窓展: 窓をめぐるアートと建築の旅

2019年11月1日(金)~2020年2月2日(日)

東京国立近代美術館


2019/11/29

 窓というキーワードに即して、思いつく限りの美術作品を集めてみせた。そうすると窓への興味が、人間の絵画の創作にとって根幹をなす思想的バックボーンであることが、じょじょに見え出してくる。リプチンスキーのアニメーション「タンゴ」(1982)は、これまで何度も見てきたが、窓にはそれほど目を向けたことはなかった。言われてみれば確かに窓だ。窓は出はいりするところではないが、ここでは隣り合わせたドアと同じ役割を果たしている。

 窓にサッカーボールが投げ込まれるところから話はスタートする。次に少年が窓から室内に入ってくる。この普通ではないシチュエーションに観客は引きつけられる。あれよあれよという間に、多くの脈絡のない人の群れが部屋に入ってきては、出ていく。見続けると何度もリピートされた動きであることを知り、題名のタンゴという意味との関連を理解する。

 マチスの絵に窓が多いことは、以前から気になっていた。ここでもマチスの窓が問題にされている。絵画とは何かという根源的な問いが発せられる時代、画家は窓に戻っていくのだと思う。絵画とは「壁にくり抜かれた窓である」というルネサンスの定義は、絵画とは「色の塗られた平面だ」という現代絵画の定義がなされるまで、常に問われ続けてきたものだ。絵画に額縁が残る限り、それは窓からは抜けきれないでいる。

 マチスの絵はまだ、額縁の似合う時代にあったということだ。窓を開け放して見える地中海が広がる部屋がある。海だけを描けばいいと思うのだが、決まって室内の窓の輪郭をなぞっている。極め付けは晩年の「黒い窓」だが、残念ながら出品されていない。正確には1914年作「コリウールのフランス窓」である。開かれた窓からは暗闇が目に入る。抽象絵画と呼んでもよいが、窓の原型だけはとどめている。

 写真家が窓に向ける目も、切実さがにじみ出ている。それはファインダーがすでに世界に開かれた窓であるということから発している。アジェドアノーのショーウィンドウに向けるまなざしは、時代の欲望を、見事にとらえている。それはのぞき見という好奇心が、カメラの本質であることを伝えるものだ。奈良原一高の「王国」は窓に寄せる写真家の関心の集大成であるようだ。家にとっては内と外は明白だが、窓にとっては内と外はいつも交換可能である。ある時は開放的に、ある時は閉鎖的に、通過という機能の本質を視覚化している。カメラで言えば、そこにシャッターがある。身体性を強調すれば、まばたきということになる。

 以前、『ウィンドウ・イン・アート』(1978)という書籍を面白く呼んだことがあった。それはデューラーの描く肖像画の目に隠し込まれた窓から、解き起こされていた。目に埋め込まれた田の字型の窓枠は、十字架をなぞるものでもあって、キリスト教のシンボリズムに由来するものだ。同時に現実の室内の窓枠が瞳に写し出されているものでもあって、細密に描かれた油彩画の写実にほかならない。つまりは建築物としての窓自体の十字に切られた桟が、十字架を埋め込んでいて、窓とは光がキリストの受難を通過して室内にもたらされるという神秘を伝えるものだった。

 パーソナルコンピュータのシステムが、ウィンドウズと名づけられていることも、ここでは問題にされている。世界に開かれた窓というポジティブな命名である。面白いことは、もう一方の勢力が、かじられたリンゴをロゴマークにしたネガティブなイメージを表に出したものであった点だ。そんな時、私はいつも窓際にリンゴを置いた謎めいたファンアイクの絵を思い浮かべてしまう。それはアルノルフィニ夫妻の結婚を祝う肖像画だが、向かって左からの窓光は、十字架とリンゴを通過して室内に入り込んでいる。


by Masaaki KAMBARA