500回 2024年6月28 

男と女1966

 クロード・ルルーシュ監督作品、アヌーク・エーメ、ジャン=ルイ・トランティニャン主演、フランシス・レイ音楽、フランス映画、原題はUn homme et une femme、カンヌ国際映画祭グランプリ、アカデミー賞外国語映画賞受賞。男と女の出会いと別れと再会までを追っている。映像とことばと真実とが錯綜し、はては個人の意思を超えて、愛に委ねられて、そのゆくえを待ち受けている。愛がふたりを出会わせることになる、不思議な映画である。

 最初に親子のなかよく行動をともにする姿が、交互に映し出されている。母と娘は町で買い物をし歩き回っている。父と息子はフラフラとした危なかしい運転をしている。ハンドルを握っているのが、幼な子であるのが写されると、母娘はこの車に轢かれてしまうのではないかと不安を高める。父が助手席にいて息子に運転を教えているのだった。日曜日のひとときの光景だった。

 出会いは偶然からはじまった。子持ちの男女が、週末をともにしたあと、寄宿生であるたがいの子どもを学校に届けに行った。女(アンヌ)のほうが列車に乗り遅れてしまったことから、男(ジャン・ルイ)の車で送ってもらうことになる。子どもたちは仲のいい友達同士だった。男の一人息子(アントワーヌ)は、以前から女の一人娘(フランソワーズ)が好きだったようだ。親同士は初対面で、ぎこちなく距離感があるが、しだいに打ち解けて、目を輝かせはじめる。

 はじめに男が尋ねたのは、女の主人の職業だった。女に興味をもったことがわかる、常套の質問である。主人の仕事姿の映像がはさまれるが、映画のスタントマンだった。妻とは愛に裏打ちされているようにみえ、男もこの仕事に興味をもった。パリに入り、女の住まいの近くまで送ると、次に会う約束をする。今度はご主人もいっしょにと誘うと、撮影中の事故が映し出され、夫が死んだのだとわかる。妻は撮影スタッフとして勤めており、それを目の当たりにしていた。

 次には家族で会ったが、子どもたちは仲よく遊んでいる。やっと男に興味をもったということなのだろう、男の職業を尋ねている。プレイボーイだと見せかける映像もはさまれるが、コミカルで嘘臭い。レーシングカーのテストドライバーだった。男のさっそうとした運転テクニックが映し出されている。ル・マンの24時間耐久レースやモンテカルロラリーの過酷なレースに出場して、活躍するレーサー姿も見える。妻のことも語られるが、危険と抱き合わせに生きる夫を心配する姿だった。

 レース中に大事故が起こり、妻は手術室の前で、不安な表情を浮かべている。夫の意識は戻らないままで、妻は落胆し、恐怖に耐えきれずに、精神に変調をきたし、発作的に自殺してしまったことを伝えていた。ふたりはともに今は独身なのだとわかると、たがいの愛を深めることができると安堵したにちがいない。情熱はレース途中での男が長距離をかけて、女に会いにゆくことにもなる。

 ふたりは高まってからだを求め合うが、絶頂に至ったところで、女が離れて夫に悔いることばを口走る。夫は死んだのではという男の質問に、女はかすかに首を横に振ったように見えた。夫は死んではいなかったのではないかと思わせる。男は落胆して引き下がるが、ふたりは愛を投げ出して、成り行きにまかせる。愛が擬人化され、一人歩きをして、彷徨した末にふたりを引き合わせるのである。列車で去った女を追って、男が車で駆けつけると、到着した列車から大勢の客が降りてきて、最後には女の姿がみえ、ふたりは駆け寄って抱き合った。

 映像は当事者の意識とはズレを起こしているようで、その曖昧さが多様な解釈を生む。男には女や妻とは別に、もうひとり女性がいたかもしれない。唐突に現れてタイムスリップしたからか、誰であるのかわからず、突き放されて宙ぶらりんで置かれている。たぶんそれは亡くしてしまった、愛するものの亡霊なのだろう。それが現実から過去を引き戻してくる。人は死者とともに生きるものだ。

 浜辺で堂々巡りをする犬が、飼い主から離れられないのが印象的だ。見落としてはならないシーンである。はじめつながれて散歩をしていた。浜辺に降り、鎖を解かれて、自由に走り回れるようになっても、飼い主の老人から遠ざかることはできないでいる。それが種の宿命なのかもしれない。行きつ戻りつする、この浮遊感がフランシス・レイの主題歌と、みごとに調和している。色彩もカラーからモノクロへと巧みに行き来しながら、不安感と不在感を高めていた。最後には亡霊をかき消すように、駅で待ち構える男と女の、生者の勝利の姿が、未来の希望を映し出して、救われたような気がした。

第501回 2024年6月30 

アメリカ上陸作戦1966

 ノーマン・ジュイソン監督作品、アメリカ映画、原題はThe Russians Are Coming, the Russians Are Coming、ゴールデングローブ賞作品賞、主演男優賞受賞。アメリカとソ連の冷戦を背景にしたコメディである。原題では「ロシア人がやってくる」という報告を、二度繰り返している。オオカミがきたに近いニュアンスなのだろう。

 ソ連の潜水艦がアメリカの沿岸で座礁して浅瀬に乗り上げてしまい、小島(グロスター島)に上陸してくる。何もないいなかまちで目撃者はいない。英語のできる兵士(ロザノフ)をリーダーとして、9人ほどが偵察隊として降りてくる。潜水艦を沖まで誘導するボートを調達しようと考えていた。一軒の家を見つけてようすをうかがっている。劇作家(ウォルト・ホイテッカー)夫婦が別荘として、ふたりの子どもを連れて借りていて、明日には帰る予定をしていた。

 子どもが怪しい男たちがいると、父親に伝えるが信用していない。やがて乗り込んできて、片言の英語でしゃべるが、ロシア人であることがわかった。国を挙げて侵略してきたのだと思って身構える。銃を突きつけられて脅されると、町まで行けば目的が達せられると伝える。父親は早く出て行ってもらいたいと考えているが、純粋な愛国心から、子どもは戦おうとしない父親の姿勢を認めてはいない。

 ひとりの若者(アレクセイ・コルチン)を残して、ロシア兵は町に向かった。若者が油断をした隙に、父親は銃を奪うと、若者は逃げていった。その後も遠巻きに家のようすをうかがっている。戦いを好まない純真な若者だった。電話線が切られ連絡方法がない。車も奪われたので、自転車で父親はソ連の上陸作戦があったことを知らせにいく。

 町では電話がつながらないことに、不審をいだいていた。ソ連が侵略してきたといううわさは、またたくまに広がり、大騒ぎをして、大統領にまで知らせないといけないという話にまでなっていく。警察も動くが退役した元軍人も躍起になっている。ロシアの偵察隊がモーターボートを奪って逃走した。警察と町の人たちはライフル銃で応戦している。

 座礁した潜水艦が自力で動きはじめると、偵察隊を呼び戻さなければならない。拉致されたかもしれず、館長は船を港に入港させて、町に脅威を与えている。英語を解するひとりはその場にいて、間に立って穏便に処理しようとするが、館長は高圧的で、大砲を放つよう指示を出している。町を代表して対応にあたったのは警察署長(マトックス)だったが、こちらも引こうとはしない。住人は銃を構えて潜水艦の乗組員たちをねらっている。

 一髪触発の危機を縫って、塔に登って見物していた作家の息子が、滑り落ちて軒にひっかかって宙ぶらりんになった。敵も味方もそれに驚き、力を合わせて人のピラミッドを築いて助け出そうとする。無事に降りてきたとき、両者から拍手が沸き起こった。にらみあっていたのが、嘘のように解消していた。

 この騒動のあいだに、元軍人が事態を危うんで、空軍の出動を要請していた。米軍の戦闘機がやってくるまで時間はなかった。作家の妻が言い出したのは、船を出して潜水艦を取り巻いて、無事に沖に出そうという提案だった。賛同を得て潜水艦を守りながら移動をはじめた。戦闘機はやってきたが、攻撃することができず、司令官から詳しい事情はあとで聞くと、命じられて帰っていった。

 作家宅を遠巻きに見張っていた若いロシア兵は、夫が出たあと妻と息子もそれを追ったのを見て、再び戻ってきた。幼児だった下の娘と、そのお守りをする娘がいるだけだった。幼児は恐れを抱くこともなく、平気な顔をして会釈をしている。娘はおびえるが、青年が恐れるものではないことがわかると、打ち解けて心を通わすまでに至る。青年も娘に惹かれたようで、敵同士であることを悔やんだ。

 リーダーが心配をして迎えにきたとき、作家も幼児を置き去りにした妻を責めて、車で駆けつけた。ロシア兵の上官に出くわすと、娘に危害を加えられるのを恐れて、銃を発射する。車は柵にぶつかり殺害してしまったのかと、作家は悔やんだ。見ている私たちも、これで戦争は避けられないと思ったが、車の内部を映し出して生きていたのにホッとする。若いロシア兵がアメリカ娘と手をつなぎながら帰ってきた。乗り合わせて海岸へと向かう車では、後部座席で青年と娘は顔を見合わせている。再会を約束して青年は、潜水艦に戻っていくことになる。必要のなくなったモーターボートも返された。

 すべては何もなかったかのように終わったが、被害は車が一台盗まれ、作家がそれを撃ち抜いてしまったことか。それよりも、沿岸を取り巻いて潜水艦が偵察しているかもしれないという疑念は、今の日本でもよくわかり、危機感を高めるものだ。潜水艦であるだけに、事故を起こしても救助しようという、国際協力にはならない。ひとつまちがえば、コメディではすまない状況を思い浮かべることになった。うわさが広まると尾鰭がついて、どんどんとエスカレートしていく恐れも教えている。英語とロシア語を橋渡しするリーダーは、冷静な判断をする重要な役柄で、これを演じたアラン・アーキンが主演男優賞を獲得した。

第502回 2024年71 

白い巨塔1966

 山本薩夫監督作品、山崎豊子原作、橋本忍脚本、田宮二郎主演、キネマ旬報第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞・監督賞・脚本賞、ブルーリボン賞作品賞・脚本賞、モスクワ国際映画祭銀賞受賞。大阪の国立大学医学部の人事の話。映画タイトルは、象牙の塔を踏まえて、白衣を着て巨大な権威を築いていく、どろどろとした権力構造を浮き彫りにしている。すべてを金で解決しようとする、ギラギラとした生臭医師が登場するのも、浪速商人の町であることを象徴している。

 冒頭での開腹手術の生々しい映像に驚かされるが、主人公(財前五郎)は野心に満ちた外科医である。ものごとを冷徹なまでに冷静に淡々とこなし、好感のもてる人物とはいいがたい。今は助教授であるが、何とか教授になろうと画策をしている。類い稀な腕をもっているが、人望はない。岡山出身で父親を早く亡くして、母親が苦労をしながらも、優秀な子どもに育てあげた。

 親孝行であり、母親には仕送りを欠かせない。現金を送るのに、大阪駅前の今はなき中央郵便局も写されていた。産婦人科の医院を経営する家に婿養子として入り、実家の名を捨てた。資金面で何かと義理の父に頼っている。教授になるためには援助を惜しまず、大阪の医師会の副会長のポストにあり、仲間にも声をかけて娘婿を紹介している。

 主人公はバーのホステスを愛人として、アパートに住まわせているが、まだ助教授なので、名前をもじってゴロスケとからかわれている。教授になれば患者の付け届けもちがうので、もっといい部屋に住めることを、女は期待している。神の手をもち、沈着冷静で礼儀正しく見えるが、人を見下す冷ややかな人格であり、義理の父に劣らず俗的欲望がむき出しにされている。

 大学病院では第一外科に属するが、現教授(東)が3月に退官になり、あとの教授のポストをめぐって水面下の争いが続いている。難しい手術を成功させ、週刊誌の取材を受けるが、教授にことわりもいれなかったので、品格を疑われて、自重を促されている。自分の弟子の中では腕は一流だが人間性に欠け、教授は自分の後継ぎを学外に求めようとする。

 東京の重鎮(船尾)に声をかけて、人材を紹介してもらい、金沢大学に勤務する候補者(菊川)があがってくる。主人公を応援する同窓の医局員たちは、教授のポストに学閥が外れることを嫌い、排斥しようとして金沢まで出向いてもいる。人事が決まっても、ほとんどが本学出身の、医局員は協力をしないので、応募を取り下げてくれという脅しだった。軽はずみな行動は、東京の紹介者にも知られて、主人公は立場を悪くする。

 教授会での票の読みをしながら、買収に父親は「ひとりなんぼや」と言いながら金を用意し、権威者は文部省に顔が効くことをちらつかせて、ポストや補助金を約束して、票集めに余念がない。浮き足だったなかで、主人公は誤診をしてしまう。同僚の内科の助教授(里見)からの依頼で引き取った患者の処置を誤り、死なせてしまったことから、訴えられることになる。教授のポストを得た直後のことだった。法廷での裁判劇が続いていく。

 教授会での人事の投票は、近差で主人公が勝利したが、生々しい票読みが繰り返されている。それぞれに思惑があり、名前が読み上げられるたびに、一喜一憂する姿が、人間の愚かさを映し出して興味深い。金を積んで頼みにいっても、がんとしてはねつける教授(大河内)もいた。すべてが私欲と結びついた世界に、ひとり医学の研究に没頭するのは、内科の助教授だった。

 主人公のような野心はなく、教授になろうという気もなく、患者の病気と立ち向かっていた。ときにそれは融通が効かず、慎重すぎて判断を遅らせることにもなった。教授の娘好意を寄せていた。教授ははじめ主人公の才能を見込んで、娘と結婚させようと考えたが、人格が破綻しているとみて嫌うようになった。かと言って娘が愛する無欲の学徒は、鼻から対象外だった。教授は金沢の応募者がさいく最近妻を亡くしたことを知ると、いまだにひとりでいる娘をどうかと、先走ったことまで考えていた。

 内科の医師は、今では妻子を得て、質素なアパート暮らしをしていた。古株の煙たい存在であったことから、追い出そうとして学部長(鵜飼)は地方大学の教授のポストを用意していたが、辞表を書いて権力機構を去ろうとしている。学部長には買収が功を奏して、主人公の側についていた。取り巻きたちは、学長候補だとも言っておだてあげている。

 主人公の誤診については、裁判にまで持ち込まれるが、人事に負けた東京の権威が証言に立っている。主人公の倫理的道義については戒めたが、誤診だとは言わなかった。正義の味方のように公平を装ってはいるが、医学会そのものが信用をなくすことを避けた、利欲からの発言だった。

 象牙の塔に今も残る絵姿なのだろう。大名行列を思わせる大学病院の長い廊下での、教授や院長を先頭にした回診の光景は、時代錯誤のように見えるが、入院をしていた頃に、私も目にしたことがあった。担当医は後ろに付き従っていたが、藁をもすがる患者にとっては、大名から声をかけられるだけで、不思議なことにありがたいものに思えた。

 主人公を演じた田宮二郎は、好演だと思うのだが、演じた役柄が好感のもてない人物だったせいか、主演男優賞を獲得できなかった。死を前にして気弱になり、回心でもさせていれば、評価はまた変わってきたのかもしれない。助演者も含めてどこかに欠点をもった、善人のひとりも登場しない群像劇だった。

第503回 2024年7月2 

紀ノ川1966

 中村登監督作品、有吉佐和子原作、司葉子主演、ブルーリボン主演女優賞受賞。生まれた土地の偶然でしかないが、縁起をかつぐなら、紀ノ川の上流から下流へと、流れに逆らうことなく嫁いできた女性(紀本花)の順行した生涯をたどる一代記である。家名を守り、夫(真谷敬策)につかえ、子を育て、自分を捨ててきた女の生きかたを考えはじめるのは、夫に先立たれ、子どもが思うように素直に育たない現状を見つめるなかからだった。生きかたを変えることができないまま、古い人間として生涯をまっとうする。

 娘(文緒)は母の生き方に反発していた。母から琴を習っているが身が入らない。女だてらに自転車に乗り回している。まだ自転車がめずらしい時代だった。母親に諌められていたが、それなりに年齢を重ねると、理解を深めて母と分かちあえる日がきたことが救いだった。母と娘を軸にして女性の生きかたを考えるのが、メインストリームとなり、それを紀ノ川という和歌山を流れる具体的な地名によって、物語がつむぎ出されて、永遠性のある詩情豊かな大河小説となった。

 川が主役になるのは、エジプト文明を支えたナイル川からすでにはじまっている。民族の興亡だけでなく、一族の歴史や一家の命運までもが、川の流れに託される。人格形成をなした故郷の山河であるなら、ある作家には「仁淀川」にもなっただろうし、もっとプライベートな幼児体験なら「泥の河」でもあっただろう。

 ここでは紀ノ川を舟で下っていく、伝統的な嫁入りの儀式が記録されている。男は土地持ちの財産家で、地方の発展のために尽くし、村長から和歌山でも指折りの議員へと出世をしていく。控えめな妻の力が支えたと評価も高い。病弱な弟(真谷浩策)が同居していて、兄の嫁取りを羨ましく思っているようだ。ひねくれ根性が顔を出す。兄はそれを見抜いて、弟はお前に惚れているのだと、妻に言っている。

 兄弟の対比が興味を引く。一家の跡取りは兵役に取られることはなかった。財産も受け継ぐが、弟は分与を主張して、山のすべてとわずかな田畑を相続した。兄が嫁を娶り、親の家に同居しづらくなっていた。このとき弟の年齢は28歳、兄嫁は嫁いできたとき22歳だった。兄弟はともに東京にまで出て学問を身につけるが、対比でいえば兄は法学部、弟は文学部といったところだろうか。兄は積極的で精力的な活動家、弟は病弱で消極的な思索家である。兄が田村高廣、弟が丹波哲郎というキャスティングは、逆のような気もしなくはない。

 この弟とは生涯の付き合いになる。兄よりも人間的だったかもしれない。財産をもらって分家をし、町で娘を見つけて手伝いに使い、そのまま家庭をもった。兄夫婦は女中に手をつけたという世間体を気にしている。子どもが生まれるが幼くして亡くしてしまう。人の世の哀しみをよくわかっていて、主人公やその娘とも心のふれあいが続いていた。

 娘は進歩的で東京の学校に進学してからも、進歩思想にかぶれて、親への批判を繰り返している。言うことを聞かないと母親から引きずられて、蔵に放り込まれていた。父親は東京にやったのが失敗だったとため息をつく。親は条件のいい嫁ぎ先を見つけているが、つきあっている男との写真が出てきた。不良なのだと疑うが、財産家の息子であることがわかり、ほっとしている。銀行員で海外生活も多く、娘(華子)も生まれ、空襲の続く東京を去って疎開してきた実家では、祖母に可愛がられている。

 娘の育てかたを失敗した反省から、祖母はこの孫に果たせなかった夢を託している。似た名前がつけられて、親近感が湧いていた。紀ノ川を見つめながら、感慨深げにふたりで散歩をしている。明治、大正、昭和と時代は移るが、川の流れは変わることなく安定している。毎年のように台風の通り道となる和歌山では、紀ノ川の氾濫が恐れられたが、亡き夫の政治的手腕によって、成し遂げられた治水工事を、妻は誇らしく思っていた。

 長男(政一郎)は生まれたとき跡取りができたと父親は喜んだ。帝国大学に進学をして、エリートコースを進むが、軟弱で京都での生活を捨てて、失職して和歌山に戻り、実家でぶらぶらとしている。戦後の農地改革で財産をなくして、主人公は蔵に眠っていた美術品や家財道具を競売にかけて、身軽になろうとしている。家名を守る今までのような時代ではなくなったことを自覚した、思い切った決断だった。娘は口を出すことなく、母親の思うようにさせている。

 肩の荷を下ろしたように、母親は突然倒れ、そのまま寝込んでしまう、脳溢血だった。娘と孫娘が枕もとにいて、過去からの回想を共有している。母親が亡くなると娘は号泣した。精力的だった父親が急逝したときも、同じような泣き方だったと、叔父は振り返っていた。悲しみは慰める叔父に向かって、その悟りきったような消極的な生きかたを批判してもいた。

 兄が呆然として表情もなかったのと対比的で、反発をしながらも、娘には両親との深い絆を感じさせるものがあった。女性のたくましさに比べると、男の影は薄く、存在感は乏しい。娘の夫も写真でしか登場しないし、聖人君子であるはずの手腕家の父も、町に愛人を囲っていた。家名は女によって支えられてきたというメッセージが聞こえてくる。主人公の娘時代から老いた病床の姿までを演じ分けた、司葉子の好演が輝いていた。

第504回 2024年7月3 

動く標的1966

 ジャック・スマイト監督作品、ロス・マクドナルド原作、原作名はThe Moving Target、アメリカ映画、映画名はHarper、ポール・ニューマン主演。犯人探しを楽しむ推理サスペンスである。主人公(ハーパー)はハープを弾く人という優雅な名をもつものの、ヒーローとは言いがたい人格に興味をひかれる。

 妻(スーザン)には嫌われて離婚を告げられているようだ。私立探偵で事務所を開いているが、ひとりそこで寝泊まりをしている。冒頭ではその冴えない目覚めの光景が映し出されている。コーヒーを入れようと紙フィルターをセットしたが、粉が切れていた。ゴミ箱から前の日の出し殻を戻してもう一度使っている。色はしっかりついているが、飲んでみて顔をしかめている。背後の写真立てに見えるのは妻だろうか。

 友人の弁護士(アルバート)から頼まれての仕事で、スポーツカー飛ばして、いなかの大富豪(サンプソン)の邸宅に出向く。妻からの依頼で、調査内容は主人が行方不明になったので、探してほしいとのことだった。昨日のことだと言っていて、あまりにも早急な依頼であり不審をいだく。妻はエステの最中で寝そべっていたが、事故で足は不自由なようだった。事故後、夫に女ができたのではないかと疑っている。新興宗教にもかぶれて多額の献金もしているらしい。

 娘(ミランダ)がいて庭のプールで泳いでいる。探偵はその容姿に目を引かれている。そばにはパイロットで雇われている青年(アラン)がいて、寄り添いあっている。母親とは血のつながりはなく、いがみ合っている。口げんかがはじまると、探偵には興味はなくその場を離れた。青年は実の息子に先立たれてのち、その代わりにかわいがられていた。自家用機をもっているが、ほとんど用はない。昨日の主人の失踪はこの飛行機から降りて直後のことだった。

 友人は弁護士として、以前からこの家と関係していたようで、娘との結婚をほのめかされていた。主人公に話すと、年甲斐もなくと笑われて、相手にされていない。娘が探偵に誘いかけてきたことがあった。妻に逃げられた中年男をからかうなと言ったが、部屋を暗くしてその気になるふりをすると、怖気付いてしまっている。好奇心だけが先行した、まだほんの子どもだったのである。

 探偵はもと刑事で、警察関係に知り合いも多い。調査を進めていても刑事のような目だと、相手から言われている。妻に嫌われるのは仕事に入ると、約束はすっぽかしてしまうことで、積もり積もって爆発したようにみえる。仕事に空き時間ができると妻に電話をしている。ご機嫌取りなのだが、離婚をするという妻の意志は固い。口にティッシュを含ませて声を変え、懸賞に当選したと電話をするが、妻はすぐに気づいていて、軽くあしらわれている。

 取っ掛かりは部屋に置かれていた女優の写真からだった。かつて名を知られたが今は老いて相手にされていない。探偵は探り出してファンを装って近づいていく。酔っ払って家に送るが、大金が隠されているのを見つけ出した。夫が現れて、落ちぶれた妻に言い寄ってきたのを怪しんだ。これをきっかけにして、事件は動きはじめる。身代金の要求が妻にあり、探偵はこれはFBIの仕事だと言いながらも深入りをしていく。

 暴行を受けて自宅に逃げ帰ったことがあった。妻は驚いて受け入れ、休ませて寝かしつけた。もとの鞘に戻るかにみえたが、翌朝に朝食に目玉焼きをつくって用意していると、食べることなく仕事に出て行ってしまった。正義感に満ちた熱血漢のようだが、ただの利己主義なのだろう。失踪した男の究明にのめり込むと、身の危険を顧みない没頭ぶりを示す。

 ラストシーンがなかなかいい。男が死体で見つかり、その真犯人が友人であることを突き止めると、正義感は警察に向かう。銃を突きつけられながら、車を降りて歩いていく。背後で友人は狙いを定め引き金を引こうとして、ダメだと言うと、探偵も振り返って両手を広げ、ダメだというポーズを繰り返した。友情が正義を打ち負かしてしまったのである。

第505回 2024年7月4 

引き裂かれたカーテン1966

 アルフレッド・ヒッチコック監督作品、アメリカ映画、原題はTorn Curtain、ポール・ニューマン、ジュリー・アンドリュース主演。サスペンス映画の教科書のように、はらはらドキドキさせるカメラワークが、冴え渡っている。タイトルはベルリンに築かれた鉄のカーテンを意味し、それを引き裂いて行き来しようという意志の表明なのだろう。

 強靭な肉体をもつ敵を、主人公(マイケル・アームストロング)が農婦と二人がかりで殺害する場面と、追われながら逃げ切るまでの長い逃亡シーンが、特に手に汗握るものとして記憶に残っている。ホテルのロビーで赤ん坊をあやすヒッチコックの姿が挿入され、これからはじまる緊張感を、前もってほぐしていた。

 米ソの対立を背景にして、東ドイツを舞台にした話である。主人公はアメリカ人の科学者で共産圏への亡命をもくろんで、着々と実行に移している。国際学会に出席をして、その足での渡航となった。亡命に手助けをする、受け入れ側の学者も参加していて、力を貸している。主人公には婚約者(サラ・シャーマン)がいて、彼女もまた学者だったが、助手として同行していた。

 書店から頼んであった書籍が届いたという知らせがあった。助手である彼女が気をきかせて、代わりに取りに行くと、しまったという顔をしている。見ているものは何かあるなと思う。主人公に親しげな現地の学者がいて、見張っているようである。あるいは単に彼女に興味をもっているだけなのかもしれないが、親切に書店まで案内した。店主は本人ではないことに不信感を抱きながらも、くれぐれもよろしくと、不安げに言って手渡した。主人公は手にすると急いでトイレに飛び込んで開いてみた。書籍にはパイというギリシャ文字を暗号とする指示が書かれていた。

 婚約者に亡命は知らせてはいない。まっすぐには帰らずに北欧に向かうと言い出して、彼女には帰国するよう伝えている。聞いていた渡航先とはことなって、東ドイツへ向かう航空券であることがわかると、不審に思いはじめる。結婚の予定日も決まっているので、それまでに帰ると言うのだが、亡命先では当然定住するものと思っている。このちぐはぐが知られてしまうとまずい。

 真相はスパイ行為にあった。亡命に見せかけて、東ドイツの高名な科学者(リント教授)の頭にある、数式を盗み出そうとするものだった。ドイツ人の知恵を借りなければ、最後のつめがどうしてもわからない。国家の防衛には不可欠なものだった。亡命理由はアメリカの行き過ぎた軍事的開発に対する、科学者の良心という納得のいくものだった。真相を打ち明けないままだったので、婚約者は国家への裏切りという、軽蔑の目で見ている。

 東ベルリンの空港では報道陣が集まり歓迎された。同乗していたバレエのプリマが自分のことだと勘違いをしている。優秀な学者を得て、国を挙げての歓迎は、婚約者にとっては裏切り行為に見え、スピーチに冷ややかな視線を注いでいる。

 ひとりで行動するはずだったが、飛行機に乗ると、婚約者がついてきていた。国家と男を天秤にかけて、愛する男を選んだということになる。引き返すよう命じたが、聞かずに足手まといになる道を選んだのは、愛の証明のためだったのだろう。男も隠しおおせずに打ち明けたとき、女の目は輝いた。遠目で見ている敵に悟られないように、ハラハラとしている。急な心変わりの不自然さを見せないで、男の説得に応じたという、演技が必要だった。

 支援組織との打ち合わせの場所には、ひとりで出向いた。身辺警護をする屈強の男(ヘルマン・グロメク)がいて監視役でもあり、不自然な行動に疑問を抱きはじめた。バスでいなかの農家に向かうが、バイクで追いかけてくる。途中で美術館に入り、素通りをして裏口から、逃げるように出ていくと、ますます怪しまれる。タクシーを使ってたどり着いて、農婦が対応して打ち合わせを済ませると、帰ったはずのタクシーとバイクに乗った男が、窓から見えた。

 主人公は親戚の家だと説明したが、男は信用してはいない。玄関先で土の上に書いたパイのギリシャ文字の暗号から、見破られ、電話で通報されるのを食い止めて襲いかかるが、相手は自分はプロだと、余裕をもって対している。学者がかなう相手ではなかった。女が包丁を手にして近づき、振り下ろすと肩に突き刺さったが、歯が折れてしまった。主人公は羽交い締めをするが、突き刺さったまま応戦し、女はさらにスコップで膝を殴りつける。崩れ落ちてふたりで引きずりながら、ガスの栓を開いて、やっとの思いで中毒死させた。ひとりの人間を殺すのが、いかに大変かがよくわかる。

 主人公はおどおどとしているが、農婦はバイクとともに土に埋めると言って、主人公を立ち去らせた。タクシーの運転手が不審を抱いたのが予想されるが、その後、通報して死体とバイクが掘り出されることになる。警備担当員が理由なく姿を消し、遺体が発見されるのは、時間の問題だった。大学では主人公の審議会が開かれ、業績についての質問が続く。ねらいの権威者もその場にいたが、関係部署から連絡が入り、審議が中断される。化けの皮が剥がされようとしている。

 主人公は誘いをかけて、何とか権威者と二人だけの時間をつくり、研究室に入り込むことができた。黒板には興味をそそる数式が書かれていた。主人公がわざと気をひくような数式を書くと、いらだちはじめて、それを訂正しはじめた。最後には求めていた正解を書くと、主人公はすばらしいといって目を細めた。

 それを記憶にとどめようと、目を凝らしている。必死になって覚えこもうとする目が印象的だ。時間がなく逃げるように研究室を去った。脱出の予定時刻をオーバーしていたが、手引きをしてくれた仲間と婚約者が急がせるなか、忘れないようにメモ書きをしている。

 追手を避けての逃亡が続く。支援組織ができていて、ライプツィヒからベルリンまでの、にせの路線バスが準備され、乗客も全員仲間だった。途中で脱走兵からの追い剥ぎに出くわすが、軍が助けてくれて、警備バイクが先導までしてくれる。途中で大荷物をもった老婦人が乗り込み、手間取っている。見ている方も気が気ではない。

 正規のバスが追いつきはじめ、ニセものであることがわかると、乗客は散り散りに逃げ、主人公ふたりも徒歩でベルリンに向かう。ベルリンでは行く先がわからないでいると、出国できないポーランドの女性が、身元保証人になってくれと近づいてくる。もたもたしながらも助けられて、目的の郵便局にたどり着けた。

 ベルリンからはバレエ団の衣装箱に身を隠し、船による脱出の手はずだった。身を隠してバレエ鑑賞中に、追い詰められ絶体絶命となる。顔を覚えていた、上演中のプリマと目が合ってしまった。主人公は舞台に広がる炎を見つめて、ファイアーと大声を発し、パニックに乗じて逃れることができた。

 船は無事に入港し、衣装箱をクレーンで荷上げするときに、一波乱があった。バレエのプリマが怪しんで通報した。仲間であった作業員が衣装箱に声をかけているのを見られたからだった。兵士が吊り上げられた二つの衣装箱に銃弾を浴びせた。落ちてきて開くが、衣装しか入っていなかった。

 仲間が以前にも同じ失敗があったので、カモフラージュさせていて、ふたりは海に飛び込んで、味方の船に乗り移ることができた。無事の帰還に、かぎつけた記者がカメラを向けている。ここでも勘違いをしたプリマがポーズを付けて、船から降りてきた。記者がふたりを探りあてると、濡れた体を毛布でくるまって、寄り添う姿があった。

第506回 2024年7月5 

ネバダ・スミス1966

 ヘンリー・ハサウェイ監督作品、ハロルド・ロビンズ原作、原題はNevada Smith、スティーブ・マックイーン主演。両親を殺された若者(マックス・サンド)が、犯人をひとりずつ見つけて、復讐をはたしていく西部劇である。

 若者に道を尋ねる三人組があった。友人だと言って、父親の名前を聞いてきた。それは親父だと答えて、自宅の場所を教えた。彼らは急に馬を蹴散らして、疾走させて走り去った。若者は不吉な予感がしたが、帰ってみると両親が惨殺されていた。金鉱を掘り当てて、財産を築いたことを聞きつけてやってきたのだが、そんなものはなかった。隠していると言って拷問を加え、母親はインディアンの出身だったが、なぶりものにされて皮を剥がれて死んだ。

 息子は復讐を誓い、家に火を放って、ライフルを手に旅立った。荒野は果てしなく続いている。手がかりは三人組ということと、ひとりの男の名前(ジェシー)と、首筋の傷と、馬に打ち込まれたSSという烙印しかなかった。たまたま三人組に出くわし、襲いかかるが人ちがいだった。腹を空かせていたので、親切に食いものも与えてくれたが、翌日目覚めてみると、馬も銃もなくなってしまっていた。

 次に出会ったのは銃を売り歩く商人(ジョナス・コード)だった。主人公は丸腰だったが、捨てられていた銃を見つけていて、それを相手に向けて脅したが、年代物で使えないものであることは見抜かれていた。銃の名手でもあった。復讐をするには非力であることを見抜き、同行して銃の指導を受けることになる。悪人には気を許すと痛い目に遭うことも教えられた。一人前になって別れ、感謝を告げて先を急いだ。酒場を回ればいつかは出会うはずだという指示に従って旅は続く。

 別れぎわには餞別に金をもらっていた。町に出たときそれで本を買って、文字が読めるようになりたいと思った。これによってのちに新聞から犯人の手がかりを得たし、聖書を読むこともできるようになった。

 インディアンの酒場女(ニーサ)に出会い、探している男のことを言うと、違うかもしれないと言いながらも、心当たりを知らせてくれた。酒場にいるのを見つけ、首に傷はあったが、馬は買い取ったもので人ちがいだという。気を許したすきに逃げ、追いかけて格闘になる。ナイフの名手だったが、打ち負かし首を絞めて殺害する。みずからも傷を負い、町を去ってインディアンの集落にかくまわれ、酒場女も戻ることになる。主人公はインディアンの血が流れていると、生い立ちを話すと、殺された母親は姪にあたるという老人も登場した。

 二番目の男(ビル・ボードリー)は刑務所にいた。復讐のためには収監される必要があった。脱獄に失敗して拷問され、死にかけているところを助けてやる。そして仲良くなると、再度脱獄を持ちかける。地の利に詳しい女(ピラー)にも目をつけて、愛を交わすように見せかけながら、誘い込む。ボートの手配は女がして、三人で逃げるが、女は蛇に噛まれて途中で動けなくなる。主人公は銃殺により復讐をはたすと、女は男の本心を知り、男の非道をなじる。それでも愛は残っていたかもしれないが、男は女を置き去りにして去った。

 三番目の男(トム・フィッチ)には大勢の仲間がいた。強盗団を組織する親玉になっていた。売り込もうとして腕前を示すと、勇敢な若者は親分の目を引き、仲間に加わるよう誘われる。名前を問われると本名を告げず、とっさにネバダ・スミスと答えた。何者かと怪しまれながらも、悪党の片割れを演じていく。付き従うなかで本名が呼ばれたことがあった。

 一度はカマをかけてこの親分が、もう一度は一味のなかに若者を認めた銃商人だった。ともに知らぬ顔をして見過ごした。強奪は成功して、仲間たちが金の回収に群がっていると、主人公は冷ややかにそれを見下ろしていた。親分と目が合うと、気づいたように逃げ出した。追いかけて追い詰めて、銃で手や足を撃つが、命を奪うことなく去っていった。

 主人公が心を開き、教えを受けた男が二人いた。愛情を感じた女も二人いたが、ともに復讐という自身の目的のために利用した。男のほうはひとりは銃を売る商人で恩義を感じていた。もうひとりは教会の神父で、主人公が仲間から暴行を受け、馬で引きずられているのを助けてくれた。事情を聞き復讐の虚しさを説き聞かせた。

 神父も家族が惨殺された経験をもっていたが、復讐ではなく信仰の道を選んだ。聖書を読むよう渡すが、主人公が読んだと言って返したとき、目には目をという教えしか心には残ってはいなかった。三人目の男を殺さなかったとき、主人公は殺す値打ちもないと言ったが、それだけではなかったことを、信仰との出会いが物語っていたようだ。

第507回 2024年7月6 

ミクロの決死圏1966

 リチャード・フライシャー監督作品、アメリカ映画、原題はFantastic Voyage、スティーヴン・ボイド主演、アカデミー美術賞・視覚効果賞受賞。奇想天外な話だがリアリティはある。人体が広大な宇宙に対応するのだという神秘思想が、魅力的に目に映る。

 探索船をミクロ化して注射器で体内に入るという、ありえないような発想が、リアリティを帯びて見えてくるのは、今ではそこにカメラが入って、病変を見つけ出し、内視鏡手術として実現していることと対応するものだからだろう。月並みな原題に対して魅力的な邦題をつけた賢者に、まずは拍手。

 高名な科学者(ベネシュ)を乗せた車が、敵の襲撃にあった。脳に傷を負い、緊急の手術が必要となる。主人公(グラント)は医師ではなかったが、科学者に付き添って、航空機にも同行し警護をしていた。軍から呼び出され、通信係として参加をし、警備にも当たってほしいと、機密組織から命じられる。

 外科医(デュヴァル博士)と看護師(コーラ)を中心に、探索船の船長(オウェンス)やリーダーの医学者(マイケルズ博士)など5名のグループが、秘密裏に編成される。飛行船のようで、潜水艇のようでもあるつくりをもった探索船(プロテウス号)乗り込んで、丸ごと微小になってしまう。

 患者の血管を移動するのだが、首から入って脳にまで達しようという計画である。ミクロ化は1時間が限界で、それまでに戻らないとならない。映画はほぼリアルタイムで推移する。予定通りにはいかず、さまざまなトラブルに見舞われる。最後には探索船を捨てて、脱出する。

 耳や心臓にも巡回して、遠回りをしながら、最後は目から出てくる。それぞれで異なった神秘的風景に出くわすことになった。心臓では鼓動を止めなければ、衝撃が大きくて通過できない。1分間が限界で、時間との戦いが繰り広げられた。血管の風景は内臓組織よりも光を浴びて、驚異的な美しい世界だった。真っ赤に染まる景色ではなくて、青く静寂して海綿がゆっくりと浮遊する神秘にあふれるものだった。

 隊員のなかにスパイが入り込んでいることが疑われるのは、固定していたはずのレーザー銃が倒れて壊れたり、船外に出た隊員の命綱が切られたりと、不自然な事故が起こったことによる。船内での急な振動のためだったかもしれない。患者を前にした手術室で、誤ってハサミを落とされたときの、かすかな音でも患者の耳のなかにいた探索隊には、大音響となって響いて、立ってもいられなかった。

 レーザー銃を修復するのに通信機の部品を使えることがわかるが、それによって司令本部との連絡ができなくなる。レーザー銃は脳にできた患部を焼き払うのに使うものだったが、患者を優先するか、乗組員の安全を優先するかの選択を迫られる。限られた時間をぎりぎりまで使い、脳に向かって3人が治療に走った。このとき患者を見捨てて、操縦士を打ちのめして、ひとり逃れようとする裏切りが起こった。反撃すると探索船は事故を起こし、この男は操縦席ではさまれて、脱出することができなくなった。

 スパイであったのかも判明しないままだったが、壊れた船を残して、脳から一番近い脱出口として、目を選び、4人は自力で泳いでいくことになった。からだの組織は異物を認めると、それに向かって襲いかかり、探索船も人間も溶かしてしまう。アメーバかタコのような有機体が、自己防衛する姿をみることにもなった。船外に出た女性隊員が傷ついた時も、同じようにヒルのような無数の組織が襲ってきて、身体中に張りついていた。他の隊員が必死になってからだから引き剥がしていた。

 時間は限界を過ぎていた。通信は途絶えたが、探索船の位置は把握できていた。止まったままだったので、トラブルを起こし、脱出して目に向かっているにちがいないと判断した司令官は、患者の目を拡大鏡で見ると、涙のたまったなかにうごめく姿があった。シャーレにすくいあげて、出発したときの操作室に運び中央に置いて、機械を作動させると、またたくまに彼らは拡大され、無事帰還することができた。

第508回 2024年7月7 

砲艦サンパブロ1966

 ロバート・ワイズ監督作品、アメリカ映画、原題はThe Sand Pebbles、スティーブ・マックイーン主演。1920年代の中国を舞台に、アメリカの砲艦の乗組員を中心にドラマが展開する。列強の植民地支配に加えて、国民党と共産党との内戦が、三つ巴になって泥沼化した状況が続いている。

 主人公(ジェイク・ホールマン)は砲艦での勤務を命じられた海軍の機関士だった。戦艦のように颯爽とした勇姿は感じられず、年代物のオンボロ船だった。砲艦とはいえ煙突をもった蒸気船で、地下の機関士の仕事は、ながらく現地の中国人に任されていた。

 主人公が赴任したことから、これまで仕切ってきた中国人リーダーと対立することになる。行き違いからリーダーが事故で命を落とすと、主人公は殺害の疑いもかけられる。これまでも機関室で下働きをしてきた、現地の若者(ポー・ハン)に目をかける。これまでのように機械的に指示に従うのではなくて、蒸気機関の原理を一から教えて、操作技術を習得させようとしている。アメリカ兵の仲間からは、中国人びいきなのを白い目で見られて、嫌がらせも受ける。

 若者はいびられてボクシングの試合をふっかけられた。相手は大男だったが、主人公は励まして、若者に勇気をもたせて、最後は勝利を得ることができた。試合には金がかけられていて、負ければ主人公は大損になり、若者は職を失うことになっていた。若者と主人公の交友は続くが、アメリカ船で従事していることから、中国人に追われ艦船の見えるところで拷問を受ける。

 胸をはだけられて吊るされナイフで繰り返し傷を入れられている。本人は耐えかねて殺してくれと口走っている。砲艦で勤務する中国人に向けての見せしめだった。主人公はライフルで狙いを定めて、一思いに射殺してしまう。このとき艦長(コリンズ)は弾が外れて他の中国人に当たることを恐れていた。現地人を刺激して反感を起こさないことが、求められていた。

 アメリカ船はながらく常駐しており、水兵たちは息抜きに陸にあがり、酒場に集まっている。酒場女をめぐってアメリカ兵同士でいがみ合いになる。目立った美女が出てくると、たがいに高値をつけて張り合っていく。主人公と気の合う友人(フレンチー)も、ひとりの娘(メイリー)を熱心な目でみつめていた。真剣な思いは、結婚へと結晶する。主人公は前途の不安を語るが、友の決意は堅かった。女も熱意に打たれ、酒場から逃れて隠れ住むことになる。

 中国人による排斥運動が高まると、アメリカ兵は自由に出歩けなくなり、艦長は外出を禁止して、船内にとどまるよう命じている。友人は目を盗んで妻のもとに通うが、戻ってこなくなってしまう。主人公が心配して、外出での命令があったときに訪ねると、部屋で死んでいた。妻はかたわらにいたが、なすすべを知らなかった。中国人グループがやってきて、娘を連れていった。主人公は守ろうとするが、打ちのめされた。

 砲艦を取り巻いて小舟が群がり、アメリカに戻れというプラカードを掲げていたが、それに加えて殺人者の引き渡しが要求されることになった。主人公の名をあげて中国娘を殺害したのだという。でっちあげだったが、娘が殺されたのだということを知ることになる。艦内では主人公が自首するよう促す声が起こる。これまでも疫病神であることが多く、仲間は見限ったが、館長は引き渡しを拒んだ。

 主人公があきらめをつけて、船を去ろうとしたとき、ニュースが入った。艦長も部下を統率できない責任を取ろうと、拳銃を前にしていた。中国人がアメリカ人を殺害し、それを引き金として両国が戦争に突入したという知らせだった。これまで摩擦を起こさないよう気を配ってきたが、爆発するように、砲艦は動きはじめる。力づくて中国船を排除して、長江をさかのぼり、アメリカ人宣教師が住まう地に向かった。

 そこには主人公と愛を交わした女性(シャーリー)もいて、宣教師に従って中国の若者たちの教育に携わっていた。砲艦にやってきたとき二人は出会っていた。ふたりでのひとときを過ごし、身の上話も交わしあった。友の結婚に立ち会ったときには、感極まって抱きあってもいる。女が男を布教地へと誘うが、男は役務を外れれば脱走兵となり、銃殺されると言って別れていった。たがいに籠の鳥と同じで、生き方を変えることはできなかったのである。ふたりが町で籠の鳥を買ったが、とたんに逃がしてやるシーンが印象に残る。

 再開できるとは思っていなかっただろう。アメリカ人の身の安全を確保するのは、砲艦の使命だった。途中では武装した中国船が行く手を阻み、死闘を繰り返す。主人公が殺害したなかには、宣教師に学ぶ学生も含まれていた。布教地にたどり着くが、宣教師は保護されるのを拒んだ。自分たちはもはやアメリカ人ではなく、無国籍であることを証明する文書を手に入れていた。

 中国人が自分たちに銃を向けることはないと確信していたが、敵が迫ってきた時に無防備に広場に向かうと、とたんに射殺されてしまった。女教師の身も危うくなり、裏口から逃れようとするが、艦長は自分が引き止めるので、先へとうながした。主人公は見殺しにすることができず、艦長が倒れると、今度は自分が食い止める役を引き受け、娘を二人の兵士に託し、自分もまた犠牲になっていった。

 主人公は死ぬ間際に自分はなぜこんなところで命を落とすのかという疑問を発している。何気ないつぶやきに聞こえるが、そもそもがなぜアメリカの砲艦が中国に停留しているのかという疑問が、まずは発せられねばならないだろう。まるで当然であるかのように、何の説明もなく、そこから映画ははじまるのである。中国人の経営する酒場に出入りして、金を落とすと、悪ははびこり富は蓄積されていく。

 教化を掲げたアメリカのおせっかいと支配への告発を、そこに読み取ることになる。サンパブロ(San Pablo)は聖パウロのことだが、映画タイトルはそれをもじって「砂のような小石」(The Sand Pebbles)と駄洒落にしている。異国にキリスト教を広めたことで知られる偉大なる聖人も、ここでは砲艦と宣教師となって受け継がれるが、小石のようなむなしい存在なのではないかという問いかけが聞こえてくる。主人公と女教師はさらに小さな砂ということになるだろう。

第509回 2024年7月8 

エル・ドラド1966

 ハワード・ホークス監督作品、アメリカ映画、原題はEl Dorado、ジョン・ウェイン、ロバート・ミッチャム主演。男同士の友情を描いた西部劇である。主人公(コール)は放浪癖があってひと所にとどまらないでいる。親友(ハラー)はエル・ドラドの町にとどまって保安官になっている。ともに名の知れた拳銃の名手だった。割りのいい仕事に誘われて、主人公が町に戻ってくると、保安官に出世した友人やなじみの酒場女(モーディ)を訪ねていた。そこで雇い主(ジェイソン)の良からぬうわさを耳にしたので、前金はもらっていたが、ことわりにでかける。

 雇い主は隣家の牧場を手に入れようと、手荒な企てをしていた。牧場主(マクドナルド)はガンマンを雇ったことも知っていて、警戒をする。家族には男の子どもも多く、総出で十分に対抗することができた。勝ち気な娘(ジョーイ)も一人いた。主人公が契約を白紙に戻して帰る途中で、見張りに出ていた息子のひとり(ルーク)が、主人公に発砲する。反射的に銃弾の着た方向に撃ち返すと腹に命中した。父からは不審な者が通過すれば空に向けて発砲するよう言われていたが、居眠りをしていて気づくのに遅れ、突然主人公に銃を向けたのだった。

 息子は命を落とし、主人公は遺体を馬に乗せて、父親の元に運んだ。説明すると父親は納得したが、そばにいた娘は信じなかった。銃声は2発、その後1発が聞こえていた。偽りでないのは、亡骸を運んできたことからわかると、父親は判断した。娘は納得がいかず、主人公の帰りを待ち伏せて発砲する。馬から落ちてうずくまっているのに近づくと、女は足を払われた。死んでいるかを確かめないで、油断しないように諭しているが、腰に命中していた。

 町に戻り医者(ミラー)にかかるが、危ない状態で、大きな町で見てもらう必要があると言っている。傷はふさがったが、銃弾は体内にとどまったままだった。友人もベッドを提供しようとしたが、酒場女の愛がそれを上回っていた。ふたりはこの女をめぐってライバル関係でもあった。状態が落ち着いた頃に、主人公は町を離れることになる。

 町を出て別の町にいたが、銃弾を摘出したようでもない。身体に支障を感じなくなった頃に、主人公はひとりの青年(ミシシッピ)と出会った。殺された友の復讐をして、敵を探し最後の相手を見つけ出していた。腕のいいガンマン(マクロード)の一味に加わっていて、四人組が酒場でテーブルを囲んでいたところに顔を出す。銃は持ってはいない。相手の銃を制して、背中に隠し込んだナイフの一撃で、みごとに仕留めるのを、主人公はかたわらで見ていた。仲間の一人が銃を向けたとき、いち早く主人公はこの青年を助けた。ボスがその腕前に目をつけて、仲間に加わらないかと誘っている。

 主人公は警戒をしながら、青年を誘導して酒場を去る。出口に向かうときにも注意をして、ボスに先に出るよう要求していた。仲間が戸口に狙いを定めて、身を潜めて待ち構えていたのだった。青年は主人公に恩義を感じて、その後、銃の手ほどきを受けて、主人公の手足となって働くことになる。ナイフの腕前に比べて、あまり上達しないと見たのか、衝撃性の強い散弾銃を手にすることになった。この一味が、やがてエル・ドラドのならず者に手を貸すことになっていく。

 エル・ドラドの町の、気になるうわさが聞こえてきた。保安官が酒に溺れてしまって、町の治安が脅かされているらしい。友人の安否が気にかかるが、悪い女にのめり込んで、女に裏切られて逃げられたのだという。その後酒に溺れてしまっていた。主人公は牧場を奪われようとしていた家族も気になり、青年をともなって戻ることになる。

 友人は酒を求めて居酒屋に行くが、そこにはならず者のグループがいて、保安官は見下されている。悔しさに涙を浮かべているが、からだが思うようにならない。もらってきた酒を瓶ごと床に投げつけた。立ち直りたいという意思表示だった。主人公は何とか復帰させようとする。弟子の青年には薬草の知識があり、奇妙な治療薬を調合して、手助けをしていた。主人公もまた傷跡に痛みがはじまると、手に麻痺が起こる。突然の発作なので、気が置けない。

 故障をかかえたふたりが協力をして、悪に立ち向かっていく。敵を追い詰めたときに発作が起こり、主人公は敵に囚われてしまう。保安官は敵の首領を拘束していたが、捕虜の交換により白紙に戻ってしまった。牧場主家族も息子のひとり(ソール)が捕らえられると、女たちが知らせにきた。

 家族で取り戻そうとするが、保安官はそれは自分たちの仕事だと制して、主人公とともに敵のアジトに乗り込んでいった。保安官を補佐する老人(ブル)と主人公に付き従う青年も、大きな働きをして、頼もしい味方になっていた。主人公の利き腕は麻痺していたが、左手の銃さばきも、倒された悪党の首領が認めたように、優れたものだった。主人公に傷を負わせた娘も加勢していて、撃たれようとしたときに助け、恩に報いていた。かつて過ちを犯したライフルだった。

 主人公を演じたジョン・ウェインの、堂々として、いつも笑みをたたえた、落ち着いた演技が、頼もしく目に映る。女にも酒にものめり込んでしまう親友と対比をなす。待ち続けた酒場女は愛想をつかしてしまったが、その後この町にとどまることになるのだろうか。冷静な男が一度だけ情熱的に抱きしめて、女から去っていくシーンがあった。親友はそばにいて、この女をずっと愛していたが、女の気持ちを察して身を引いたのだろう。これが悪女と酒に溺れる遠因だったにちがいない。不完全なふたりの男の友情物語だった。

第510回 2024年7月9 

氷点1966

 山本薩夫監督作品、三浦綾子原作、水木洋子脚本、若尾文子、安田道代、船越英二主演。人間の血の問題を考えることになる究極の物語である。キリスト教的には、汝の敵を愛せよという命題が、問いかけられている。殺人者の血筋があるのかという問いも、同時に発せられる。「知らぬがほとけ」という便利なことばもあるのに気づくが、いずれにしてもさまざまなことを考えさせられることになる。しかもミステリアスで、実によくできた物語なのに感心する。原作をハラハラしながら読んだ記憶が蘇ってきた。

 舞台は北海道の旭川、寒々とした雪景色が広がっている。病院を経営する裕福な医師(辻口啓造)の家庭で、子どもは兄(徹)と妹(ルリ子)がいた。夫の留守中に、妻(夏枝)が病院に勤務する若い医師(村井)を、自宅に招き火遊びをしている。3歳の娘だったが、外に出させて遊びに行かせていた。それが行方不明になって死体になって発見された。異常者に殺害されたのだった。夫が予定よりも早く帰ってきたとき、テーブルにタバコの吸い殻があり、人のいた形跡があった。

 妻は自分を責め苦しんだ。見兼ねた夫は、知人の医師(高木)の紹介で孤児(陽子)を引き取り、育てることを思いつく。妻の病んだ精神は回復して、亡くした娘の生まれ変わりのように可愛がった。この孤児には秘密があった。それは裏切った妻への報復だったが、知人と自分だけが知っていた。娘は殺人犯の遺児だった。何も知らないまま、純真な子としてすくすくと育った。妻がいつか真実を知って、打ちのめされる姿を思い浮かべることで、陰険な喜びを味わい、報復をはたそうと考えた。

 夫は娘をどうしても好きになれなかった。妻はふとしたことからこの秘密を知ってしまう。夫の画策を見越して、知らないふりをしようとするが、自然と娘につらくあたってしまう。それでも娘は素直な子で、殺人者の子とは思えない。やがて実の子ではないことを、気づいてゆくが、口に出して言うことはない。もちろんもらわれっ子である以上のことは知らなかった。兄も血のつながりがないせいなのか、妹以上の感情を抱きはじめる。

 継子いじめをされる娘を見兼ねた叔母(藤尾辰子)が、養女にもらえないかと提案する。すべての事情は知っての上だった。素直な娘に接し、これまでの恨みを和らげていた父は賛成し、母も同意するだろうと言った。叔母は独り身で相続人がいなかった。好きな勉強をして留学もさせようと先走ったが、母親は反対した。殺人犯の子が膨大な遺産を受け継ぐことに耐えられなかったのである。娘は勘違いをして、母が自分を愛していて、反対をしてくれたことを喜んだ。自分はどこにも行きたくはない。この家にずっといたいのだと意思表示をしている。

 夫婦のいさかいは、娘の出自をめぐって激しく言い争うことになる。愛娘の死は妻のせいだと夫は詰め寄り、妻は若い医師との関係を誤解していると弁明する。兄は立ち聞きしていて、事実を知ってしまうと、自分が妹を幸せにするのだと宣言し、大学を卒業すれば結婚をすると言い出した。

 兄は妹に血のつながりがないことを伝え、結婚をほのめかしたが、妹はそんなことは言わないで、兄であったほしいと答えた。兄はあきらめるように、信頼のおける学友(北原)を誘って、自宅に連れてきて、妹に引き合わせる。妹は心をときめかせたが、母親もまたこの学生に興味をもって近づいた。娘との仲を裂こうとして画策する。

 あきらめをつけた頃、雪まつりで偶然二人は顔をあわせる。女性と一緒だったので、娘は姿を隠すが、男は近づいて妹だと紹介すると、娘の顔は輝いた。娘は母親から聞いていたこととは違っていることを知った。男は誘われるまま、娘の家に乗り込んだ。母親とのバツの悪い沈黙が続くが、二人の仲を裂くように語ったのは、娘が殺人鬼の子だという事実だった。娘は打ちのめされるが、男はそんな証拠はないと言い張る。当時の新聞も持ち出したが、そんなものは証拠にならないと否定した。

 娘は耐えられなかった。何通かの遺書を残して、3歳の姉が殺害された河原に向かった。雪の中に座り込んで睡眠薬自殺をはかった。心は氷点に達してしまっていた。100錠近く飲んだのではないかと、父親は治療にあたっている。母親も、兄も、兄の友人も見守るなか、娘の世話をした父の友人も姿を見せて、詫びたのは、すべては自分の罪だったという告白だった。

 偽善者のように見える、汝の敵を愛せよという、友の自負心を試したかったのだろう。娘を殺害した犯人の娘を、子として育てられるかという悪魔のささやきがあった。夫婦は苦悩し続けたが、じつは娘は殺人者の子ではなかった。若くして死んだ優秀な医学生が、夫の出征中に人妻との間て過ちをおかし、秘密裏に生まれた子だった。夫が復員して、生まれた子を知人は預かり、孤児として里親を探したというのが真相だという。

 このことを聞きつけると、母親は泣き崩れた。学生はやはりと胸を撫で下ろした。勘違いが娘を死に追いやったのだった。知人はさらに言った。たとえ殺人者の子でなかったとしても、自分が望まれて生まれたのではなく、不貞の末の子であったことに、この娘は苦悩し続けただろうと。殺人者の子ではなく、父が優秀であったことで、ホッとするなら、私たちもまた同罪で、優生保護という名の亡霊に支配されているということである。

 妹が兄との結婚を受け入れられなかったのは、社会的な制度の問題だったが、父親が兄を殴りつけてまでも恐れたのは、それ以上に家系に殺人者の血が混ざることだっただろう。娘は息を吹き返したが、その後どうなるのかが気にかかる。罪を悔いたかにみえる母親の回心は、本心なのかあるいは見せかけなのか。父親はまだ仮面をつけたまま、とどまるのではないか。汝の敵を愛せよと言いながら、妻の不倫は許せなかったのである。連載小説としての成功は、スリリングな展開にあった。聖なるテーマに見せかけて、極めて卑属な人間の愛憎の、生々しい問題に終始し続けていた。

第511回 2024年7月10

大菩薩峠1966

 岡本喜八監督作品、中里介山原作、橋本忍脚本、仲代達矢主演、英語名はThe Sword of Doom。狂気に満ちたニヒルな剣の達人(机竜之助)の生涯。人の心をもたない非情な姿に恐怖しながら、映画としても破綻してゆく不条理に、突き放されることになる。完結することなく、延々と続く人斬りのラストシーンは常識を逸脱し、常軌を逸したものだった。

 大菩薩峠を越えて巡礼をする老人と孫娘(お松)がいた。峠で立ち止まり、あとは下りになると、一休みをしていた。喉を枯らして竹筒に水を汲みにいっているあいだに、老人は無慈悲にも殺された。道標に向かって手を合わせて、生きていても迷惑をかけるだけで死にたいと祈ったときだった。

 殺されたのはそれを聞きつけたからという理由しか考えられなかった。この編笠姿の男は、次に通り過ぎる旅人姿の商人(七兵衛)にも切り掛かったが、身軽にすり抜けられてしまった。江戸に向かう道だった。旅人が峠で泣いている娘に出会い、憐れんで連れ帰り、その後、父親代わりになって育てることになる。

 男は戻ると若先生と呼ばれている。父親は道場主だったようだが、今は病いに臥せって寝込んでいた。あす藩主を前にした剣試合を控えていた。腕自慢が集まっていた。対戦相手は道場を営む流派の後継ぎ(宇津木文之丞)だったが、腕前には大きな開きがあった。父親は負けてやれと言っている。そうしなければ家は断絶し、流派(甲源一刀流)も滅びるというのだった。男もかつてはこの流派に学んだが、その後独自の剣法を編み出して、音無の構えと称されて、人から恐れられていた。邪剣だった。

 夕刻になって見知らぬ女(お浜)が訪ねてくる。聞けばあすの相手の妹だという。妹などいなかったのを知っていて、妻だと見抜いたが、話を聞いてやった。やはり試合に負けてくれというのだった。色香を感じて迫られて、男は負けてやると言った。女は男に身を預けることになる。

 当日、夫は昨日の妻の不在を問いただし、男のもとにいたことを知ると、妻の本心を聞くこともなく、即刻離縁を申し付けた。試合ははじまり、約束は守られなかった。目に見えないほどの素早い木刀さばきで、相手の眉間は割られて、死んでしまった。帰宅途中に女が待ち構えていて、約束を違えた恨み言かと思ったが、離縁をされてどこにもいけなくなったので、連れて行ってくれという頼みだった。男にすがろうとする表情が読み取れる。

 負けた道場の門弟たちが退去して襲うが、歯が立つ相手ではなかった。弟(宇津木兵馬)がいて、兄の敵討ちを誓うが、剣はまだ未熟だった。病床にあった男の父親に呼ばれて、聞くと息子を倒してほしいと願っていた。生かせていると世のためにはならないという、父にまで見限られた悲しい末路だった。弟は剣の道を磨き、名の知れた道場を紹介され、入門することになる。

 入門した道場で腕を磨き、弟が師範代になった頃、素浪人が道場破りにやってきた。名を変えていたが、宿敵となる相手だった。知らぬ間の初手合わせだったが、簡単に小手を取られていた。道場主に詰め寄るが、型破りの剣法との手あわせは避けた。この奇妙な殺法を打ち破るには、突きしかないと、剣の達人は弟に教えることになる。

 主人公はわびしい長屋暮らしをしていて、妻と赤ん坊がいた。離縁された女をめとり世帯を構えていたが、妻は恨みごとを言っている。剣の腕を活かした富裕な生活は可能だったはずだ。決まった稼ぎはなく、悪い仲間(芹沢鴨)がやってきて、人斬りを仕事としていた。この男はその後、京都に出て新撰組を立ち上げることになるが、江戸で不満分子を集めていた。

 仲間には近藤勇や土方歳三の名前もあった。京都に向かうことになると、同行を決意する。妻は子どもも置いて行くのかと迫り、夫の刀で子どもを道連れに死のうとすると突き放して、勝手にしろと言って出ていった。

 かつての義理の弟が腕を磨いて敵討ちを狙っているのも知ると、負けてやってくれと夫に頼む。返り討ちにしてやると言うと、女の目には殺意が生まれた。寝静まった頃に短剣で夫を殺害しようとして果たせず、おもてに逃げ出すと追いかけてきて、妻は一思いに刺し殺されてしまった。

 兄の仇を探すなかで、弟はひとりの娘と出会った。花の師匠のもとにいて、下働きをしていたが、女あるじは娘が武家の屋敷にあがることを狙っていた。雨降りの玄関先で若者と出会い、恋心が芽生える。娘は大菩薩峠で祖父を殺され、若者もまた剣試合で兄が殺されていた。恨みを共有した運命が、ふたりを出会わせたようにみえる。

 父親代わりの商人がふたりの仲を取り持つことになる。娘の身の振り方は、この男が世話を焼いてきた。武家の屋敷に上がったときも、主人の狂気を前に娘を守ってやった。商人を装ってはいるが、忍びの技も心得た盗賊だった。

 娘はその後、京のお茶屋にいた。新撰組が出入りをする店だった。そこで若侍と再会する。仇を追って京にまで来ていた。新しい名前(吉田竜太郎)に変えて、新撰組と行動をともにしており、娘は内部を探ることを約束した。新撰組を立ち上げた首領が主人公を呼んで、暗躍を取り交わしている。意見の合わなくなった近藤勇を暗殺してほしいと言うのだった。その話を立ち聞きしていた娘は、首領に見つかり、殺すしかないと言うが、自分に任せろと首領を情婦のもとに返した。

 店の前では若者が仇討ちをしようと待ち構えていた。助太刀の商人は飛び道具も用意していた。娘と二人になったとき、主人公は生い立ちを尋ね、大菩薩峠での不幸を耳にするとはっとした。娘は、男の背後に誰かいると言っておびえはじめる。男の目にもやがて妄想が浮かびはじめた。それはこれまで手をかけてきた死者の亡霊だった。刀を抜いて空を切り続けると、やがて生者の姿に変わり、取り囲んでいる新撰組の無数の隊員を切りはじめていた。

 近藤勇は首領のたくらみを見抜いて先手を打って、情婦のもとにいる首領を殺害し、それに手を貸した主人公にも、追手を向けたのだった。いつ果てるともない死闘が続く。一体何人殺すのかと言うほどに、隊員たちは倒れていった。あきれるほどに長いと思ったときに、「終」の文字が入った。主人公はほとんど死にかけていたが、仇討ちは待ちぼうけになるのかさえわからない。殺人鬼の狂気を前に、撮影を放棄してしまったような、破綻した結末だった。

第512回 2024年7月11

白昼の通り魔1966

 大島渚監督作品、武田泰淳原作、田村孟脚本、佐藤慶、川口小枝主演、英語名はViolence at Noon。挑発的な過激な映画である。男が2人、女が2人の計4人が、それぞれに奇妙な恋愛感情をいだきながら、相姦関係をなし、悲劇的結末に至るまでの話である。男の一人(英助)は白昼の通り魔として警察から追われている。女の一人(マツ子)はその妻で、年長の女教師だった。三人はこの教師のもとにいて、三角関係をなしている。もう一人の男(源治)は政界に乗り出し、議員として地位を確立するが、自殺願望の末、首吊り自殺を遂げている。

 はじまりは女中として住み込んでいる女(シノ)のもとに、浮浪者が入り込むが、見ると昔なじみの男だった。世間を騒がせている白昼の通り魔になっていた。首を絞められて、過去を思い出し、情欲が高まったが、家の夫人と顔を合わせたとたん、こちらを殺害してしまった。自分が生き残ってしまったことを悔いて、主人にわびている。警察の捜査が入ると、女中は男をかばってシラを切った。二人はかつて愛を交わしたこともある仲だった。

 議員となる男が、はじめこの女を愛していて、自殺に誘われて女は魅せられたようにそれに従い、並んで木にロープをかけて心中をはかる。それを盗み見していた男が、女のほうのロープを切って命を救う。目覚めると生きていたことを喜び、男に感謝する。同時に気を失っているあいだに、肉体が凌辱されていたことも知る。このとき怒れる女に対して男は、愛していることを告白している。これが通り魔の引き金となった。

 女教師はこの男の教え子であった、はばかることなく、この男を公然と愛していた。男はひとり社会からはぐれた一匹狼だった。愛を告げる教師には冷静に対していて、自分から愛を告げることはなかった。この男をめぐって、二人の女の葛藤の問答が続く。新大阪から名古屋に向かう新幹線に、女教師は乗り込んでいて、修学旅行の引率をしていた。教え子の女中もまた乗車しており、通り魔となった男の真相を探ろうとしている。なぜ彼は通り魔となってしまったのか。

 女中には執拗に刑事(原口)がひとり、食い下がって犯人逮捕に情熱を燃やしていた。通り魔は全国各地に犯行場所を移動させたが、二人の女新幹線に乗車中にも名古屋で事件を起こしていた。妻は名古屋で下車しようともした。夫とふたりで撮った写真を携帯していて、手がかりとなるよう刑事に提供している。修学旅行を終えて、子どもたちに別れを告げたが、この世との最後の決別のような響きをもっていた。

 引き戻すことがないように、一目散にその場を立ち去っていた。通り魔の逮捕のニュースが入ると、教師は教え子を誘って、二人の女は心中をはかることになる。かつてと同じように、並んで横たわったが、女教師だけが死んでしまい、女中はひとり、またしても生き延びてしまった。

 不可解に思うことは多い。これらを解きほぐすことが、この作品の理解なのだと思う。四人を役名でも俳優名でもなく、社会的立場で区別するなら、わかりやすいかもしれない。ひとことでいえば、通り魔、女中、教師、議員である。なぜ教師は通り魔を愛して、結婚をしたのか。なぜ女中は、議員や教師と死をともにしようと思ったのか。中学時代に共有した同じ土壌が、時を経ていかに離れてしまったことか。一方は生者、他方は死者、あるいは勝者と敗者でもある。とはいえ、確実な愛憎の実感は、手ごたえとしてあった。死者も生きたようにして登場していた。

 社会的必然とみれば、通り魔はその手ごたえを生きるあかしとして、現代という不毛の時代に殺人鬼となって求め続けていたということになる。教師の手を離れ、議員を見殺しにし、女中の支えをよりどころにしながら、犯罪を続けることで、逃げ続けることもできた。逮捕とともに教師の役割は終えた。悲劇的末路を切り抜けて、女中がひとり生き残り、はてしない独白が続いていく。

第513回 2024年7月12

グラン・プリ1966

 ジョン・フランケンハイマー監督作品、アメリカ映画、原題はGrand Prix、ジェームズ・ガーナー、イヴ・モンタン主演、モーリス・ジャール音楽、アカデミー賞編集賞・録音賞・音響編集賞受賞。カーレーサーの華やかではあるが、死と隣り合わせた生きざまを描いた大作である。恋愛模様もはさまれるが、スピードを競うレースの実写が生々しく引き込まれる。

 はじまりはモナコのモンテカルロでのレースからだった。狭い町中の一般道を猛スピードと騒音を発して、レーシングカーがまわり続けている。サーキット場ではない生活空間での光景が、迫力に満ちた見ごたえのあるものだった。グランプリを獲得したのはフランス人レーサー(ジャン=ピエール・サルティ)で、近年のF1レースの主要な大会を制覇した実力派だった。レースのあとは決まって豪華なパーティとなるが、そこで取材に来ていたアメリカ人の女性記者(ルイーズ)と知り合い、深い関係になっていく。気位の高い妻(モニーク)は、いつも同行することはなかった。

 このレースで優勝候補でもあった二台が事故を起こし、一台は海に飛び込んで無事だったが、もう一台のレーサー(スコット・ストッダード)は、再帰不可能なまでの重傷を負った。妻(パット)は駆けつけて心配をするが、この職業からくる精神的なプレッシャーに耐えかねて、これまでも夫に転職を促してきたが受け入れなかった。ベッドに横たわり、意識もないままいる夫の耳もとで別れを告げる。妻が去ったあと、夫は目を開いていたので、聞こえていたのだとわかるが、体はまだ思うようには動かない。

 海に落ちたほうのレーサー(ピート・アロン)は、からだはすぐに回復したが、レーサーには戻れず、レースを伝えるレポーターの仕事をしはじめた。重傷を負ったレーサーの妻が声をかけてきた。ホテルで出くわし、ライバル関係にあったことから、夫の容態についても気にかかっていた。女は別れてきた勢いを借りて、ふたりは関係を結んでしまう。会話を交わしたあと、廊下をはさんでたがいの部屋に別れて、入ろうとしたとき、目があって女が男の部屋に向かって歩いてきた。

 慣れないレポーターをしているレーサーに、目をつけたのが日本人グループで、オーナー(ヤムラ)がやってきて日本車に乗ってレースに出場しないかともちかける。男は自分が加わることで、日本人スタッフが職を失うのを懸念した。オーナーは新たに3台目のマシーンをつくると言うと、ふたつ返事で承諾する。このときオーナーはレポーターはあまりうまくないと、ジョークを言って笑ってみせた。和服を着た日本女性がいて、日本式のエキゾチックなもてなしをしている。世界に誇る日本車と世界のミフネの勇姿が見える。

 その後ベルギーからオランダ、イタリアとヨーロッパ各地でのレースが続いていく。イタリアの若いレーサー(ニーノ・バルリーニ)も頭角をあらわしてきていた。彼もはじめアメリカ娘と仲良くなっていたが、グランプリを制して知名度があがると、女性の出入りが増えた。娘は相手にされず、ギリシャ遺跡を研究する若者と知り合い、レーサーに別れを切り出す。研究者を軽蔑した発言のあと、好きなようにという返事だった。娘はレーサーのもとを去っていく。

 はじめのモナコでの優勝者はフェラーリの専属だったが、その後グランプリを取れなくなっていく。アメリカ人女性との恋愛が、レースに悪影響を及ぼしているのかもしれない。盛りを過ぎてレーサーという職業に疑問も感じはじめていた。

 重傷を負ったレーサーは時間をかけて復帰をはたし、上位入賞が可能になっていた。妻が去ってからは、実家に戻り母親のもとで調整していた。今は亡き兄もまた優れたレーサーだったが、部屋には数多くのトロフィーが並び、刺激となって奮起させるものとなった。妻は浮気相手がレーサーに戻ると、夫のもとに戻ってくる。愛していた弱みからか、身勝手な妻のふるまいを、黙って夫は受け入れた。

 イタリア(モンツァ)で行われた最後のレースは、古参のレーサーが復帰をかけていた。珍しく妻が顔を見せていた。反対に愛人は気が気ではなく、部屋にとどまった。愛するものの正直な対応だとわかる。スタート直後に故障を起こし、ひとりで遅れてしまう。次第に追い上げるが焦りもあったのだろう、事故を起こし、空中を飛んで即死してしまった。フェラーリのオーナーはレース棄権の黒い旗を掲げている。

 救急車が駆けつけたとき、誰よりも大声で泣き叫んだのは愛人だったが、付き添って乗り込んだのは妻だった。優勝争いは、恋敵同士となったが、わずかの差で日本チームが、初のグランプリを獲得することになる。日本にとっては歴史的快挙であったが、著名レーサーの死という悲しみをともなう、後味のわるいものとなっていた。グランプリを取ったアメリカ人レーサーが、誰もいないコースをひとり感慨深げに歩いて、映画は終わった。

第514回 2024年7月13

天地創造1966

 ジョン・ヒューストン監督作品、アメリカ・イタリア合作映画、原題はThe Bible: In the Beginning...。旧約聖書の創世記の記述に沿いながら、アダムとイブから、ノアの方舟の話までが前半、その後、インターミッションをはさんでバベルの塔、ロトと娘たち、イサクの犠牲などがピックアップされて、後半でのエピソードとなった、3時間の大作だった。

 天地創造ではなかなか人間は登場しない。人類が独占する天地ではないのだということがよくわかる。ノアの方舟に乗り込む動物のつがいにしても、人間は8人に過ぎないが、あらゆる種類の動物が登場する。ゾウとキリンを先頭に、ラクダやシロクマなどエキゾチックな姿が続く。ライオンやトラもおとなしく入っていくのを見ながら、平和な共存する世界が描き出され、不思議な感覚におそわれる。

 もちろん調教された動物園やサーカスでの、飼い慣らされた姿なのだろうが、弱肉強食のむき出しの野生を乗り越えた、理想世界にさえ見えていた。巨大な方舟がセットとして造られていて、そこに乗り込んだ動物たちが同居する場面は圧巻である。洪水が去ったあと方舟の天窓が開かれると、無数の鳥たちは大空に羽ばたいていった。神との契約のしるしとして、天空にかけられた虹が、希望に満ちた人類の未来として、神秘的に目に映って前編が終わる。

 前半では会話はほとんどない。アダムとイブがことばをしゃべっていたのかさえ定かではない。人類史は邪悪な民が増大しては、一掃される歴史である。アダムの長男(カイン)は次男(アベル)を殺害し、放浪の旅人となる。その後生まれた子(セト)に希望が託される。その血筋からノアが誕生し、神は善良なノアの一家を除いて、人類を地上から一掃することを決める。

 後半になると、ことばを介して、複雑な人間感情がデリケートなドラマをつむぎあげていく。締めくくりに選ばれたアブラハムとイサクの物語は、信頼に根ざした父子の絆が浮かび上がってくる。アブラハムの妻(サラ)は子を産めないからだだった。そのために自分に仕えてきた侍女(ハガル)に子どもを産ませるよう、夫に誘いかける。

 一族の繁栄のためには必須の事柄だった。子ども(イシュマエル)を産むと侍女はとたんに横柄になり、妻を見くびり始める。妻は母子を憎み出すが、神のお告げによると、妻に授かった男児が後継だった。神の使者が訪れて、老いた夫妻を前に、子をみごもることを予言する。そしてそのようになった。

 妻はこれまで優位を占めていた、侍女の産んだ子を、母親ともども追放にかかる。父はその子もわが子なので、優劣をつけることはできないでいる。人間感情として、よくわかるエピソードを前にして、私たちは深く考えさせられている。さらに神のことばが聞こえ、老いて生まれたかけがえのない息子(イサク)を、神の犠牲として捧げるよう要求する。神の無慈悲を恨むが、父の信仰心はこれを拒絶することをできないでいる。老いた母に別れを告げ、息子は父親と二人で、山に向かう旅に出る。母は不吉な予感がして離れがたく、まだ年端もいかない子を慈しんで見送った。

 廃墟となった悪徳のソドムを通り過ぎて、子は神の怒りによって焼き尽くされた残骸を目にした。血筋にあたる善良なロトの家族だけが、神の導きに従って生き延びた。振り返るなと言う神のことばに従わなかった妻だけが、石のような柱に変わってしまい、ロトはふたりの娘と先を急いだ。悪徳の町が燃え盛る火もごう音も、見てはならなかったのである。

 山に達すると息子は、生け贄となる子羊がいないことを不思議がるが、やがて自分が子羊なのだと理解すると、父のことばを聞いて、おびえることもなく覚悟を決める。父は最後まで無慈悲な仕打ちを疑いながらも、神の意志に従おうとしている。子を縛り上げて、剣で刺殺しようとしたときに、止めることばが聞こえた。神への忠誠が十分に理解できたことを伝える内容だった。ぎりきりまでスリリングな選択を迫りながら、神は人の意志を確かめていくのである。