通事故電気椅子などの死にまつわりつかれる。これらはポップのイメージというよりも、現代社会に対する思いつめた強迫観念であり、作家自身の内面の表現のようにみえる。繁栄のなかに陰りを嗅ぎ取った嗅覚が感じ取れる。ただそれも日常茶飯事起こるもので大事件というわけではない。大事件が起こればそれが絵になる。

しかし何も起こらないことも実は絵になる。それがポップアートの主張でもあった。日常茶飯事となった交通事故や電気椅子は、じつは不気味なものだ。延々と回し続けるカメラの先にエンパイアステートビル眠る姿を写した映像実験がこれに続くが、退屈な日常を少し長めに切り取ったものだった。

絵画だけにこだわるのではなくて、写真や映像を駆使して、アンダーグラウンド映画音楽のレーベルへと、日常すべてのものをアートにしてしまう。平面がまずあって、それを絵画から写真や映画に広げていく。さらには立体にも応用させる。クレス・オルデンバーグ(1929-)では巨大なノコギリショートケーキ の彫刻が登場する。柔らかな布で作られたソフトスクラプチャーとなる。そこで構成されるのも日常見慣れたイメージだ。

ウォーホルの日記は苦悩するアーティストの心情というよりも、華やかな社交日誌として目に映る。日本では同じくポップアートから制作を開始した横尾忠則の日記や池田満寿夫(1934-97)の言動に同質の社交性を見つけ出すことができる。日常生活で出会う人と人との関係を記述することがポップアートの哲学をなしている。それらが蓄積し思想化されていった。

芸能界のタレントに近いような立ち位置は、孤高の芸術家のイメージを崩しにかかる。ファインアートという純粋芸術の概念から、これまで芸能と芸術は異なるものとみなされてきた。音楽や映画やファッションとタイアップして、大衆性をよしとするものへと移行する。スキャンダルが大衆性を支える刺激材料となる。観念的な独白を求めた芸術家像が、行動の逐一をつづる記録に変容する。

第188回 2022年3月14

イズムを排する思想

今までのイズムで語ってきた美術の歴史が、ポップアートの登場によってイズムではなくなった。先行するダダの場合はダダイズムという呼びかたはある。ポップアートの場合もポッピズムと呼べそうだが、その使用例はきわめて少ない。美術思潮やイデオロギーを前面に出して近代絵画は推移してきた。それ以降、イズムではなくてアートという呼び名が多用されてくることを思うと、60年代に何かが変わりはじめた。イズムを排する思想といってもよいか。

ミニマルアートやコンセプチュアルアートなど本来は作品よりも理念を重視するはずの動向もイズムの名では定着しなかった。深くイデオロギーに関わるというよりも、ベトナム戦争をはじめとする直面したアクチュアルな時事性に、即物的な反応を迫られたのである。社会主義の崩壊はのちの話だが、60年代にアートの領域で若者たちによって先行していたということだろうか。

60年代はポップアートの時代とはいうものの、後半期にはミニマルアートが対立的に登場し、一本化して語ることはできない。10年単位で歴史をつづる傾向は強いが、そんなに単純なものではなくて、かなり入り組みながら現代に引き継がれている。これらはアメリカ型の美術の推移であり、これがすべてだといえない点は反省を求められる。しかしこれに代わるものがあるかというと、歴史としてつづれるものは見出しがたい。音楽ではときおり西洋音楽に民族音楽を引きこんで活性化させていくのと同じように、西洋に東洋的な要素を加味し、アボリジニがアレンジされたりして融和されていく。

つまりは味付けをする香辛料の役割に甘んじて、料理には達しない場合が多い。日本でも独自のものは見当たらず、アメリカ型を下敷きにして、どうアレンジしていくかにとどまる。ポップアートについていえば、日本からニューヨークにわたり生活基盤を置いているアーティストも多い。アメリカといってもインターナショナルな民族のるつぼという点では、かつてのエコールドパリになぞらえて、ニューヨーク派の様相を呈している。

第189回 2022年3月15

リキテンスタイン(1923-97):保守的前衛の成功

ユダヤ人を特徴づける理知的で冷静な精神性は、ロイ・リキテンスタインの顔立ちからもうかがえる。大学の教員をしながらの制作だったので、ウォーホルに比べれば常識的で健全な生活設計が予想できる。売れ出してから作家活動一本に推移するのも堅実な履歴として読めてくる。コミック漫画のひとこまの拡大がテーマとなるが、そこに出てくるドットの描きこみは問題を提起する。

手描きではないという見せかけが狙いとしてはあっただろうか。子どもにせがまれてミッキーマウスも描けるぞといったのが出発点だ。「ルック・ミッキー」(1961)は最初の記念碑だ。その頃にはミッキーはアメリカの家庭内に浸透していて、子どものアイドル的存在だった。漫画のひとこまというオリジナルでは小画面であったものを引きのばす。

ウォーホルがプリントにこだわったのに対して、リキテンスタインはスーラの点描法を思わせるような、手描きの伝統絵画の延長上にあった。ウォーホルは筆一本で勝負するようなタイプではなかった。リキテンスタインが画家にこだわったことは、ポップアートが絵を売買する画商のターゲットにされていったということでもある。抽象表現主義では筆跡を残し、作家の個性が前面に押し出された。

ポップアートでは筆跡を残さず、個性を消していくような方向をとる。それは次代のミニマルアートへつながっていく要素だ。ポップアートまでは絵画がまだ生きてはいた。やがて絵画が崩壊する。画家が絵筆を捨てて、パフォーマンスに走る。日常空間にこだわり環境芸術に至る系譜も生まれる。空間も捨ててボディアートも誕生する。

ドットがみえるまで引きのばすと、あらたな世界が芽生えて、オリジナルとコピーの関係が逆転する。オリジナルが複製であり、コピーが手描きであるという矛盾と、オリジナルの小品をコピーで大作に写すという非常識が、相乗効果を生む。それは同じくコピーの時代であった古代ローマで、ブロンズのギリシャ彫刻を大理石でコピーするという逆転の思考とも共通するものだ。コピーのオリジナリティを伝える現象だ。ゴッホが浮世絵を油彩画でコピーしたとき、ポップアーティストだったといえる。

のちにくるスーパーリアリズムが写真を投影して、忠実に絵画にコピーして引きのばすという方法もコピー文化の延長上にあるものだ。単純なメロディが変奏曲として交響曲に書き換えられたような完成度を示す。引用が多用されながらも、作風は誰が見てもリキテンスタインの様式である点に注目すると、ポストモダンの動向を先取りしている。ワンパターンに陥る危険性をはらみながらも、堅実に制作を続けていった点は、モンドリアンを思わせるものでもあり、特徴的にみられる色彩の限定もモンドリアンへのオマージュそのものだ。

第190回 2022年3月16

画商の存在

リキテンスタインの背後にレオキャステリ画廊の名が見え隠れするが、現代美術において陰の立役者として画商の存在は抜きにできない。画商、美術商、アートディーラー、ギャラリストとさまざまな呼び名に変貌していく。パリにおいてもそうだったが、ニューヨークや東京でも同じ構造をもっている。日本の場合は東京画廊(1951-)や南画廊(1956-79)ということになる。現代美術の老舗だったが、古美術や日本画を扱う画廊のひしめく銀座に身を置くことで、伝統絵画と同一レベルを主張した。

ポップアートはサブカルチャーを受け入れるが、サブカルチャーそのものではない。背後にあったのは出版社ではなくて画商だった。日本でいえば拠点は神田ではなくて銀座だった。秋葉原が家電を捨ててサブカルチャーに走る以前の話である。ただこの三地点は徒歩の範囲の近距離で隣接している。アメリカの演劇と映画のようには離れてはいない。もちろんブロードウェイとハリウッドに時差があるほど隔たっていたから、実現できたものはある。

画商の思想はないがしろにできない。サミュエル・ビング(1838-1905)、アンブロワーズ・ヴォラール(1866-1939)、ダニエル・ヘンリー・カーンワイラー(1884-1979)、レオカステリ(1907-99)、著名な仕掛け人の名が思い浮かぶ。彼らの多くは、アートの異端と前衛に味方して、スターダムにのし上げようと苦心した。

ときに商魂は武器商人の冷徹さに通じるものがある。戦いあう敵同士に同じ武器を売り込むのである。支えているのはマネーゲームに向けての遊戯感覚だろう。映画産業も同じだった。のちのIT産業の創業者を支えたのも技術をこえた意志の力がある。現代アートもまた芸術ではなく錬金術に支えられたビジネスであることで人口に膾炙するものとなった。

第191回 2022年3月17

ホックニー(1937-):華麗なる同性愛

ブリティッシュポップをデイヴィッド・ホックニーに代表させるのは問題だが、トップスターとしての長者番付からいうと妥当な線だろうか。出発点のポップアートだけではなくて、その後の領域を広げた展開からも重要人物である。絵画ではさわやかなイメージがあって、大らかな同性愛が何気なく挿入されるが、違和感はない。プールサイドの情景が頻繁に登場する。堂々と当たり前のように男同士がシャワーを浴びている。もちろん色眼鏡で見なければ男女がシャワー室に一緒にいるよりも自然にみえる。寝室に男同士がいるよりも一般にはさわやかに受けとめられたはずだ。

舞台への関心も強く、日本でも「ホックニーのオペラ」(1992)と題した展覧会が開かれた。写真を使いながらキュビスム風に並べていくコラージュ作品も、増殖し続ける風景や肖像画が奇形となって分断される。これは学校教育の美術教材としても適切で、デッサンのアカデミズムを否定する有力な味方になった。自分でもできそうだという興味が教育の出発点となる。

ローマ、パリ、ロンドン、ニューヨークという美術の激震地をすり抜けて、1964年にロサンジェルスに居住することで、美術史の未来を見すえることができたようだ。映画産業はすでに、情報メディアはそれを追って、カリフォルニアに移動することになる。そこでホックニーの視野は広がり、ながらく引きずってきたタブローという枠をはずしにかかる。

フォトコラージュによるキュビスム写真もその試みのひとつだ。原理は簡単で、パノラマ写真を写すのにカメラをもって何度かシャッターを切り、風景をつなげた記憶があれば、誰にでもできるものだ。これにより原始美術からiPadまでを通観する美術史的展望を獲得する。西洋美術の西部開拓史が太平洋を渡る直前での話である。

第192回 2022年3月18

工藤哲巳(1935-90):檻のなかの自由主義

さわやかな奇形は60年代の日本のアートシーンでもインパクトの強い造形となってあらわれた[i]。工藤哲巳の一連のオブジェでカラフルなかわいい鳥籠のなかにペニスやタバコをふかすデスマスクが閉じ込められるイメージは強烈で、他に追随を許さないものがある。あえて比較をすれば、草間彌生の増殖するヴァギナのオブジェだろうか。

ともに60年代を席巻したものであるが、ちがいを言えば、男と女、パリとニューヨーク、短命と長寿ということになろうか。このなまものを静物という分類で見ると確かに興味がわく。ペニスは切り落とされたときからオブジェになる。太古よりそれは切り離されて独立し、信仰の対象として君臨してきた。

インドではそれをリンガと称するが、もともとはシンボルという意味のようで、確かにそれは日本語の慣例からしても、男のシンボル以外のなにものでもない。シンボルとはつまり男根のことであり象徴世界はそこから始まるというのが、サンスクリットの世界観ということだ。

ポップアートというにはなまなましく、工藤哲巳の作品は象徴であって、ものそのものとしてのオブジェではないように思える。醒めたデュシャンのフランス人的感性はない。もっと土俗的な東洋的理性に裏打ちされているものであって、針の穴から覗くのがデュシャンのポルノグラフィだとすると、ここでは好奇の目にさらされながらリンガは鍛えられていく。

鳥籠のメッセージもまたわかりやすいものだが、通常の組み合わせではないという点で、シュルレアリスムを形成することになる。そして私たちは考え始める。可愛らしい小鳥が入る装置と見ると誤りで、格子の入った檻房というのが、鳥籠のもつシンボリックイメージである。カラフルに色付けられてはいるが、常に逃れられず監視の目にさらされているという逆説を、それは引きずっている。


[i] 「工藤哲巳―オブジェクトゥール:静物ーもの(オブジェ)たちのしずかなささやき」2017年3月18日(土)~5月28日(日)倉敷市立美術館

第193回 2022年3月19

籠の鳥

ピカソもこのモチーフをおもしろがっていたようだ。「鳥籠」(1925)はキュビスム的視点で描かれ、画面に奥行きはなく、鳥は籠の向こうにいることは確かだが、それが籠の外なのか、中なのかは曖昧なままに残されている。籠と鳥は重ねられているが、かりに鳥が籠の前にきても、鳥は籠の中にいてもいい。

キュビスムが多視点で描いたのは日本語の「籠の鳥」にあたるとみれば理解しやすい。この語は「籠の中の鳥」を暗に示すが、文字通り読めば、「籠の外の鳥」であってもいい。「籠の鳥」は見方を変えると、自由を暗示するフレーズにもなり得る。缶詰のラベルを内側に張り替えて缶詰を閉じ、「宇宙の缶詰」と称した現代美術の肩透かしも、キュビスムに由来するものだった。キュビスムはモノの表面を多方向からながめたが、遠近法では表面を透視して骨にまで至る方法を取った。人の目は透過することなどできず、表面をなぞるしかないというのがレアリスムの真実だ。

透視図の限界はこの点にあった。近代には建築でいえば、見通しのきく窓はなく、鬱屈した壁が横たわる時代だった。おもしろいことにそこでは裏と表に区分はない。キュビスム絵画では、厚みはなく、人物がいてもこちらを見ているのか向こうを見ているのかはわからないままだ。檻の向こうにライオンを描いても、私たちと隔たっていることは確かだが、檻の中にいるのは私たちのほうなのかもしれなかった。サファリパークでは私たちは「移動する檻」に入りながら猛獣をながめるが、そこにはマゾヒスティックな快感が演出されている。

ジョゼフ・コーネル(1903-72)の「」は前面をガラスでおおわれ、ときに閉じることは可能だが、「檻」は開閉を拒否して、開放された閉鎖空間をかたちづくる。ここでもマネの「サンラザール駅」を引き合いに出しておこう。つまりそこには見せ物という意味が付加されて、デュシャンの壁の穴とは違った世界観からのアプローチだったということが言える。

第194回 2022年3月20

ポップの擬態

60年代の末、フランスにいた工藤哲巳は学生運動の高まりに反応して一時帰国して、千葉県鋸山の岸壁にオブジェを制作する。「脱皮の記念碑」(1970)と題した記録映像が残されている。見せ物でありながら誰も見ない僻地に深く刻まれたイメージは、サナギともペニスともとれるもので、当時のイメージ連鎖でいえば、モスラの幼虫(1961)に似ている。脱皮をすることで成長し、飛翔する姿は、直角に近い断崖を這いのぼるサナギによって確認できる。しかしそれは誰も知らないところで進行していて、偶然にもそれを写したかの記録映像によってのみ、明るみに出ることになる。映像だけでしかないが、存在証明以上のものを伝えている。

ペニスは日本では隠微な猟奇事件と結びつく場合も多いが、もっとパワフルでおおらかな「世界の起源」として機能する。巨石文化のメンヒル(立石)とロダンの石像をダブルイメージにしたエドワード・スタイケン(1879-1973)の写真「バルザック像」(1908)に、月明かりの薄暗がりに少し傾いてそびえ立つ男性シンボルの信仰を見届けることができる。

世界の起源をクールベやデュシャンは女性に求め、そこにあふれ出る豊饒な「泉」を想起したとすれば、工藤の求めた東洋的世界観はそびえ立つ山岳を希求したということになる。インドには豊饒の海と山岳仏教が、南北をへだてて同居している。インドのもつ海の豊穣は、ガンジスの深い河から流れこみ、三島由紀夫や遠藤周作が晩年に回帰したものだった。さかのぼれば岡倉天心が求めた母性の原点でもあった。

こうした作品概念の問い直しは、戦後ことに1960年代を通じての動向である。身体の断片は工藤哲巳だけでなく三木富雄(1937-78)の耳や岡崎和郎(1930-)の庇(ひさし)とともに、人をあっと驚ろかせるポップの擬態とみてよいものだ。建築の庇は身体の一部になると、眉(まゆ)に対応する。九州にいたころ「にわかせんぺい」のパッケージの眉をはじめてみたときに受けた衝撃は、その芸術性のゆえだっただろう。

塩見允枝子(1938-)の「ウォーター・ミュージック」(1964/91)と題した小さなガラス瓶がある。工藤哲巳や三木富雄や岡崎和郎とともに、並んで展示されている[i]。なかに液体の入るラベルの付いたかわいい容器である。ここでも作品概念は覆される。何の変哲もないガラス瓶を見ていても何もわからない。このガラス瓶の使われかたの説明文が掲げられていて、それによってこれがパフォーマンスの道具であったことがわかる。塩見はパフォーミング・アートの中心的存在であるフルクサスの一員だが、日本ではまだ十分には知られていない。

似たようなことは古来よりある。能面や伎楽面などは、パフォーマンスの道具であるが、展示品としても立派に機能している。モノからコトへの移行、オブジェからイヴェントへの展開とみてもよいだろう。能面を通して鑑賞者は演技空間を思い起こす。現代美術に首をかしげることはない。日本人は古くから見慣れてきているものだ。


[i] 「コレクション展 戦後の造形」2018年3月17日(土)~5月27日(日)倉敷市立美術館

第195回 2022年3月21

ライリー(1931-):オプアートからの脱皮

オプアートはポップアートとの対応で見なければならない。オプティカル・アートの名で知られるブリジット・ライリーの回顧展は、知覚検査の図版を展覧会サイズに引き伸ばしただけのものと、評価をしないむきもあるが、一堂に会するとそれなりに時代の息吹を感じさせる[i]。60年代のポップアート全盛期に描かれたカーブ(曲線)のシリーズは、その後のライリーの展開を見ていても、際立っている。

知覚検査表を拡大すること自体は、マンガのひとこまを拡大するのと大差なく、元になるのが具象であろうが抽象であろうが、引き伸ばして一点もののタブローとするということが問題となる。ライリーの位置付けはその後のストライプや菱形の図形への展開を見ると抽象絵画の系譜に属するが、波形のリズムに関しては、テレビ放送のテストパターンを写した具象絵画だと主張してもよく、抽象を写すと具象になるのだという意味では、星条旗や数字を絵にしたジャスパー・ジョーンズとの共鳴も見出せる。

ライリーの評価は単独のタブローとしてだけでなく、空間の拡張を下敷きにした壁画への回帰を含んだものとみることで精彩を放つ。壁画制作の再現を建築空間に組み込む実験は、サイトスペシフィックに推移する現代系の美術館のありかたを示唆する。ライリーをもち出すことで、美術館は油彩画を遡って壁画にまでそのルーツを求めていく。波動の知覚検査表を「ゆらぎ」という語をもち出すことで、ニュアンスをもった抒情性をともなって干からびた現代絵画に潤いを与える人間回帰にもつながっていくようにみえる。


[i] 「ゆらぎ ブリジット・ライリーの絵画」2018年4月14日(土)~8月26日(日)DIC川村記念美術館

第196回 2022年3月22

リヒター(1932-):リアリズムの写実とぼかし

スーパーリアリズムをポップアートの延長上であげるのが適切なのは、ともにアメリカの都市風景の無機質なひとこまを写し出したという点からだろうか。ポップアートが静物画だとすれば、こちらは風景画だといえる。ともに17世紀オランダが生み出した絵画論を下敷きにしている。現実から離れることなく、それでいてこえるわけでもない。冷たくカメラの目で対照をとらえようとする。物質に対する冷徹な嗜好が下敷きにされ、人物を描く場合でも、対象は静物であり風景と化している。方法は自然を模倣するのではなく、写真を模倣する。写真をみえる通りに描くとどうなるか。自然からは離れてしまうことになる。

フォトリアリズムの名でも呼ばれるが、写真独特の効果がもり込まれると、ピンボケ状態がリアリティをもって歓迎される。ナチスの悲劇を引きずる東独の画家ゲルハルト・リヒターの絵画は、自然を写し損ねたピンボケ写真をまねたように描き出されている。このピンボケ絵画がさらに加速すると、光の粒に還元され純粋抽象へと至り、究極はタブローを離れステンドグラスにはめ込まれて完結する。

ケルン大聖堂では「リヒターのステンドグラス」(2007)が中世ゴシックと対等に現代の美を主張している。そこにはステンドグラスを特徴づける床に広がるはずの光の粒が、壁面に埋め込まれている。私の解釈はこうだ。この光のモザイクはきっと床面に届くとき、ダリのリンカーンのように、奇跡的な一瞬で聖人の姿を浮かび上がらせる。それはまだだれの目にも触れていないかもしれない。

13世紀には天上の光がステンドグラス上の聖人像を経由して、床面で光の輪に変貌したのに対し、20世紀では逆に地上からスタートする。床面の聖人像が壁面で光の粒に拡散し、天上へと戻っていくのである。ガラスの輝きを示すクリスタルは救世主であるクリストゥスのことだった。

リヒターの出発点は写実絵画の手わざの人だったが、それをあっさり捨てたことでピカソ的変容を手中にし、同時にスーパースターとして名声と富を得ることにつながった。引き金は東ドイツからの亡命だった。社会主義リアリズムを揶揄するように資本主義リアリズムを標榜する。写実絵画とは対極にある純粋抽象とみると同一人物とは思えない。亡命による新生に歓喜する壮大な交響曲が思い浮かんでくる。社会主義からの亡命は、リアリズムを捨てて抽象絵画に走ることだった。

ピンボケ写真は、資本主義が生み出したリアリズムだった。このぼかしによるリアリティは、産業革命がもたらした印象派の視覚革命から引き継がれたものだっただろう。ロウソクの光手紙を読む女性のモチーフは、それ以前のオールドマスターからの引用だろう。印象派は写実主義を徹底させるなかで誕生したが、その表層は写真術が見いだした「ぼかし」という意外性のある効果のことだった。それをスフマートと呼びかえると、レオナルドが自然観察のすえに発見した現実の真相のことだったともいえる。


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