流れる瞬間、うつろう場所 Place out of Time
2019年08月19日~11月04日
四国民家博物館 四国村ギャラリー
2019/11/1
瀬戸内芸術祭と連動した企画である。現代アートを古民家の中で見るという試みだ。四国村は一度来ているので、外観は一通り見ていた。しかし今回は中身を味わうということになる。「砂糖〆小屋」というのがあちこちにあって、簡単に言えばオランダなどにある風車の粉挽小屋にあたるものだ。今は機能していないので砂糖も粉もない。砂糖の代わりに作品が置かれる。中味のない殺風景を現代アートで補ってみせたということだ。大事なのは中味だということなら、移築された古民家はハリボテであって、中身を希求していたともいえる。
インスタレーションと称する展示法だが、これは遺物となった器に中味を入れる試みであり、主役はあくまで遺物の方だ。仮設とはたいていは外側の建物のことをいうのだが、中身を仮設とすることで、建物が息を吹き返す。仮設とは「その場限り」と言い直すことのできる物体のことだ。今まで見逃していた古刹の美が、現代によみがえる。リピーターを増やす手軽な方法としか考えないと、主催者側と作家側とに摩擦が生じる。たぶんそのあたりのハウツーはこれまでの瀬戸内芸術祭の経験でクリアできているはずだ。
地図を片手に作品を追いながら一巡するのだが、前回見逃した古民家のいくつかに、今回はじめて訪れることにもなった。展示物のできばえには落差がある。なんだこんなものでというものもあるが、唸ってしまったものもある。唸らされたものの一点が、丸い小屋の中で等身大の牛の張り型が回り続けるというもの。伊東五津美「砂糖うし小屋」とある。牛は砂糖でできているようだ。なぜ牛が回っているのかわからなかったが、小屋の解説を書いた看板を読んで、思わず笑ってしまった。
解説にはこう書かれていた。砂糖を締めるのに「牛が腕木を引いて回した。牛は一日中間断なく回り、、、建物が円形なのは牛の回転にあわせたものであろう」。この「牛の回転」が文字通り、牛自体が回転している。以前しりあがり寿の展覧会で、寿司が回転する文字通りの回転寿司のインスタレーションに出くわして、面白がったことがあった。日本語を解さないとわからないワードプレイだが、外国人の観光客も多い。
近くで外国客を案内する解説員の声が聞こえてきた。「ちから石」をもじった作品のコーナーからだった。作者名は、橋本瞭「動」とある。かつては若者の力だめしだったが、今はクレーンがちから石を引き上げている。解説員によると石は地面から5ミリ浮いているとのこと。日本語の解説文には書かれていないので情報としては新鮮だ。ただ実際にはそんなことはないだろうと思う。毎日係員がやってきて、ワイヤーが伸びて地に着いてしまった石を引き上げてもいない限りは不可能だろう。注意書きのプレートがあって、これも面白い。作品には触れないで、ちから石は試してみろと書かれている。舌足らずの日本語で禅問答のように聞こえる。そばには作品のとは異なるちから石らしきものが、並んでいたので、こちらのことを言ったのだろう。
現代アートは解説文がなければ、理解できないものが多い。かつての見ればわかるというものではなくなっている。それは手を合わせて祈るだけで極楽に行ける他力から、禅宗の自力本願へと移行した仏教の推移に似ている。首をひねるような不可解な作品を前に、こちらから働きかけない限り、道は開けてはこない。しかし、考えはじめるとおもしろさが、徐々に深まってくる。キャプションつきで、作品を前にして禅問答が繰り返されていく。
衝撃度からいうと作品よりもプレートにあった。これもサイトスペシフィックと化した現代アートの特徴かもしれない。ギャラリーに向かう階段のわきに掲げられた「まむしに注意」のプレートは、最もインパクトのあるものだった。思わず階段の中央を足早に通りすぎた。イノシシ目撃の注意喚起も、いくつか見かけることになった。作品は自然と一体化しているので、プレートを探す巡礼になった。宝島をめぐる地図の冒険にも近く楽しめた。宝島には宝物を守るマムシは必ずいるし、侵略者を追い返すイノシシもいるのである。サイトスペシフィックとはそういうものだ。
地図上は交差したアーチ橋にあるはずの作品がなかなか見つからなかった。最終的には橋の下に並んだ風鈴だったが、なあんだというため息と同時に、あらためてこの石橋の造形の見事さに目を止めることになった。作品を探さなければ、こんなにもしげしげと眺めることにはなっていなかっただろう。石組みのみごとさは、現代にも引き継がれていた。
流政之作というプレートがなければ、作家名も無名のまま、民芸運動の延長として通り過ぎていただろう。香川県が誇る優れた石彫作家である。瓦を使った造形でも知られるが、入り口から続く傾斜をもった敷石のダイナミズムは、その目でみないと通り過ごしてしまう。石段を流れる滝も、この人の手にかかるものだった。