第2章 岡倉天心

第529回 2023年3月12

引き裂かれた自己

 岡倉天心の活動は多くの矛盾に満ちている。それは彼自身の矛盾であるとともに、彼の生きた時代そのものの矛盾でもあったようだ。天心は明治20年前後より日本の伝統文化を重んじ、フェノロサとともに日本の美術界を国粋化へと方向付けた人物であるといわれる。しかし、そういわれてみても、すっきりとはしない。その播りが何であるかを考えてみるとき、そこに西洋という存在がはっきりと現れてくるようだ。

 天心が東洋を意識するためには、常に西洋が必要であった。東洋を打ち出すためには、いつもその意識の奥には西洋が横たわっていたようである。それは天心にとって、知らず知らずのうちに備わってしまったものでもある。天心が幼年期に受け入れた横浜という特殊な環境は、彼をいわば「植民地の子」として育てる一方で、国際感覚とダンディズムを身につけさせもした。しかし、それはある意味では「日本」の喪失感にもつながっており、幼年期に乳母のもとで育てられ、寺に預けられて抱いた父親に対する不信感は、日本の喪失意識と相乗効果となって、失われた故郷を捜し求める、以後の天心の冒険者としての行動を決定してゆくことにもなる。中国の奥地に分け入り、しかもそれに飽き足らず、さらにインドヘと足をのばしたのも、そうした母性に向かう暗黙の探求であったようにも思えてくる。自己の根源を見定めようとするやむにやまれぬ欲求と、それに向けられた愛情は、一人のインドの女性への精神的浄化となって終焉に至っている。

 天心の立場は、根本的にフェノロサのそれとは違っていたようで、両者が決裂するのは、すでに時間の問題であったとも考えられる。フェノロサにとっての国粋は、つまりは東洋への憧憬ということであって、天心の存在基盤とはおよそ異なった時点から出発している。この異国人としての気安さは、常に逃避の場を設定していたとも考えられる。フェノロサにとって終焉の地は、必ずしも故国アメリカである必要性はなかったかもしれないが、天心にとっては、日本回帰という逃れるところのない切迫感が、常にまとわりついていたように思われる。

 天心は留学することなく、英語を巧みに操ることができた。英語は彼にとって最大の武器であり、しかも思考形態そのものでもあった。つまり西洋に同化することなく、西洋を手段にしえた稀有な時代の稀有な才能であったといえる。『茶の本』『東洋の理想』など天心の主著は、西洋の産物であって、日本においてはそれを翻訳として読むことしかできない。この奇妙な現象を直視するとき、西洋と東洋という未だに解決しえない問題が横たわっており、天心はこの課題を一身に背負っていたと考えられる。かつて高橋由一が、西洋の石版画の写実力に感嘆しえた時代は、すでに過ぎていた。天心は西洋に感嘆する以前に、自分の存在そのものが、西洋とも東洋ともつかない不条理として感じられたのかもしれない。ある日気づいてみた時には、日本語も英語もしゃべる人間であったという矛盾の中に、天心の自己探求の道は出発していた。異邦人にとっては、法隆寺の秘仏を眼下にさらすことは、好奇心という一言でもって説明できたとしても、日本人である天心が、神の畏れを持たずにそれを成し得るからには、それ以上のものがなければならない。法隆寺夢殿の開扉については、フエノロサの記述に比べて、天心の「日本美術史」は講談調に「寺僧の日く、之れを開かば必ず落雷すべし。…僧等怖れて皆去る」などと語っている[i]

 天心は洋行中は常に和服で通したというが、それを国粋主義と結びつけるのは短絡的であろう。ここで重要なのは西洋において和服を着るということではなくて、和服を着て英語をしゃべるという点にある。西洋人にとってその姿は異様なものに映ったかもしれないが、天心が美術学校長時代、自ら考案した制服を着て馬で登校する姿は、日本人にとってさえ異様なものであったのだ。この矛盾の中にこそ天心の本質が隠されているように見える。そしてこの矛盾は裏返せば、洋服を着て日本語をしゃべる近代日本そのものの矛盾でもあるのだろう。本稿ではこうした岡倉天心の内にあった、比較しうるものとしての「西洋」を考察し、疎外された偉大なロマンチストとして大成してゆく姿を、その生涯の早くから対立の位置にいた洋画家小山正太郎の思考と比較することによって、彼らの西洋観と明治期の「和魂洋才」のかかえる問題点を加えて引き出してゆきたい。


[i] 岡倉天心全集4 平凡社 昭和五五年 三六-七頁。