第455回 2024年5月5日 

ナバロンの要塞1961

 J・リー・トンプソン監督作品、グレゴリー・ペック主演、イギリス、アメリカ映画、原題はThe Guns of Navarone、アカデミー賞特殊効果賞、ゴールデングローブ賞作品賞、音楽賞受賞。ドイツ軍が占領するギリシアの島でのイギリス軍との攻防の物語。風光明媚なエーゲ海の紺碧の広がりが映し出されている。巨大な大砲を装備した、ナバロンの要塞に築いた砲台を爆破しないと、航行する連合軍の艦隊と島に残された2000人の兵士の命が失われる。そのために特殊部隊が編成される。

 崖をよじ登る必要から元登山家の主人公(マロリー大尉)にターゲットがあてられた。イギリス人でクレタ島での任務から解放される予定が、つぶされてしまう。少数精鋭のメンバー6人が集められた。隊長(フランクリン少佐)は作戦を立案した生粋の軍人だった。階級は低いが爆破の名人で爆薬に詳しい教授(ミラー伍長)や通信機器のプロ、殺人の名人のほか、現地の若者が選ばれている。主人公に敵意をいだく、因縁の男(スタブロウ大佐)も加わっていた。家族が全員殺害されたが、それは主人公のせいだと恨んでいた。任務を終えたあとには、復讐をしようとくわだてている。

 小船での接近となるが、のっけから暴風雨に見舞われ、島にたどり着くまでに、船は座礁してしまう。映像表現として迫力のある難破場面が続く。岸壁に流れ着き、絶壁を登ることになるが、主人公が先陣を切ってロッククライミングの腕を披露して、隊員たちがあとに続く。最後に登った隊長が足を滑らせて負傷し、骨折をして動けなくなる。担架での移動となるが、本人は足手まといになるので、置いていけと言う。悪化して壊疽となり、切断をしなければ生きていられないまでに至る。

 隊長としての責任は、主人公に託されることになった。教授は隊長とのつきあいが長く、同情的だが主人公の冷徹な判断には批判的だった。残していくと敵に捕まって自白させられ、作戦がもれることを恐れた。主人公が銃を手にして隊長に近づいたのをみて、教授も銃に手をかけていた。まだ置いていく段階ではないと判断され、ふたりの隊員に担架を運ぶ役が割り当てられた。

 現地のギリシア人の抵抗組織と手を組んで、任務を遂行することになっていたが、顔をあわせると女性(マリア)だった。殺された父の意志を継いだ娘だった。弟(スピロ)がひとりいたが、じつはそれが若者の隊員(パパディモス一等兵)であり、姉弟は再会を喜び抱き合った。元教師でドイツ軍から拷問を受けたという若い女性(アンナ)も、仲間として加わっていて、ふたりが任務の手助けをすることになる。

 ギリシア人たちのつどう結婚式に紛れ込んで、酒場のテーブルにいるときに、ドイツ兵がやってきた。物々しい雰囲気になるが、満席なので諦めをつけて去っていった。自分たちの素性がばれたのかと、身構えた一瞬だった。その後、同じような状況で、今度は怪しまれて全員が連行されてしまう。厳しい尋問が続く。上官が現れて、真実を明かせば全員救うと持ちかけると、一人の隊員が名乗りをあげる。ドイツ軍はこの男が誰であるかの情報を、すでにキャッチしているようだった。用意していた顔写真と照合をしている。

 主人公に恨みをいだく隊員だった。自分はただの農夫で無関係だと言うのを、仲間は唖然とした顔で見つめている。敵の上官には、冷静を装ったナチスの卑劣さがにじみでている。担架に乗った男に目をつけ、足を痛めつけようとする。とっさにこの隊員が大げさに、おびえはじめて、油断をしたすきに殴りかかり、それをきっかけに仲間が銃を奪って逃亡する。

 このとき主人公は隊長を残していく判断をしている。連合軍の上陸作戦が計画され、その日時と場所を伝えて、それまで辛抱してくれと言いおいた。隊長は沈黙を守ることを約束したが、その情報は偽りだった。自白剤を打たれて作戦が明かされることを恐れたためだった。このことを知ると教授は激怒した。自白剤がなければ、隊長は拷問を受け、沈黙を守って殺されるにちがいないと考えたからである。その後、確かに拷問が続いていた。それに耐えていると、上官が姿をあらわし、自白剤はあるのかと問い、打つよう命じていた。

 ドイツ兵を縛り上げ、軍服を奪って、要塞に進入する。爆破装置を点検していて、教授は異変に気づく。盗み取られたようで、このなかにスパイがいるのだと言い出した。ドイツ軍に逮捕されたのも、密告によるものだったにちがいないと言う。疑われたのは元教師だった。拷問を受けたのなら、そのときの傷があるはずだと言い、隊員が彼女の背中をはだけると傷はなかった。女は犯行を認め、拷問を恐れて指示に従ったことを明かした。

 教授は殺すしかないと、審判を主人公に迫る。前夜、寝つかれないなかでこの女に、隊長を置き去りにした自分の判断が、教師の目にはどう映るかを問いかけ、ふたりは高まる雰囲気のなかで、口づけをかわしていた。教授に迫られ、銃を手に女に近づき、引き金を引こうとためらったとき、それよりも早く仲間の女が撃ち殺してしまった。仲間に加えたことへの自責の念からだったのだろう。この女もまた主人公を恨む隊員と心をかよわせていたが、結ばれることはなかった。

 主人公と教授は力を合わせて、爆薬にしかけ、砲台を爆破することに成功した。憎しみを買っていた隊員とも、握手をかわして目的成就を祝うことになった。作戦実施を承認した司令官(ジェンセン准将)は、成功するとは思っていないと、他人ごとのように同僚に明かしていた。

 参謀本部の無責任さは、いつもながら変わらないものだろう。加えてドイツ人がいつも悪役を演じるのも、戦争映画に共通の了解事項であり、この判断に対して違和感のない時代だった。かつての西部劇でのインディアンや、現在でのロシア人への偏見と同じく、実際は戦場となった現場には、善人も悪人もないというのが真実だろう。迫力ある映像だが、今見ると娯楽映画で済ますことのできない問題を含んでいた。

第456回 2024年5月6

ポケット一杯の幸福1961

 フランク・キャプラ監督作品、原題はPocketful of Miracles、グレン・フォード主演、ゴールデングローブ賞主演男優賞受賞。幸運をもたらすリンゴの話である。それはポケットに入るほど小さいが、奇跡を呼ぶものだった。ニューヨークで、リンゴを売り歩いて、しがない日々を送る老女(アニー)がいる。彼女には一人娘がいて、伯爵の息子から結婚を申し込まれている。離れて住んでいるので、自分の生活状態を偽って伝えている。高級ホテルに住んでいるように見せかけていて、ホテルの便箋を使って、娘との手紙のやり取りをしているのだ。ホテルに出入りする仲間に頼んで、ホテル宛ての住所で受け取れるようにはからってもらっていた。部屋には娘の写真を飾っていて、なかなかの美人である。

 伯爵と息子が母親にあいさつに来るというので大慌てをしはじめる。このとき一肌脱いだのが、ニューヨークのヤクザの親分(デイヴ)だった。これまで老女の売るリンゴが、この男に幸運をもたらしていて、その恩返しでもあった。警察から目をつけられ、対立する大きな組織のボスとの抗争もひかえていた。

 伯爵はマスコミの取材を受けるほどの著名人で、記者に真相を探られないようにしなければならない。ヤクザはこの老女に恩義を感じていて、何としても見破られないように、資金をつぎ込んでいく。ホテルに住まわせて、まずはみすぼらしい老女を貴婦人に変える必要から、美容師をはじめ衣装や化粧を施して、見違えるような上品なレディに仕上がった。ヤクザの情婦も世話を焼いて、手を貸している。

 豪華客船に乗り込んで三人がやってきた。写真の顔をたよりに母親が、大勢の乗客から娘を探している。見つけてあいさつをして、同行した夫を紹介している。娘の義理の父にあたるのだが、ヤクザの仲間から、よさそうな男を探し出していた。親分とその情婦も叔父夫婦として紹介されていた。記者が探りをかけてきたので、手下が阻止して監禁してしまう。

 母の演技は、それまでの下品な言動とは打って変わって、みごとな貴婦人になりきっていて、伯爵父子が疑いをはさむものではなかった。伯爵はこの機会にお披露目のレセプションをやろうと言い出す。親戚や友人を集めようとしても、ヤクザ者しかいない。大あわてをして親分は手を引こうとするが、情婦がなだめ、気を取り直して子分を使って、紳士淑女の演技指導をはじめることになった。立派な衣装も用意され、手下たちはおもしろがって役になり切ろうとしている。

 予定の日が来て、ホテルで三人と母親夫婦が待っているが、いつまでたってもヤクザ一行が現れない。用意をして出て行こうとしたところに、警察が目を光らせ、押しかけてきていた。このところの動きが怪しまれ、何か悪事をもくろんでいるのだと警戒されてのことだった。新聞記者が行方不明になっていることも、マスコミからの批判となって警察はやり玉にあげられていた。親分が顔を出して今日だけは自由にさせてくれと、交換条件を持ちだして相談している。

 母親は良心の呵責に耐えかねて、真実を語ろうと決意して、自分は決して親としてふさわしい人間ではないのだと、伯爵に話しかけたところに、外からのざわめきが聞こえ、レセプションに出席する大勢の来客が入ってきた。親分に誘導されてのことだったが、ニューヨーク市長夫妻や、知事も混じっていた。ヤクザの手下とは思えない品格が備わっていたので、ひょっとすると彼らはほんものだったのかもしれない。一件落着、よろこびの笑顔を浮かべて、三人は船に乗り込んで帰っていった。

 うそのような話であるが、ハラハラドキドキさせる、心温まる寓話だった。味のある主演のほか、昔はどんなに美人だったかと思わせる老女役のベティ・デイヴィス、ヤクザの相談役を演じた一癖あるピーター・フォーク、娘役のまだ初々しいアン・マーグレットなど、なじみのスターに出会うことのできる、親しみのある映画だった。

第457回 2024年5月7

かくも長き不在1961

 アンリ・コルピ監督作品、マルグリット・デュラス、ジェラール・ジャルロ脚本、フランス映画、原題はUne aussi longue absence、アリダ・ヴァリ、ジョルジュ・ウィルソン主演、カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞。16年の時を経て巡り合った夫(アルベール)は記憶喪失だった。妻(テレーズ)が何とか記憶を戻そうとする話。戦争は終わり街並みは復興するが、戦争の傷跡がここにもまだ残っていたということである。

 主人公はカフェ女主人であり、アルバイトの若い娘を一人手伝いに雇っているが、ひとりで切り盛りしている。若い男が親しげにしていて、親密なつきあいをしているようだ。男と女の実家は近距離にあり、夏のバカンスの期間に入り、いっしょに休暇に出ようと誘っている。パリが閑散とする時期であるが、女はパリを離れたくないようにみえる。

 カフェのまわりを歩きまわる浮浪者が現れて2週間ほどになり、女主人は気にとめ、そわそわとしている。薄汚れた身なりで、オペラを口ずさみながら歩いている。警官を見れば逃げようとする。アルバイト娘に指示して店に呼んでほしいと頼み、隠れてようすをうかがっている。間近で顔を見たときに、驚きを隠せなかったが、その理由がじょじょにわかってくる。

 川のほとりに住んでいるというのを聞き出して、住まいを探すと、小屋を立てて住んでいた。隠れてようすをうかかっていると、紐のかかった箱を野外に持ちだして、不器用な指先で開くと、グラビア雑誌の切り抜きが入っていた。雑誌に掲載された著名人の輪郭を切り抜くのだが、それが不器用に切り抜かれたヒトガタにすぎないという点で、記憶喪失の男の残された身体と、重なって見えてくる。ピカソの大きな顔写真もあった。

 おもしろそうに思った女が、興味をもって手伝わせてほしいと声をかけるが、誰だとも聞かずに、淡々とした受け答えをしている。首からハサミをひもで吊るしていて、要領はよくなく、切りにくそうにしている。売れるのかという質問には、趣味だと答えた。ゴミをあさって、金になるものを拾って生活をしているようで、捨てられた雑誌を持ちかえり、切り抜きを集めていた。

 男が記憶をなくしていることは、店に招き入れたときの客どうしの会話からわかった。身分証をみせて名前を確認すると、それが自分の名前であるらしいというあいまいな返事を返し、記憶喪失であることを知った。女はその名に記憶はなかったようで、ふたりの親類を呼び寄せて、男を確認してもらう。老女は甥にあたると言っていた。若い男は叔父だと言う。別れて時が経つので、人ちがいなのではともいい、今さら帰ってきてもという本音にも聞こえた。身分証は本人のものではないという判断に対して、妻はゴミをあさっているなかで、見つけだしたにちがいないと考えた。

 妻は確信をもっていた。この界隈を歩きまわるのが、何よりの証拠なのだ。愛人に別れを告げ、浮浪者を招いて好きだったワインやチーズを味わわせて、記憶をよみがえらそうとする。故郷の町での思い出の話をする。ジュークボックスを借り入れて、オペラ曲を聞かせる。ダンスに誘うと、みごとなステップを踏んでいて、記憶がよみがえったかにみえた。手を後頭部にまわしたとき、斜めに真一文字に切られた大きな傷口にふれて、妻は愕然とした。そんな傷はなかったはずで、ドイツの収容所で受けた傷にちがいなかった。歩くのも遅く、指先も不自由なのは、脳が傷ついているからなのだろう。

 男の記憶がよみがえることはなかった。男が去り、女はあきらめ顔でいる。店を出たとき、心配する近所の人々がいた。男を見つめる複数の目を避けるように、何を勘違いしたのか男は、降参したときの身振りで、両手をあげたかと思うと、一目散に駆け出した。追いかけるように背後では男の名が叫ばれている。脳に傷を受けたとは思えないほどのスピードで走って、前方から来た車に轢かれてしまう。

 逃げ出したとき記憶がよみがえったのかもしれない。16年前にも名を呼ばれながら逃げたのだろう。頭に刻まれた拷問の傷は、記憶がその先に行くことを妨げていたと考えると理解が可能だ。半世紀も前に読んだ本だが、清岡卓行の書いた「手の変幻」(1966)にこの映画が取り上げられていて、後ろ姿で挙げられた両手を、詩人の目はクローズアップして、みごとに解釈していたのを思い出す。

 このとき女もまた、大声で夫の名を叫んだあと、気を失ってしまう。暗転が入り、目を覚ますと目の前には若い愛人の顔があった。轢かれた男は無事だったと告げたあとで、彼は町から姿を消したことを伝えた。生きていたことに安堵しただけではなく、女はあきらめなかった。寒くなればきっとまた姿をあらわすにちがいないと、希望に満ちた表情を浮かべてFINの文字が入った。戦後16年立っても、戦争がまだ終わらず、レジスタンスは続いているということだろう。

第458回 2024年5月8

さよならをもう一度1961

 アナトール・リトヴァク監督作品、フランソワーズ・サガン原作「ブラームスはお好き」、フランス・アメリカ合作映画、原題はフランス語名Aimez-vous Brahms?、英語名Goodbye Again、イングリッド・バーグマン、イヴ・モンタン、アンソニー・パーキンス主演、カンヌ国際映画祭男優賞受賞(パーキンス)。どうしようもない男女の愛の葛藤をつづった悲恋だが、行ったり来たりの恋のかけひきを喜劇と見れば、多くの考えさせられる教訓を含んでいる。

 女(ポーラ)は40歳、室内装飾の仕事をして自立している。5年前に知りあった年上の男(ロジェ)がいて、愛しあっているが、相手は独身主義者だった。男は稼ぎはよく、トラックの販売業をしていて、別の若い娘(メージー)ともつきあっている。週末に約束をしていても、出張だと偽ってこの女優志望の軽薄な娘と旅行に出かけてしまう。

 女は仕事で財産家の女性の内装を引き受けるが、そこに25歳になる息子(フィリップ)がいた。弁護士事務所に勤めるが、甘やかされて育ったため、仕事には熱心でない。親の力で手に入れた職場だった。この男が仕事の打ち合わせで来ていた女に、一目ぼれをしてしまう。自分の年齢を告げたあとで、デリカシーもなく問い返すと、女は口ごもりながら答えていた。年齢なのでサバを読んでいたかもしれないが、15歳年上だった。

 親密な男がいるので結婚をしているのだとあきらめたが、独身だと聞いて目を輝かせた。仕事もそっちのけで、付きまとわれて女のほうはうんざりとしている。行く先々に現れて、愛を語りはじめる。男にも知られ、疑いの目で見られている。世間的には、美貌を武器に金持ちの若者をたぶらかしているようにも見えなくはない。男は夫でもないので、強くは言えない。

 青年は目が座ってストーカーのように見えて、不気味でもある。この役柄を演じているアンソニー・パーキンスが、ヒッチコックの「サイコ」(1960)にかぶさって見えてくる。女のほうは、仕事をもらっている家の息子でもあるので、むげにも拒めない。食事に誘うが断られ、ちょうどコンサートのポスターが目に入って、ブラームスは好きかと聞く。女はこれには反応を示したようで、デートが成功する。自宅でもブラームスのレコードが流れていた。青年は演奏を見ずに、女の顔ばかり見ている。女はうっとりとしてブラームスを聞いているが、それは5年前の男との出会いを回想する表情だった。

 年齢相応の相手の浮気心はわかっていても、心はこの落ち着きのある男の安定感に惹かれている。青年は男が若い娘を車に乗せて、週末に出かけるところを目撃して、女を訪ねる。出張で出かけたと聞いて、だまされているのだと知るが、そこで女に真実を明かしたのかどうかはわからない。男が戻ってきたとき、女の態度は出発前とは変わっていた。男は不安になってくる。女に週末にどうしていたかを尋ねると、青年といっしょだったと答えた。男は女が去っていくのではないかと思い引き留める。

 男が青年の思いを知るのは、女に来た手紙を、読んでくれと言われたときだった。ロンドンに出張で行くので会えないという内容で、熱い思いを打ち明けていた。裁判所での仕事だったが、女に逢いたいばかりに、法廷を途中で投げ出してパリに戻ってしまう。弁護士としてそんなことは前代未聞だと、事務所の雇い主は憤慨している。女は青年が仕事だけはまじめに務めてくれることを願っている。

 揺れ動く心が、決定的になるのは男が出張で10日間、パリを離れたときだった。今回は浮気ではなく、仕事仲間といっしょだった。女は空港まで追い、連れて行ってくれと頼んでいる。つきまとわれて、自分を見失なうことを恐れてのことだった。男が帰ってきたとき、女は変わっていた。青年に誘われて、愛される喜びを感じはじめていた。プロポーズも受けた。結婚はあきらめていたことだったが、年齢差を考えると即答はできない。いちずな愛を受け止めながら、自分は愛しているのかと自問している。レストランで知り合いに声をかけられたときも、不自然な年齢差は好奇の目で見られていた。

 ぜいたくな食事を二人して楽しんでいる。女も財産家の息子と結ばれるほうが、幸せになれると思ったかもしれない。母親も息子が以前から年上の女性が好きなのを知っていたし、この女との仲も感づいていた。青年は女の揺れ動く心に、冷静さを欠いていた。ふたりでダンスをしていると、偶然にも男と出くわした。異なった相手と踊りながら、男と女は見つめあいながら、指をからめている。やはり忘れられないのだ。

 青年は女が本心は年上の男に向かっているのを感じ取ると、酒に溺れながらも女にすがりつく。女は哀れを感じ取ると、優しく抱きかかえてやっている。青年が愛されていないことに気づいたのは、職を失いニューヨークに戻るという選択肢を突きつけられたときだった。

 あきらめをつけて、自分はふたりが結ばれるためのキューピットにすぎなかったのだと結論した。女はこれで5年越しの愛が実を結びことになるのなら、確かにそうなのだと思っただろう。ニューヨークに戻って、誰かと結婚をすると言いながらも、また会ってくれるかと問っている。女はきっぱりと拒否した。

 その後のようすが映し出されていた。冒頭と同じセリフが繰り返されているのが興味を引く。女は急いで仕事から戻ってきて、着替えて夜の約束の準備をしたところに、電話が入る。急な用事ができたという男からのキャンセルの知らせだった。仕事なら仕方がないと、女は納得するのだが、このとき相手が夫であるのか、愛人のままであるのかはわからない。

 メイドが同じセリフを繰り返している限りは、青年はキューピットにはなり損なったということだ。ブラームスは好きかという問いかけも、人は代わっても何度も用いられた口説き文句にちがいない。人間は学ばない生き物だという教訓が、繰り返し演奏されるブラームスの聞き慣れた旋律に乗って、アンニュイな気分を高めている。

 交響曲だけでなく、ジャズにまでなって繰り返される。ジャズでブラームスを歌った、魅惑的な黒人歌手が誘惑するが、青年には見向きをする余裕もない。そしてさよならももう一度、繰り返されることになるのだろう。ブラームスが好きかは、はじまりの誘いの文句、さよならは終わりの別れの文句だが、繰り返される限りでは同じセリフということだ。

第459回 2024年5月13

女は女である1961

 ジャン=リュック・ゴダール監督作品、フランス・イタリア合作映画、原題はUne femme est une femme、アンナ・カリーナ、ジャン=クロード・ブリアリ、ジャン=ポール・ベルモンド主演、ミシェル・ルグラン音楽、ベルリン国際映画祭銀熊賞、最優秀女優賞受賞。ふたりの男とひとりの女の物語。当然そこには喜怒哀楽のドラマが生まれる。女(アンジェラ)は5時半になると遅刻をすると言って、急ぎ足で勤めに向かっている。どこに行くのかと見ていると、酒場のショーガールのようだが、客はまばらだ。簡単に一曲を踊り、舞台を終えるとすぐに戻ってくる。途中で男(アルフレード)から声をかけられるが、あまり相手にはしていない。戻ってくると、そこには別の男(エミール)がいて同棲をしているようだ。

 取りとめのない、つじつまの合わない、支離滅裂な会話が続くが、顔を見るなり子どもがほしいと繰り返していた。それは男をうんざりさせるセリフだった。書店員での稼ぎは少なく、子どもを生めるような環境ではなかった。結婚ももちろんしていない。ひとつのベッドで言い争って、最後にはしゃべらないと言って、枕もとの読書灯を、傘のようにさげて、本棚に行っては何冊かの本を取り出して戻ってくる。読むのではなく、無言で本の表紙や背文字を見せあって、言いたいことを伝えている。

 パリの古アパートの最上階、5階に住んでいるようで、カメラを引いてその出入りのようすを映し出している。部屋の中には自転車が置いてあって、男は腹が立つと、それに乗ってテーブルをゆっくりとまわっている。女はけんかの腹いせに、言い寄っていた男と仲良くなっていく。階下に住む露店での新聞売りだった。頭の回転は早く、気の利いた会話という点では、こちらのほうがしゃれていておもしろいが、やはり前の男がいいのか戻っていく。ふたりの男に、感性と理性の対比が読み取れるかもしれない。

 ベッドをともにしたと打ち明けて、男の嫉妬心を引き出そうとしている。そしてまた子どもがほしいと言いはじめる。男は誰か妊娠をさせてくれる相手はいないのかと声をかけて、逃げ腰でいる。ひとつのベッドでいるとやがて、どちらからともなく寄り添って、子どもができる条件は整っていく。所詮私は普通の女にすぎないのよというのが、居直りふうに語った最後のセリフだった。映画名の意味もそこにあるようだ。

 ストーリーをまじめに追っていると、肩透かしにあうが、これまでの映画の文法をくつがえすような効果音や音楽の使い方の新鮮さに目が向くと、この映画のねらいが見えてくる。アズナブールのシングルレコードが、ジュークボックスから流れていて、丸ごと聞くことになる。ゴダールの前作「勝手にしやがれ」が話題にされると、フィクションが現実に引き戻されてくる。しかもそのセリフを言ったのは、今回はふられ役のジャン=ポール・ベルモンドだった。ここでも私たちに向かって語りかける不自然なショットがはさまれる。

 手書き文字が字幕を超えて、画面に大きく書き出されている。複雑な物語構成を苦手とする、無声時代の映画のオマージュにさえみえるものだ。アンナ・カリーナの自然体の、言動のさわやかさに支えられて、銀幕スターの伝統は、新しい時代に踏襲されていた。冒頭に挿入される大きな文字には、ミュージカルともオペラとも表記されていたが、ハリウッドミュージカルとは明らかに異なっている。サイレントで音楽映画を見るという、矛盾をはらんだ映像の実験性も加味されているのかもしれない。

第460回 2024年5月14

豚と軍艦1961

 今村昌平監督作品、長門裕之、吉村実子主演、ブルーリボン賞作品賞受賞、英語名はPigs and Battleships。米兵が行き交う横須賀を舞台にヤクザ組織(日森組)チンピラ(欣太)と、この若者を愛する娘(春子)との、結ばれることのない物語。娘は危なかしい男の生き方を、何とかまともな道に戻そうとするが、男は悪い仲間とのしがらみを断ち切れないでいる。やっと娘との愛に生きようと、ヤクザの足を洗う決心をしたときは、すでに遅く命をおとしてしまった。

 はじまりはチンピラが米兵の帽子を奪って走り去る。追いかけていくと、そこは商売女のひしめく巣窟だった。荒っぽいやり口だが、客引きをしていたのである。この違法の宿に手入れが入ると、一目散に逃げだしている。チンピラは娘の手を引っ張って逃げ、逮捕を免れていた。娘もまたそこに身を置く限りは、同じ人種ではあったが、意志は強く、男のような使い走りの軟弱さはみられない。

 チンピラは兄貴分(鉄次)が誤って殺してしまった罪をかぶって、出頭するよう説得されている。男をあげるにはいい機会だとそそのかされて、その気になっている。初犯だと長く留置されることはなく、帰ってくれば収入は一桁多くなると言って誘っている。兄貴分はこの若者を可愛がっていたが、このことを聞くと、初耳だったことで憤慨する。こわもてのするヤクザだったが、病気にふせっており、余命いくばくもないと気落ちしている。血を吐いては、胃がんだと悲観している。

 医者も本当のことを言わないので、弟分の若者に頼んで患者番号を教えて、レントゲン写真を盗んできてもらう。若者が持ちだして口ごもっていると、どれくらい生きられるのかと聞く。書かれているとおり数日だと答えると、落胆して病院を抜け出すことになる。患者の個人番号とレントゲン番号とは異なっていて、他人のレントゲン写真だった。ただの胃潰瘍にすきなかった。強そうなヤクザがこわがりであり、シリアスな内容が喜劇としてみえてくるのが、芝居がかっていておもしろい。人間喜劇としてどんな悲惨な内容でも笑えるというメッセージでもある。死体の処理に困り、豚のえさに混ぜてしまい、豚を食ったときに明かされると、兄貴分も含めてとたんに吐き気をもよおしている。

 死体がすまきにされて海に浮かんでいたり、娘が集団で暴行されたり、衝撃的な場面もはさまれるが、悲観することなく前向きに生きるたくましさが、喜劇のもつ意味なのだと思う。ヤクザから足を洗うと言って、最後の仕事だと去っていったチンピラは帰ってこなかった。堪忍袋の尾が切れて、機関銃を乱射する姿も、やぶれかぶれで誰をねらっているわけでもない。先に撃ってきたことから正当防衛になるのでと、銃弾が腹に撃ち込まれてしまう。逃げながら最後は便器に顔を埋めて死んでしまった。たぶん「野たれ死に」という語を暗示しているのだろう。誰にも見取られない惨めな最後だった。

 駅で待つ女に事件が伝わると、現場に駆け出し、遺体が運ばれる姿を見ている。バカヤロウを何度も連発するのは、悲しみを吹きとばそうという、前向きな姿勢からだろう。女もまたチンピラだった。有力な米兵との縁組が進められていたが、米軍の寄港を待ち受けて群がる女たちの流れに逆らって、駅に向かった。住み慣れた米兵相手の横須賀を去り、新天地である川崎に行くのだと言っている。

 豚は金もうけの材料として登場するが、大量にトラックに乗せられていて、解き放たれると町中を走り回っていく。売春宿が摘発されて営業ができなくなったので、豚小屋に姿を変えるというのもブラックユーモアの材料となるものだろう。両者がイメージの上で重なって見えてくる。豚はまじめな顔をして走っているが、これもまた笑わせるものだった。決して速いものではなく、のろのろとかたまりとなって移動している。その数の多さは圧倒されるもので、活力に満ちていて、喜劇に花を添えていた。

第461回 2024年5月15

婚期1961

 吉村公三郎監督作品、水木洋子脚本、宮川一夫撮影、若尾文子、野添ひとみ、京マチ子、船越英二主演、ブルーリボン賞主演女優賞(若尾文子)受賞。婚期を逃す娘をめぐる兄弟姉妹のドタバタ劇。親の残した邸宅に住むのは、長男(唐沢卓夫)夫婦と妹が二人と弟が一人、それに親の代から、長らく勤めるバアヤの6人である。もうひとり長女(冴子)がいるが家を出て、服飾デザイナーとして自立している。長男は家業を継いで、社長として忙しくしているが、女性の出入りも激しい。嫁(静)と小姑の妹ふたりとの対立を、喜劇ふうにテンポよくエピソードで連ねられているのが、見どころとなっている。

 嫁は専業主婦だが、家事はバアヤに頼りきっている。妹たちは次女(波子)は広い自宅の部屋を使って、子ども相手の書道教室を開いていて繁盛している。30歳までには結婚をしたいが、婚期は去ろうとしている。三女(鳩子)は芝居をしていて、25歳になるが、まだ目は出ない。次男である弟(典二郎)は当分自立はできないが、付き合っている彼女はいて、姉ふたりを年寄り扱いしている。

 妹たちを嫁に出すことは、兄嫁にとっては肩の荷が降りることだった。縁談を探してくる。35歳の歯科医が候補として見つかり、嫁は痛くもない歯を診てもらいに出かけた。マスクをしていたので、取ってもらって確認もした。これなら申し分はないと判断して見合いをすることになる。次女も期待に胸を膨らませたが、現れた相手は頭が禿げあがっていた。診察室では帽子をかぶっていたのだった。兄は容姿など問題にはならないと説得したが、妹はそれだけではないと言う。あとで二人になった時に、医院の改装資金をせびられたのだと明かした。書道教室で稼いでいるとあてにされたようだ。

 妹たちにとっては、自分たちが追い出されるか、兄嫁を追い出すかのバトルだった。弟を巻き込んで三人がグルになって、一騒動をしかける。長男に愛人がいて、隠し子までいるという、嫌がらせの手紙を書いて、兄嫁に宛てて、日ごろの不満の解消を考えた。彼女は夫だけでなく、家族のことを考えながら、日々を忙しく立ち回っていたが、女どおしの争いは火花を散らせていた。弟はその迫力に逃げ出してしまう。妹ふたりは共闘を組んでいるが、嫁と入れ違いにお互いのぐちを、長女のもとに相談を持ちかけている。長女はどちらもどちらだと達観している。

 寝静まって、嫁は夫に手紙のことを打ち明ける。ぎくっとするが夫は、いたずらだといって受けあわない。妹たちには根拠があってのことではなかったが、驚いたことに長男はほんとうに浮気をしていて、隠し子まであった。しかももうひとり、姉のもとにいる若いファッションモデルにまで手を出していて、今の妻を追い出して、結婚の約束までしていた。この娘は隠し子のことを聞きつけると、本宅ではなく別宅へ、乗り込んでいき言い争いになったところに、本人がやってくる。アパートの住民が興味をもって様子をうかがっている。

 妹たちはあきれるが、もっぱら心配は財産相続のことだった。長男夫婦に子どもがいないことは、嫁にとっても心配の種だっただろう。そんなときガス栓の開閉を誤って、寝室にいた主人が中毒を起こす。その頃、嫁とはいさかいがあって、寝室を別にしていたので、嫁が疑われる。何とか一命を取りとめ、事故ということでことなきを得た。

 これに先立って密告の手紙と、そのあとに脅迫めいた電話もあったことから、バアヤが警察に通報していた。電話は三女の劇団員の演技だったが、次女には知らせていなかった。警察の捜査を知って、ふたりは罪のなすくりあいをはじめている。バアヤの一存でのことだったのだが、嫁はしかたなく聞き取りにきた警官に対応していた。

 不吉なことが続き、バアヤが暇を取りたいと言い出す。唯一の肉親である娘の結婚相手も決まり、新しい生活が始まるときでもあった。今までずけずけという物言いであったが、いなくなると家族全員が困ってしまう。嫁は決意をしたようで、彼女のほうが家を出た。どれほどの時間が経過したかはわからないが、心は解放され死ぬように眠り続けた。

 独身生活をしている友人宅に身を寄せていたのだが、そこにてみあげをもって、夫が訪ねてきた。半分は迎えにくることを予想していたと言っている。夫が伝えるには家を売り、妹たちも出て行ったのだという。ふたりでのやり直しに誘うと、妻は友人の気づかいも眼中にはなく、浮かれるように腕を組んで夫と出ていった。

 シニカルな内容だが、コメディタッチでみごとに処理されたのは、俳優陣の名演技によるものだ。おっとりとしているがくせものの兄嫁役の京マチ子と、美人だが近眼でメガネを手放せない妹役の若尾文子とのやり取りが、緊張感を高めている。その間にあって、ことにバアヤ役の北林谷栄の味のある演技が際立っていた。へーいという気のない返事が、救いのない家族に肩透かしを食らわすようで痛快に聞こえる。テンポのいい脚本と、意表を突いた真上からの撮影も加えられ、斬新で見ごたえのある作品になっていた。

第462回 2024年5月16

反逆児1961

 伊藤大輔監督作品、大佛次郎原作「築山殿始末」、ブルーリボン賞監督賞受賞、中村錦之助主演、英語名はHangyakuji。戦国の世の血みどろの人間関係の犠牲となった若者(松平三郎信康)の悲劇。世が世ならば、徳川幕府の将軍として安泰であったかもしれないが、少しばかり早く生まれてきたばかりに、運が悪かったとしかいえず、反逆児としての非業の死をとげることになる。

 信康という名が示すように、信長と家康を父にもつという限りでは、名門の天下人にちがいない。家康にとっては実の息子、信長にとっては娘婿だった。信長は娘婿の、ひとさし舞ったさっそうとした姿に接して、惚れぼれして見ている。折から妻(徳姫)が懐妊した時期で、誕生の知らせを受けると、男児にちがいないと喜び、さっそく妻のもとに戻るように命じている。

 ふたり目もまた女児だった。世継ぎの誕生を願いながらも、母親(築山御前)が信長に滅ぼされた今川家の出であったことから、信康は微妙な立場に置かれる。母親との絆が強かったことは、信長の怒りをかってしまう。加えて信長のご機嫌を損ねないように、綱渡りをし続けた家康の手にかかって命を落とす。

 わが子を殺すという選択肢は、非情とも言えるが、徳川家の存続を最優先した処世術の犠牲となったのである。親の目には息子の姿は見えなくとも、300年続く15代あとの子孫の姿は見えていたのだろう。その意味では、家康は恐るべき見通しのきく人物だったといえそうだ。

 妻を愛しつつも、父親である信長の寵愛を受ける妻と、それに敵対する母との板ばさみになって悩み続ける。嫁と姑の確執は、今も続く普遍的かつ永遠のテーマであるが、その典型的なモデルケースといえるものだ。歴史的には決して英雄像ではないが、ここでは人間味あふれる魅力的な主人公として、描き出されている。

 いさぎよく切腹を選び、ためらいもなく腹を裂いたあと、旧来の家臣(服部半蔵)に首をはねるよう指示する姿は猛々しい。主人を手にかける悲しみから、腹心の家来が介錯できず、人が代わっても、一度では切り落とせずに、繰り返されることになるのは、衝撃的に目に映る。もっともこんなシーンをリアルに映し出せば、たまったものではないが、私たちが思い起こすだけで十分なものだ。斬首の最後は血のかたまりが、わずかに飛び散っていたが、これだけでセレモニーの形式美は完了する。

 領内の庶民の娘(しの)をみそめる経緯も興味深い。花を満載した小舟での出会いは、子ども心に戻ったようなあわい恋のはじまりを映し出している。妻が女児しか産まなかったことから、母親がこの娘に目をつけ、男児を産むことを願って画策する。娘は領主との出会いに心をときめかし、私たちも愛が芽生えるラブストーリーを期待するのだが、娘は主人公と妻と母の、それぞれの思惑と欲望に利用されただけのことだった。

 息子と関係を結べなかったことで母親から打ちのめされる。何という親子だと思うが、娘はそれによって主人公を裏切り、妻のもとに逃げ込む。妻は彼女を利用しようとし、夫は妻を恐れて、娘にはつらくあたることになる。思いやりのない政略を前面に出した戦国人の救われることのない愚かさを、掘り下げているところに、人間ドラマとしての見どころがあった。

 血の定めを忘れるかのように、夫婦の契りを結ぶ、男女の情愛のシーンが印象的だった。妻を引き寄せて唇をあわせるのは、日本の時代劇には珍しいものだ。社会のしがらみを超越して、真空のときを楽しむ、至福の一瞬である。切腹を前にして主人公は、決して妻を恨んではいないことを言いおいていたが、それがこの時代の精一杯の愛情表現だったのだろう。

第463回 2024年5月17

不良少年1961

 羽仁進監督作品、キネマ旬報ベスト・テン1位、地主愛子編「飛べない翼」原作、山田幸男主演、毎日映画コンクール音楽賞(武満徹)受賞、英語名はBad Boys。ドキュメンタリータッチで推移するので、その臨場感を通して、ドラマとは思えない迫力を感じることになる。怒鳴り声が激しく威嚇しあっている。はっきりと聞こえる必要はなく、意味が取れなくても問題はない。裏街道に身を置く経験者にはどんなふうに目に映ったかはわからないが、未知の世界を垣間見る恐怖と好奇心が、交錯してやってくる。

 少年(浅井)は宝石店に入り、一瞬のすきに店員を目くらましにして、すばやく宝石箱を奪い、入り口に待ち受けていた仲間のバイクの背に乗って逃げていく。結局は捕まって少年鑑別所に送られ、務め上げてそこから出所するまでの話である。護送車で送られ、数珠つなぎになって降りてくるところからはじまる。車が銀座を通り過ぎるとき、銀座を歩いたことはないという、つぶやき声が聞こえていた。

 分別をつけて社会に復帰するという体裁は取っているが、悪事に至るまでの経緯がはさまれて、話は行き来しながら進展していく。俳優が脚本にあるセリフを覚えて、役づくりをするのとは異なった、実験的な演出法が試みられている。違和感を回避する芝居ではなくて、違和感を助長する異化効果といってもよいものだ。セリフに代えて、主人公の深層心理を反映するように、音楽が効果的に挿入される。

 社会からはみ出した、チンピラではあるが、度胸のある一匹狼の素顔がリアリティをもって目に映る。それはたぶん眼光の鋭さと頬のエクボがアンバランスに組み合わされている、主人公自身の顔立ちのせいなのだろう。更生するという無難な筋書きを超えて、なまの表情がこれまで安全地帯にいた、私たち観客の立ち位置に揺さぶりをかけてくる。怖いもの見たさと言ってもいいが、それが映像のもつパワーにちがいない。

 ジャックナイフを取り出して握りしめ、ゆっくりと押し下げて引き抜く。手のひらを傷つけて、血を顔に塗りたくっている。その顔で路上を歩くと、通行人は身を引いていく。この無言のしぐさが、セリフ以上に、社会への不満を雄弁に語り出す。少年院では内部のようすが映し出されているが、担当官のことばは棒読みのようで、抑揚をもたず演技をしていないぶんだけ、セリフの一言一言がくっきりと耳に残っている。それは論理的ではあるが、感情をもたない秩序と管理に根ざした無味乾燥の、ただのことばに過ぎない。

 少年院で顔を合わせ、交友関係を深めた年長の若者(出張)が、自分のしてきた恐喝の手口を思い出しながら、その後味の悪さを、主人公に語り聞かせている。悪事の経験は主人公を上回っていた。隠し持っていた覚醒剤を吸おうとして、独房にある布をほぐして、薬物を巻き込み、摩擦をしながら火を起こしている。手順を教えるように、一部始終をカメラが追う。

 恍惚感に浸りながら、逮捕前に親しんできた女を思い浮かべている。悪事のリアリティとは裏腹に、ふたりの友情ははぐくまれていく。向こうみずな主人公の、はじめの配属先はクリーニング科だった。空手自慢の班長とその取り巻きから嫌がらせを受け、生意気だと言って暴行を受けるが、不満に沈黙を続けてきた仲間を誘い、彼らを引き連れて仕返しにいくと、激しい殴り合いがはじまる。

 組織の輪を乱すと職員に判断され、木工科に移動させられている。ここでは落ち着いて、生産する作業の喜びと、それに生きがいをいだく仲間との交わりを通じて、すさんだ心は開放されたようにみえる。ラストシーンは少年院をあとにする主人公の後ろ姿を映し出していたが、入ってきたときの、不貞腐れた表情とはちがった、前向きな姿勢を読み取ることができた。入所時の持ち物を返され、木工作業で得たわずかな給金も手渡されていた。残念ながら、それが後ろ姿であることは、簡単には社会は受け入れはしないということが暗示されているようだ。