第528回 2024年7月29日
冬のライオン1968
アンソニー・ハーヴェイ監督作品、イギリス映画、原題はThe Lion in Winter、ジェームズ・ゴールドマン脚本、ピーター・オトゥール、キャサリン・ヘプバーン主演、ジョン・バリー音楽、アカデミー賞主演女優賞・脚色賞・作曲賞、ゴールデングローブ賞作品賞・主演男優賞受賞。12世紀イギリスでの王位継承をめぐる、混乱を下敷きにした史劇である。
ライオンの紋章で知られる王(ヘンリー2世)のもとには3人の王子がいて、父のあとを継いで王位をねらっている。王妃(エレノア)はながらく塔に幽閉されていて、夫婦関係はない。王のもとには高位の若い娘(アレース)が、身の回りの世話をしている。息子の嫁にもしようとするが、王は手放さなかった。これまでに何人もの愛人をつくっていたが、今の愛人とは結婚をしたいと考えている。結婚にはローマ教皇からの許しが必要だった。王は教皇には貸しがあるので大丈夫といっているが、フランスのアキテーヌ地方に広大な土地を所有する、老いた王妃を捨てきれないでもいる。
冬の時期、クリスマスのセレモニーで幽閉を解かれ、着飾って公式な場に姿をあらわす。仰々しく舟でやってきて、わが子たちとも顔をあわせる。イギリス王との間には女子も生まれたが、男子は4人以上を生んでいた。頼りにしていた長子が亡くなったあと、3人の息子たちの水面下での争いは激化していく。母親は武勇の優れた年長(リチャード)を、父親は甘やかされた年少(ジョン)を可愛がっていて鍛えて、王権を継がせたいと考えていた。あいだの息子(ジェフリー)はひ弱で嫉妬深かった。
母親も含めて腹の探り合いが続いていく。王妃はもともとはフランス王妃だったが、王が略奪して妻にしたという経緯がある。父の跡を継いだフランス王(フィリップ)とは今は友好関係を保っているが、ちょうどセレモニーで滞在しており、息子たちがそれぞれに話を持ちかけていく。父を裏切って若きフランス王の力を借りて、国を治めようという密約だったが、部屋に次々と訪ねていく。
はじめは下のふたりの息子がやってくる。次には兄がきたので、ふたりはカーテンの後ろに身をひそめる。さらに父王もやってくると、兄を物陰に隠した。父もまた和平の交渉だったが、息子のひとりと自分とは同性愛の関係にあったと暴露すると、兄が憤慨して姿をあらわす。
父王が後継者は末の息子だと伝えると、中の息子がカーテンから身を出して、自身の存在を主張しはじめる。彼はさらにカーテンを開くと、末っ子の姿もあった。父は息子たちがフランス王と画策しようとしていたことに気づいた。フランス王は親子の関係を崩しにかかり、不和を起こさせようとしている。
王妃は息子たちを焚きつけると同時に、夫との関係を修復したいとも考えていて、心情は揺れ動いていた。王もそれに左右されて若い愛人との間を、行き来することになる。息子の裏切りに対する父の怒りは、親子の縁を切るという行動に出ることになった。3人をとらえて牢に閉じ込めた。
愛人に向かって、結婚をすることを伝え、優秀な跡取りを生んでほしいと言うと、女は恐れを語り出した。王が亡くなったとき、三人の息子が自分たち親子を、無事には置いておかないだろうと。王はそのことばを真に受けて、息子たちの殺害を決意する。それを警戒したのだろうか、母親が息子たちに3本の短剣を用意していた。父がやってきたとき、短剣をまずかまえたのは年長の息子だった。父の力は優っていた。長剣を持ち直して振りかぶったが、どうしても振り下ろすことができなかった。追放を宣言すると、三人は順番に去っていった。
殺すことができなかった姿を見て、母親は安堵した。ながらく忘れられていたふたりの対話がはじまっていく。またもとのように王妃のまま、塔に向かって舟は去り、幽閉は続いていく。愚かな子どもたちの野心がなくなっただけでも、賢明な決断だったかもしれない。クリスマスに怒り狂った冬のライオンは、子を追放することで収まりをつけた。
不思議な関係だが、夫婦の絆は続いていく。ふたりが別れて手を振る表情には、敵対心はなく、以前のような無視や無関心ではない、信頼感を取り戻していたようにみえる。夫の嫉妬心は妻が父親と関係をもっていたのではないかという疑念によって活性化されていた。かつて美貌で父親をも魅了した妻が、真相を語ることはなかった。
一筋では収まらない複雑な、権力構造を前にした政治的手腕ともとれる、したたかな自己演出にも見えた。夫を演じたピーター・オトゥールの猪突猛進の熱演に対して、妻を演じたキャサリン・ヘプバーンの複雑な心情を使い分けた表情がみごとだった。
第529回 2024年7月30日
ファニー・ガール1968
ウィリアム・ワイラー監督作品、イソベル・レナート脚本、アメリカ映画、原題はFunny Girl、バーブラ・ストライサンド、オマー・シャリフ主演、アカデミー主演女優賞受賞。歌手として身を立てようとする少女(ファニー・ブライス)が、容姿には恵まれてはいないにもかかわらず、人気を呼びスターダムに上り詰めていくサクセスストーリーである。愛する男(ニック・アーンスティン)との出会いと別れを経て、人生の悲哀を経験することで、歌唱力は味わいのある深みへと達した。
誰もが舞台で成功するとは思っていなかったが、本人には自信があった。天性の歌唱力と、持ち前の粘り強さで役を手に入れる。ローラースケートができるのを条件にしたダンサーの募集にもチャレンジし、滑られないことから、とんでもない動きとなり、そのことが返って評判を得た。私は美人という歌詞も、そのまままじめな顔では歌えないと、お腹にクッションを入れて、妊婦に見せかけて笑いを呼んだ。舞台上の女性は誰も彼も美女だった。劇場主は言うことを聞かない態度には、腹を立てるが、観客がおもしろがっていることから、やめろとは言えなかった。
大きな劇場(ジーグフェルド・フォリーズ)からも声がかかるが、娘に目をつけて助けをしてくれる紳士がいた。しゃれたシャツを着て身なりも整っていた。社交界にも顔の知られた人物で、大劇場の興行主に、陰で売り込みをしてくれていたのである。裏町に住む貧困層にも分け隔てなく、娘のデビューを祝う集まりにも、いっしょに参加して、母親の仲間とも、トランプゲームをして楽しんでいた。家族はよい金蔓を得たと喜んでいる。
つかの間の時間だったが、ふたりの仲は深まる。娘は次の日の舞台があるし、男は馬を買うのだと言っていて、仕事で町を離れて、アメリカだけでなく、ヨーロッパにも手を伸ばしていた。別れがたく男は電話をすると、言い置いて去っていった。鉄道での地方公演の最中に、巡業地(ボルチモア)の駅で男と出くわす。女は男から電話がなかったことに腹を立てている。男は女性の名を言って、列車から降りてくるのを待っていた。落胆していると、降りてきたのは雌馬だった。馬を育ててレースで稼ぐのが目的だったのである。
男は勝負師だった。競馬では失敗したようだったが、賭博での勝ちは続いた。電話を待ち続けて一年が経っていた。女が迫ると、男は恋愛をするには、あのときはまだ子ども過ぎたのだと言って抱きしめた。1週間の夢のようなふたりの時間が過ぎた。男は船に乗り、長期の仕事に入り、女は次の巡業先(シカゴ)への移動があった。歌手として欠かせない存在になっていたが、女は退団をして男の妻になることを決意する。突然のことで劇場主は唖然としている。巡業は残すところ2週間なので、私がいなくても大丈夫だろうと、女は見越していた。この機会を逃せば、次に会うのはまた一年先だと思ったに違いない。
船に乗り込んだ男は、事業の失敗で傷心し、沈み込んでいた。部屋がノックされ女が追いかけてきたのを驚くが、喜んで受け入れた。このことで幸運が舞い込んだのか、船内でのポーカーで大儲けをし、荒稼ぎをする。女はそばにいて賭博士の姿を見届けていた。財産を築いて屋敷を購入し、子どもも生まれる。落ち着いた頃に女は舞台に復帰することになる。男の不安定な仕事に比べると、才能に恵まれた天職ともいえるものだった。歌唱力をファンは待ち続けていた。
男の稼ぎは思うようにならず、劇場の仕事には距離が離れすぎていることから、屋敷を手放して、都会のアパートに移ることになる。夫が借金を重ねているという噂も耳に入っていたので、屋敷の売却は必要なものでもあった。妻の舞台復帰第一作も、夫は博打をしていて見に行かなかった。何とか負けを取り戻そうとする焦りがあった。妻との落差を感じはじめる。
妻の名声は高まり、収入も増えるが、夫のプライドを考えて、夫への仕事依頼を見せかける。妻の出資による芝居だと見抜くと、夫は拒否して、ますます焦りはじめる。最後には詐欺行為に手を染めて、逮捕されてしまう。妻はマスコミから追われて取材を受けることになるが、離婚は固く否定して、男の名のあとに、この人の夫人だと告げて胸を張った。
一年半の投獄のすえ、妻の楽屋に姿をあらわす。女は娘に会ったかと問うと、まっさきにここに来たのだと答えた。男は何とか妻に追いつこうとしたが、自分には力がなかったのだと告白した。敗北宣言だった。ふたりは抱きあったが、驚いたことに女は別れようと切り出した。男はグッバイ、ファニーガールと言い残して立ち去った。
出番まで5分だという知らせを受けたあとだった。女は自身の名でもある、ファニーという語を噛みしめながら、舞台に立って、しみしみとしたなかに重厚な独唱を続けていた。私はあなたのものだという歌詞には、あなたによって私は誕生したという、欠かすことのできない男への思いがあった。
第530回 2024年7月31日
ブリット1968
ピーター・イェーツ監督作品、アメリカ映画、原題はBullitt、スティーブ・マックイーン主演、アカデミー賞編集賞受賞。刑事ものの犯罪映画である。主人公が登場するまでの、テンポのはやいイントロの映像は謎めいていて、何が起こっているのか理解しがたいが、スタイリッシュで推理サスペンスの気分を高めている。
ブリットはサンフランシスコ市警の警部補の名である。上院議員(チャルマース)からの依頼で、上司の警部(サム・ベネット)より重要証人(ジョー・ロス)の警護を命じられる。組織から追われているようで、組織壊滅をめざした議員は、敏腕の名物刑事と組むことで、名を上げようと考えていた。月曜に法廷で証言をするまでの40時間の任務である。
ホテルの一室に隠れているのを何人かで訪れ、窓からは高速道路が見えるのを確認している。窓に近づかないように指示を出して、部下(スタントン刑事)を見張りに置いて自宅に戻る。夜中になって上院議員の名で訪問客があるのだがどうしようと、指示を求める電話があった。警部補は怪しんで、すぐに駆けつけるので、誰も入れないようにと命じるが、到着してみると、ふたりとも散弾銃で撃たれていた。
狙撃犯がいきなり戸を開いて銃撃できたのは、入り口のチェーンが外されたままだったからで、なぜ外されていたのか。犯人はなぜ上院議員の名を語ったのか。なぜここに証人が隠れているのを知っていたのか。いくつもの謎が浮かび上がってくる。高圧的な上院議員は、職務怠慢をあげて、警部に詰め寄るが、本件は警部補の担当事件なのでと、逃げにかかっている。
議員が権力をかざして警部補に対するが、反抗的で無視するようにするのが気に食わない。議員は警部の家族の前にも顔を出して、権力を誇示するが、警部は警部補を信頼しており、議員から担当を外すよう要求されたときも、うまくかわしてすり抜けていた。
証人は命を落としたが、部下は一命を取り留める。殺し屋はふたりで、そのうちのひとりは、白髪の180センチほどの身長であることを伝えた。証人が自分の手でチェーンをはずしてもいたらしい。刑事が撃たれたあと、証人にも銃が向けられると、なぜという顔をしていた。救急搬送された病院に、証人の親戚だという訪問客があったという、病院からの連絡があり、聞くと犯人像に該当した。対応した職員は患者の居場所を教えてしまったと言った。警部補は怪しんで、病院中をくまなく探しはじめる。該当者を見つけるが逮捕には至らなかった。
その後証人が死ぬと、カルテを隠して、遺体を別の場所に移動させた。担当した黒人医師も捜査に協力した。彼は腕を信用しない議員が、権力を奮って担当をはずそうとするのに憤慨していた。上院議員が病院にやってきたときには、証人もカルテもなくなっていて、いらだちを隠せないが、死んだものとは思っていなかった。議員は警部補を疑い、警部補もまた議員を疑った。
主人公は捜査にのめり込んでいく。事件のカラクリがわかりだすと、主人公は読めてきたというのだが、一歩先を進んでいて、見ている私たちは話のつじつまを合わせるのに苦労する。犯罪捜査がおもしろくて仕方がないようだ。日曜日の捜査で警察の車両がないときには、車を借りて恋人(キャシー)に付き合わせていた。せめて週末には静かな生活を望んでいるが、刑事の妻になるというリスクを前に、結婚も決断できないままだった。公私混同して車に同乗した捜査に、恋人が殺人現場を見てしまうことがあった。かけ離れた世界に着いてはいけないという思いを強くしている。
犯人追跡のカーチェイスもすさまじいものだった。サンフランシスコの坂道を、飛ぶようにスピードを上げて所狭しと駆けまわる。乗っていたのは白髪の殺し屋だったが、追い過ぎて犯人の車が事故を起こして炎上し、乗車していたふたりが死んでしまった。捜査は振り出しに戻ってしまう。
その後の展開では、殺されたのは証人ではなく、身代わりにされた別人(レニック)だったという逆転劇がみられる。その男の妻も殺害されていた。証人は身代わりになりすまし、航空機で逃亡しようとする。多額の小切手も見つかった。その男の名前が突き止められ、写真を伴って電送された調書が出てくると、議員は顔写真を見て、自分の交渉した証人だと認めた。
国外逃亡を食い止め、ここでも空港での主人公の追跡が、迫力に満ちたアクションで続いていく。追いつめて発砲する相手を、一撃で撃ち殺してしまうと、議員の思惑はみごとに外れて、水の泡になってしまった。ひねりの加わったストーリー展開であるが、マックイーンの魅力が全開した、アクション映画としてのみどころが、まずは特筆されるものだろう。一件落着して、主人公は帰宅してホルダーに入った拳銃を置いて、ベッドを見ると恋人は眠りについていた。出世を望まない片意地な刑事を愛いてしまった、未来の妻の姿がそこにはあった。
第531回 2024年8月1日
華麗なる賭け1968
ノーマン・ジュイソン監督作品、アメリカ映画、原題はThe Thomas Crown Affair、スティーブ・マックイーン、フェイ・ダナウェイ主演、ミシェル・ルグラン音楽、アカデミー主題歌賞受賞。銀行強盗を指揮する華麗なる犯罪者(トーマス・クラウン)の物語。有り余るだけの資産はもっているが、実行犯を集めて銀行強盗を計画する。みごとに成功して、強奪金はスイスの銀行に預ける。多額の支払いをすることになる保険会社の調査員(ヴィッキー)が動きはじめるが、魅惑的な女性だった。直感的に影の黒幕を特定して近づいてくる。警部補(マローン)と組んで、犯人逮捕をめざすが、近づいていくうちに、主人公と恋愛関係になってしまう。相棒の警部補は感づいていて、いらいらしている。
はじまりは平凡な中年男が呼び出されて仕事を依頼されるところからである。指定された部屋に入ると真っ暗のなかで、ライトが向けられ、相手の顔は見えない。1時間ほど運転をしてもらうだけだと言われる。ワゴン車を買っておくようにと札束を投げつけられた。あとの指示は電話を待てということだった。他の実行犯も、それぞれに面識はなく、受話器にフィルターをつけて声を変え、電話での指示で、時計の分単位で行動を練ってあった。
3人の実行犯が略奪して、入り口で待つワゴン車に札束の袋を放り込み、墓地まで運んでゴミ箱に入れる。そのあとに黒幕がやってきて車に入れ換えて、自宅に持ち帰り、成功をひとりで祝い、大笑いをしていた。スイスの銀行では多額の現金を怪しむことなく預かっていて、プロの保険調査員もそのことは予想していた。
進展しない捜査に懸賞金を出すことを思いつく。食いついてきたのは一味に加わった運転手の妻だった。急に羽振りが良くなっていたのを怪しんでいた。男は呼び出されて、面談されるのを待っていた。そこには主人公も女との約束で来ていて、顔を突き合わせて座っている。警部補と保険調査員が、ふたりの反応を探ろうと、ようすをうかがっている。もちろん男は運転手の顔を覚えているが、ポーカーフェイスを通している。残念ながら運転手がこの依頼主に気づくことはなかった。
男は豪邸に住んでいて、スポーツマンでグライダーにも乗る。現在37歳、妻とは別れていて今は独り住まいだった。案内されふたりはチェスをはじめる。女の勝ちがみえると、男は立ち上がって大人の遊びにしようかと、次の勝負にいどんでいる。女は追いつめていくが、別荘にも案内され、スポーツカーを乗り回し、甘美な生活に酔いしれてしまう。
女をオフィスにも案内した。双眼鏡で通りの前をのぞいていて、そこが強奪をした銀行だった。女に手の内を明かしたあと、向かいのビルに双眼鏡を移すと、こちらの窓を監視する男の姿があった。そのことを女に、仲間がいるよと言って伝えている。女は恋愛をしながらも、男の尻尾をつかもうと、任務を遂行していたようである。
もう一度銀行強盗をしようと打ち明けると、女は協力する振りをして、警察に通報して罠に賭けようとする。前回と同じように墓場のゴミ箱に入った金袋を取りに来たのは、確かに男の車だった。現行犯逮捕をすると、乗っていたのは別人だった。女に伝言が届いていて、現金はもってきてくれという、共犯者に向けての指示内容だった。女は苦々しく、手紙を握りつぶしていた。女にはもちろん警察に知らせないで、共犯となる選択肢もあった。男はすでに飛行機に乗っていて、笑い顔を浮かべていた。
女の色香に溺れるように見えていたが、あくまでもクールな身のこなしを保っていた。本業は為替相場の変動に敏感に反応して、売買を指示する青年実業家の姿だった。大富豪なのをみて、それなのになぜ犯罪に手を染めるのかと、女が聞いたことがあった。腐りきった社会に対する挑戦は、邦題の示すように、スリルに満ちた華麗なる賭けだったようである。ヒット曲となった主題歌「風のささやき」が、軽快なテンポで懐かしく聞こえていた。画面が分割されて同時進行が映し出されるカメラワークも、のちには多用されることになるが、効果的にサスペンスを盛り上げていた。
第532回 2024年8月2日
猿の惑星1968
フランクリン・J・シャフナー監督作品、アメリカ映画、原題はPlanet of the Apes、チャールトン・ヘストン主演。人類の危機を警告したSF映画。地球からはるか遠く離れて、宇宙船が事故を起こし、不時着した惑星での話である。4人の隊員が乗り込んでいたが、カプセルでの睡眠中に、ひとつのブースが故障して、唯一の女性隊員が死んでしまう。見ると顔立ちは老人になっていた。原因はブースがしっかりと閉まっていなかったためだという。
地球上と宇宙での時間の経過は異なっていた。地球を出てまだ2年も立っていなかったが、その間に地球は西暦で2600年から3900年という長い時間が過ぎていた。帰還しても同時代人はひとりもいないという、浦島太郎にも似た体験を、彼らはすることになる。
冬眠と言っていたが、全員が長期間の睡眠中に、宇宙船は事故を起こしたようだ。湖に漂着したが、船内に大量の水が流れ込み、3人の隊員はゴムボートで脱出する。宇宙船もなくし地球との交信も途絶え、あきらめをつけて、内陸を進んでいく。どこの星かは分からないが、空気と水はあった。干からびた荒野を進むと滝があり、男たちは喜んで裸になって泳いだ。
そのときに荷物と衣服が盗まれ、見ると原始時代の姿をした人間の集団だった。自分たちも同じく裸に近い身なりだったので、見分けはつかない。ただ異なるのはことばをしゃべらないということだった。かなりの人数が集まっていたが、それを取り囲むように馬に乗って銃を構えた猿の群れが現れて、無差別に殺戮をはじめた。
3人のうち一人は命を落とし、ふたりはバラバラになったが、捕虜になって生き延びた。船長(テイラー)は喉に銃弾を受けて、しゃべられなくなってしまった。檻の中に入れられるが、ひとりの女性学者(ジーラ博士)が目をつけ、何かをしゃべろうとしていると言い出す。これまでみた人間にはことばはなかった。さらに地面に文字を書くと、ますます興味をもちだす。彼女には恋人の考古学者(コーネリアス)がいて、ともに猿は人間から学んで進化したのだという説を論証しようとしていた。
喉の傷が癒えると、男はしゃべりはじめる。男はいちもく置かれると、ふたりの協力を得て、ヒトの群れから女をひとり選び出して、妻にしようと考えた。考古学者はつがいにして観察を続けたいとも考えていて、一つの檻の中に二人を入れるが、上司は二人を引き離す。男を審判にかけて真偽を問うが、猿の権力者は猿が人間をまねたという説を認めることができず、ながらく信じられてきた聖典に固執する。ここで猿の審判官が「見ざる聞かざる言わざる」になっていて、猿真似を意味しているようでおもしろい。
男は宇宙のかなたからやってきたと主張して、もうひとり仲間がいるはずで、探してくれと申し出る。見つかるが脳に大きな手術跡が認められ、しゃべられなくなっていた。銃撃を受けての手当だったのか、権力者による意図的な排除であったのかはわからない。船長はひとりで戦うことを決意する。
ふたりの学者が、手を貸して馬車を用意して逃がしてくれる。自分たちも掟を破り、真理の探究のために追われる身となり、宇宙船が沈む湖を越えて、さらに向こうにまで行こうとした。海岸にまでたどり着くと、そこには洞窟があった。考古学者はそこで興味深い発見をしていた。追手がやってきて全員を捕らえようとするが、船長か銃を構えて、兵を従えていた上司の学者(ザイアス博士)を人質に取る。部下の兵士は引き下がる。
考古学者は自説を主張し、上司にも洞窟に同行を求める。そこには人類の遺跡があった。人骨とともに高度な文明を示すものだった。フランス人形も出てきて、女が愛玩するように抱きかかえるとママと声を発した。それでも上司は認めなかった。船長は上司を縄にかけ、食糧や武器を要求して、女を伴って馬でさらに海岸線を進んでいった。女性学者とは別れのキスを交わした。学者は同胞が繋がれるのを恥じて縄を解いた。上司は自由を取り戻すと、洞窟の爆破を命じて、証拠の隠滅をはかった。
部下が船長を追おうとすると、上司は止めていた。人間の愚かさを自分の目で見させようと思ったからだった。彼は人類が滅んだ理由を知っていた。船長は伴侶となった女とともに、何も知らずに進み、ここが地球であり、さらには廃墟と化した2000年後のニューヨークであったことも目にすることになる。猿と英語で通じ合える理由もここにあった。猿の特殊メイクがまずは見どころではあるが、猿が進化して人間になったという説を逆転させている点が興味をそそる。
もちろん残骸となった自由の偶像は、妻となる無垢な女には理解できないものだった。男は女に名前を与え、ノヴァと名づけた。アダムとイヴのように、ふたりからはじまる、新たな人類史を予想させるものとなった。NOVAは新しいという意味だが、悪を一掃し新たな出発を築いたノアと、人類最初の女性エヴァの合成語であることに注目しておこう。
第533回 2024年8月3日
個人教授1968
ミシェル・ボワロン監督作品、フランス映画、原題は La leçon particulière、ナタリー・ドロン、ルノー・ヴェルレー主演、フランシス・レイ音楽。高校生(オリヴィエ・フェルモン)と年上の女性(フレデリク・ダンピエール)との、秘められた恋のレッスンである。パリを舞台にして、実らないことはわかっていても、のめり込んでいく姿が哀れを誘うが、意を決して別れる決意もいじらしいものだった。
女は著名なレーサー(エンリコ・フォンタナ)の愛人だった。長い付き合いのようだが結婚はしていない。主人公は女性に興味のある、ごく普通の高校生だった。原付バイクで渋滞の続くパリの通りを巧みに通り抜けていく。家ではレーサーを追い越したと自慢げに話している。裕福な家庭で若いメイド(クリスティーヌ)を雇っていて、隠れてこの娘とのつきあいもあったが、仲のいい友人(ジャン=ピエール)を自宅に誘ってメイドを遊び相手として紹介もしていた。
レーサーはイタリア人の40歳、愛人は25歳で、レーサーの所有するパリの別宅に住んでいる。アメリカ人の領事の娘だったが、記者の仕事をしていて、レーサーと知り合い、恋愛関係が続いていた。レースで飛び歩いているので、いつも待ちぼうけを食わされている。主人公との出会いは、レーサーの乗っている目立ったスポーツカーが、立ち往生しているのに出くわしたときで、運転席には若い女性がひとりで乗っていた。乗りこなせないで困っていたのを、代わって運転をしてやる。
それをきっかけにして行き来がはじまった。運転はできたが、無免許運転でスピードを出しすぎて、白バイに追いかけられると、あわてて女が運転席に代わっていた。警官とのやりとりから、その素性を知っていく。妻でないこともわかった。女の家を知ると、その後も出かけていき、迷惑をかけたお礼にと、カーレースを見るのにテレビがないというので、友人のポータブルテレビを借りてもっていってやる。
レーサーの成績は3位だった。次の日にテレビを取りに行くと、入浴中で裸体を目にする。ベッドで寝そべって電話で話しているのも盗み見をしている。レーサーと会えないのを悲しむことばを聞きながら、黙って去っていった。主人公は年上の女にのめり込むが、女はひとりにされた寂しさをまぎらせているようにしかみえない。部屋に引き入れて、感情が高まっていったときに、電話がかかるとあわてて、追い出しにかかる。まだ帰ってこれないという電話に悲しむと、嫉妬をつのらせて、向こうも同じように、そばには女がいるのだと、若者は憎々しげに語った。
バカンスに主人公は、母親と別荘のあるスキー場に出かけるが、偶然女と出くわす。見知らぬ男といっしょだったので、そっけなくするが、聞くと列車で知り合ってホテルまで車に乗せてもらっただけだった。それがわかると目を輝かせ、ふたりしてスキーを楽しむことになる。夜のダンスにも誘うが、疲れたのでと断られると、白くまのぬいぐるみをかぶって、部屋に出かけていって、窓から驚かせて入り込む。ぬいぐるみを脱ぐよう言われると下は裸だった。女よりも早くベッドに潜り込んでしまっていた。
パリに戻って関係はさらに深まっていく。決まったホテルも見つかった。学校の成績は哲学が一番だと言っていたが、だんだんと下がっていく。友人は心配するが、授業は頼んで女のもとに走った。友人の家に泊まり込んでの勉強だと偽ったが、メイドの部屋に友人が入り込んでいるのを見つけられる。父親は事情を知ると怒りを爆発させる。詰め寄ると息子は家出をしてしまった。レコード店に仕事を見つけて、学業を続ける手はずを組む。女も男の家を出て、また仕事に戻ると決意した。恋の手ほどきは完結し、ふたりは手に手を取り合って、新たな門出を夢みていた。
主人公が勇んで女の部屋に戻ってきて、ドアを開くとレーサーの姿があった。その向こうには女の姿が弱々しく目に入った。ドアを閉じて引き返さざるを得なかった。帰るあてがなくなって、メイドの部屋に転がりこむ。自宅のある建物の上階にあって、狭いシングルベッドしかなかった。優しく受け入れてくれたが、ふしだらな女だと言い渡されて、メイドは職を解雇されてしまっていた。
あきらめをつけるしかなく、親のもとに戻ることになる。落ち着いたころにレーサーが訪ねてくる。聞くと女が行方不明になっているのだという。ふたりして逃亡したと思っていたのである。自分ももう若くはないので、結婚をしなければならないが、彼女の情熱は落ち着くことを嫌うものだと語った。彼女を若者に託すようにさえ聞こえた。
主人公は女を探し出す。ふたりが逢瀬を重ねたホテルにちがいないと訪ねると、傷心した女の姿があった。再会すると女は引き止めたが、学生集会があるので行かなければならないと若者は言った。終わってから戻ってくると言いおいて、レーサーに電話を入れて、いどころを知らせた。
このあとどうなったかは描かれないままだった。無軌道な若者の暴発を読み取ってもよいが、若い日の情熱的な日々を懐かしむ、ノスタルジックな大人の気分が、フランス映画好みの特徴をなすものだろう。フランスからはじまったヌーヴェルバーグがアメリカンニューシネマを経由して、因習の崩壊と若者の勝利を高らかに歌い上げたが、また落ち着きのあるヨーロピアンスタイルに回帰したとみるのがよいだろう。
第534回 2024年8月4日
裸足のイサドラ1968
カレル・ライス監督作品、イギリス映画、原題はISADORA、モーリス・ジャール音楽、ヴァネッサ・レッドグレーヴ主演、カンヌ国際映画祭最優秀女優賞。モダンダンスの先駆者として知られるイサドラ・ダンカンの、奔放な短い生涯をたどった伝記映画である。
アメリカ人だが少女の頃から芸術家として、古代ギリシアにあこがれ、ヨーロッパに渡りたいと願っていた。薄絹一枚を身につけて裸足で踊る姿は話題を呼び、多くの舞台をこなして資金を集めることができた。舞台のデザイナーとの間に子どもも生まれるが、長続きしなかった。家族との絆が強く、ヨーロッパ行きにも行動をともにする。大英博物館では、ダンスのモチーフになるような古代ギリシアの彫刻群像に感動している。ギリシアでは古代神殿を舞台に踊っていた。スタイケンの写真で知られるものだ。
自立して大富豪(バリス・シンガー)との恋愛関係もはじまった。ふたりの子どもももうけるが、交通事故でなくしてしまう。年齢差があり、ダンサーのスポンサーとなって、彼女の夢を実現してやる。はじめはダイヤの宝石をプレゼントするが、すぐに売り飛ばしてしまう。
女の夢は子どもたちにダンスを教える学校をつくることだった。次にパリの近郊に土地を買ってプレゼントすると、女は喜んだ。ダンススクールをつくり、子どもたちを集めて指導している。ギリシア風の衣裳を制服にしてレッスンをしている。男はロールスロイスで乗り付けて、大勢の少女たちを喜ばすために、大量のイチゴを買ってきていた。
二人の間にも子どもが誕生するが、女は結婚することを嫌った。芸術家にとって結婚は足かせとなるものだと考えていた。子どもを乗せた車が橋を越えて川に落ちて、ふたりとも死んでしまった。女は落ち込んでダンスに没頭するが、孤独を癒やすためにピアニスト(アルマン)を雇ってもらった。
若い青年を期待したが、頭の禿げた醜男だった。ピアノにあわせて踊るのだが、顔を合わせないように、厳重な仕切りで隔てていた。夫は安心していたが、このピアニストが女に恋して手を出すと、嫌がるはずの女が受け入れてしまう。夫にはない芸術家としての魅力に気づいたのだった。
ピアニストとの関係が知れると、富豪との関係が悪化する。これに対して舞台の仕事は順調で、ソビエトから声がかかって、ロシアに招かれることになる。思い切った決断だったが、社会主義国の労働者を前にした踊りは人気を呼び、民族舞踊も加わって、舞台は一体になってカリンカの合唱に合わせて盛り上がる。ロシア語も熱心に学んでいる。そこで出会った若い詩人(イヴァン)と深い仲になって、アメリカに新しい文化を伝えようと意気込んだ。
ふたりしてボストンに乗り込んだが、アメリカでは受け入れられなかった。共産主義者の排斥が叫ばれて、青年は希望を失った。女も引き下がるが、最後に華やかにパーティーをして終えようと企画した。集まった中にレーサーの姿があった。これまでも何度も見かけてあこがれを抱き続けてきた相手だった。はじめて手をとってダンスをして、スポーツカー(ブガッティ)に乗り込んで、ふたりで会場を去ろうとした。新たな恋の予感だったが、首に巻いていた長いスカーフが車輪に巻き込まれ、首を絞められてあっというまに、女は死んでしまった。波瀾万丈の劇的な生涯だった。
第535回 2024年8月5日
ロミオとジュリエット1968
フランコ・ゼフィレッリ監督作品、ウィリアム・シェイクスピア原作、イギリス・イタリア合作映画、原題はRomeo and Juliet、レナード・ホワイティング、オリビア・ハッセー主演、ニーノ・ロータ音楽、アカデミー賞撮影賞・衣装デザイン賞受賞。イタリアのベローナを舞台として、いがみ合う二つの家族の若い男女が、愛しあったことから起こる悲劇。さすがにシェイクスピアだという、じつにうまくつくられた話なのに感心する。イタリア人なのに英語をしゃべっているのに違和感がないのは、シェイクスピアを原作とするからだろう。
ロミオはモンタギュー家のひとり息子、ジュリエットはキャピュレット家のひとり娘である。はじまりは町の中心にある広場で、両家の若者たちがぶつかり合うところからである。ジュリエットを妹のように愛している従兄(ティボルト)をリーダーとしたグループと、ロミオの兄貴格(マキューシオ)にあたる数人が争い合う。収拾がつかなくなると大公の警備兵がやってきて仲裁に入るが、これまでに何度も続く抗争にうんざりしている。
ロミオは争いを嫌いその場にはいなかった。もの思いに耽っていて、恋人ができないという、世間離れのした悩みを仲間に打ち明けていた。抗争で傷ついた仲間を見ながら、顔を歪ませている。ひとり娘のジュリエットはまだ14歳だが、両親は早めに結婚をさせようと思っている。伯爵(パリス)からの申し出があり、生まれたときからそばにいて、信頼感を得ている乳母を通じて、娘をその気にさせようと思いを巡らせていた。
ジュリエットの両親が主催をして舞踏会を開催すると、ロミオが仲間たちと変装して参加する。仮面をつけていたが、ふたりは引かれあい、たがいが誰であるかも知らないまま運命の出会いをはたす。従兄はそれを目にとめて敵が混じっていることを忠言するが、主催者は会が台無しになるのを恐れて、めくじらを立てないように言い聞かせた。娘は乳母に出会った男の名を聞くように頼むが、誰も知らず従兄が敵の息子だと言いその名を教えた。ロミオもこの家のひとり娘だと知ることで運命のいたずらだと覚悟した。
仲間は引き上げたが、ロミオは残り、屋敷のバルコニーに娘がもの思いにふけっているのを目にとめる。ひとりごとのように繰り返しつふやいていたのは、覚えたばかりの自分の名前だった。「ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの」という問いかけには、愛してはならない男と出会ってしまった悲劇を予感させるものがある。名乗りを上げると、娘は聞かれてしまったという恥じらいと驚きが、喜びに変わった。
見つかれば殺されるかもしれない危機感を抱きながらかけのぼると、二人の情熱は高まった。遠くからは娘を呼ぶ声も聞こえる。去ろうとしては呼び止められて、繰り返し昇り降りをする姿があった。次の日の時間を指定して約束するが、性急にも教会での結婚まで持ちだしてくる。ふたりの結婚が、両家のいがみ合いを解消させるものとなるかもしれないという、淡い希望もあっただろう。
思うようにはことは運ばなかった。娘の使いとして乳母が訪れたときには、ロメオの仲間たちが、その容姿をあざけり、もの笑いにしている。広場での衝突が再発すると、剣を抜いて決闘に至る。ロミオにとっては信頼のおける仲間と愛する娘の従兄だった。ロミオが間に入って止めたとき、その一瞬を突いて剣が突き刺されていた。親友は強がりを示していたが絶命すると、ロミオは怒りを爆発させ、追いかけて決闘をいどむ。勢いが勝ってロミオは勝利するが、殺人者となってしまった。捕まれば処刑されることから、逃亡せざるを得ない。大公の恩情は証言を聞き分けて、死罪は命じず追放の処分を言い渡していた。ロミオはジュリエットと離れるなら、いっそここで殺してくれとさえ願った。
ジュリエットは兄のような存在であった従兄を失い、愛する男は殺人者として追われた。両親は早めに嫁がせようと、伯爵の申し出を受けて、2日後の木曜日に結婚をさせようと急いだ。味方をしてくれていた乳母までも、伯爵と結婚するよううながした。娘はかたくなに拒み、教会に向かい神父(ロレンス)に相談する。理解を示し、秘密裏にふたりを結婚に導いてくれた恩人だった。そこには親の勧める結婚相手も式の打ち合わせに訪れていて顔を合わす。神父はこの重婚のすべてを飲み込んていたが、男は事情を知らずに木曜日にはと言いおいて去っていった。
神父が思案して解決法として持ちだしたのは、42時間の仮死状態が続くという薬草だった。今日は火曜日なので寝る前にこれを飲むと、水曜日には死の状態にあり、木曜日の結婚が避けられるというものだった。目覚めたときに追放された地に逃げる手はずで、神父はロミオに事情を知らせる手紙を書いた。水曜日の朝、死体が確認され、葬列を見届けると、主人に知らせに馬を走らせる若者がいた。ジュリエットの動きを逐一知らせるように命じられていた下僕だった。ロバでゆっくりと歩いて手紙を届ける使者を、追い越して知らせると、ロミオはその足で馬を走らせた。そのときにもロバとすれちがっていた。
一族の埋葬された霊廟にたどり着くと、下僕に暇を言い渡した。ジュリエットは死んでいた。隣には従兄も横たえられていた。ロミオは絶望して、隣の死者にも詫びを入れて、持参した毒薬を飲み干した。時間にあわせて神父がくると、ロミオの下僕が呆然としていて、不吉な予感を読み取った。見るとロミオの死体があった。カメラは手を大写しにすると、かすかに動きまだ息があるのかと思わせたが、それはジュリエットの指だった。目覚めるとかたわらでロミオが死んでいた。神父はことの次第に恐怖し、娘を連れて逃げようとするが、拒まれひとりで立ち去った。
ジュリエットがひとりで生き延びることはできなかった。瓶を口にするが毒薬は残っていなかった。ロミオの口から直接毒を吸い取ろうともした。それも果たせずロミオの携帯していた短剣を見つけ、自身の胸を刺して愛する男に寄り添った。二人の死がいがみ合ってきた両家を和解させ、二人の葬列が一つのものとなって行われている。両家はともに直系の血筋を絶やしてしまった。大公も両家を前に、自身の力のなさを嘆いていた。
みずみずしくさわやかな主演のふたりの演技が光る。一瞬ではあるが、盛り上がりのあるロミオの尻とジュリエットの胸があからさまに、映し出されたときは驚いた。ともにまだ10代半ばだったことから、当時は論議を呼んだものだったが、今となればイタリア作曲家の抒情的な主旋律とともに、目に焼き付く美しくもはかない肢体だった。
最初で最後の一夜のちぎりを描くのに不可欠な演出だったのだろう。とどまれば捕まって処刑、眠っていたのは女の寝室だった。乳母は気づいていて、防波堤になっていたはずだ。ベッドで朝の訪れを聞きながら、まどろみは鳥の声がヒバリかナイチンゲールかわからない。睡魔が性欲以上に若者の特権だったことを思わせる。愛しあっていても人はいつのまにか眠ってしまうものなのだ。
第536回 2024年8月11日
フェイシズ1968
ジョン・カサヴェテス監督・脚本、アメリカ映画、原題はFaces、ジョン・マーレイ、ジーナ・ローランズ主演、ヴェネツィア国際映画祭男優賞受賞。夫婦の危機を淡々とした映像で追った悲喜劇である。夫(リチャード)は48歳で仲間と連れ立って商売女(ジェニー)の家に入り込んでいる。女は魅惑的で23歳とも28歳とも言っている。主人公は恋人のように接しているが、仲間は金で娼婦を買ったような扱いで、プライドをもった女は憤慨している。家には妻(マリア)を残していて、気にもなっている。深入りはできずに妻のもとに戻るが、何のときめきもなく、口げんかをはじめると、男は離婚を切り出して再び家を出た。
またもとの娼婦の部屋に戻ると、客は変わっていた。上司と部下のようで、女も二人いた。主人公が加わって奇妙なやり取りがはじまっていく。上司の男は主人公の職業や人格を聞き出そうとする。大企業の取締役だと知ると、いちもく置いている。部下があいだを取り持って、上司に気をつかっていると、主人公はもっと給料をあげてもらうよう、おせっかいなアドバイスをしていた。女は二人の客が出ていくことを期待している。やっと二人が、もうひとりの女を連れて出ていったときにはほっとした。残されたふたりは新婚夫婦のように心をときめかした。
離婚を言い渡された妻は、仲間の夫人たちといっしょに町に出て、憂さ晴らしをしていた。四人の仲間はともに亭主に隠れて飲み騒ぎ、火遊びを楽しもうと、下心をもっていた。ダンスホールで飲み明かした末、夫が不在の女の自宅に集まって、女4人と男が1人という怪しいグループの密会がはじまっていく。男(チェット)は23歳でダンスに長けていた。老いた醜い女にも分け隔てなく寄り添って、女たちも浮かれていた。男を独り占めすると、ほかの女たちは嫉妬の目で見ている。主人公の妻は冷静を装っているが、男が誰にでも親切なのが気にくわない。
夜も更けて二人が帰宅した。ひとりはひつこく若者に食い下がる。送ってくれと言い出すが車がない。この家の車を借りることになると、持ち主が送っていくと言ったのをさえぎり、若者は自分が送ると言って家をあとにした。残された女は帰ってこないのではないかと、いらだちを隠しきれなかったが、若者が戻ってくると、焦がれたように喜んだ。男もこの時間を待っていたのだという素振りをみせると、ふたりの感情は高まっていく。
朝になって女が、睡眠薬を飲んで自殺をはかっていたことに気づくと、若者は大あわてをして、吐き出させようと必死になっている。男が女を殺害したのかと思ったがそうではなく、助けようとしているのだった。女が自身の不義を悔いたためだったかはわからないが、衝動的な発作だったのだろう。
何とか一命を取り止めたころに夫が戻ってくる。吹っ切れたようなさわやかな声での帰宅だった。このとき妻のあられもない姿と、窓から逃げ去る男を見届けた。部屋中に情事のあとが残っていた。多くを語らず、階段に座り込んで上下に分かれて、二人はタバコを吸いはじめた。
無言のまま階段を上がったり下がったりする動きを映し出して映画は終わった。謎めいたすれ違いではあるが、夫が戻ってくることによって、離婚は解消され、夫婦の情事はともに終わったということなのだろう。妻にとって情事の相手は、命を救ってくれた恩人でもあった。同じ家にいても対面することのない、現代の不毛の夫婦関係を映し出して、そら恐ろしくもあるが、リアリティのある現実のように思えた。
後ろめたさを共有するもの同士の分かち合いと見ることもできるだろう。そこではタイトルにあるように、心をもたない複数の顔(フェイシズ)が往来している。から笑いをする顔が繰り返し映し出されていたが、そんな根拠のない笑いに対して、いらだちと嫌悪感をいだくとすれば、それはほんらい持つべき人間感情の、裏返しの現象とみることができるだろう。ハリウッドの大資本では実現しない、プライベートなインディペンデント映画として、異彩を放つものだった。
第537回 2024年8月12日
まごころを君に/アルジャーノンに花束を1968
ラルフ・ネルソン監督作品、ダニエル・キイス原作、アメリカ映画、原題はCharly、クリフ・ロバートソン主演、アカデミー賞主演男優賞受賞。知的障害をもった男(チャーリー・ゴードン)が手術を受けることで、知能を異常なほどに高めるが、やがて退行してもとに戻るまでの人間関係をドラマにしている。
主人公はパンの製造工場に掃除夫として雇われている。知的レベルが低いので、仲間からからかわれているが、本人には友だちが大勢いると思っていて自覚はない。短いズボンを履いて歩く陽気な姿は、チャーリーと名づけられているところからみると、チャップリンを思わせるものだ。
夜学にも通うが、スクールという英語の綴りも覚えきれない。Sも左右ご逆になっている。人と話をしていても、内容がわからないことで嘆いている。そんな男を親身になって面倒をみようとする女教師(アリス・キニアン)がいた。学者の卵で婚約者とふたりで論文を完成させたいという野望をもっていて、主人公は実験材料としても、不可欠な存在だった。
知能指数は低く、生い立ちも不幸だったようで、母親のことを話させようとするが、母親とは施設の人のことだという認識しかなかった。マウスと迷路にたどり着くまでの時間を競わせると、いつも負けていた。ネズミは実際の迷路を、ヒトは紙に書いた迷路を、同時にスタートしてゴールをめざした。女教師には上位にある博士(リチャード・ネマー)がいて、手術により知能を取り戻す方法を見つけ出して、実験台を必要としていた。マウスによる動物実験はすでに成功していた。
主人公は手術を受けたいと願うが、身寄りもいないし、感情がまだ子どものレベルなので、知能だけが発達することで、アンバランスな人格になることが恐れられた。博士の暴走を懸念する女性博士(アンナ・ストラウス)もいたが、女教師が熱心にこれまで付き添ってきたことから、手術が実現することになると男は喜んだ。
結果はすぐには現れなかったが、アルジャーノンと女名をつけたマウスを自宅に連れ帰り、迷路ゲームを続けていた。投げ出すこともあったが、はじめて勝利すると、学校に駆け込んで喜びをあらわにした。自室は殺風景な屋根裏部屋で、いつも大家の女主人が目を光らせていた。女教師がどんなところに住んでいるのか知りたくて訪れたことがあった。女性の訪問に管理人は驚きを隠せなかった。その後、女性がいっしょに住んでいるのを聞きつけて、詰め寄るとマウスの名前だった。
そんなユーモアが出てくるのも、知能の変化によるものだった。博士が期待した成果が現れはじめる。主人公はめきめきと知能を上昇させ、またたくまに高度な学者レベルにまで達した。それにともなって女教師に向ける目も変化しはじめる。今まで視線の定まらないおぼろげな目だったのが、胸や腰に視線が注がれるようになる。婚約者のことをさかんに聞くようになる。
私的なことは触れないと質問をかわしていたが、ある日男が正装をして、プレゼントをもって訪ねてくる。女が喜ぶと体を求めはじめた。突然のことで拒絶し、嫌悪感を滲ませて激しく抵抗して出ていった。にもかかわらずやがて受け入れることになり、急な心変わりに見ているほうも驚く。
男の知能はもはやパン工場の掃除夫のレベルではなくなっていた。職人たちがおもしろがって、パン製造機の煩雑な工程を教えるが、一度聞いただけで正確に作業をこなしていた。彼らは驚くだけではなく、敵愾心も募らせて、仲間の悪意から主人公は職を失ってしまう。
博士のもとで知能にふさわしい仕事が割り振られると、女教師の見る目も変わっていった。男の思いを受け止めて結婚を意識するようになった。そんなときマウスの経過観察をしていて、手術により知能が異様な上昇をとげたあと、退行現象が起こることが確認された。人間とはちがうのだと期待したが、主人公にもそれは起こってきた。天才的な知能は一時的なものでしかなかった。
博士は公的な研究発表の場で、主人公を舞台にあげて、手術の成果を立証しようとした。手術前の姿をスクリーンで映し出したあとで、今の本人と比較させる思惑だったが、本人は昔の姿を見られることに顔をゆがめ、博士の思い通りの発言をしなかった。まだもとの知能に戻ってはいなかったが、手術によって喜びは手にしたが、それ以上に失うものも少なくなかった。マウスは死んでしまった。寿命だったのかもしれないが、主人公にとっては不吉だった。
知能がもとに戻ることで、愛する女性のことをもう一度考えはじめたのだと思う。かつてプレゼントを持っていったときに、手ひどい拒絶にあったが、やがて心変わりをした真意も考えあわせただろう。女が部屋にやってきて、結婚しようと切り出した。男は憐れみを抱かれるのが耐え難かったにちがいない。拒否すると女はそれ以上は求めなかった。
さわやかなあっさりとした別れに見えた。男が子どもたちとシーソーをする姿が、最後に映し出されていた。実験材料として翻弄された、至福とも悪夢ともとれる日々から開放された、安堵感を伝えていた。原作名はFlowers for Algernonだが、モルモットとなって死んでしまったアルジャーノンに、まごころをこめて花束を手向けるのは、生き延びて自分を取り戻した、ライバルの使命だっただろう。
第538回 2024年8月13日
If もしも....1968
リンゼイ・アンダーソン監督作品、イギリス・アメリカ映画、原題はif.. ..、マルコム・マクダウェル主演、カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。学寮での新入生を迎えての学生生活を、奇想天外なできごとでつづる。イギリスでは規律正しい厳格な伝統が息づいていて、校長をはじめ教師も厳しいが、上級生の新入生に向けての態度も、度を超えたものがある。男子ばかりの全寮制で、美少年(フィリップ)が入学してくると、同性愛が仕掛けられる。6年生も登場していたので、生徒の年齢には6歳の開きがあるということだ。教師側は上級生を取り込んで、監督生の名を与えて、下級生を見張らせている。
風紀を乱す学生3人がいて、叛乱を起こし、銃による乱射事件に至った。上の学年からの圧力もあり、教師からも目をつけられ体罰を加えられて、不満がたまっていき、はては暴発してしまった。はじまりは学内でくすぶっていた秩序を壊そうというエネルギーが噴き出し、ふたりが町に出て、連れ立ってバイクを盗むところからである。バイクの並ぶ店内を物色していたが、店員が見守る中を大胆に二人乗りをして逃げ去っていく。
町を離れてカフェに入って、コーヒーを注文する。客はひとりもいない。店員は若い女がひとりいるだけだ。男のひとり(ジョニー)はミルク入りでと頼み、女が二杯ともミルクを入れたタイミングで、もうひとり(ミック)がブラックでと付け加える。嫌がらせとしか思えず、女店員がいらだちを示しながら、レジをしている瞬間に、突然女を引き寄せてキスをする。腹を立てて頬を殴りとばすと、男たちはそのまま引き下がって、テーブルについた。
ジュークボックスで音楽を聞こうとしたとき、女がやってきて二人の男に話しかけていく。その後、この不良学生の遊び仲間として行動をともにしていった。手に負えない噂は、教師の耳にも入ってくる。三人が仲間でいるグループが呼びつけられて、ひとりずつ体罰を加えられていく。ひとりが戻ってきて4回というが、見ているほうは何の回数なのかわからない。2人目が戻ってきて、ズボンを下ろすと、尻に血がついていて、ムチ打ちだったのだとわかる。
3人目はリーダー(ミック)で、4回では終わらなかった。痛いとも言わず、感謝のことばを残して出てきた。校則に従う従順な姿に見えたが、顔にはふてぶてしさが現れ、不気味でもあった。ムチの音が聞こえていたのか、下級生たちが耳をそば立てている。屈辱を味わった3人は、カミソリで指を切り、手を握りあわせて、血を共有して血盟を誓った。ライフルの実弾を2発ずつ手に握りしめていた。
やがてメニューに軍事訓練も加えられる。銃を手にして実戦のような演習も行われている。軍服もそろえられて、行進も本格的に歩みが整っていった。校長が心構えを伝え、敵前逃亡は処刑だと念を押して、子どもたちに言い聞かせている。3人の報復は、学生と教員が混じった休憩時になされた。給水タンクに遠方からの射撃で、うまく命中させ、身構えて向かってきた上官は発砲されて倒れた。
3人が校長室に呼び出されて裁きを受けている。席のうしろにある大きな引き出しを開くと、撃たれたのは牧師だったようで、起き上がってきて無事だったのだとわかる。校長はまた引き出しを閉じて、死者は中に収まったまま、消えてしまった。意味不明のシーンに驚かされるが、学園で起こった不祥事を隠蔽したという暗喩なのだろうか。殺してしまったのなら刑事事件になるはずだ。
不思議なのはこれだけではない。学生が軍事訓練に出払った学内の廊下を、裸婦がひとり歩いている。顔が大写しにされると、教員のひとりだった。決して若くも美しくもなかったが、女性であることから、学生たちは目をつけていた。しつけには厳格で、食事でトレーにおかずを一つ取り分けるのを、ふたつ取り込んだ学生がいると、厳しく指摘して戻させていた。
さらに学生が集められての一年の締めくくりのセレモニーが終わって、教員も学生も中庭に出てくると、取り囲んでいた建物の屋根から、機関銃を構えた学生たちが、無差別に乱射をはじめた。仲間に加わったカフェの女店員も加勢していた。多くの死傷者が出て、地面に倒れ込んでいる。
応戦をして銃撃戦が続いていくが、これまでの不満の爆発なのか、何らかの政治的な意図があるのかは、説明のないままで不可解としか言いようがない。学生の部屋に貼られたゲバラや毛沢東の肖像写真から、当時の若者たちの社会変革の意識は読み取れる。学内での乱射事件は今では決して珍しいものではない。現実に起こった事件なのかとも思ったが、イフという映画タイトルからは、もしもこんなことになればという、危機感の表明だったのだろう。そして現実世界でもまねられていったことを思うと、映像というメディアのもつ、魔力について再考することになる。
第539回 2024年8月14日
神々の深き欲望1968
今村昌平監督作品、英語名はThe Profound Desire of the Gods、三國連太郎主演、キネマ旬報ベストテン第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞・脚本賞・助演男優賞受賞。日活映画の配給作品だが、はじまりは真っ赤な太陽のゆらめきからで、現代の映画会社のトレードマークを思わせるものだ。本編のはじまりを象徴するものてあるなら、むき出しの素朴な太陽が示すように、近代化の波の押し寄せる島で、生活が急変するようすがとらえられている。神々の欲望とは何なのか。土俗的な因襲が色濃く残り、それが崩壊してゆく流れのなかで、その社会的対応を考えさせられることになる。
閉鎖的な狭い世界に閉じ込められて崩壊する家族があった。家長(太山盛)は高齢で妻はすでに亡くしたようだ。息子(太根吉)との会話を通して、衝撃的な人間関係が明かされる。近親相姦のはてに起こる、複雑な近親憎悪の実態が見えてくる。息子は父が自分の娘に手を出して、みごもらせたことをあげて、そのために嫁にも行けなかったのだと罵倒する。
父はだからこそお前が生まれたのだと切り返し、さらには息子が密漁のはて、戦友の妻と関係をもったことを非難する。息子は戦友だからこそ負傷した友の代わりをしたのだと言い訳をしている。父は息子が二言目には戦友を口にするのを嫌っている。息子はあの時代こそが自分にとって、自由で幸福な日々だったと回想する。
息子は密売をして島の掟を破り、島の権力者(竜立元)によって鎖につながれていた。世間の嫌われ者として、家から身を隠していて、祖父は娘(ウマ)に近づかないよう命じるが、隠れて兄を訪れていた。兄は妹を愛しており、妹も兄に好意を寄せて、近親相姦に至っている。巨大な岩が横たわり、それを埋める刑罰を言い渡されていた。主人公は岩のまわりから穴を掘り続けていて、そこには神秘的な水源も姿を見せていた。掘り出された土砂を運び上げるのを手伝うのは、この男の息子(亀太郎)の仕事になっているが、主人公をあざける仲間たちは、上から土砂を投げ落としている。
主人公には兄と妹(トリ子)の二人の子どもがいた。妹は知恵遅れだが、からだは十分に成熟している。耳がかゆいと甘えるように訴えると、祖父がそばに寄ってかいてやる。それを見ていた父親が払いのけて、自分がかいてやっている。父親が嫌悪するように、祖父は孫にも手を出しているのが察せられる。兄のほうは家族にだけではなく、町の実力者にも従順で、町の開発が進んでからも、抵抗することなく、溶け込んで観光列車の機関士として生き延びることになる。
水質調査を目的に、東京からやってきた技師(刈谷)の世話をするようになると、町の実力者は技師をもてなし、土地の女を世話につける。主人公とは戦友の一人だったが、その妹を妾にしており、巫女としての能力を利用してもいる。女は命じられて技師に誘いをかけるが、妻子ある身であることから、潔癖で近づけないでいた。
やがて技師は誘いに負けるが、主人公の妹から、主人公の娘に興味を移しはじめ、その若い肢体にのめり込むと、東京に帰ることをやめて、住み着こうと考えはじめる。娘の兄が東京に出たいと言いだすと、知り合いに紹介もしてやった。娘が技師の子をみごもると、主人公は父親として喜び、本人も島に身を埋める覚悟をする。
そんなとき会社からの帰途命令が出る。すぐに帰ると言いおいて、5年間戻ってはこなかった。その間に主人公家族では、家長が死に、主人公は禁を犯して妹と結ばれる。権力者が妾のもとで死ぬと、疑われて二人は小舟で逃れる。追手に追いつかれ、無実を訴えるが聞き遂げられず、仮面をかぶった仲間から叩きのめされる。そのなかには息子もいた。妹は引き戻され、本人は命を落とす。
観光開発が進み、奥地にまで鉄道が引かれると、息子は機関士として勤務していた。5年ぶりに技師が東京からやってくる。以前のポストよりも出世していた。和服を着た夫人も同伴している。社長の娘を妻にもらっており、頭は上がらない。再会して技師は驚いて、若者に戻っていたのかと聞くが、東京よりも住み慣れたいなか暮らしがよかったのだと答えていた。父を殺したのは自分で、妹を殺したのは技師であり、自分はそれを確かめるために戻ってきたのだという。車窓から見える奇岩は、技師に裏切られた狂女の名をつけられた塚だったが、家人から知っているのかと聞かれると、曖昧な答えを返していた。
機関士は進める線路の前方に妹が現れて、走って逃げるのを認めて慌てて急停止する。轢き殺したのかと思ったが、妹の姿はなかった。妄想だったようで、自身が開発側に加担したことから見えた悔恨だった。急停止して驚いて顔を出した技師に、何も言わずに頭を下げて運転を続けていた。
祖父の神に向けての信仰心は、深いものがあった。自然界のあらゆるものに神は宿っている。台風による暴風雨は、神の怒りのようにすざまじいものだ。巨岩は落ち込み、長い時間をかけて広げていった穴が一瞬のもとに塞がってしまう。不思議なことに家長の妻も、その息子の妻も登場せず、血縁のみによって、家族は受け継がれている。
機関士となった孫の唯一の血は、どのようにして受け継がれていくのかが気にかかる。島が誕生し、そこにはじめて住みついた男女の神話が、蛇味線にあわせて、沖縄の旋律で歌われている。歌うのは主人公の戦友なのだろう、下半身が麻痺していて台車に乗っている。主人公が妹と小舟で逃げるとき、自分たちがたどり着く島で、ふたりは神になるのだと言って、その欲望を確かめあっていた。神々の深き欲望とは他人同士が結ばれる以前の、近親相姦のことだったのだろうか。
第540回 2024年8月16日
あゝひめゆりの塔1968
舛田利雄監督作品、石野径一郎原作、吉永小百合主演。沖縄戦最後の師範学校での女子学生たちの悲劇。慰霊碑ひめゆりの塔には、このとき命を落とした娘たちの名が刻まれている。米軍の攻撃に対し徹底抗戦を命じられ、最後は自決して果てるまでの過酷な日々を描いている。プロローグは現代の若者がディスコで浮かれて踊り騒ぐところからだが、その姿を嘆きながら見つめる青年を映したあと、同じ年齢の20年前の娘たちの話へと移っていく。
主人公(与那嶺和子)は教師になることを夢みる若い娘だった。女子師範学校の体育祭にやってきた男子学生のグループが、招待券をごまかして入場するところから、話ははじまる。主人公の弟からせしめた一枚のあとに、3枚の白紙を添えて受付を通過した四人組が、見つけ出されて謝らされている。ひとりの若者(西里順一郎)が主人公に目をとめ、その後の学徒出陣で従軍してからも、気になる存在として、行き来が続いていく。
主人公の母親も教師だったが、生徒を引率して本土に疎開する途上で、敵の砲撃にあって船が沈没し、生徒とともに死んでしまった。日本の劣勢は深刻になっていく。新米の教師として、子どもたちの範になることから、逃げることはできず、凛とした生き方を求められた。何をしていても中断して、防空壕に逃げ込む日常が続いていく。
教師としての仕事よりも、負傷兵士の介護に駆り出され、看護師として足の切断手術にも立ち会っていた。敵兵の顔は見えない。これまでアメリカ人などは見たことがないと言っている。洗脳により知らされたのは、捕まると裸にされて敵の車の前に縛り付けられるという恐怖だった。それによって日本兵は手足を出せなくなってしまう。
太平洋での海戦で、日本軍が全滅し、玉砕したという知らせが入る。女子学生の父親にも該当者があった。島を占拠されるとそこを基地として、本土爆撃が可能になっていく。日増しにB29が飛び交う日が増えてくる。敵は見えないが、爆撃音と戦闘機での容赦ない銃撃が繰り返されていく。主人公の同窓生も一人ずつ倒れていった。
通信兵をめざしていた弟も犠牲になった。体育祭のチケットをゆずったときの若い兵士と顔を合わせていて、最後の姿を目にしていたが、その後姉に出会ったときには、正直に話せなかった。娘は母を失い、弟を失い、さらにこの若者も目の前で命を落とした。
師範学校の教師は校長をはじめ、学生たちを何とか生かそうと考えていた。行動をともにすることで、娘たちを過酷な状況に追い込んでしまった悔いもあった。米軍が沖縄に上陸し、追い詰められていくなかで、娘たちの部隊を訪ねて、解散するよう促している。彼女たちは聞かなかったが、説き伏せて生き残ることを伝えてまわった。校長に同行を求めたのが、かの青年だった。これまでの実戦から、彼は敵の砲火を避ける方法を知っていた。
校長が命を落とすと、厳しい銃撃に置き去りにせざるを得なかった。娘たちの居所に戻ると、置き去りにしたことを責められ、彼女たちは遺体を運びに行こうとする。若者は意を決して、案内することにしたが、無理を押して走り込んだとき、銃撃に倒れる。主人公は砲火をくぐって駆けつけると息絶えていた。死を覚悟して誘導させたことを悔いたにちがいない。
その後も仲間たちは命を落としていく。3班に分かれて敵の砲火をかいぐぐって逃れようとするが、凄まじい爆撃音とともに全滅してしまう。爆音が収まったとき、主人公はもうひとりの仲間が生きているのに出会う。ふたりして崖にたたずんで、眼下の海をながめて、手にした手榴弾の留め金を外した。手榴弾は敵を倒すものではなく、自決するためのものだった。先に討死を覚悟して最後の晩餐をしようと、用意されていた食料箱を開いたとき、そこには饅頭のように手榴弾が並んでいた。別の場面では青酸カリの入ったミルクも用いられていた。
敵の砲火が一瞬止まったことがあった。前の日に日本軍が総攻撃を仕掛けるという情報が入っていたので、そのせいだと喜んだ。数十人の娘たちは池に走り出して飛び込み、真っ黒になった顔を洗い流して、女性の恥じらいを取り戻した。戦闘機の音が聞こえて手を振ると、敵機だった。そこでも半数の命が失われてしまった。若い純朴な娘たちの悲劇を描いた「ひめゆりの塔」は、1953年の今井正監督作品をはじめ、何度も繰り返しドラマ化されて、戦争の悲惨を訴えるものとなってきた。