第2章 写真術の発明

アンドロイド/暗い部屋/倒立像/ダゲールとタルボット/心霊写真/ニエプス/ナダール写真館/冒険をする写真家/砲弾から死者へ/マイブリッジの糸/メディアはメッセージ

第388回 2022年10月13

アンドロイド

 写真術の発明は1839年とされるが、印象派の世界観がこれに連動している。リアリズムの追求は、カメラの目がとらえた光の解釈により、加速化されていく。写実主義が世界を理解する基準となり、目に見えるとはどういう現象であるかを突き詰めながら、絵画と写真のせめぎあいが続く。カメラ・オブスキュラから、ダゲレオタイプ、カロタイプをへてマイブリッジまでを外観する。出発点でのダゲールによるオリジナル性を前面に押し出す絵画的動向と、タルボットのネガポジ法による、いわば版画的複数性が、出発点で同居したという点は興味深い。芸術大国としてのフランスはオリジナルに、産業革命に根ざしたイギリスはコピーにターゲットを絞ったということだが、その後の歴史を見ると、ネガポジ法が勝利を得たということだ。このときタルボットが公刊した写真集の名が「自然の鉛筆」だったというのは興味深い。両者のちがいについて、価値を物質としての所有に置くか、見るという体験に置くかという選択にあるとみることも可能だ。鑑賞の立場に立てば、写真展にするか写真集にするかの選択にある。

つまりはオリジナルかコピーかという対比となる。唯一無二のオリジナルと、それをコピーしたアンドロイドとの関係は、ヒーロー像に向けるおさなごころが経験したことだった。スーパーマン(1956年放送)や月光仮面(1958)に拍手していた子どもごころが、次に驚嘆したのは「海底人8823」(1960)だった。そこでは分身がはやぶさ2号、3号というように複数登場するのである。孫悟空の場合、一本の毛に息を吹きかけるだけでアンドロイドが生まれるのも、ヒーローが危機から脱するたのもしい味方となる。戦争を引き合いに出せば戦艦大和は一隻しかないが、零戦は無数にある。

これは鉄人28号(1956)にすでにあったことでもある。007シリーズ(1953-)もジェームズ・ボンドという個人名をもっていた。ただそれはアンドロイドではなく、唯一無二のヒーローとして、当時の子どもたちは認識していた。007の映画を見ていて、一度008という名が話題にのぼったときがあり、ボンドが殺されても次の工作員が送り込まれるのだという非情を感じた記憶がある。。鉄人は28台目のアンドロイドだとしても、私たちにとってはかけがえのないヒーローだった。

そこにはキリスト教と仏教に共通して、一神教に支配された風土を想定できるが、原型には日本の神々を信仰する、神道の多神教的本能を宿した安堵感があったかもしれない。アンドロイドはその後、色ちがいとなって「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975-7)に引き継がれた。ウルトラマンは機械の孤独を脱してファミリーを形成した。歌舞伎の襲名も考えようによればある種のアンドロイドであり、さかのぼれば多神教に根ざした思想だったのだろう。キリスト教に根ざした個人主義的世界観を超えたものとみることもできる。ユニクロの色ちがいのTシャツも、多神教に根ざした民主主義にもとづくともとれるが、人気のない色はダンピングしないと売れないとなると、やがて一神教が生まれるのも必然なのだろう。共和政制と帝政が繰り返されるのもこの原理に従っている。

第389回 2022年10月16

暗い部屋

機械的に自然を取り込む術として写真術が発明される。今日の映像の全盛への初めの第一歩となる。写真術が発明されなければ映画や映像、つまり動画も生まれなかった。工学的要素が大部分を占め、芸術や表現とはかけ離れた世界である。光学機械の進歩という話で終わる。手の延長になる道具は工学の歴史としてつづられるが、人間の欲望の歴史でもある。人間は基本的には横着な動物であると定義すると、なるべく手間暇かけないで、簡単に事がなせる装置を発明する人類史を築いてきた。人を殺す道具がどのようにして現代に至っているかをたどれば、一目瞭然だ。いまではボタンひとつで人類が絶滅するまでに至った。写真や映画についてもこのことは言える。

出発は絵画で、手で持って絵を描く。自然を写すのは、それがどんなものであったかを他人に知らせる術で、ことばという便利な道具がある。ことばで伝えきれないものを絵で描いて伝える。百聞は一見に如かずという教訓がある。目に見えるものは一目瞭然という。はじめは手で手間暇かけて一枚の絵を描いていた。一年がかりだとすると、一年の時間を一枚の画像に押し込めていることになる。写真の発明によって短縮されていく。欲望の歴史からいうと簡便に、経済的には安上がりに向かう。そして今日に至る。

出発点はカメラ・オブスキュラにある。カメラは部屋、オブスキュラはあいまいな、ぼんやりしたという意味だ。暗い部屋ということだが、日本語では「暗箱」(あんばこ)と訳す。部屋と箱との違いは、中に入れるか入れないかにある。「暗室」という適切な語も、ニュアンスをかえて使われる。原理は単純で、ピンホールという針の穴を通して自然が光に変換されて入り込んでくる。暗室にはピンホールはないが、現像装置の光が自然光に置き換えられたものとみることができる。

暗い部屋の壁面には、風景は倒立像として浮かび上がる。写真術でレンズが用いられる以前の話だ。そこではそっくり自然界が平面に定着している。幻影だからやがては消える。消える前に輪郭をたどっていけば、絵画として描き出される。最初は幻燈として壁に映っている状態だが、やがてそれをなぞっていく。機械的になぞっていける。絵を描くのだが自然をそのまま写せるのだ。以前は見える通りに自然を観察して、目を凝らして必死になって見つめ続けた。

自然観察の歴史は絵画史でそんなに古い話ではない。ルネサンスの流れで自然を忠実に写す目が育ってくる。それ以前は人の頭にある知識を平面に組み立てていく作業だった。自然をそっくり写すという方法論ではなかった。自然を写したいという欲求から遠近法も見つかった。ときには画家は片目をつむって世界を見つめた。カメラ・オブスキュラが本格的に使われ出したのはルネサンスに続く17世紀からだった。自然を人間の観察によって写すと、普通はレオナルド・ダ・ヴィンチ(1952-1519)のように完璧にはならず、自身の関心の範囲を超えるものではない。それは画家の知識のことでもあるし、手のくせから解放されず、忠実に写すことは不可能に近い。

第390回 2022年10月17

倒立像

モノを見るときには固定観念に支配されていて、何か見ていてもそっくりなぞることはできない。得体の知れないものを描くとき、画家はそれに近いものを連想してしまう。自分の知っているものに近づいていく。そっくりまねてもまね切れていない。自然観察からスケッチというシステムがはじまる。スケッチや素描という概念もルネサンス以降のものだ。自然観察が始まったルネサンスの延長上にカメラと写真が誕生した。

壁に写されるのが倒立像だということは、写実に幸いした。忠実に写すという意味では逆さのイメージのほうが忠実になるものだ。人の顔を描く場合、目があって口があって鼻がある。それぞれをそれが何かと思い浮かべながら描いている。口は口らしく描いてしまう。倒立の場合は、うまく描かれているかどうかは、最終的には逆さにしてみないとわからない。逆さの状態でなぞるとき、忠実になぞる以外にはないということだ。

オランダでヨハネス・フェルメール(1632-75)がこの原理を用いて絵画化した。それによってカメラの目のような冷徹な時空間が実現した。時に壁面は焦点がずれることがある。ピンボケ状態という写真特有の現象が現れる。レンズの誕生後もピントをいかに合わせるかが技術上の課題になっていく。絵画では逆にぼかしの効果を狙って描くこともできる。ピントの外れたぼかしのもつ表情の豊かさに気づいたのがフェルメールだったのか。ゲルハルト・リヒターはこれを応用してみせて、現代のフェルメールをめざした。

ピントが合う少し手前で止めているような効果が、そこには散見される。フェルメールのいくつかの画面上には小さな水玉のような光の粒が点在している。写真術誕生後の今日の目には、それは見事な光の処理としか言いようがない。夜の車道を行き交う車のヘッドライトが、近視の目には焦点を外れて光の洪水のようにカラフルに散りばめられて映る輝きに、それは似ている。リヒターをはじめ被写体をフィルムに写して投影してなぞる20世紀のスーパーリアリズムの制作にまで引き継がれた。

第391回 2022年10月18

ダゲールとタルボット

手でなぞる作業からやがて機械的に定着する方法が見つけ出される。1839年、ダゲレオタイプとカロタイプによって写真史がはじまる。それぞれはルイ・ダゲール(1787-1851)というフランス人と、ウィリアム・タルボット(1800-77)というイギリス人の手になるものだ。ふたりが同時期に別の場所でこれを発明したという点が興味深い。

フランスのダゲレオタイプとイギリスのカロタイプは、写真術としての原理は同じだが、ダゲレオタイプが一点ものなのに対して、カロタイプはネガポジ法で原版を取り込んでいくらも紙焼きができる。現在の写真はカロタイプから引き継がれていったものだ。ダゲレオタイプは現代でいえば、ポラロイドカメラを思い浮かべればよい。

原版のもつ重厚さは、絵画としてのオリジナリティを温存し、色彩を持たず小品だが、どんな肖像画家よりも人のディテールをくっきりと浮かび上がらせた。時にそのリアリティは心霊写真を思わせるような不気味さも漂わせている。そっくりそのまま人の姿を写し込むということは、外形だけでなく魂までも取り込んだような、そら恐ろしい感覚を見るものに与えもした。

写真の発明に対し、神を恐れぬ行為と断じた宗教家もいた。それは神の仕事であり、キリスト教では神そっくりに人を生んだということになっている。人は神の写しであり、写すことができるのは神自身でしかないはずだ。神に対する挑戦、バベルの塔を築こうとした人の悪徳と同一視されたわけである。今日では高名な写真家として知られるアウグスト・ザンダーも、ユダヤ教の家族からは写真家という職業が歓迎されることはなかった。

第392回 2022年10月19

心霊写真

はじめはシャッタースピードも遅く、被写体は動かないものが中心になった。ダゲールがパリの街並みを写した「タンプル大通り」(1839)が残されている。にぎやかなはずなのに通りには誰もいない。それもまた不気味だが、死に絶えたような町なのによく見ると片足を台に乗せた男が写し込まれているのに気づく。動くものが定着しなかったのに対し、靴みがきの前で静止した男の姿なのだとわかると、納得がいく一方で、現実から遊離した不思議な感覚に襲われる。心霊写真がダゲールの本性だとすると、人間は死者に、街は廃墟にならざるを得なかった。

当時の街並みの賑わいはモネの描いた「キャピュシーヌ大通り」(1873)と比較することでうかがえる。そこでは黒山の人だかりが描きこまれていた。さらに謎めいているのは「タンプル大通り」はもう一点あって、そこでは靴みがきと客は消え去っている。この二人の人物の登場は写真家の演出のように見えてくる。それは霊界へといざなう入口のように見えてくる。遠くから見ると足をあげた男は地下に続く階段を降りていく姿のようにみえる。それは地表に大きく口を開けた地獄の門を思わせるものだ。「ローマの休日」で有名になった「真実の口」は今では立てられて見せものになっているが、もともとはマンホールのふただった。それは地獄に吸い寄せられるモンスターの口だったのだ。

日常の風景に紛れ込んで、何気なく露出する冥界への入り口は、村上春樹の描くファンタジーでしばしば登場するものだ。なかなか見つからない東京メトロの入口もそれに似ている。パリでギマールの装飾したアール・ヌーヴォーが気になるのも、地下鉄の迷宮への入口のゆえだった。ダゲールの場合、この二点が異なった日に撮影されたと見れば、何ら不思議ではない。冥界への入り口ではなく、その日は靴みがきは休業日だったのだ。見比べると確かに二枚のフレーミングは明らかに異なっている。

肖像写真で動かないように頭を固定させる道具が、ドーミエの版画を通してユーモラスに登場する。それでも肖像画でポーズをとったままの頃に比べると雲泥の差があった。はじめ7時間の露光時間が、30分に、そして数分へと進化する。日本でも坂本龍馬の写真などを見ていると、じっとして動かないでとどまっている情景が思い浮かんでくる。そこには息をつめた唯一無二の輝きが定着している。

第393回 2022年10月21

自然の鉛筆

カロタイプは版画のように何枚も作成されるので、一冊の出版物となって、写真集が成立する。タルボットは世界最初の写真集を「自然の鉛筆」(1844-6)という書名にした。自然を鉛筆でスケッチしたようなということだが、この命名から絵画の延長上に写真術を見ているということもわかる。何が写されているかというと、農家の入り口に箒が一本立てかけられている。太陽光が当たって影がくっきりと浮かび上がる。影を写し込むというのが写真術のポリシーだった。光がなければ写真は成立しない。光があればモノにあたると必ず影ができる。ときにはそれは放っておいてもついてしまうので困った存在にもなった。光の探求という点で、写真術のはじまりは、屋外制作をしはじめる絵画史に対応している。

光の効果をねらっていて、日常生活の何でもないようなものが、ここでもライトモチーフである。どんなものでも写真に撮れるというメッセージがうかがえる。何気ないちょっとした光景が、そっくり手に取るように再現されている。

30点足らずのモチーフを集めた写真集の中には、彫刻を写した一枚がある。文字の書かれた本の一ページを写したページもある。いわば複写であり、現実世界の記録である。便利な道具ではあるが、この段階では芸術表現を追求したものとは思えない。樹木に広がる木々の枝の細やかなシルエットが明暗を反転されて写し出された一枚がある。さらにすすんで葉脈レースに写真家の繊細な目が注がれる。これらの写真を通して自然をもう一度見つめなおすことになるとすれば、新たな視覚世界を得て、写真というメディアの特性が表現豊かなものに見え出してくる。そこには自然のもっている生命力が写真によって取り込めるという驚きがある。画家が想像力で木の枝を描くのとは異なった自然の真理に触れることになる。重力の原理にしたがった自然の軌跡をたどるといってもよい。そしてそれを美としてとらえたとき宇宙の原理に触れた思いがする。シルエットにすることで隠れていた自然が前面に押し出されてくる。その演出効果は芸術性を秘めている。

第394回 2022年10月22

ニエプス

一方フランスのダゲールには政治的な手腕もあったようだ。発明家はスポークスマンとして大声をあげて叫ぶ人のことをいう。大きな声を上げてふれ回らないと第一人者とはならない。フランスでの写真術を再考する中で、新たに見えてきたのはニセフォール・ニエプス(1765-1833)という先駆者だった。ヘリオグラフィーという名があてられている。ダゲールに先立って写された一枚を見ると、粒子は荒いが、光の粒が点在しているように見える。窓から見える隣家の屋根を写し出した風景写真だ。時間をかけて写し込まれた普遍性が感じ取れる。

写真独特のクリアな自然をとらえる特性からいうと、ダゲールに軍配が上がるが、ニエプスのとらえた世界は、独特の詩情をたたえていて、現代にアピールする美観をもって見えてくる。粒子の粗い空間は、モノクロの階調が印象派ののちに現れるスーラの点描法で追求したものを思わせる。点描法は光の処理の問題であり、光を粒子に分割していって、画面に点じていく。写真術と同じ原理によって世界を見ようとするものだ。ジョルジュ・スーラ(1859-1891)の残した素描を並べると、粒子の粗いまるでニエプスの写真と同一の効果が見て取れる。

ニエプスの写真は1820年代のことで、スーラよりも半世紀も先立っていたことを考えると、印象派を経ないと実現できないはずの詩的効果を生み出していたことは驚きだ。自然を機械的に写すのだからポエムでも何でもないはずだが、おぼろげにしか姿を現さない世界の神秘、あるいは不確かさという確信までも見え出してくる。しっかりと像を結ばないという曖昧模糊としたもの、霧や靄のヴェールに包まれた美意識が見える。クリアになったものよりも、それを覆う謎めいたものの魅惑が充満する。それに目を付けたというよりもまだ写真術が完成に至らない段階で、像を結ばなかったのだろう。カメラ・オブスキュラを取り込んだフェルメールのめざしたものに近い意図も感じる。ニエプスの自然の不思議に向けるまなざしは、ダゲールでは自然の不気味さというかたちで引き継がれることになる。

フランス絵画史でいえばこの時代は写実主義が台頭してくる頃だ。19世紀前半、新古典主義とロマン主義の対立の間隙をぬって写実主義が登場する。目に見えるものしか描かないという考え方だった。それ以前は現実世界をそのまま写すのではなくて、遥か隔たった時代の物語を好んで描いてきた。そこに日常生活そのものが絵になるのだと主張する。写真術はそれに先行していたように見える。多くのヨーロッパ人が共通して求めていたものだった。現実社会を見極め、定着させることを願っていた。

第395回 2022年10月23

ナダール写真館

その後20-30年の間に写真家という職種が市民権を得ていく。今まで画家の現実的な仕事は、肖像を描くということだった。肖像画家はしだいに職を失っていった。反比例するように写真家が勢力を伸ばした。フランスではダゲールのあとナダール(1820-1910)が重要人物となる。詩人シャルル・ボードレール(1821-67)の鋭いまなざしをとらえた写真家である。バルーンに乗り込んだ時代の先端を切る姿も残っている。ナダールはパリの街中に写真館を開いて、そこで肖像写真を撮るのを生業としていた。展示スペースを伴っていて、その場所を利用して印象派の第一回展がおこなわれている。写真家の拠点に印象派の画家たちがお披露目の展覧会を開催したということだ。ここでは社交の場として文化サロンとしての役割が重要だ。国家的レベルのサロンのような大作が並ぶスペースではなく、町のギャラリーでのグループ展という今日的な展示形態の出発となる。モネの「印象・日の出」(1872)もその中にあったが、小品である。

写真は引き伸ばしても絵画と同列には並ばない時代であり、印象派はそれと共同戦線を張った。その意味では印象派絵画はカメラの目がとらえた世界だった。異なるのはそれらがカラー写真を先取りしていたということだ。サロンに並ぶ大作を描き続けてきた従来の画家の意識改革ということもできる。

写真術と歩調を合わせて絵画自体のサイズは縮小していった。やがては画家と写真家のコラボレーションが引き出されることになる。写真の側からいうと、写真屋が写真家として画家と芸術的志向を共有するステータスを得たということだ。ただナダールの写真をその後の芸術写真と比べれば、まだまだ職業的意識が勝っている。女優サラ・ベルナールもモデルとして盛んに登場するが、芸術的成果としてはミュシャに軍配が上がる。

そして写真家は、自然を写したり記録をするスポークスマンだけではなくて、写真というメディアを通じて表現する人へと変容していく。画家と写真家が同じ立ち位置にある例は、その後のアメリカでも、写真家アルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)が写真スタジオを拠点にして美術運動を展開していく。画家ジョージア・オキーフ(1887-1986)はこの写真家の妻である。

第396回 2022年10月24

冒険をする写真家

肖像写真を典型とした現実世界を写すという視点だけではなくて、写真家は冒険をしなければならないということが次の段階として出てくる。ナダールは数多くの肖像写真を残すが、それとは別に気球に乗り込んでパリの航空写真を撮影するというのも危険を顧みない写真家の出発点であった。世界を拡大しようとする写真家のアイデンティティを築く一側面だろう。冒険を冒さないと良い写真は取れないという使命感が1880年代には現れたということだ。当時の重い写真機を持ち込むことを考えれば、好奇心だけの空中散歩ではなかったはずだ。帽子を飛ばしながらも撮影に夢中になるその光景をとらえたドーミエの版画も残っている。

そして重い機材をもって野を越え山を越えて旅をする人となる。写真史はカメラが小型化していく歴史でもあるが、ロジャー・フェントン(1819-69)が残した写真を見ると、幌馬車のようなバンに写真機材一式を載せて旅だったことがわかる。その成果の一点が「死の陰の谷」(1855)と題されたクリミア戦争に取材をした初めての戦争写真である。戦争とはいえ見る限り、遥かに続く一本の長い道しか写されてはいない。戦争をしている場面ではなくて、一夜明けたあとの光景が写し出されている。よく見ると道のあちこちに丸い大きな球が、まるで馬の糞のように転がっている。これが大砲の球だと気づいたとき戦争のすさまじい傷跡を感じ取ることになる。荒涼とした世界を写すことで悲惨さを感じさせようとするのだが、不思議なのは、死者はいないで取り除かれている点だ。

つまり前夜の戦いでもなくて、記憶が風化されるほどに時間の経過を感じさせるものだ。その後の生々しい記録へと推移する写真史の必然と対比をなすものだが、私はこの戦争写真が好きだ。米田知子(1965-)や下道基行(1978-)など現代の写真家たちが戦争を風化させないために記憶にとどめようとするヒューマニズムに似ている。そこには好奇心ではない人間性に根差したまなざしが見えている。戦場には霊場にも似た血の呪いが浮遊している。それをなだめるように指標としてそこに石碑を立てるのも、死者の魂をとむらうためにちがいない。

第397回 2022年10月25

砲弾から死者へ

もちろんフェントンの場合はカメラの機能としてこれが精一杯の表現だったのだろう。しかし戦争写真として刷り込まれる前に、死の陰の谷」というおどろおどろしいタイトルから鑑賞者自らの目で砲弾を発見することが重要なものとなる。一見すると何の変哲もない荒野でありながら、歴史の記憶が隠しこまれている恐怖におののくことになる。そして当然のようにフェントンのあとを受けて、表現はエスカレートしていく。アメリカでその後ティモシー・オサリヴァン(1840-82)が写した南北戦争で、「死の収穫」(1863)という写真が登場する。そこでは死者の兵士の姿が写し出されている。死者の生々しさを通して戦争の現実を写すという直接法を写真術は志向する。ここでも戦争の真っただ中ではないという点が、さらなる可能性を残すことになる。戦争が終わったあとの光景であるという限りではフェントンと変わりはないかもしれない。ころがっているのが弾丸から死者に変わったということだ。

オサリヴァンが重いカメラを携えて移動したのは戦争だけではなかった。西部開拓史のような格好でアメリカを行き来する。ニューメキシコの古代遺跡は戦争写真よりも、驚異的なものとして見るものの目に映ったかもしれない。モノクロ写真だが自然のもっている雄大さが見えてくる。ピントはくっきりとして鮮やかに照り返している。岩肌のもっている線刻の年輪は、デジタルカメラではまだ実現不可能な写真の真価をとどめた歴史的証言だといえる。どこまでも細部を拡大できるような鮮明さは、写真の技術的進化を伝えている。この精度には現実以上に現実的な物質性を浮かび上がらせる。

アメリカではその後この流れは引き継がれ、コロラドやグランドキャニオンなどアメリカの大自然を写し出すアンセル・アダムス(1902-84)などピクトリアリズムの系譜を生み出していく。身近な自然になじんだり再発見したりするものではなく、未だ見たこともないような遥か彼方の異界を見るという写真にしかできない特性に向かうフロンティア精神はアメリカにふさわしい動向だった。

第398回 2022年10月26

マイブリッジの糸

さらに写真が次の映画への展開を考える場合、エドワード・マイブリッジ(1830-1904)については、言及をしないわけにはいかない。動画が静止画の集積であるという意味においても、マイブリッジがいなければ映画の発明はなかっただろう。連続写真という問題には、動いているのか動いて見えるのかという哲学的思考も加わっていく。時間と同じ速度で空間を移動すれば、年を取らないのではないか。ギャロップしている馬の脚は、それぞれの瞬間でどんなふうになっているかという疑問は、画家が走る馬を描く場合の重要な課題だった。テオドール・ジェリコー(1791-1824)が描いた馬は前足と後足をともにまっすぐ伸ばし切っている。そんな瞬間はないというのが、マイブリッジの糸を用いた実験による連続写真の結論だった。

一秒に24コマを写せるカメラが登場して映画が発明されたことになるとすれば、それは単なる技術の進化だけの話になる。24コマでなくてもアニメーションとしては十分に機能する。パラパラ漫画の延長上で映画は解釈できる。マイブリッジもパラパラ漫画のような形で静止画を動かせて見せた。馬が走る姿は美の神秘として長らく目が向けられてきた。

マイブリッジを写真というメディアに置いて考えるのがよいかという問題がある。メディアが先走りすぎてソフトがついていかないということが、時として起こってくる。ハードとソフトの関係はよく話題になる。ニューメディアは次々と開発されていく。一つのメディアが成熟するためには、あまり新しいハードがどんどん出てこないほうがいい。写真術が発明されて、かなり長い間モノクロフィルムの時代が続いた。そこで枠が決まるが、その枠の中に何を盛り込んでいくかと考える。枠があってはじめて出来上がるものがある。カラー写真がもっと早くから出てきたとしたら、これまでモノクロで培われてきた撮影術が成熟することなく、途中で移行してしまっただろう。長い時間をかけて積み重ねられた年輪がある。モノクロだけで世界は写し出せるという重厚な考え方は、カラー全盛の現代でもまだ残っている。今ではもうモノクロのフィルムは生産されていない。白黒の深みやカラーにない独特の表現力を探求してきた。写真だけでなくモノクロの映画も連動する。それがソフトの豊かさとなってくる。

新しいメディアが増えてくると、今までの成熟がストップして、ニューメディアに入れ替わっていく。たとえばヴィデオが大型スクリーンを駆逐してしまった。70ミリの大画面でつくられていたソフトが、小さなモニターに置き換えられないことが起こってくる。カメラを引いた撮影からクローズアップの多用へと変化する。メディアに伴ってソフトが付いてくる。ゲームの世界ではもっと顕著に、ソフトはハードと連携している。新しいメディアが登場したとき、古いメディアを踏襲できるようにするのが理想だが、現実のしがらみや利権はそう簡単には許容してはいない。

第399回 2022年10月31日

メディアはメッセージ

これは芸術の話ではなく、ビジネスの話にしか過ぎないが、メディアが単なる道具ではなくてメッセージでもあるという考え方をすると、納得のできるものだ。社会学者マーシャル・マクルーハン(1911-80)は「メディアはメッセージだ」という。メディアは道具でメッセージはそこに盛り込まれた内容、つまりソフトの側にあると考える。メディアそのものがすでにメッセージを含んでいるという魅力的な論調は、メディアが人間の欲望の産物として登場したという限りでは、真実であるだろう。写真術にしてもこうありたいと願ったから発明されたものだった。それは人間の願望や欲求の結晶だろう。あとはそのメッセージに従って、どれだけ多様性を持たせることができるかということが、ソフトに託される。ソフトを伴っていないと大きな発展を伴えない。ヴィデオをめぐるベータとVHSやゲーム機をめぐるソニーと任天堂の争いなどが典型的なものとして記憶に残っている。レーザーディスクの全盛期、だれもがこのメディアが生き残ると思ったが、そうではなかった。それをまだ捨てられないでいるとすれば、LPレコードサイズのジャケットを眺めているだけで、映像と音が聞こえてくるように思うからだろう。そっくり縮小したDVDを買い替えながらも、捨てられないでいるのである。

音の視覚化を現代アートの領域で探究するクリスチャン・マークレー(1955-)の映像作品の気持ちがよくわかる[i]。そこではレコード盤を振ったり叩いたり、はてはかじってまでも音を聞こうとしている。マークレーがレコードをかじる映像を見ながら連想したのは、食欲旺盛なシュヴァンクマイエルのアニメーションだったが、レコード盤の色からは、そんなチョコレートをかじった記憶もよみがえった。あこがれのアメリカ文化の象徴のように、戦後日本の子どもの情景として、レコードとそれを模したチョコレートはともにクリスマスプレゼントに共通するものだった

マクルーハンが対象としたのは、印刷術と写真術の対比にあった。ことにそれぞれのメディアが誕生した15世紀と19世紀に、新人類の誕生が認められた。活字人間は画一化した抑揚のない発声法をする。テレビ人間は日本でもテレビによって育てられた新人類をテレビっ子として誕生させた。グーテンベルクに由来するルネサンスの活字人間を中世の世界観と対比し、テレビに育てられた現代の視覚人間を、近代の活字人間に対峙させる。「グーテンベルクの銀河系」(1962)と「メディアの理解」(1964)という魅力的な著作が残されている。メディアはメッセージであるという主張は、さらにメディアはマッサージだという飛躍にまで至った。はたしてメディアは世界をもみほぐすことになるだろうか。現況をみるかぎり、世界をかきまわし、かえって肩こりの火種になることも多い。かといってメディア統制に向かえというわけでは、決してない。


[i] 「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」 20211120日(土)- 2022223日(水)東京都現代美術館


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