語りの複数性

20211009日~1226

東京都渋谷公園通りギャラリー


 百瀬文の映像作品「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」を見ながら考えさせられた。これを作品とみなすならば本人が登場するのでセルフポートレイトということになるか。対話なのでダブルポートレイトというほうがよいか。インタビュアーとして素朴な疑問を投げかけるなかで、あっと驚くような着想が出てくる。イメージに重さがあるかという、最近私が考え続けている疑問に、ヒントを与えてくれるものだった。そのときあっ、これだと思ったはずなのだが、正確なことばにならないまま、忘れ去ろうとしている。声は記憶とよく似ている。


 インタビューの相手は、生まれついて耳が聞こえないが、口の動きで「聞き取る」ことができる。そして受け答えを発声することもできる。手話を拒否することは、マイノリティのなかではさらにマイノリティの立場となるが、そのことによって声とは何かという問題に、深く肉薄することになる。美しい声では決してないが、しばらく聞いていると慣れてくるし、意味ははっきりとわかる。それをなぞらえて八重歯のようなものだという回答がとびだした。誘導尋問を仕掛けて、相手の戸惑いを見ながら、答えを待つ。ここで出てきた八重歯という肩すかしの回答は、相手の隠れた能力を引き出したインタビュアーの勝利である。


 インタビュアーには八重歯が生えていて、それによる口内の変形は、声を個性として判別することになる。映像の途中、声が途切れて手話に切り替わったように、字幕だけが流れる箇所があり、このとき衝撃的なやりとりがなされることを暗示する。私は発せられたひとことの発話に、ハッとしたことは覚えているが、その記憶はどんどんと薄れていく。声はまたたくまに消え去った。


 声は発したとたんに消えてしまう。映像が見えたとたんに消えてしまうのに似ている。写真が紙にはりついたイメージだとすると、声は人体にはりついたイメージのことだ。ナマの声があり、それをアナログで録音した声があり、いまではデジタル化された音がある。声が身体をヴェールのように取り巻いている。それは犯せないヴァリアであり、絶叫のときもあるし、嗚咽のときもある。もちろん歌唱のときもあるから、歌手という職業も成立する。ウグイスは、その声だけで生きている。ウグイス嬢という人格を無視した用語例もある。私たちはそれを聞きつけることができる。もちろん、私たちに向かって発しているのではない。身体を切り離して、私たちは声だけでウグイスを受け入れている。どこにいるのかはわからないほうが多い。


 見終わったあとで、はたとこのインタビューがなされたのはいつだったのかが気になった。2013年とありずいぶんと旧作である。発声する口元を隠し続ける時代がくるとは、だれも思ってはいなかった。マスクはなぜ透明ではないのかと思う。透明の布はやがて開発されてくるだろうが、そのだめには読唇術がもっと普及する必要がある。シュヴァングマイエルの食事をし続ける口を大写しにした短編アニメを思い浮かべた。ライオンが獲物を食い尽くす口元であってもいい。口は発声だけでなく、生命力の源を視覚化したものだった。ライオンの彫像がマスクをしているのを、最近見かけたが、百獣の王もウィルスを恐れていると解すると理解できるものだ。口を覆うことで、目力はますます大きくなってくる。「目は口ほどにものをいう」というフレーズは視覚全盛の時代に、幾分かの修正が必要になっている。インタビュー中いらだち気味に、「さんま」(明石家)のしゃべることばは何をいっているかわからないという返答が印象に残った。昨今のテレビでは外国語だけでなく、日本語でも字幕がつく場合が多くなった。


by Masaaki Kambara