描く、そして現れる ― 画家が彫刻を作るとき

2019年9月14日(土)~12月8日(日)

DIC川村記念美術館


2019/9/28

 やっと郊外の美術館に出向くのによい季節になったが、まだ日中は暑い。絵画とは何かを考える上で、刺激的ないい企画だった。そもそもが画家と彫刻家を区別する必要はあるのかという命題がある。絵画は彫刻の一部だし、その逆もまた正しい。今ではルネサンスの巨匠まで、画家レオナルドとか、彫刻家ミケランジェロとか呼んでいるのだが、ミケランジェロはみごとな絵画を残しているし、システィナ礼拝堂だけとっても、レオナルド絵画の総面積を上回るかもしれない。素描が絵画だとすれば、ミケランジェロは素描家としても超一級である。

 「イメージと物質」という課題を引きずる限り、絵画は現実を図示したものだが、だからといって彫刻が現実そのものというわけでもない。模型がいつも立体であるなら、建築家はいつも設計図と同時に模型をつくってきた。

 現代絵画では何層にも重ねられた絵の具の厚みは、圧縮された彫刻であり、版画とは彫刻をプレスして無理やりに絵画にしてしまったものともいえる。ルネサンス期の彫刻家は好んでレリーフを作っているが、それは版画の一歩手前にあるものと見てもよい。

 「画家が彫刻を作るとき」という今回のサブタイトルで、美術史上多くの画家が彫刻を手がけてきたことを思い浮かべる。ドガの彫刻は彫刻家のルール違反もおかまいなしに、ダンサーのチュチュをひらひらとなびかせた。ゴーギャンの木彫はどう見ても、アフリカ彫刻に刺激される精霊の守り人を先取りしている。

 今回の展示はピカソの彫刻からスタートする。自然物や人工物の見立てだから、オブジェと言った方がよい。陶芸も展示されているが、これは主に絵付けなので曲面上に描かれた絵画だろう。ミロの彫刻は絵画の立体バージョンというところでは、あまり面白みはない。ピカソのオブジェの方が、圧倒的に面白い。自然物が何かに見えるという限りでは、絵画のイリュージョニズムに従うが、それは物質が発するオーラに由来するものだ。絵画の場合でいえば、紙や布地がそれにあたる。もっと言えば木版や銅版のわずかなささくれであって、それがプレスされることで、絵画とはなっているが、もとはれっきとした物質の様態なのだ。

 今回の展示の最後の章で取り上げられたのは、榎倉康二、中西夏之、五十嵐英之の3人だが、ことに中西+五十嵐の合作「遠くの画布、近くの絵画」のシリーズが興味深い。物質とイメージという話ではあるのだが、ふつうは物質は近くに、イメージは遠くにあるものだろうが、ここでは逆転している。絵画をデジタル分解して拡大していくと、今まで思ってもいないような新種が誕生したというのだ。そこでは絵画は近づき、画布は遠ざかる。

 もの派の登場で、イメージの否定と物質の優位が、叫ばれて久しい。物質のもつ豊かな想像力を前にして、人間はひれ伏してもきた。イメージは枯渇した凡庸な類似品として、量産し消費されている。しかしデジタル処理を通じて、思わぬ化学反応を起こすとしたなら、ただ単なる拡大ではない新しい地平を準備するものなのかもしれない。その兆しはマンガの一コマを拡大するだけでは飽き足らず、ドットまでも写し出してしまった潔癖さに、すでに開かれていたのかもしれない。

 突然変異はドットの並びだけではない。紗幕の揺れに伴って起こるモワレもまたイメージの叫びだろうし、それは決して物質が示す表情ではない。イメージが本来持っている潜在能力なのだろう。フランク・ステラのあやまちに気づくのはそんな時だ。ステラは直線を連ねたシェイプドキャンバスからはじめ、やがて弓形を重ねてカラーフィールドを描き分ける。この段階が鑑賞者にとって最も面白い。どの色が一番上なのかを考え出すと、思考の遊戯は果てしなく続いていく。ところが絵画が突如としてレリーフ彫刻にかわってしまった。彫刻も正面から見れば、ことにレリーフだから絵画ということになる。弓形の帯が現実空間を行き来する。絵画では分からなかった重なりの図解がそこではなされている。つまりは彫刻は絵画を図解し、解説したものとなる。しかも模範解答ではなくて解答例にすぎない。

 この手の作品はやたら大きいが、日本でも各地にある。もちろん川村記念美術館にもあるが、大規模な作品なので壁面に固定されて移動ができず、年中常設展示として壁面をふさいでしまっている。展示替えが繰り返されることで、活性化されるはずの美術館の機能が停滞する。


by Masaaki KAMBARA