第278回 2023年9月14日 

大人は判ってくれない1959

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はLes Quatre Cents Coups。カンヌ映画祭監督賞受賞。3人家族でのひとり息子が、少年院に送られるまでの話。小学校高学年あたりのとしごろである。タバコを吸ったりもしているので、もう少し年長かもしれない。教室での態度が悪くて、立たされるところからはじまる。次にズル休みをして、仲間と遊びに出かける。

 仲間は印刷工場を営む裕福な家の子どもで、欠席届の書き方を教えてやっている。書き損じて教師には口頭で母親が死んだと言うと、これまで目の敵にしていた教師は急に優しくなり、慰めの表情に変わった。無断欠席を知った両親が学校を訪れたとき、母親が生きていることがわかってしまう。学校でも、家庭でも信頼を失い、いたたまれなくなって家出をして、仲間の印刷工場で一夜を過ごす。

 ずるずると奈落へと転落していく姿を、ドキュメンタリータッチでカメラが追っている。鍵っ子だったが悪い子ではなかった。両親は共稼ぎをしていて、帰宅するまでに子どもが三人分の夕食の食器を並べている。子どもを中心に並んで食事をしている。ゴミ出しもしていて、家の仕事は言いつけ通りに従っている。家庭での会話から子どもが連れ子であることがわかる。母親の連れ子だと思い込んでいたが、じつのところ確証はない。

 母親があまりにもつらくあたるので、継子いじめをしているようにもみえる。父親はそれに比べて優しく接しているようだ。その後、少年鑑別所の面談での母の発言から、母親の連れ子だったとわかるが、面接官も父親の連れ子だと思っていたようだった。母の口からは、育ててくれた父親に感謝をというセリフも出てきた。少年とは思えない大人びた遠慮があったように思う。盗みで捕まり警察に引き取りに行ったときには、親はもうすでに子を見限ってしまっていた。

 母親の愛に飢えていたことは確かなようだ。母親が急に優しくなったときがあった。親子三人が映画館に出かけ、並んでいる姿はごく普通の家族の情景に見えていた。これに先立って、学校に行かずに街をぶらついているときに、少年は母が知らない男といっしょにいるのを目撃していた。目があって母はしまったという顔をしている。同時に学校にいる時間帯なのにとも、思ったはずだ。その夜は母親の帰宅は遅く、父親は仕事が忙しいのだと妻をねぎらいながら、慣れない卵料理をつくっていた。少年は告げ口をすることもなく、何も言わずに父との時間を過ごした。

 ドラマとして会話を中心にたどっていける論理的な言語構成とは別に、映像として定着する刹那の感覚がある。これがたぶん映画を豊かなものにしている。それは必要以上に長いカメラワークとなって記憶に残るものだ。最初はパリの街並みを移動する路上からみえる光景だ。どこからかはわからないが、常に遠景にはエッフェル塔がみえる。北斎の富士にも似て、それはそびえたつものとしてそこにあり、黙ったまま見つめ続ける神のような存在と言えるかもしれない。長いイントロだった。

 途中では子どもたちが人形劇をみながら、屈託のない笑いに包まれる場面が、繰り返し写し出されていた。ストーリーからは逸脱した違和感が、象徴性を高めている。主人公の少年の憂鬱な表情と、対比をなすもので、演技では見つけることのできない映画というメディアの特性だと思う。遊園地で回転する絶叫マシーンに乗って、無重力を楽しむ場面も、長く引きのばされていた。少年は笑ってはいるが、ひとりで楽しむ孤独な遊びだ。そしてラストシーンでの、少年院の柵をくぐって脱走し、ひたすら走り続ける姿には、セリフは一言もない。少年院に送られる前、親は息子を陸軍幼年学校に入れようとしたときがあった。いわば厄介払いであったのだが、このとき少年は陸軍は嫌いだ、海軍ならと答えていた。

 走り続けて海にたどり着いたところで、映画は少年の表情をクローズアップして終わった。少年にとって海とは何であったのかという問いが、私たちに投げかけられているようにみえる。そびえたつ山やエッフェル塔に対して、それは子を包む母性であったにちがいない。この独走も映画としては長く、どこまで走っても海にはたどりつかないのである。何かしゃべり出しそうな少年の表情が示す永遠の時の停止とともに、脳裏にこびりつくことになった。

 これがトリュフォー自身の自伝的作品だというのなら、原題にこめられた400回も繰り返された若き日の非行というのが意味をもってくる。その苦難の末にたどり着いた、映画監督として大成する意志の力を、その表情に読み取らなければならないだろう。もちろんこれは若干27歳の青年の処女作で、大監督になるのはのちのことだ。カンヌ映画祭での受賞など、思ってもいないことだったはずだ。

 それでも映画への愛情は、満たされぬ思いの代償のようにこだましている。学校をサボって行ったのは映画館だった。仲間が帰りぎわにやぶって持ち帰ったのは、不良少女モニカの写真だった。映画青年にとってのミューズといってもいいものだ。ベルイマンは見なくても、一枚のスチール写真が映画への信仰を暗示している。

第279回 2023年9月15 

ピアニストを撃て1960

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はTirez sur le pianiste。かつては天才ピアニストとして、クラシックの世界で名の知られた男が、今はしがない酒場にくすぶっている。男兄弟4人のなかでは、唯一誇れる家族だった。一番下の弟を引き取って町に住み、学校に通わせている。ある日、兄が悪の組織に追われて、酒場に逃げ込んでくる。身の危険を感じている。2人組が追ってくるが、弟の助けで裏口から何とか逃げられたようだった。酒場の支配人は、ピアニストが女従業員にもてるのをうらやましがっている。その日も女が声をかけるが、男は臆病なままで、手を握るのさえためらっている。つけられていることを感じた女は積極的に行動し、男の身を守った。アパートに連れて行ったときも、弟のいるのが気にかかって、思うように愛しあうこともできない。女はピアニストの栄光の日々を知っていた。

 ピアニストは順調に名を上げていった頃に、一度結婚をしていた。妻は臆病な芸術家にとってマネージャー的存在だった。妻は突然飛び降り自殺をしてしまったが、その原因は夫を売り出すための裏工作に、興行主からの要求を飲んで、体をあずけていたのだった。夫に打ち明けて直後の自殺だった。彼は第一線から姿を消して、名前も変えて同じピアニストではあるが、ジャズで生計を立てる日々が始まった。ピアノ内部が目まぐるしく動くはじまりの映像が、ピアニストのテクニックを暗示させて効果的である。

 姿を消した兄の消息を求めて、ピアニストにも追っ手が迫ってくる。女の手助けもあって逃げ延びるが、同居の弟が下校時に誘拐されてしまう。酒場の支配人がこの女従業員に目をかけていたことからトラブルになり、もみあいになった勢いで、ピアニストは殺人犯になってしまった。警察にも追われることになって、恋人をともなって雪深いいなかの実家に逃げていくと、兄はそこに身を隠していた。三人の男兄弟がそろうと、ピアニストだけがひ弱で華奢にみえたが、今は兄たちに負けないほどの犯罪者になっていた。

 二人組が下の弟を道案内にして、実家を探りあててやってくる。弟は隙を縫って逃げ出すが、銃撃戦となり、弟の身を案じた恋人が走り寄ったときに、撃ち殺されてしまった。ピアニストを愛したふたりの女が死んでしまったことになる。自身の殺人については正当防衛が認められて、酒場に戻って、またピアニストとしての日々が続いていく。新人の女従業員が加わって、紹介されていた。何もなかったかのような日々が繰り返されていく。ピアニスト役をシャルル・アズナブールが演じている。肩の張らないナチュラルな演技は、シャンソンを口ずさむようで、アンニュイな感性が心地よい。スタイリッシュなジャズの響きに合わせて、映像も自然な動きで呼応しており、ハリウッド映画にはない新感覚な映画の誕生を感じさせるものだった。

 二人組の殺し屋はあまりこわくはなく、どちらかといえばとぼけていてコメディふうだ。フランス映画によく出てくる伝統を踏襲している。ピアニストを車に拉致しての会話などは、ユーモアとエスプリに富んでいる。シリアスなハードボイルドとは対極にあるフランスふう小噺といったところか。愛すべき粋な小品だった。

第280回 2023年9月16

突然炎のごとく1962

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はJules et Jim。ふたりの男を翻弄した激しい女の短い生涯を描く。ジュールとジムは同性愛と疑われるほどの仲のよい友だち同士だった。そこにカトリーヌという女性が現れて、二人の友情を引き裂いて悲劇へと至る。この奔放で魅惑的な女性をジャンヌ・モローが演じている。髭をつけて男装をしてかけっこをしている。三人はどこに行くのもいっしょだったが、ジュールがまずこの女に惹かれて、付き合いはじめる。親友には彼女に手を出さないよう釘をさしている。夜道を川に沿って三人で歩いていたとき、女が急に川に飛び込んだことがあった。理由はわからない。心当たりがあるとすれば、男同士が話をしていて、ひとりぼっちにされたことからだっただろうか。わがままで身勝手な行動は、女王のようなふるまいだったが、男たちはそれに翻弄されながらも従っていた。

 ジュールは結婚を申し込み、受け入れられて、子どもも生まれ、パリを離れて幸せな生活が続く。久しぶりにジムが呼ばれて、子どもとも打ちとけるが、親友から夫婦なかがうまくいっていないのだと告白される。ふたりに彼女を紹介した男が、負傷して近くに移り住んできて、彼女との関係が深まったのだという。男は子どもを引き取って結婚をしたいといっている。さらに3ヶ月も家を開けたことがあったが、それも別に男ができたからだった。親友は彼女を愛していて、失いたくはないと言う。ジムは彼女に向かって子どもは父親に似ていないと謎をかけてみたが、即座に否定された。

 彼女はジムにも声をかけて、相談ごとがあることを、夫にも聞こえるように言ったことがあった。ジムは親友の顔をみるが、平静を装って気にもしていない表情を浮かべている。待ち合わせの場所にジムは心をときめかして待っているが、1時間立っても彼女はこなかった。ジムも彼女を愛していたのだった。自分への気持ちを確かめ、心を試してみたようにみえる。

 同じような誘いは、もう一度繰り返されていた。このときはジムを受け入れて、ジムも強い情熱で彼女に迫った。ジムが子ども好きであるのを見越したように、今はどちらの子かがわからないのでと、肉体の結びつきをじらしてみせた。ジムには婚約者がいたが、別れる決意をしたのは、その後彼女と結ばれて妊娠したという知らせを受けたときだった。ジュールは親友と妻との関係を知っていたが、親友であればこそ、近くにいて彼女を愛し続けることができるという、倒錯した心理状態になっていた。流産によって期待は裏切られてしまう。ジムは婚約者との静かな生活を思い描き、魂をすり減らし炎のような情念との決裂を決意する。

 世界大戦が勃発すると、ジムはドイツ人だったので、フランス人のジュール夫妻とは敵同士となり、戦地で鉢合わせにならないことを祈った。ドイツが勝利をし落ち着いた頃に、パリに戻ってきて、セーヌ川のほとりに住んでいた夫婦を訪ねたとき、カトリーヌは自家用車を運転していた。表面上は落ち着きを取り戻していたようだったが、愛する人の子を生むことに失敗した落胆が強かったのかもしれない。ジムを乗せてそのままスピードを上げて、川に突っ込んで、ふたりとも死んでしまった。これに先立ってジムが逃げ腰になったのをみて、銃を突きつけたことがあった。そのときは取り上げて川に投げ捨てて、ことなきを得ていた。カトリーヌ32歳、ジムは29歳の生涯だった。残されたジュールにとっては、たとえ妻がジムと結ばれたとしても、愛するふたりとともにいたかったのかもしれない。

第281回 2023年9月17

アントワーヌとコレット/二十歳の恋1962

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はAntoine et Colette。30分ほどの短編映画である。5人の監督によるオムニバス作品で、全体のタイトルは「二十歳の恋」、その第一作をフランソワ・トリュフォーが受けもっている。20歳の青年の実らない恋を描く。よくある失恋話だが、あきらめるしかないという人生経験の哲理を学ぶことになる。娘は大学生、主人公のアントワーヌはレコード店に勤める社会人である。ひとり暮らしをしているが、ラジオの上に置いた朝の目覚まし時計がカタカタといって落ちかけている。娘とはコンサートで見かけて熱いまなざしを送ったのが最初だった。やがて知り合い親しくなるが、娘の自宅に招かれて、食事をするまでになる。

 この青年が実は「大人は判ってくれない」の主人公の後日談なのだというのが、過去を振り返るなかで知らされる。学校をさぼって遊び歩いた友だちと今も付き合っているようで、コンサートにもふたりで出かけていた。思い出は友だちの部屋でタバコを吸っていて、父親が帰ってきて煙たがるシーンが挿入されていた。高価な馬の置物には見覚えがある。かつての不良仲間にしては、クラシックの演奏会なので、趣味は悪くはない。相棒にはもう決まった彼女がいるようで、主人公の恋には、さして関心を示してはいない。

 青年はひとりで燃え上がってしまう。彼女を送ったときに家を知り、前に止めてある車を父のだと言って紹介していた。下から見上げて家を確かめている。彼女の家の前にあるホテルに引っ越してきて、窓から両親に向って手を振る姿も写し出されていた。家族はアパート住まいだが、父は15歳で働きはじめ、今は社長であることがわかる。娘の友だちという紹介だったので、大学生だと思ったが、社会人であり、自分も早くから社会に出ていたので親近感を持ったようだった。

 頻繁に食事にやってくると、彼女にすれば監視されているような息苦しさがあったにちがいない。娘よりも両親がこの青年を気に入ったようで、娘のほうは青年の気持ちを察しながらも、醒めた態度を保っている。誘っても宿題があるからと言って、ことさら学生であることを強調していた。映画館でデートをしたとき、上映中に青年がキスをしようとして拒否される。そのときに察して身を引けばよかったのだろう。

 深みに陥った悲劇は、彼女の家の食卓で起こる。彼女がやってきて、両親が食事に誘っているから来てくれと言うのだった。アントワーヌはコレットが避けているのを感じていたので拒絶したが、彼女は15分待つと言った。結局は出向くことになった。両親は変わらず彼を歓待したが、食事はすませたと言って、みかんだけを食べはじめた。

 そのとき玄関のベルが鳴って、彼女が出て、入ってきたのは、主人公も見かけたことのある男性だった。両親に紹介して、その足でふたりで出て行ってしまった。両親は残されたアントワーヌに向かって、テレビへと誘い、息の詰まる思いで、黙って三人が並んでいる姿が、映し出されていた。耐え難い気づまりのシーンは、わからなくはない日常の恐怖の一瞬を、みごとにとらえていた。インパクトのある一瞬をうまく写し出せるトリュフォーの才能には感服する。

第282回 2023年9月18

柔らかい肌1964

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はLa Peau douce。中年男の好奇心と火遊びが、命を落とす結果になるという悲劇。第三者からみると喜劇にも映るが、男にとっては笑ってもいられない身のつまされる話である。男は著名な文芸批評家で、幸せな家庭をもっている。妻は秘書としての仕事もこなしている。結婚して15年たつが、妻との間にかわいい娘もいて、子煩悩な父親の姿がみえる。ある日、リスボンに向かう講演旅行で、若いスチュアーデスに惹かれ、男のほうから近づいてゆく。娘もテレビでみる有名人から声をかけられて、誘いに乗ってしまう。空港にはこの著名人を迎える人々の姿があった。滞在中にはリスボンに特徴的な路地を走る路面電車のわき歩く二人の姿も見られた。

 パリに戻っても妻に隠れてのデートが続くが、会うのに適切な場所がない。彼女は一人暮らしなのだが、管理人が父親の知り合いでもあるので、見つかることを恐れている。女の家に行くのは男のほうも躊躇するが、パリを離れることで解消できるものと考えた。そして、ランスへの講演旅行に彼女を連れていったときに、破綻が起こる。パリでは人目につくので、いなかでの密会は都合のよいはずだった。名の知れた宿は避けて、三番目あたりのホテルをミシュランで見つけていた。車でパリをたちホテルに着くが、娘はフロントで顔をそむけている。チェックインをすませたあと、講演に先立って男はあいさつに出かけるが、そこでスポンサーの文芸協会のもてなしを断ることができず、彼女をひとりホテルに残すことになってしまう。もてなしの会では、文学の話だけではなく、家族のことや妻のことも話題になっている。妻と同伴ではないのかと確かめられてもいた。若い女性が会いに来ているという知らせがあって、一堂が顔色を変えるが、行ってみるとサインを求めるファンのひとりだった。

 彼女は講演会の入場券も満席で手に入らずに、会場で門前払いを食っている。会が終わって主人公が出てきたとき、彼女はまだそこにいた。不機嫌な顔をして目が合うと遠のいてしまった。そばに会の担当者がいて、不可解な顔をしてみている。遅くなってホテルに戻ると彼女はふてくされて、すでに寝ていた。私は何をしに来たのかとつぶやいている。何とか機嫌を取り戻したのは、帰りをもう一日のばして、ふたりの時間をつくったことからだった。自宅には連絡もしないままだった。

 妻は知らせがないのを不審がっていた。仕事上の連絡もあってランスに電話を入れたが、パリに戻ったという返事だった。主人公はランスの担当者には日帰りでパリに戻るといっていたのだった。帰宅後、妻には講演が急きょ2日間に延長されたという説明をしたが、女の直感は鋭かった。いさかいがはじまる。夫は離婚を決意していたが、妻のほうが怒りのあまりそれを先に口に出した。夫は彼女との新しい生活を夢見ていた。家を出て新居を探しはじめている。妻は言い過ぎたことを後悔しているが、もうあとには引けない。

 離婚の準備が進んでいることを彼女に話すと、逃げ腰になった。新居の物件を見学しながらも、もう少し時間がほしいと言っている。男にも火遊びが覚めはじめるかにみえたとき、妻はクリーニングに出した夫の上着のポケットから、写真の預かり証を発見する。それは夫が旅先で写した彼女とのツーショットだった。ポケットに入れたままだったのを、妻が引き取りにいって、夫の不義を確信した。

 夫は妻ともう一度話し合おうと思って電話をするがつかまらなかった。妻は猟銃をコートに忍ばせて、夫のいそうなレストランに向かっていた。あうなり写真をたたきつけて、引き金を引いて夫を殺してしまったのだった。何も殺さなくてもいいのにと思うが、神の下した鉄槌と考えればいいだろう。深入りしなければ、笑い話ですんでいたかもしれない。少しのタイミングのずれが、悲劇を生むのだということだろう。

 リスボン行きの飛行機に大急ぎをして、ぎりぎりに間に合ったことから、とんでもないことになってしまったのである。飛行機は飛んでいるだけで何かが起こるのではないかと不安にさせるものだ。彼女がマッチの裏側に書きつけた電話番号や男が電報で送ろうとしたラブメッセージも、私たちは気になりながらその行方を追っている。サスペンスタッチでハラハラさせるトリュフォーの演出は、ヒッチコック流の娯楽作品としても、みごたえのあるものだった。リスボンのホテルで再会し、エレベーターで3階と8階を行ったり来たりするのも、恋のときめきを予感させるのに、粋なしかけだった。

第283回 2023年9月19

華氏451 1966

 フランソワ・トリュフォー監督作品、イギリス映画、原題はFahrenheit 451。消防車が出動して、制服姿の消防士たちがどこへ行くのかと思うと、火を消しにいくのではなく、本を燃やしにいくのだった。消防車のロゴマークは、火のなかで生きるサラマンダー(火とかげ)があしらわれている。タイトルの華氏451度は、本が燃えはじめる温度をいうらしい。消防士が手分けをして本を探しはじめる。とんでもないところに隠しているが、消防士たちはこれまでの経験から、どこにあるかを知っている。テレビの前面のパネルをはがすと、本が山積みになっている。読書家にとってはテレビは無用なのだ。家中に隠された本を集めて、火炎放射器で一度に燃やしてしまう。ホースで消火活動をする姿に対応させている。

 焚書という行為はこれまで、歴史上で何度となく繰り返されてきたことを思えば、あり得なくもない光景なのだが、奇想天外な話になっている。本はすべてろくでもないもので何の役にも立たない。本を集めてはならず、見つけ次第、焼き払うというのが、ここでのルールになっている。これを執行するのが消防士である。この時代、耐火建築で家は燃えないものとなり、本来の消防士の仕事がなくなってしまったようだ。焼かれた本を見ると、ジャンジュネの泥棒日記や、マルキドサドの名が表紙から読み取れる。マンガはいいようで消防士も読んでいる。ただし文字はない。子どもに読ませたくない本は確かにある。戦後すぐにはヒトラーの著書が発禁となるのも理解できる。死を賛美する本を読んで、自殺者が増えてしまうのも、困ったものだ。

 主人公は消防士で、署長から昇進が約束されていたが、ねたみから足を引っぱろうとする同僚もいるので、用心をしていないといけない。妻は夫の出世を望んでいて、テレビ番組を楽しむ平凡な主婦である。象徴的にテレビのアンテナが繰り返し写し出されている。友だちを読んでテレビばかり見ているのを、イライラしながら見ている。夫は取り締まる立場にありながら、じつは本を隠しもっていて、妻が寝静まったあとで、夜中に読書にふけっていた。白いガウンは書を愛する修道士のようにみえる。

 主人公が住むのは郊外、自宅から徒歩でモノレールに乗って通っている。ある日、妻とそっくりな女性が通勤列車で、声をかけてきた。ジュリークリスティが二役を演じている。制服を着た消防士に以前から興味をもっていたようで、近くに住む学校教師だった。話が合うのは、ともに知的好奇心を満足させるのに、本を読んでいたからだった。消防士に相談を持ちかけて、学校を退職させられるかも知れないので、学校まで付き添ってほしいという。話を聞いて消防士も同情するが、仕事に出ないといけない。妻になりすまして、職場には夫が病気で休むというニセ電話をしたが、このふたりがいるのをたまたま同僚が見かけていた。出動時に所長から、同僚は病気で休みだというのを聞いて、あやしみ出している。学校では子どもが女教師の顔を見るなり逃げ出してしまった。

 彼女の仲間に高齢の蔵書家がいた。本を隠し持っているという密告は、街中にある赤い郵便ポストのような箱に投函されることでなされる。この蔵書家の隠された図書室はまれにみる立派なものだった。すべての本が床に放り出された。老女は逃げることなく、自らマッチを手にして、本と命をともにしてしまった。

 女教師にも被害が及んでくる。叔父といっしょに住んでいた家だったが、逃げ出したあとで、仲間たちの住所録を置き忘れていたことに気づく。戻ったとき、主人公と出くわした。隠し場所を見つけることができたのは、プロの感によるものだった。彼女は仲間たちのいる隠れ家に逃れるといって、左右に別れた。主人公は仕事に戻った。

 次には主人公の家がターゲットになった。密告したのは妻だった。夫が本を隠し持っていることを恐れて、家を出ることを決意していた。夫は消防士として、この出動に加わっていたが、所長は行き先を告げずに消防車を走らせた。板で窓をふさがれた女教師の家を過ぎて、自分の家だと知ったとき、すべてを理解した。妻が立ち去る姿にも出くわした。動かぬ証拠を突きつけられ、消防士は抵抗して本が燃え盛るなか生き延びたが、殺人まで犯していた。抵抗運動をしている仲間たちがいると聞いていた隠れ家に向かって、走りはじめた。近未来のSF世界にふさわしく、パトロール隊が空中を飛んでいる。

 たどり着くとリーダーが迎えてくれた。そこには本はなかった。主人公は一冊だけもっていたが、それぞれのメンバーは異なった著作を丸ごと暗記していた。いつも忘れないように、ひとりごとのように、ぶつぶつと暗誦している。先に逃れてきた彼女もそこにいた。奇妙な光景だが、それは知の原点の姿だった。主人公はもっていた一冊を暗誦しはじめている。完了すると本は焼き払うことになるのだろう。本をもたないと逮捕されることもないということだ。口伝えで受け継がれていくのが始まりだったとすると、このパロディ映画を通して、文字が生み出され、本になって蓄積されてきた人類史の偉大さをあらためて知ることになった。

第284回 2023年9月20

黒衣の花嫁1968

 フランソワ・トリュフォー監督作品。フランス映画、原題はLa mariée était en noir。原作はウィリアム・アイリッシュ。結婚式の日に、幼なじみで最愛の新郎を殺された新婦の復讐劇。理由はわからないままだが、犯人が5人いることを突き止めた花嫁が、ひとりづつ訪ねて行って、復讐をはたしていく。この執念の女をジャンヌモローが演じている。5人の男たちは独身を楽しむ集まりだったが、それぞれに深い付き合いはない。結婚式を終えて教会から出てくる新郎新婦を、興味本位でライフル銃の望遠鏡でのぞいている男がいた。別の男が窓に寄ってきて、体にあたったときに、思わず引き金を引いてしまったのだった。殺意などはなかったが、集まっていた一室から、5人は散り散りになって逃げてしまった。

 はじまりは黒衣の女が、大きなトランクをさげて、母親の家を出て行くところである。母親は着いたら居どころを知らせるように娘に伝えている。妹なのだろうか、駅まで送りにいっている。妹には列車に乗るように見せかけて、女は姿を消してしまった。場面が変わると、女は白いドレスを着て、高級アパートの管理人に、紙幣をちらつかせて、そこに住んでいる男の知り合いだといって、部屋に入りたいと頼んでいる。管理人は不審がって聞き届けず、不在だった本人に、のちに知らせると、心あたりがないという。

 ビルの上階でおこなわれたパーティの席で、この最初の復讐相手が、ベランダから突き落とされた。白いドレスの女に興味をもって近づいていく。朝に訪ねてきた女性なのだと思っている。スカーフを急にベランダ越しに投げ捨てて、引っかかったのを取るように男にたのんだ。言われた通りに手を伸ばしたとき、突き飛ばされて、地上にたたきつけられた。友人がそばにいたので、引き離したかったのだろう。水がほしいというので、もってきてやると植木にかけてしまって、もう一杯ほしいという。しばらくその場を離れていた時の犯行で、水をもってくると、女は姿を消していた。

 二人目は毒殺だった。さえない中年男を誘惑して用意した毒入りのワインを飲ませた。三人目は子どもの学校の教師だと偽って男の家に入り込む。子どもは教師ではないと言っているが、子どもをあやしながら父親に信じ込ませようとしている。妻が留守だったこともあり、男は魅力的な女教師に心を許したすきに、物置に閉じ込められ、密閉されて窒息死をしてしまった。

 四人目は車の解体業を営んでいたが、悪事を重ねていたようだった。拳銃を握って近づいたとき、警察がやってきて先を越された。男を逮捕して連れて行ってしまい、復讐が中断してしまう。五人目は画家だった。派遣されてくるモデルと偽って訪ねると、画家は興味をもったようで、ほんもののモデルが、その後遅れてやってくると、そちらに門前払いを食わせていた。ポーズは狩りの女神ダイアナが弓矢を構えているところで、画家を真正面からねらっている。いつ矢を放つかと、ハラハラして見ることになるが、誤って放ったように見せかけた矢は、画家をはずしてしまった。

 画家は肝をつぶしたが、その後、床に横たわる姿で写されていた。よく見ると背中に矢が刺さっている。残された絵に描かれた顔消し去って逃げていく。画家の友人が訪ねてきたとき、このモデルにはどこかで会ったことがあると思うが思い出せないでいる。コップの水を植木にかけたときに思い出した。あのときにベランダから突き落として、姿を隠した女だったのだ。女は捕らえられ、刑務所に入れられた。それも計画には必要だった。四番目の男の悲鳴が刑務所にこだまして、最後の目的が果たされた。脈絡のない五人の殺害が、ひとつに結びつくことになった。

第285回 2023年9月21

夜霧の恋人たち1968

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はBaisers volés。盗まれた口づけというフランス語だが、日本語のタイトルとともに、作品理解の手立てにはならないようだ。アントワーヌ・ドワネルという名が出てくるので、「大人は判ってくれない1959」と「二十歳の恋1962」の続編だと理解することになる。ジャンピエールレオという俳優がそのまま歳を重ねている。はじまりはふられたはずの彼女の家に出かけ、彼女の両親に久しぶりのあいさつをしている。兵役を終えて除隊となった主人公が、その後仕事を転々とする話だが、この時代の動向を反映してか、論理を逸脱した不条理の世界が描写されている。

 主人公は志願して兵役についたようだが、第二作ではレコード屋の店員だったはずだ。軍隊には向いていない優柔不断なキャラクターで、彼女との関係も完全にふられてしまったというわけではなく、女のほうも嫌ってもいないという素振りをみせながら、曖昧な状態にある。除隊後に訪れたとき彼女は旅行中だったが、両親は娘の素行については詳しいことを語るのを避けている。

 今後の身の振り方を心配してやっているので、前知識なくはじめてこの場面をみると、血のつながった親のようにもみえるだろう。どんな人間関係なのかが、不思議に目にうつるというのが、ここでのポイントだと思う。旅行から帰ると彼女は、すぐに主人公に会いに来ているので、気にはかけているのだとわかる。

 まずはホテルの夜勤の職につくが、訪問客の言いなりになって、客室の鍵を開けてしまい、妻の浮気現場が押さえられるというトラブルを引き起こす。探偵の素行調査に協力したかたちになって、ホテルからは追い出されるが、探偵に拾われて転職をはたし、新米の調査員として、新たなスタートを切った。尾行も習うが下手で、いかにも尾行という感じで、女の足に見とれて近づきすぎると、居合わせた警官に通報され、逃げ去ることにもなった。

 ドジではあるがまじめそうにはみえる。探偵の仕事の延長上で、いつのまにか婦人靴の店員になっていた。社長夫人がうぶそうにみえる主人公にちょっかいを出しはじめると、恐れをなして、いくじなくあわてて逃げ出してしまう。商売女に手も出しているので、まったくの純情というわけではない。彼女とは心は通じ合っているのだが、手を出して口づけを迫ると、彼女はとたんに嫌悪感をむき出しにしている。

 ふたりで街を歩き、公園のベンチで話しているときに、きっちりとした身なりの見知らぬ男が近寄ってきて、彼女に愛の告白をしている。ずっと彼女を遠くから見続けていて、この数日は気づかれるほどに、近くからのストーカーを繰り返していた。男の振る舞いは紳士然としており、理解しがたい哲学的な問答を伝えただけで、二人を残して立ち去ってしまった。

 ロマンチックな日本語タイトルから思い浮かぶような恋愛劇ではない。屈折した育ち方をしてきた青年の、理解しがたい思考と行動を通して、みえてくる時代の反映を読み解くことが必要だろう。少なくとも犯罪に至るような攻撃的で暴力的な人格ではない。愛するべき優しさを持ちあわせているが、思うようにはことは運ばない。大人からは愛されるが、同輩には頼りなく、何を考えているかよくわからない、未熟な現代の若者の原型として、見ることができるだろう。職業も転々として、最後にはテレビの緊急修理のスタッフになっていた。

 映画スターとして輝きを放つヒーローでもなく、等身大の若者であるという点で、日本映画でいえば、同時代を生き抜いた健さんと寅さんの対比が思い浮かぶ。ちなみに夜霧の第二国道1958年、夜霧のしのびあい1965年、夜霧よ今夜もありがとう1967年のヒットにあやかろうという、安直な日本文化の構造もうかがえておもしろい。

訂正】シリーズ全体を見終わって、考え直してみると、大きな見まちがいをしていたようだ。主人公が兵役後に訪れたのは、前作でのコレットの家族だと思っていたが、クリスティーヌという名の新しい恋人の家族だった。二十歳の恋から6年後、コレット役の俳優が交代しても不思議ではない。ドワネルと主演俳優が20年間、同一人物であるというまれな映画では、他の俳優は同じ役を演じているわけではないという思い込みがまずあって、不思議な感覚と違和感をおぼえていた。マンガではキャラクターは歳を取らない。「男はつらいよ」で寅さんは変わらないのに、おいちゃんの俳優が死んで、交代したときの違和感にも似ている。トリュフォーがよく用いる手法でもあるが、映画というフィクションの二重構造をおもしろく味わうことになった。

第286回 2023年9月22

暗くなるまでこの恋を1969

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はLa Sirène du Mississippi。原作はウィリアム・アイリッシュ。インド洋の孤島でタバコ工場を経営する資産家が、妻をもらうのだが、フランスから船でやってきた女性をみると、あらかじめもらっていた写真とはちがう人物だった。ここからはじまっていくミステリーだが、はては財産を盗まれ、殺人にまで手を染めてしまう男の転落の物語。この主人公をジャン・ポール・ベルモンドが、謎めいた妻をカトリーヌ・ドゥヌーヴが演じている。

 違う女性の写真を送ったという妻からの説明はあったが、男のほうは美人なのでこちらのほうがいいという、単純な男の論理で片づけている。男のほうも、工場の主任だと知らせていたが、ほんとうはオーナーなので、嘘はおあいこであるようだ。女は男の身分などは問題にしていないと答えていた。現地で結婚式をあげるが、不可解なことが引き続いて起こってくる。花嫁の指のサイズにあわせて用意してあった結婚指輪が、無理をしないと入らなかった。しあわせな新婚生活が続いていく。大きなトランクが別便で届いたが、妻はいつまでたっても開こうとしない。鍵をなくしたと言っているが、夫はなぜなのか不思議がっている。

 妻の姉から会社に手紙が来て、何度も自宅に手紙を書いているのに、妹からの返事が一度もないと、憤りをあらわにした文面だった。妻に伝えると、忙しくしていたので、書きそびれていたが、すぐに書くという返事だった。妻に自由に使えるお金をと、銀行で共同名義に書き換えた直後、大量の預金が引き出されて、妻が姿を消した。妻は日中に密かに家を出て、影幕の男と会っていた。いさかいになっている姿を、銀行員のひとりだったと思うが、車で通りかかって目撃していた。署名のときも同席していたが、黙ったままだった。

 姉を呼び寄せて、結婚式での写真を見せると、妹ではないと言われた。詐欺にあったことを確信して、姉を伴って私立探偵に犯人探しを依頼した。費用を払おうとすると、姉が半分出すと主張した。探偵は必ず探し出して逮捕すると、自信をもって答えた。

 主人公も単独で探しはじめるが、疲労がもとで倒れ、ニースの病院での療養を余儀なくされた。そこでたまたま見たテレビのニュースに、彼女が酒場の踊り子として映っていたのに驚く。さっそく訪ねてつかまえることができた。拳銃を購入して撃ち殺そうと思っていた。話を聞いていると、手に入れたはずの現金はもっていなかった。手もとにあれば、踊り子などしていないというもっともな言い訳をして、経緯を話し出す。

 船で財産家に嫁ぐ娘と出会い、仲間の男が殺害して海に投げ込んだのだという。男の指示にしたがって娘になりきろうとしたのだった。相手は工場の主任だと聞いていたが、結婚相手は本当は経営者なのだということも、調べて知っていた。金は男が持ち逃げをしてしまい、自分もだまされたのだという。悪事はわかっているので殺してくれと言われると、主人公は抱きしめて愛していると言うしかなかった。女も結婚をして幸せだったというと、主人公はこの女ともう一度やり直そうと思った。まだ残っている資金で家を買って、隠れ住む準備をはじめた。

 私立探偵は調査をすすめていて、ある日、町で主人公と出くわす。主人公は避けようとしたが、探偵はこれまでの調査報告をしようとしている。目を離したすきに逃げ出して、この町を去ろうとするが、家に帰り着くと探偵は追ってきていたようで、姿を現した。主人公は調査の打ち切りを頼むが、この依頼はもう一人、姉からのものでもあるので、犯人を逮捕するのだと答えた。海に投げ落とされた妹の死体も見つかっていた。主人公はもっていた拳銃で、探偵を殺害してしまう。彼女が帰ってくるが、驚くこともなく、冷静に死体の処理を考えて、自宅の地下室を掘って埋めてしまった。ふたりは車で逃亡を続ける。

 女はパリに行きたがったが、男はリヨンにしようとしている。女は赤い車を買おうというが、男はグレーがいいといっている。画面が変わるとふたりは赤い車に乗っていた。女の目立った浪費癖を、抑えることはできなかった。男の資金が尽きたとき、たばこ工場に帰って、土地と資産を処分して、現金を手にして戻ってきた。

 洪水が起こって、埋めてあった死体が見つかった。街のレストランでみた新聞の第一面に探偵の写真がのっている。家の持ち主が調べられ、捜査が及んでくると判断した主人公は、家に置いていた現金を取りに戻るが、すでに警察の手がまわっていた。札束の入ったバッグを部屋に隠してきたのだった。女は残念がったが、男はあきらめた。手持ちのわずかな金と、車だけが残った。車は売ればいくらかにはなる。歩いて去ってゆくふたりの後ろ姿を写して、映画は終わった。これ以上、何も起こることはなく、語ることはないという撮影を放棄したような、未来のないインパクトのある終末だった。

 原題の「ミシシッピのセイレーン」、ミシシッピ号は女が乗っていた船の名、セイレーンは男を誘惑して奈落に落とす妖女のことだ。これが日本語名でなぜ「暗くなるまでこの恋を」となってしまうのか、理解に苦しむ。1967年の「暗くなるまで待って」のヒットにあやかってのものなのだと考えると、理解は可能だが情けない話ではある。

第287回 2023年9月23

恋のエチュード1971

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題は Les Deux anglaises et le continent。フランスの青年が母親の友人の住む英国に招かれ、その家にいる姉妹との恋愛の軌跡。複雑な人間感情のトライアングルが生み出す人の世の不条理をたどる物語である。一言でいうならば、主人公の優柔不断が引き起こす悲劇の顛末といってもよい。「大人は判ってくれない」以来、トリュフォー映画でおなじみのジャンピエールレオが主役を演じている。父を亡くし、母とのふたりきりの生活だったが、財産は十分に残されていた。はじめパリで姉のほうと知り合い、ぜひとも妹に引き合わせたいのだと言っていた。

 イギリスの自然に触れて、この国際交流を、青年は楽しんでいる。三人は無邪気に遊ぶことになるが、妹は目に病をもち、人前にはなかなか姿を見せなかった。主人公はその姿が神秘的にみえ、惹かれはじめていく。積極的に近づき、距離を置いていた娘も、それに応じはじめた。熱い思いが先立って、あぶなかしく思えた姉妹の母親は、あやまちを恐れて、娘たちから引き離し、主人公を隣家に移すことにした。男は女たちを前に、兵役の頃に経験した商売女との関わりを、得意げに話している。

 パリにいる母親に宛てて、妹への強い思いを手紙に書き、結婚をしたいことを伝えた。やがて母はイギリスにやってくる。ふたりを見とどけて、息子の希望を実現させてやりたいと思っている。大人たちが集まって話し合いをして出した結論は、一年間ふたりを引き離し、一年後にふたりの思いが変わらなければ、結婚させようということだった。主人公はパリに戻っていった。

 パリでは美術批評の仕事をはじめ、人間関係が広がるなかで、年上の女性画家から声をかけられて、アヴァンチュールを楽しんでいる。次第にイギリスにいる結婚相手のことを忘れはじめていく。そんなとき姉がパリにやってくる。ロダンをふたりで鑑賞する姿があった。彫刻家として身を立てたいと思ってアトリエでの制作をはじめていた。主人公とふたりきりの時間が続き、男のほうが女に手を出してしまう。妹への罪意識をもちながらも、抜き差しならぬ関係になっていった。

 パリでのデートを重ねるなか、主人公の軽薄さが目につき、女のほうも近づいてきた出版者の誘いに乗って、主人公のもとを離れていく。主人公は知り合いの出版者のことを、あの男はいい人物だと言って応援している。姉は不治の病をかかえていた。結核で長くは生きられないことを悟って、すべてのものを遠ざけてしまう。治療さえ拒否していたが、説得にあたったのはこの出版者だった。

 妹は二度絶望している。一度目は主人公から結婚ができないことを知らせる手紙を受け取ったとき、二度目は姉から主人公との関係を知らされたときである。にもかかわらずその後、二度ふたりは会っている。姉がパリに妹を連れてきたときと、妹が英語教師として独り立ちをしたときである。旅立ちを見送りに行って、ふたりは結ばれることになるが、そのとき妹の年齢は30歳だった。はじめての男性経験であり、血に彩られたショッキングなカラー映像だった。男は遍歴の末、やっと出発点に戻ったことになる。女は妊娠を期待し、男も自身の子どもを思い描いたが、むなしい夢に終わった。ラストシーンでは、主人公がひとりロダンを訪ね、街中で戯れる子どもたちに混じりながら、車の窓に映し出された自分の老いた顔を感慨深げにながめていた。自業自得だと、私たちも嫌悪すべきこの男を、突き放すことになった。

第288回 2023年9月24

私のように美しい娘1972

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はUne Belle Fille Comme Moi。社会学者が犯罪をおかした女性から取材をして「犯罪女性」と題して出版するはずが、いつまでたってもできない。その理由を解き明かしていくミステリーである。収監中の女に面談を申し込み、長期にわたるインタビューを開始した。女は小説になるのかと思って喜んでいる。

 まずは生い立ちから語られる。最初の犯罪は父親殺しの容疑だった。長いハシゴを移動させたことで、憎んでいた父親が地面に落ちて死んでしまった。上に父がいることを知らずに、別の用があって持っていったのだと、少女は主張していた。ナレーションではそのときの心の中が語られていて、成功するかどうかは運命の選択で、失敗すればひどい目にあわされるという独白から、故意であったことがわかる。

 感化院に送られるが、やがて脱走する。車が行き交うなかで、やっと止まってくれたのは、シャレたスポーツカーにのった若者で、母親とふたりで、いなか暮らしをしていた。駐車場に入って、娘を車に隠したまま、食事を運んだりしていたが、やがて肉体的交わりにも発展する。娘は辛抱がたまらなくなって、母と息子のもとに怒鳴り込む。二人を結婚させることで解決となるが、母親は感化院にも話をつけていた。義母の目がわずらわしくなった娘は、金を隠してある場所を突き止めて、持ち逃げするように息子に持ちかける。その際、首を入れると重い扉が落ちてくるような仕掛けを残して、この家を去った。母親は逃げていくふたりをみつけて、猟銃を撃ち続けていた。

 途中でクルマが故障してしまい、近くにあったライブハウスに転がり込む。このクラブで女はウェイトレスに、男はバーテンダーになってとどまることになった。女にちょっかいを出す客の姿が、男の目に入ってくる。女は歌手をあこがれていたので、ここの専属歌手に目を向けている。歌手のほうも女のアイコンタクトを受け止めてベッドに誘う。バイクの爆音のレコードをかけるのが、男の楽しみ方だったようで、部屋の外で爆音が聞こえれば取り込み中だということだった。旅行中の妻が帰ってきたとき、爆音が響いていたので大騒動になる。

 追われて下着姿のまま逃げ込んだのが害虫駆除のトラックの荷台で、運転をしていたこの業者のオーナーと、話をしているうちに親しくなる。食事の約束もしたが、兄とふたりで住んでいるのだと偽って、着替えに自宅に立ち寄ったとき用事が入り、約束を先延ばしにして、男に気を持たせた。このとき夫は入院をしていた。歌手との仲が深まって、家ではテレビばかりを見ている。夫は相手にされないことに腹を立て、銃を持ちだしてテレビに向けて発砲した。その後、夫は嫉妬のはて暴走して、車にひかれてしまった。妻はこのまま死んでくれればと思っただろうが、生き延びた。妻が戻ったとき、弁護士がやってきていて、その賠償問題のことだった。女はこの弁護士とも肉体関係をもっていた。

 それぞれのエピソードは、教授がテープレコーダーで録音して、友人の女性がアシスタントとしてタイプライターで打ち込んでいる。彼女は女の言葉づかいや生々しいできごとに眉をひそめて、教授の身を案じている。教授を慕っていることは、その素ぶりからわかる。教授はさまざまな話題が出てくるたびに、粗野な女のもつ自分にはない生命力に引かれていく。お礼をかねてプレゼントを用意するようになり、女のほうも手編みの手袋だといって、教授に手渡している。ネクタイをほめられると、嬉しくなって、ネクタイ店に向かっていた。手袋をつけて次回の面談にのぞむが、女には会えなかった。仲間の手編みの手袋を盗んだということで、処罰を受けていたようだった。教授はそっと見えないように手袋をはずしていた。

 害虫駆除の彼氏は、紳士的に振る舞い、肉体を求めてこなかったが、害虫の話を聞かされるので、うんざりしていた。それでも男の自宅に招かれて、つまづいたとき抱きしめられて、関係をもつことになる。女は夫と歌手に殺意をいだきはじめる。害虫駆除の装置を使うことを思い立ち、ふたりを眠らせて噴霧を浴びせかけた。ふたりは喧嘩の末に死んだようにみせかけるはずが、害虫駆除の男が戻ってきて、ふたりを助けてしまった。彼女とふたりで死のうと考えた男は、教会の塔に登り、飛び降りるはずが、男のほうだけが先に飛び、女のほうは生き残ってしまった。これまでの経歴から女が男を突き落としたのだと判断される。

 教授はこの無実の罪を立証できないかと、アシスタントの助けを借りて奔走する。そして飛び降りる時刻にビデオ撮影をしていた少年がいることを知り、そのテープを手に入れるのに成功した。そこには男が先に飛び降りるのと、そこから距離をおいて立っている女の姿が写されていた。女の容疑は晴れ、無罪を勝ち取り、マスコミでも話題となり、念願の歌手として売り出すことにもなった。映画タイトルはこのとき歌っていた曲の歌詞の一節である。

 教授は歌手の舞台が引けて、お祝いにやってきていた。自宅に誘い、誘惑され抱き合っているところに、突然夫が帰ってくる。喜んで知らせたのは、母親が死んで遺産が手に入ったという報告だったが、即座に怒りに変わった。夫は怒りをあらわにして、教授を殴り倒す。このとき女は夫を撃ち殺して、気を失っている教授に銃を握らせた。目が覚めて教授は女の正体を知ることになる。

 獄中で知人の弁護士に、たよれるのは君だけだと言って、彼女が夫の母親を殺害した証拠が、隠し扉に残っているはずだと訴えた。テレビに彼女が写されたとき、となりにその弁護士が立っているのを見て驚く。弁護士は彼女ごのみのシャレたネクタイをしていた。嫁ぎ先の家を建て直して、公的な有効活用をすることも伝えられ、テレビニュースとしては十分なものだった。アシスタントがタイプライターを打ち続ける姿が写されて、教授が無罪を待ち続ける姿と重ね合わされていた。アシスタントが教授を見限らない限り、希望は残っているということなのだろう。

第289回 2023年9月26

映画に愛をこめて アメリカの夜1973

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はLa Nuit américaine。アカデミー外国語映画賞受賞。トリュフォー自身が映画監督の役で登場する。一本の映画が完成するまでのメイキングビデオのような作品なのだが、はじまりのシーンがじつにおもしろい。

 パリのメトロに降りる階段付近のようすを撮影している。多くの人々が行き来しているが、一人の青年が地上に上がってきて、街路に沿って歩いている。立ち止まると突然、前からきた男の頬をひっぱたく。そこでカットの声が聞こえると、カメラが引かれて、映画の撮影現場なのだとわかる。しかも100人以上もいると思われる、通行人がすべて決められた演技をしていたこともわかる。撮り直しになると通行人は、みごとに動きを再現していたが、出てきかたが遅いや早すぎるなどの指示が、監督によってなされている。

 映画そのもののストーリーも興味深く、息子の嫁と恋愛関係になった父親が、息子に撃ち殺されるというものだ。嫁を演じるのはハリウッドで売れっ子の女優だが、まだフランスには着いていない。ジャクリーンビセットが演じていて、登場したときには、確かにオーラを放ってみえた。息子役はトリュフォー映画の常連、ジャンピエールレオが演じている。スタッフの女性に恋人がいるが、結婚の立ち会い人を監督に頼みにいっている。監督が女のほうに、そのことを話すと、そんな約束はしていないと答えた。

 スタッフ同士のカップルもあって、映画人のプライベートな実態もあぶり出されている。なかには妻が撮影現場にやってきて、夫の監視をしている姿も見られる。映画界の男女のモラルのなさを憤ってのことだ。監督は知らない顔なので、あの見学者は誰だと聞いている。猫が残りの食事のミルクをなめるというのは、以前の映画でも登場したが、ここでは撮影の苦労話として加えられている。妊娠をしてしまった女優もいた。撮影は何ヶ月も続くことを考えると、監督は頭が痛い。妊娠をした役にしてしまおうかとも考えている。映画完成の記念写真には、大きなお腹をかかえて写っていた。脚本は遅れていて、明日のセリフとして手渡されると、俳優は大変である。フランス語なのでアメリカ人やイギリス人はお手上げとなる。

 ハリウッド女優は、インタビューではきれいなフランス語をしゃべっていたが、複雑な内容になると自信がなさそうである。最近結婚したようで、相手は自分の精神上の病いを治してくれた医師だった。妻子もいたが、彼女の病気と付き合うなかで、恋愛感情を高めて離婚ののち、プロポーズをした。今回のフランスでの撮影にも同行していた。父親役の俳優と同じくらいの年齢だったが、撮影に立ち会って、妻とのキスシーンも目にしていた。仕事や学会の出席もあって長居はできず、妻の相手役が空港まで自分の車で送っていった。

 息子役の愛していたスタッフが、スタントマンとしてイギリスからやってきていた男といい仲になって、逃げ去ってしまう。息子役はショックを受けて、役に身が入らず、自暴自棄になっている。ハリウッド女優が見かねて、慰めてやると、一夜をともにしてしまう。夫に電話をして、事実をぶちまけて、妻と別れるよう迫った。夫は妻に電話して、確かめると、妻は動揺して泣きはじめた。部屋に閉じこもって、撮影が進まなくなってしまった。

 母親役についてもトラブルメイカーで、かつてはハリウッドでも活躍して、夫役とも昔なじみだったが、セリフが覚えきれずに、撮影場所のあちこちに書いて貼り付けている。セリフはクリアできても、出口を開けるのを、同じ扉にみえる食器棚を開けて、取り直しを繰り返している。自分自身でも情けなくなって泣いていた。俳優をなだめながら撮影スケジュールに追われる監督の大変さが、浮き彫りにされている。

 はては車で送っていった父親役が死後を起こして死んでしまった。ストーリーを変更して、脚本を書き直すという対応も迫られたが、後ろ姿で撃ち殺される役なので、代役を立てることでおさまった。何もかもが監督に相談が持ちかけられる。映画制作だけでなく、プライベートな恋愛関係にまで、それは及んでいる。いわば雑事全体を取り仕切るということだが、それでもなお副題にあるように「映画に愛をこめて」、この映画は完成した。

 「アメリカの夜」とは映画技法のことで、ストーリーとは関係がない。これも無関係だが、監督に書籍小包が送られてくるシーンがはさまれる。開けると書籍のタイトルには、ブニュエルやベルイマンやゴダールなど、映画史を彩るビッグネームの名が読めた。監督のみる夢に「市民ケーン」のスチール写真を盗む少年が出てくる。冒頭で登場するサイレントの名作とともに、これらの映画監督に捧げられた一作である。

第290回 2023年9月27

アデルの恋の物語1975

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はL'Histoire d'Adèle H.。男狂いのすえ精神に破綻をきたし、夢をかなえることができないまま死んでしまった文豪ヴィクトルユゴーの娘の物語。娘の名はアデル、狂気に満ちた役柄をイザベル・アジャーニが熱演をしている。悲しい女の生涯である。

 フランスから単身で新大陸に渡ってきた娘がいた。姉の夫の消息を訪ねてやってきたのだという。相手は兵士で、その駐屯地を見つけてたどり着いたのだった。男の品行は悪く見つけて連れ戻す役目を担っていた。やがてわかってくるのは、男は姉の夫ではなく、自分自身と関係をもった相手だった。娘に言い寄ってその気にさせ、結婚まで望んだのに、次々と女を変えるプレイボーイだったのである。妹には十分な経歴をもった求婚者がいたが、断ることになった。主人公は燃え上がり、一途に思いつめて、男を追って親元から家出をした。

 落ち着き先も見つけていなはかった。乗り合わせた馬車の御者に尋ねて、ホテルに向かうが風紀が悪そうなので、下宿を紹介してもらい落ち着く。ユゴーの娘であることが知れると、ユゴーの信奉者もいて、冷遇されることはなかった。手紙を託して男に届けるが、開封しなかったという報告を受ける。直接会いにやってきたときは、心がときめいた。ドレスの着替えに時間がかかると、男は立ち去ろうとしていた。顔を合わすとそっけなく、父親のもとに帰るよう突き放された。対面することで女の思いはますます募っていく。男が逃げ腰になれば、それに反比例して女はすがりついていく。醜態を演じてまでも男を引き留めようとする女心の哀れさが浮き彫りにされてゆく。

 男を追いまわして、見知らぬ女との情事を見つけると、のぞきみをしては嫉妬を高めることになる。父には男との結婚の準備が整ったから、金を送るよう催促している。父は男を嫌っていたが、娘を愛していた。姉がいたのだが死んでしまったので、なおさらこの娘には甘かった。娘も父を尊敬して、自身も作家志望で、フランスを離れてからも書店に出入りして、筆記用具や紙を買うことは欠かせなかった。この書店の店主は足に軽い障がいをもっていたが、娘に好意を寄せて、親切に接していた。薄情な男よりよほど好青年だと思うのだが、恋というのは私たちが思っているようには、うまくことが運ばないものらしい。

 娘は男と結婚をしたとまで、嘘の手紙を父に書いて、金を無心している。父は喜んでマスコミに話したものだがら、新聞で話題となり軍隊にも知れ渡ってしまう。上官に呼びつけられて結婚を問いただされ、男は立場を悪くした。男はユゴーに真意を手紙で知らせ、父の怒りは娘に向けられるが、妻の病もあって、娘に帰ってくるよう手紙を送った。説得が通じることはなかった。男の部隊がこの町を離れることになり、男は娘から逃れられることを喜んだが、娘は妊娠をして子を宿しているとさえ言いはじめた。お腹にクッションを入れて男の前に現れ、手もちの紙幣をばらまいたとき、男は彼女が正気ではないことを痛感した。

 男の新しい任地にまで、女は追いかけていく。下宿の女主人には父のもとに帰ると偽っていた。衣服はぼろぼろの状態で、手もちの金すらなく、黒人たちが群がる町中を歩いているとき、疲労困憊をして倒れてしまう。居合わせた上品な黒人女性が手を差し伸べ、看護をして、彼女がユゴーの娘であることも知る。ユゴーに連絡を入れて、付き添ってやりながら、娘を父のもとに送り届けることになった。町を彷徨していたとき恋焦がれた男と出くわしたが、そばに近寄ってきても、気づかない状態にまで、精神は悪化し、心は崩れ去ってしまっていた。史実にもとづいた悲恋であるが、父の死後、本人は85歳まで生き延びたとナレーションは語っていた。文豪の娘でもなければ、気にも止められなかっただろう。日記を残していて、文才は受け継がれていたのかもしれない。

第291回 2023年9月28

トリュフォーの思春期1976

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はL'Argent de poche。小学生から中学生にあがるあたりの子どもの成長の記録を、学校生活を中心にドキュメンタリータッチで追っている。少女が夏休みに父とフランスのまんなかに旅行をして、そこにそびえる記念塔の絵はがきを出すところからはじまる。もうすぐ林間学校がはじまると、男女がいっしょになって、いとこの少年とも会えるのだと、胸をときめかしている。

 男子校でのいたずら盛りの少年たちの授業風景が続いていく。転校生がやってきて仲間に加わるが、うまくクラスになじまずに孤立している。教師間では問題児だとも噂されている。資材置き場のようなところに住んでいて、親は姿を見せない。家族構成はまったく見えてこない。はしごを立てかけて出入りをしているようで、変に落ち着いたものごしは、子どもとは思えない。いつもおとなびたカバンをかかえている。平気で盗みもする。映画を見にいく友だちに声をかけて、無賃で見る方法を教えている。廊下で立たされると、壁にかけられた仲間たちの上着を物色して、小銭を集めてポケットに入れている。原題の「ポケットの金銭」はこのシーンに由来しているのか。

 担任の教師は気さくで、子どもたちをよく見守っている。子どもをうまくコントロールできない女教師を励ましもしている。授業中に妻が私用で教室にやってきて、家の鍵を手渡している。おおらかな姿に心がなごむ。戸を閉めてキスをするのだが、磨りガラスごしに映っていて、子どもたちが好奇の目でみている。高層アパートに引っ越してきたようで、夫婦で映画に行っても、顔見知りの生徒に会うことが多いし、アパートでの子どもの生活風景も、丹念に描写されている。3歳児を預けられて帰宅する少年がいるが、家族ではなく上の階の住人だった。

 母親と買い物をして帰ると、呼び止められお茶を飲んで帰宅すると財布がなくなっていた。子どもを残したまま母親は探しに行く。部屋の中でネコと遊んでいたが、窓に近づいて誤ってネコを手すりから落としてしまう。10階の窓での話である。ネコは下の階ののきにとどまって泣いている。3歳児は手を伸ばし助けに行こうとする。通行人が目撃して、ひやひやしながら見守っている。人数が増えてきたとき、子どもは落下した。子どもはドスンと落っこちたと言って、平気な顔をしている。下まで降りてきた母親が、落ちたのを知って気を失ってしまった。この子どもの演技がじつにみごとなのに感心した。ネコとともに演技をしようとしない純真さは、これまでの映画でも効果的に挿入されてきたものだ。

 子どもを置いたまま出かけてしまった夫婦がいた。子どもが言うことを聞かずにだだをこねるので、仕方なく二人で出かけたのだった。少女は窓を開けて、拡声器を使って大声でおなかがすいたと叫んでいる。鍵をかけられて閉じ込められたとも訴えたので、アパートの住人たちは非道な親を非難している。窓越しにロープを渡して食べ物をカゴに入れて、少女に届けた。

 さまざまなエピソードが脈絡もなく展開する。大勢の子どもたちがカメラに向いて笑っているのは印象的だが、極め付けは転校生の秘密がわかったことだった。身体検査で裸になっているのに、この少年だけが服を脱ごうとしない。理由でもあるのかと、他の生徒と離して一人だけを先に検査しようとした。大あわてをしてかけだして校長を探しまわる担当者の姿があった。わかったのは体じゅうが皮下出血をしていて、あざになっていることだった。直ちに通報され、警察が乗り込んで、同居の母親と祖母が逮捕される姿が映し出されていた。担任は生徒を集めて詳細を伝え、ヒューマニティーあふれる長ゼリフで、心のうちを語った。子どもの虐待が問題になる半世紀も前の映画である。

 男女別々だった子どもたちが、いっしょになる林間学校がはじまった。いとこ同士のふたりは、たがいに意識しながら、視線を合わせていた。仲間たちもふたりきりにさせてやろうと気を利かせたので、ふたりははじめての口づけを経験することになった。これまでは友だちと映画館に行って、女の子といっしょになっても消極的なままだった。肉感的な友だちの母親にも興味をもっていた。大人になるまでの、好奇心に満ちた思春期を思い起こそうとする監督自身の、ノスタルジーあふれる回顧談のようにみえる。出世作の「大人は判ってくれない」から20年近い時間が経過していた。

第292回 2023年9月29

逃げ去る恋1979

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はL'Amour en fuite。アントワーヌ・ドワネルのその後の物語である。第一作から数えれば20年が経過して、主人公には妻も子どももいた。ただ離婚の調停中で、初めての協議離婚の成立ということで、マスコミの取材を受けている。小説も出していて、悲しい生い立ちと、その後の成長の物語を、体験を下敷きにして美化して出版した。小説家として自立はできないようで、印刷会社に勤務している。

 大学生だった彼女は、今は弁護士となっている。離婚調停に関わった弁護士とは同僚である。主人公の女性関係は複雑で、少なくとも四人の女性が錯綜して登場する。回顧談として古い映像が挿入されるので、懐かしく思い浮かべることになる。久しぶりの再会は、彼女が主人公の書いた小説を書店で手に入れて、遠距離での仕事で、列車に乗り込んだときだった。手にした本の裏表紙には、主人公の写真が掲載されている。うれしくなって切符もないままに列車に飛び乗って、彼女を食堂車に呼び出す。

 主人公は駅には息子の旅立ちを見送りに来ていた。バイオリンを手にしているので音楽学校への入学のためだとわかる。妻とは離婚したが、子どもとの縁は切れることはない。音楽を愛した父の影響を喜んでいるようにみえる。主人公の母との思い出も懐古されるが、かつては描かれなかったエピソードとして、母親の愛人が現れた。恋多き母が死んだとき、息子は兵役で駆けつけることができなかった。愛人はかつて学校をさぼって町をうろついていたときに見かけた男だった。その後も母との関係は続いていたようである。

 食堂車に誘ったのを女は勘違いをした。彼女はまだ独身だったが、書店を営む男に惹かれていて、彼がこっそりと乗車していたのだと思った。出向くと主人公だったが、それでも懐かしく、小説に書かれた内容が、事実と異なると文句を言っている。小説では彼女の家族が引っ越してきたと書いたが、実際は主人公が彼女に会いたくて、家の前のホテルに引っ越してきたのだった。かつての映画のクリップがそのまま挿入されている。個室車両に主人公を誘って話は続くが、彼女ははっきりと、私はあなたが好きだが、愛してはいないと言っている。主人公も愛したのは彼女を含めて彼女の家族だったのだと振り返った。

 関係した四人の女のうちひとりは見覚えがあった。エキゾチックな顔立ちをもっていて、「アメリカの夜」に登場して、主人公と恋人同士の関係にあった女性である。同じ俳優だが、もちろんそこではドワネルの役ではない。そのときの場面がここでも挟み込まれて、そのトリックをおもしろがることになった。実際は5年前の映画なのだが、私は数日前に見たものなので、記憶に鮮明だった。ドワネル以外の映画からの引用なのがおもしろく、回想場面には私の知らないシーンもあったので、見落としている映画があったということだ。誰もがトリュフォーの映画をすべて見ているわけではない。

 最初に恋した大学生、しばらく関係をもった女、結婚をした妻に加えて、四人目の娘が主人公が最も愛し、そして愛してくれた女性だったようだ。レコード店に勤務する同僚だったが、この出会いにはいきさつがあった。電話ボックスで順番を待っていたとき、痴話喧嘩のすえ相手の写真を破り捨てて出ていった男がいた。主人公は写真の断片を持ち帰ってつなげてみて、その女に恋をしたのだろう。彼女を探しはじめて突き止め、同じレコード店に勤めることになったのである。

 彼女には兄がいて小さな書店を営んでいた。女弁護士の恋している相手だった。恋人と勘違いをして、やがて妹とわかる展開も見どころだ。世間は狭く、二組のカップルがハッピーエンドで終わるのも、悲劇的結末の多いトリュフォー映画にしては、ほっとさせるものだった。「逃げ去る愛」というタイトルに、ロダンの同名の彫刻を連想し、一体となって追いすがる男女の愛のかたちを思い浮かべてみた。

第293回 2023年101

終電車1980

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はLe Dernier Metro。ナチスがパリを占領してユダヤ人狩りが強まるなかでの劇場存亡の物語。主宰者は演出家であり俳優でもあったが、ユダヤ人だったので、国外に逃亡していた。妻があとを引き継いで劇場の運営を続けている。俳優でもあるこの役をカトリーヌ・ドヌーヴが演じている。相手役として雇い入れた男優がいた。別の劇場でキャリアを積んで、演技力も高く評価されており、ジェラール・ドパルデューが演じている。

 街中で気に入ればどんな女にでも声をかける軟弱な面をもち、女主人はそんな姿を嫌悪しながらみている。この劇場に来るときにもひとりの女をひつこく追い回していたが、来てみると劇場に勤める女性だとわかった。女のほうは避けているが、男のほうはそれからも機会をうかがっている。劇場のスタッフから彼女が同性愛であることを知らされると、あきらめをつけて、別の若い女優とつきあいをはじめていた。

 女主人とは芝居の上だけでのつきあいだったが、気になるようで観察をしていて、不自然な行動を見つける。ひんぱんに劇場の地下室に降りていくことから、やがて国外に逃亡したはずの夫が、じつはそこに隠れていることがわかってくる。稽古場の音が聞こえるように穴を開けて、自分の演出ノートを使って行われている稽古のようすを聞いていた。妻とのセリフのやり取りを聞く中から、妻がこの男優を愛しているのだと見抜いていた。妻は夫を尊敬しているが、地下室に閉じ込められて、不健康な精神の破綻から、負担に感じはじめているようにもみえる。女主人は男優への自分自身の思いに気づき、抱きしめると男のほうも情熱的にそれに応えた。役柄とは反して、生身の男としては、嫌うそぶりを取り続けていた。夫への配慮だったのか。

 男優にも秘密があった。レジスタンスの運動に加わっていて、仲間と連絡をとりあっていた。爆弾をしかけてドイツ軍元帥を死亡させることにもなる。女主人はドイツ軍から目をつけられることを嫌い、夫の時代にはユダヤ人を積極的に雇っていたが、ナチスへの警戒から極端に排斥する姿勢を崩さない。身の上の調査も欠かせない。ドイツ軍部の知り合いの高官を訪ねるが、自殺を遂げたと知らされた。フランス人でもドイツに加担して、ユダヤ人を見つけては密告するような時代になっていた。これまで劇場が捜査を免れてきたのは、フランス人の演劇批評家のおかげであり、この男が公演についての検閲の権限をもっていた。夫のあとを継いだ演出家は、世渡りがうまかったが、女主人もいやいやながら愛想をして接している。男優もこの批評家に腹を立てて、殴りかかり、女主人の立場を悪くする場面もあった。

 捜査の手がのひ、男優のレジスタンスの仲間が捕まってしまう。男優にも追っ手が来ると判断して、彼は劇場を去ることを決意する。ゲシュタポがかぎつけて地下室を調べたいとやってくる。劇場スタッフが引き止めて、何とか隠しおうせることができた。ドイツが敗戦してパリが解放されたとき、ナレーターは主宰者が800日をこえる地下室での生活だったと伝えていた。

 女主人が男優を病院に見舞う場面があった。彼女は愛の告白をしている。男はそれを引き離している。カメラが引かれると、それは舞台上での演技だったのだとわかる。話をつなげて考えると見る方は驚くが、まったくちがう芝居のラストシーンだったのである。演出家が客席にいて拍手している。男優が演出家を舞台の上に引っ張りあげている。拍手が絶えないことから、パリが開放されてのちの舞台なのだ。女主人が男の間に入り、二人の手を強く握りしめていた。

 夫の演出による舞台だったのだが、女優は均等に二人の男の手に力を入れていたようだった。腐れ縁ともいえる関係が続くことで、緊張感のある舞台が生み出されていくのだとわかる。現実とフィクションとが交錯するおもしろさは、「アメリカの夜」を引き継いでいるし、日本でも「ドライブ・マイ・カー」などで試みられたものだ。とはいえほんとうはどちらもフィクションではあるのだが。

第294回 2023年10月2

隣の女1981

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はLa Femme d'à côté。隣に引っ越してきた女が昔の恋人だった。ありえなくもない話だが、そこから起こる泥沼に落ち込んでゆく悲劇である。しあわせな家庭を築いている男は、海運関係の仕事をしていて、妻と就学前の子どもがいた。この主人公をジェラール・ドパルデューが演じている。隣は貸家になっていたが、夫婦が引っ越してきた。相手の妻の顔を見て、主人公は驚きを隠している。彼女は影のある表情を浮かべて、見ている方は何かあるなと思うが、まだわからない。相手の夫は、空港に勤める管制官で、妻とは年齢の開きがあるようだ。

 好感をもった主人公の妻は、近所づきあいを進めようとするが、夫は積極的ではない。自宅に招いてホームパーティーを開くと、夫は理由をつくって欠席してしまった。なじみのテニスコートのオーナーのところで時間をつぶしている。この女オーナーも暗い過去をもっていて、自殺未遂で今は義足をつけて一人暮らしをしている。主人公は向こうの妻と意識的に会うことを避けているようだ。電話帳から電話番号を探り連絡してくるのは女のほうからだった。積極的に男に働きかけをしてくる。スーパーマーケットでも出会って声をかけてくる。

 ふたりは情熱的に愛し合っていたが、情熱的すぎて、波長が合わなくなることがあり、別れてしまっていた。女が男に火をつけてしまうと、今度は男のほうが夢中になってしまう。お返しのパーティーには参加したが、落ち着かないものだった。狂気に近いほどに、女を求めていく。ホテルに部屋を借りて情事を重ねていくが、たがいに家庭のことを思うと、冷静になって別れようとする。それも波長があわずに、行き来を繰り返す。隠れての密会が知られてしまうのは、女が思い切ろうとして夫と旅行に立つ前にパーティを開いたときだった。主人公が嫉妬のすえ、女に暴力をふるい、追いかけまわし、居合わせた人たちに知られてしまう。

 ふたりは引き離されて、主人公は妻に謝罪をして、家庭に戻り、引っ越しを考えはじめる。妻は事情を認めて、夫を許した。今度は女のほうが耐えがたくなり、神経衰弱で入院してしまう。夫には顔を合わせたくなくて、主人公に会いたがっている。義務感から見舞いに向かうが、そこからふたりはまた燃え上がっていく。病が癒えて夫とともに女は帰宅した。

 主人公が引っ越しを前にして、朝の5時に抜け出して、暗がりのなか女のもとに向かう。最後の別れであったのかもしれないが、ふたりは抱きあい重なりあったまま女の用意したピストルで死んでしまった。どうしようもない男女の愛の究極のかたちがあるようだ。いっしょにいると耐えがたいが、離れてしまうとさらに耐えがたいというのは、わからなくもない。こんな息詰まるような情念も、たまたま隣に引っ越してきたということさえなければ、平穏でしあわせな家庭生活を手に入れることができたはずである。とはいえ、こんな激しい恋をしてみたいと思うのもまた、わからなくはない。

第295回 2023年10月4

日曜日が待ち遠しい1983

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はVivement dimanche!。不動産屋の秘書の活躍を描いたサスペンスミステリー。冒頭は殺風景な葦の生える水際での狩猟場面である。頭を撃ち抜かれて男が殺害された。2台の車が止められていて、犯人と思われる男が開いたままの別の車のドアを閉めて立ち去った。次の日、不動産屋の事務所で女秘書がタイプライターを打っている。社長との折り合いが悪く、ひと月後に退職を言い渡されている。秘書は劇団に属していて、そちらに専念することになりそうである。

 妻の品行は悪く、秘書は妻が嫌っていることもあって、社長は妻のわがままの言いなりになっていた。警察がやってきて社長に殺人容疑がかかっていることがわかる。狩猟に行っていて、犠牲者の車に指紋が残っていた。社長は専属の弁護士を呼んで対応する。犠牲者は妻と不倫の関係にあったため、警察は社長への疑惑を強めている。

 次に社長の妻が殺害される。弁護士に伴われて帰宅したとき、弁護士を自宅に誘うが娘が病気だからと断られた。帰ってみると妻は殺されており、証人もいないことから立場はよくない。原因を究明しようとして、社長は妻の前歴を調べるため、以前いたニースに行こうとする。社長は拳銃をもっていこうとしている。秘書が引き止めて、退職することになっていたにもかかわらず、調査を買って出た。劇団での稽古の最中だったが、舞台衣装を身につけたまま、コートを借りてそのまま探偵になってしまった。男もののコート姿はいかにも探偵ふうである。劇団員たちは忽然と消えたのを唖然として見ている。

 秘書は手がかりとしてこの夫婦が知り合った頃に撮った写真をもっていた。裏には住所が書かれている。ニースでは美容室に勤めていたというのだが、その住所にあったのは、売春をおこなうクラブだった。その女オーナーを探して、ホテルの813号室にいたことを突き止めた。以前の映画でも登場した部屋番号である。オーナーの部屋に入り込むことができたが、忍び込んできた男とはちあわせになり、逃げる男の袖を引き裂いた。ポケットから私立探偵の事務所名が出てきた。

 事務所を訪ねると所員を大勢抱える組織であり、所長がいうのは新米の探偵にまかせたのが失敗だったとのこと、依頼を受けての捜査だったが、依頼主については語らない。秘書が女オーナーとして見つけ出したのは、映画館の切符売り場に座っている女性だった。これが3番目の犠牲者となった。劇場のドアから手だけが出され、招かれて窓口を離れた。ドアが開くとよろめきながら倒れ込み、みると背中にはナイフが刺さっていた。映画館もクラブも同じ経営者だった。

 秘書はさらに深追いをして、厚化粧をして夜の女に化けて組織に潜入する。ボスとして出てきたのは、女ではなく男だった。秘書は怪しまれることもなく追い払われるが、さらに盗み見を続けていると、ボスのもとにやってきた男といさかいになり、ボスが殺されてしまった。窓越しに目を凝らすが男の顔は見えないままだった。

 秘書は社長を疑った。社長のもとに戻ると、いきなり殴るつけられる。経過を伝えていると、社長は親身になっている秘書の行動を、これまでとはちがう目で見始めている。愛が芽生える、あるいは愛に気づくといったほうがよいか。社長は弁護士をたよって逃亡計画を立てるが、秘書はとどめて、警察に出頭することをうながす。すでに警察は事務所を包囲していて、社長は捕まってしまう。秘書が密告したのだと裏切りに対する怒りをあらわにしたが、それによって命を救われたことを、やがて知ることになる。次に殺害されるターゲットになっていたのである。

 秘書が弁護士を訪ねたとき不在で、待っている間に、隠し扉があることを知り、そこに不動産屋の妻とふたりで写された写真を発見していた。犯人は身近なところにいるという推理小説の典型なのだが、ここでは途中から見えすいてくるたねあかしよりも、社長と秘書のラブコメディに目を向けるほうがよいだろう。はじめて心が通じあったとき、秘書は「日曜日が待ち遠しい」と言った。そのときはまだ、最後には結婚にまでたどりつくとは思っていなかったにちがいない。

 社長は事務所の地下室に隠れているが、すりガラスになった天窓から通りを歩く人の足がシルエットで行き来する。社長がそれを気にしていることを秘書は知っていて、自分もハイヒールをはいて行き来して、セックスアピールを欠かせない。妻は小柄でキュートな、みるからに男をそそるタイプだった。これに対して秘書は大柄で舞台でも男役がよく似合う。美人ではあるが、キリリとした頼もしい女性だった。

 キスをする場面のあつかいが、しゃれている。はじめは警察に追われたとき、捜査の目から逃れようとして、秘書がおおいかぶさって社長にキスをする。次に社長が秘書に愛を感じて衝動的に唇を奪う。このとき秘書は警察もいないのにと、軽くかわしている。そして3度目にふたりはたがいに抱きしめあって唇をかさねあわせるのである。愛にはさまざまな形があるが、ここでの三段論法は、まずは女がしかけ、男がそれに気づくというものなのだと教えている。

 秘書は社長への愛を告白し、社長はこの命の恩人と結ばれてハッピーエンドで終わった。ひと月後に退職という通告はあたっていたのである。秘書のあとがまには、先に求人広告をみてやって来ていた女性が採用されるのだろう。一本指でみごとにタイプライターを操作する、社長好みのブロンド娘だった。主人公の女優が監督の実生活でのパートナーでもあったという事実を知ると、さらに興味は深まる。トリュフォー遺作となった作品である。52歳での死は早すぎた。脳腫瘍にならなければ、あと20本は見ることができたはずだ。さらに勘ぐれば、今度も秘書が妻の座を得るのかと考えると、このラブロマンスも恐ろしいサスペンス映画に思えてくる。

 これが白黒映画だったという点に注目する必要がある。初心に戻って、ヒッチコックから学んだトリュフォー映画術の集大成といってもいいだろう。犯人逮捕の電話ボックスでの夜の映像はミステリアスで美しい。広場にぽつんと立つ電話ボックスは、犯人の孤独そのものだ。光を放つターゲットに向かって、大勢の警官が忍び寄ってくる。

 さまざまなしかけが盛り込まれていて、よく見ていないとわからなくなってしまうことも多い。冒頭の狩猟の場面で、殺される男が銃を構えた男に、「君か」ということばを発したとたんに撃ち殺されたが、この一瞬の字幕を見落とすと、犯人とは知り合いであることがわからない。殺害後、逃げる男が別の車のドアを閉めるのは、いったん自分の車に乗りかけて、引き返してまで閉めているので、不可解にみえる。指紋がついたと知らせるものだが、この男が犯人ではないことを暗に示すものでもあるようだ。

 妻の死体が映されたとき、腕時計をクローズアップにしていて、11:40頃をさして動き続けていた。この時刻が意味をもってくるのだと記憶にとどめることになるが、動き続けているというのが不自然だ。原爆投下や地震発生の、時刻を記憶する時計の停止はミステリアスなものだ。つぶれた時計なら殺害された時刻なのだとわかるが、動いているから、死体が発見された時刻、あるいは映画が撮影された時刻ということになる。人間は死んでも、時計は動き続けるという単純な理由だったのだろうか。思わせぶりなトリックだった。もちろん単純なのは私のほうで、だいじな場面を見落としただけのことだったのかもしれない。

第296回 2023年10月5

家庭1970

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はDomicile conjugal。アントワーヌ・ドワネルのシリーズ第4作である。第5作を先に見てしまっていたので、そのときにつじつまがあわなかった箇所の解決がついた。勘違いしていたところもあった。ドワネルが家庭をもった。結婚をして音楽家である妻とアパート暮らしをしている。ベッドでの会話がおもしろい。妻はバレエダンサーのヌレエフにあこがれている。夫はとなりで「日本女性」と題した本を読んでいる。

 娘と結婚したというよりも、家族と結婚をしたというほどに、妻の両親との行き来がある。一階に小さな花屋を開いていて、白い花を赤い花に変える実験に余念がない。妻は自宅で子ども相手のバイオリンの指導をしている。その間は彼は家にいることはできない。アパートの住人のライフスタイルは、パリの下町のようすをよく伝えている。

 階段を上り詰めたところに二部屋あり、向かって左側が彼らの住まいだ。パリなら5階ということになる。あわただしく昇り降りをするのがうかがえる。隣の部屋に住む夫婦はよく出かけるが、妻がいつもぐずぐずしているので、夫がさっさと先に出て行き、妻があとから追いかけている。得体の知れない独り者がいて、住人たちは気味悪がっていたが、ある日テレビに登場して、芸人であることが知られると、急に人気者になっている。そこでは前衛映画として名高い「去年マリエンバードで」の声帯模写をしていた。

 上階の窓からいつも顔を出して、中庭にいる人に声をかける男がいる。主人公と顔を合わすたびに言い寄ってくる人妻がいる。街を歩いていると、ときおり顔を合わせる長身の男がいるが、主人公は避けている。借金をしているからで、会うと3000フラン借りているが、もう2000フラン貸してくれとせがんでいる。借金をしているのは向こうのほうで、主人公はウイウイといって、ポケットからくしゃくしゃの紙幣をはだかで出して、貸してやっている。裕福とも思えないが、気楽な生活である。

 花屋は稼ぎにはならないので転職するが、海運関係の仕事で、面接に行ったとき、もうひとりの希望者の推薦書を、まちがって主人公のものと取り違われて、簡単に採用が決まる。仕事は模型の船を動かして、池に浮かべてリモコンで操作しているが、たいした仕事とは思えない。ある日、社長が取引先の日本人を連れてやってくる。そのときにいっしょに来ていた着物姿の日本娘に気に入られる。主人公もエキゾチックな容姿に惹かれて、やがて深い関係になってしまう。

 妻が妊娠をするのと同時並行で、浮気は続いていく。女からのラブメッセージが妻にみつかり、潔癖な妻は許すことができず、夫を追い出してしまった。主人公はホテル暮らしをしながら、日本娘が住むアパートにも通っている。日本人の女友だちとふたりで住んでいたが、主人公がくるときには追い出して、邪魔をするなという日本語のプレートをドアにつるしている。主人公は、はじめ床にじかにすわって日本食を楽しんだか、続くと苦痛を感じはじめていく。文化のちがいを痛感して、レストランでの食事の最中に、何度も妻に電話をして、窮状を訴えている。3度目の電話をして戻ったとき、女はいなかった。メッセージが置かれていて、日本語で「勝手にしやがれ」と書かれていた。

 主人公が娼家を訪れる場面があった。商売女が10人ほど部屋に入ってきて、好きな相手を選べというのである。身をひいて帰ろうとしたが、しかたなく選んだのは大柄の女性で、主人公よりも背が高かった。トリュフォー映画でしばしばみかける組み合わせである。帰りがけに階段を降りていくと、上がってくる男に出くわした。みると義理の父だった。決まりが悪くもないのか、父は男同士のあいさつをしていた。

 妻が大きなお腹をかかえて階段をあがるのを、アパートの住人たちが気づかっている。生まれたときも祝福してくれている。男の子が生まれ、名前をつけるのに夫婦で対立し、夫が役所に届け出に行ったとき、勝手に自分好みの名前を登録してしまった。妻は怒って生まれた子どもを、もうひとつの名で呼んでいる。外出するときには管理人の妻が預かり、あやしてくれている。人情味あふれる下町生活が描き出されている。

 主人公は生まれたばかりの我が子を抱いてにこやかに写真を撮っていた。子どもはやがてお座りができ、立ち上がり、よちよち歩きをするまでの、時間の経過をカメラはたどっている。そんななかで、妻もやっと夫を許し、もとのさやにおさまったようにみえて、映画は終わった。妻を慰めたのは隣の夫人だったが、隣の夫婦をまねるように、主人公がさっさと先に出かけ、ぐずぐずする妻があとを追いかける場面があった。夫婦円満の構図として挿入されていた。にもかかわらず第5作はふたりの協議離婚から話はスタートすることになる。

第297回 2023年10月6

あこがれ1957

 フランソワ・トリュフォー監督作品、フランス映画、原題はLes Mistons。監督初期25歳での短編映画である。少年たち5人の他愛のないいたずら話。長く続くイントロでは、スカートをひるがえして自転車に乗る娘を、カメラが追いかけている。少年たちの視線もそれに釘付けにされ、付きまとっている。自転車を置いて、池で水浴びをしている間に、少年たちは自転車に近づいて、そのひとりはサドルの匂いをかいでいる。あこがれるのは女の香りで、生身のからだにはまだまだ近寄りがたい。性に目覚めてはじめての、彼ら全員の初恋の相手と言ってもいい。

 体育の教師が恋敵としてあらわれて、娘との付き合いがはじまっても、5人はふたりの恋路を邪魔しては、つけまわしている。盗み見をするが、近づきすぎて、男からワルガキと呼ばれて追い払われている。ワルガキはいつも5人が仲よく行動をともにしている。テニスコートを盗み見していると、ボールが飛んできて、手わたす少年は、どぎまぎしながら、モノクロ映画なのに、顔を赤らめているのがわかる。集団になるとワルガキだが、ひとりひとりだと素朴な児童に戻ってしまうということを、ここでは伝えようとしている。まわりではやし立てる声も聞こえてくるようだ。彼らは恋人同士のふたりを憎むようになって、死んでしまえと祈願もかけていた。

 男が結婚の約束をして、3ヶ月間娘から離れた。その間に山で遭難して死んでしまったようで、少年たちの願いは実現した。娘は黒衣の姿で歩いている。それもまた彼らには刺激的だった。男児の誰もがたどる年上の女性へのあこがれを、淡々と映像にしているが、その後のトリュフォー映画の序章を、そこに見つけることが可能だ。きめ細かな絵づくりがひかっている。遠出をした2台の自転車を、3台の自転車に5人が乗って追いかけている。

 映画に向けての愛と賛辞は、あちこちに散りばめられている。リュミエール兄弟によって映画術の発明がなされたフランスで、はじめて上映された一本に、庭の水まきをしていて、ホースを踏んですぐに離すと、水が顔にかかるというコントがある。ここでもドラマの展開とは関係なく、この場面が差し込まれていた。

 女性が黒づくめの衣装で歩くのは、その後の「黒衣の花嫁」を先取りしているし、映画館のポスター写真をはがして逃げる少年のいたずらも、2年後の映画「大人は判ってくれない」で再現されるものだ。冒頭の長すぎるほどの、娘が自転車を走らせる場面は、それによって汗ばんでくることを伝えるものでもあるが、これも「大人は判ってくれない」での冒頭とラストシーンにつながる象徴性を帯びたものだ。「二十四の瞳」(1954)の冒頭での瀬戸内海の光景を思わせるものでもあった。フランスのいなか町だが、古代ローマ遺跡円形競技場も残される歴史的風土が印象に残る。はじまりでは水道橋のアーチもちらっと見えたように思ったが、南仏ニームが舞台だったのだろう。