円山応挙から近代京都画壇へ

2019年11月02日~12月15日

京都国立近代美術館


2019/11/28

 円山応挙なら京都国立博物館の縄張りなのだろうが、竹内栖鳳なら近代美術館ということになる。この企画の意図は、江戸時代から明治時代をひと続きのものとしてみようという試みである。明治維新をあたかも大変革であるように見せようとして、美術館行政も加担して、博物館と美術館を分断してきた。しかし江戸の伝統は脈々として明治以降も息づいているし、ことに京都の場合は、その傾向は強いようだ。

 応挙の絵と松園の絵が並べられる。画題は仙女を描いた美人画だ。ポーズは似ているし、伝統的な型を踏襲しているが、松園のものは女性画家だという理由だけではなく、近代的な顔立ちを宿している。応挙だけをまとめて展示するのではなく、影響力の大きさを示そうとして、風景から人物まで、視覚的類似を並べてみせる。

 岡山にいると笠岡の竹喬美術館のおかげで、京都画壇の個々のスタイルについては、長年にわたる企画展を通じて、目を肥やしてこられたように思う。近年では幸野楳嶺までまとまって見ることができた。応挙にまでさかのぼることは少なかったが、師弟関係をたどると、確かに応挙に行きつく。展覧会でははじめに大乗寺の襖絵が、現状のまま再現されていて驚いたが、場所は城崎に近い香住の真言宗の寺である。応挙寺として知られるが、カニと温泉だけでは物足りない旅行客が、文化の香りを求めて訪れる。私も何度か行った。

 今回の展示の目玉だが、京都からは少し距離があるし、これがのちの京都画壇に直接の影響を与えたかどうかに疑問もある。しかし応挙が単なる絵師ではなく、環境プロデューサーでもあったことを知らせるデモンストレーションとしては有効だ。応挙一門が応挙というブランド名を作り上げていった経緯も読み取れる。

 直角に交差する襖の配置を考慮した空間演出は、襖を外して個々に並べるだけでは理解できない。以前名古屋で見た長沢芦雪展でもそうであったが、「襖」という日本独特の絵画空間の絶妙な仕掛けに、まずは驚いてしまうのだ。それは西洋の祭壇画の開閉の話どころではない。西洋絵画で重要なキーワードに、壁と窓があるが、襖とも共通して、ともに建築用語である。

 襖は建築を形成するパーツだが、ある時は壁に、ある時は窓にと、自在に変容する。可動であるという利点は、開閉の面白さという問題だけではすまない。壁面に描かれたフレスコ画は、画家の存在証明になるが、襖絵はそうではない。必ずしも画家が現地にとどまらなくても成立する。

 応挙は文人とは一線を画している。文人にとって旅は画境を築く必須の条件だった。矢立と筆を懐中にどこにでも移動できた。温泉地が好まれるのもそれに連動している。保津川図屏風は応挙の代表作である。前に立つと臨場感が伝わってくる。六曲一双が基本形だとすると、これは八曲あって、そのワイドビューに常識を超えた広がりが体感できる。しかしそこには文人の愛した旅情はない。波の観察眼を見ながら、応挙は今日的な言い方だと、文系ではなくて、理系の人だという気がした。

 18世紀の京に登場する奇想の系譜からすると、応挙の描くのは絵ではなくて図である。絵図を習いたいなら応挙のところに行けといった絵師は、絵を習いたいなら自分のところに来てほしかった。その本心は、応挙がいかに多くの弟子を抱えていたかを示していて、そこには羨望の想いがにじみ出ている。応挙の教育者としての資質は、空間プロデューサーとしての演出にも反映するし、好奇心を広げて画題を拡張してもいっただろう。それは師として仰ぐ人格の条件だ。幸野楳嶺や竹内栖鳳などに引き継がれていったものだろう。

 四条派として京都画壇を築く呉春が蕪村と応挙をともに師としたという点が興味深い。長沢芦雪の名も今では奇想の系譜として知られるが、応挙の門から出ている。画面をはみ出た虎の襖絵には驚かされるが、それもまた師の描いた大乗寺の襖に準じた空間演出だった。虎は襖を飛び出して、こちらに向かって襲いかかってきていた。抱き合わされた襖の裏側には小さな猫が描かれている。

 応挙が丹念に巻物に残した動植物図鑑は、写生図とはいえ、狩野派のお手本帳のような響きをもっている。画巻の体裁を取る限りは、探幽縮図にも似て、弟子たちにとっては、教祖の秘伝を記した教典であっただろう。写生はおもしろみに欠けるという現代の評価は、応挙の系譜を負の遺産と見てしまったかもしれない。しかしそれが美術教育として、次代の天賦を育てる肥しとなることは事実であって、その意味では栖鳳も麦僊も良き師に恵まれたということになるだろう。


by Masaaki KAMBARA