美術時評  2023/8/1~

by Masaaki Kambara

安野光雅美術館コレクション 安野先生のふしぎな学校

2023年07月22日~08月27日

明石市立文化博物館


2023/8/1

 学校での科目が設定され、国語からスタートする。先日森美術館で見た現代アートでの企画と重なって見えてくる。絵本が初等教育と連動していることに違和感はない。それらが極めて教育的だという意味は、安野光雅という人格が生み出した信頼感に由来するもので、安心してあずけられると誰もが思うのだ。現代アートが得てして道をはずすのをおもしろがるのに対して、この画家のスタンスには、そんなそぶりは微塵もない。長年をかけて積み重ねられてきた燻し銀のような重厚な意志が、気をてらうこともなく、どっしりと根をおろしている。かといっていかめしいものでは決してない。生前に自然体での心地よいおしゃべりをラジオ番組で聞いたときのままに、展示作品となって並んでいた。

 子どもなら飛びついておもしろがるにちがいないという絵の力に、わくわくしながら老いてしまったかつての少年少女が目を輝かせている。「数えてみよう」という絵本の原画が並んでいた。1から始まり12まである。最後までくると雪景色になっているので、季節の変化が12の画面に描かれていたのだとわかる。数えはじめる。木が一本、家が一軒、人が一人。だんだんと数が増えてきて、複雑になっている。人の数が多すぎるが、よくみると大人の数と子どもの数に別れている。木の数が12本のはずなのに一本足らない。探すと同じ形をしたクリスマスツリーが見つかる。

 子ども心に戻って他愛のないゲームに没頭しているのに気づく。森のなかで動物が隠れている。一筆書きの原理の話では、中之島にかかる7つの橋を、同じ道を通らずに渡れるかという課題である。これらはともにメルヘンのような絵をともなっていないと実感とはならないものだ。その点、自在に描き出される一コマ一コマの画力が、感動を呼ぶ。柔らかな中間色を用いて、昔ながらの日本の故郷が、西洋の旅情と響きあう。心地よく違和感なく、日本と西洋が、争うことなく平和裡に溶け合っている。これもまた人格のなせる技だろう。偉ぶることなく、小学生のなかに分け入って、同じ目の高さで見つけ出された自然主義は、肩を張るものではなく、閉じていても座右となり得る絵本の王者の風格を備えていた。 

漫画家生活60周年記念 青池保子 Contrail 航跡のかがやき

2023年07月15日~09月24日

神戸市立小磯記念美術館


2023/8/18

 これまで接点のない分野の画家である。小磯記念美術館での開催なので見ておこうと思ったが、そうでなければ知らないまま終わっていただろう。同世代の漫画家であっても、少女マンガに属するので、接する機会はなかった。それにしても完成度の高い作品群に圧倒される。息の長い長編なので、物語がしっかりとしているのが前提となるが、絵としての描写力だけでも、目を見張るものがある。

 原画の所蔵先として、秋田書店の名があがっている。作者蔵ではなくて、出版社の所蔵なのが、不思議な気がする。やがては美術館の所蔵になると思われるが、それまでは絵画作品とはみなされないということかもしれない。この現況は漫画家のステータスを考える上で重要だ。今後は出版社がまとめて、国公立の美術館に寄贈するか、あるいは出版社が自前の美術館をつくるかで対応することになるだろう。

 西洋史の視覚データを蓄積していて、必要なときに引き出せる能力には脱帽する。現代から中世、古代へと自在に空間を駆け抜けていく。中学生でのデビューだというから、早熟した優れた画力を放っていたのだと思う。編集者に見出されたとしても、何作かで消えてしまった作家も多いはずだ。長編の歴史絵巻、ことに中世ものにひかれる。人物よりも衣装や背景をなす街並み城郭帆船の描写がきわだっている。

 時代考証や現地での取材のたまもので、スペイン旅行の写真アルバムが展示されていて、色あせたカラー写真には漫画に取り込まれる原型が写し込まれている。それだけではなく想像力を広げることばの語感からの引用も適切だ。ロシアより愛をこめて、第七の封印など、ロマンス用語といってもいい映画からの連想が、物語を膨らませていく。ヨーロッパ中世に向ける熱い思いは、「アルカサル-王城-」「修道士ファルコ」「ケルン市警オド」の三部作に結晶している。

 60年続く息の長い執念にも似た漫画への愛は、ファインアートばかりを美術の中心とみてきたこれまでの芸術観を打ち砕くものであり、あちこちに散りばめられた名画の細部を、見つけ出す楽しみも加えられていた。ボッティチェリやブロンツィーノなどは、解説が付けられていたが、ティントレットのかけらを見つけたときに、やったという達成感があった。画家の手のひらで、心地よく遊ばされていた。

ながれ・いろどる 墨の世界

2023年07月01日~09月03日

神戸ゆかりの美術館


2023/8/18

 書家の仕事だけなら、地味な企画になっていただろう。画家が加わることで、書が絵画に見えてくるのである。墨を用いた三人の作品が集められている。ともに共通点は神戸ゆかりの美術という点である。書をおもしろく思いはじめた個人的経験からすると、書は抽象絵画であるが、字が意味をもっているということなら、具象絵画に分類することも可能だろう。かな文字の書論がところどころでパネルになって紹介されている。中国の伝統的芸術論から展開したものとして、とらえることもできるが、日本の誇る一流の思考だと思う。

 安東聖空のかな文字がいい。一茶や良寛の歌を読みながら、柔らかな文字の筆跡と、濃淡と、配置と、表情に思いを馳せている。歌だけでは味気ない教示が、芸術となって普遍化されている。それは一方的な教訓だけではなく、広がりのある人間存在の真実にまで、達しているように見える。日本語というローカルな話題を超えて、宇宙の原理に触れたといってもよい。詩が画家自身のオリジナルである場合も多い。風景を詠んだ詩には朝霧の空間の広がりや、空気を振るわせる鳥の声まで聞こえてきて、それが文字のしなやかな伸びや震えと呼応している。異国人でさえも、文字の意味を超えて感じ取ることのできるコスモポリタニズムの成果を受け取ることになるだろう。

 深山龍洞は、かな文字を下敷きにしながら、漢字と違和感のない協調をはかっている。かな文字ももとは漢字に由来するものであることは、伊呂波うたをはじめ、万葉集の美意識と連動するものだろう。書体は異なっていても、目をつむって音声でとらえるときは、同一のものであるという不思議に気づくと、目に見える形は異なっても、その深奥に横たわる普遍的真理を求めたい気になってくるはずだ。心地よく調和を求めるのではない。張り詰めた神経のたかぶりが、けいれんを起こしているような階調がある。そんな厳しさがこの書家の作風に緊張感を与えている。

 山下摩起の墨絵を通して、書において重要な成立要件であった余白がないことに気づく。画面をはみ出すようにほとばしるエネルギーは、画家でも書家でも変わらないものだろう。その作風は古くから知っていたが、マキという名から、長い間、女性だと思っていた。山下りんという女性画家からの連想だったかもしれない。余白のないことから生じる余裕のない圧迫感と、いらだつような墨の飛び跳ねは、宇宙に秩序を与えてきた書家の努力をあざわらうように、宇宙を混沌へと返してゆく。墨が飛び跳ねるのは、書が枠を解体するときだ。絵画の生命はそこからはじまる。描かれたのは山や川といった自然の風景でもよいのだが、仏像を描き出したときにその真価を発揮している。それは悟りを開いた静寂の姿ではない。煩悩をたたき壊す憤怒の表情を浮かべたものだ。墨と筆の勢いが、地響きを立てるように、画面に湧き起こる。墨が飛び跳ねるだけではない。筆が空を切って、かすれが余白を埋め尽くしているのである。

花のお江戸ライフ—浮世絵にみる江戸っ子スタイル—

2023年07月08日~08月27日

神戸ファッション美術館


2023/08/18

 浮世絵を美術史の枠に沿って様式的に扱うのではなくて、そこに描かれた多様な生活風景として見つめ直してみる。江戸の庶民の豊かな文化の実情が見えてくる。よき時代の平和のユートピアなのだと気づく。衣食住が満たされているということなのだが、これが実はそんなに簡単なことではない。戦いに明け暮れていた時代では、いい服を着て、いい食事をして、いい家に住む以前の問題で、良し悪しを問題にすることさえなかっただろう。

 西洋ではローマの平和などというが、日本では江戸の270年続いた戦いのない生活スタイルから学ぶことは多い。贅沢三昧をしている貴族生活ではなく、生活の知恵が心を豊かにする。そんな処世術を教えてくれるのである。鏡を見ながら化粧に余念のない女がいる。女風呂の光景が描かれている。興味本位ではあるが、おおらかなものだ。女湯を盗み見している男の後ろ姿がある。めくじらを立てて、犯罪となったとも思えない時代の風物詩である。

 太平楽は武器を開発することがなかった。その代わりに文化を成熟させた。鎖国は、永世中立国として、日本を戦争に巻き込まないでくれという宣言でもあった。宣言は訴えから願いへと、下降修正されていく。戦っていないと強くはならないということか。明治以降の殺伐とした西洋化を思うとき、江戸のままでよかったのではないかと思う。浮世絵はその生き証人であって、しかも大量に残っている。「花のお江戸」というかつての東映の時代劇が伝えた、昭和元禄のワンダフルライフも、やがては殺し合いの任侠映画から、さらには仁義なき戦いへと変貌を遂げてしまった。富国強兵はほんとうに国を豊かにするものなのだろうか。そんなことを考えながら、竹光で切腹したり、竹槍で原爆に立ち向かったりする悲痛を、思い浮かべていた。

Perfume COSTUME MUSEUM

2023年09月09日~11月26日

兵庫県立美術館


2023/9/24

 20年に及ぶ活動を支えた衣装の展覧会。そんなものがおもしろいものかと思っていたが、けっこうおもしろかった。3人の個性に合わせて、同じ素材を使って三つのパターンをつくる。それぞれはAKNのイニシャルで分けられているが、パフュームの3人のちがいがどこにあるかなど、私には当然、把握できてはいない。しかし180種類も衣装が並ぶと、しだいにわかってくるからおもしろい。最後にはこれがAだろうと思って、下に置かれたイニシャルと、ぴったり合うと感動してしまう。

 20年間見続けてきたファンならば、脳裏に焼きついた記憶があるだろうし、体型のちがいも把握しているだろうから、知識として言いあてられるだろう。50年前の話に戻せば、キャディーズの衣装であれば、かつてみた網膜上の確信として、どれが誰のものかを覚えているものだ。トリオがなすトライアングルは、三角形に象徴されるもので、パターンのあちこちに散りばめられて、通奏低音のように響いている。

 安定感は確かにある。音楽でいえばソロ、デュエット、トリオと広がりをなすが、四人もビートルズ以来、定着していったように思う。同時代のフォーク系列でいえば、ブラザーズフォーからキングストントリオサイモンとガーファンクルボブディランと、それぞれの特性を活かしたハーモニーのあり方を模索する幾何学的原理が築かれていたように思う。

 トリオを考えた場合、一姫二太郎という国家の安定性を下敷きにしながら、それを壊そうとする動揺も内包していて、私たちはいつのまにか男女の三角関係に魅了されている。上記の分野でいえば、ピーター・ポール&マリーがみせる、ぞくっとするような官能性を宿した不和を思い起こしてもいいだろう。ここでパフュームを考えた場合、三姉妹によって築かれてきた健康的な信頼感があって、長期にわたっての安定を構築できたのだろうと思う。それは異質に入り込み、安定を壊す男性原理がないという意味でもある。

 トリオの3分類をどんなことばで言い表してきたかは、これまでの長い歴史が示してくれる。序・破・急といえば時間的経過となるが、トリオには起承転結とはちがう緊張感がある。和声なら高・中・低音のパートが同時に発するハーモニーを考えるほうがいいかもしれない。それが衣装として視覚化し、ダンスとなって身体化されていく。これまではながらくレコードの形をとって、音声だけを切り抜かれてきた音楽史があった。

 パフォーマンスは舞台上でライブ感覚を高め、映像によって記録にとどめられる。今回はそれが博物館で開花した。これまでの博物館活動が、お蔵入りの語で表されてきた保存の歴史であったなら、古めかしい衣装がならぶファッション美術館で終わっていただろう。レコードによる音楽鑑賞とは対極の現象が、そこでは起こっていた。博物館では耳をすまさないと音は聞こえてこないのである。

 音楽をはずして美術に特化させることで、これまで見落としてきた、事象の本質を見極める。そんな新たな美術館活動の出発点となったように思う。パフュームという名で商品化されてきたヒットメーキングの構造を知るという視点もある。服飾デザイナーの回顧展ではない。舞台衣装を突き放して展示することで、客観化されたアイドルに向ける大衆の社会史にもなるだろう。

 県立美術館が取り上げたから、私のような門外漢の部外者も、訪れることになった。逆にこれまで美術館に縁のなかった人たちが、美術に興味をもつきっかけにもなるはずだ。さらに美術館サイドからいうと、ヒット商品を追いかけていては見えてこない、埋もれてしまった商品を探し出すのが原点であり、本来の美術館の使命なのだと気づくことにもなる。情報化時代とはいえまだまだ埋もれている未知はあるし、商品化されずに流通を嫌い、不審をくすぶらせて、命を終えたしまった故人もいるだろう。それらに手を差し伸べる。保存よりも発掘に美術館活動の醍醐味はある。紹介よりも育成というスタンスも重要な切り口だろう。いずれにしても、それらの突破口になるいい展覧会だったように思う。

第2回AAPS 芦屋第二モダニズム展

2023年9月22日 (金) 〜27日 (水)

兵庫県立美術館 ギャラリー棟3階


2023/9/24

 芦屋芸術写真集団(AAPS)より新屋進、丸田康裕、森原徳一郎、須賀由美子、勝木繁夫、島津忠彦の出品。写真とは思えない驚異の表現力に感銘を受ける。素材の探求は、画家が絵の具の化学的特性を武器にして、どれだけ新しい表現を生み出せるかを競ってきた歴史に対抗し、まずは写真が絵画に近づき、次に絵画を乗り越え、さらには絵画をはずれるという進化をとげるだろう。写真が絵画に無関心でいるのが難しいのは、それが絵画の落とし子として生まれてきて、いつまでも親の遺伝子を引き継いでしまうからだろう。

 どうすればこんな驚異的な効果が生まれるのかを、種明かしするだけでは、写真が芸術になることはない。技法論を越えて、人間の精神文化の一端に触れたときに、やっと写真は自己完結するのだと思う。もちろん個のアイデンティティを見つけることを第一義と考える立場もあるだろうが、それがすべてではない。写真の特技を活かして、本能のおもむくままに、ひとり立ちをさせてみる。道はおのずと開けるとみると、作家の過剰な主張は後退して、自然体のもつ美の根源が姿をあらわす。それは世界の真理が目に見え出してくる瞬間なのだと思う。

 現代の能楽の鑑賞では味わうことのできない、幽玄の美が浮かびあがっているというのが、全体に共通した印象だった。撮影した写真家は異なるが、日本の古典芸能に魅せられた視点が、共通して感じ取られる。普遍的な美の感受性なのだと思う。かがり火にゆらめく幻影は、写真によってしか定着しないものである。カメラにくらべて人の目はあまりにもうつろい過ぎるのだろう。ことに新屋進の写し出した一連の作品は、これは写真なのかという素朴な疑問から、絵画では描きつくせない表層の即物性が生々しく迫ってくる。意図的に写真家がそのように見ようとして見えてきたものなのか、あるいは写真というメディアに自然と備わっていたものかに興味がわく。

 勝木繁夫「五行」(上図)で写し出した5点セットになった能舞の立ち姿も、世界の存在原理を能面を借りて、見せようという意図に共感した。能面のもつ喜怒哀楽を隠し込んだ表情の深淵を、火や水に仮託して見せようとしている。あるときは月のように冷たくもあるのは、仮面であるがゆえの無表情が、見るものの心を水鏡のように写し出すからだろう。それをするためには、写真というメディアがじつに適切だという確信が受けとめられる。

 同じ精神は能楽だけではなく、浄瑠璃人形を写し出したものにも、引き継がれていくものだ。丸田康裕「淡路人形お七」は、八百屋お七がはしごをのぼる一瞬をとらえたものである。黒子がいないことから、上演中の実写ではないようだ。写真術の表層をなぞる特性が、淡々とした行為のなかに悲壮の表情を読み取らせようとしている。火の粉が舞う。赤く燃え上がる炎の影も写し込まれている。満天の星に向かって命をつなぐ闇の天空に向けて、下界に未練を残す命なき人形の目線と仕草がいい。

 島津忠彦「モトコー」は元町高架下商店街に息づいた顔を集めたシリーズであり、場のもつオーラを引き出した集団肖像画として、かけがえのない生活感情をあぶり出している。屈託のない笑顔がいい。列車の行き交う騒音が、日常の生命力となっている。写真だから音は聞こえないはずだが、阪急電車に負けない大声が、その表情から聞こえている。絵画で描くこともできるが、絵画ではあまりにも恣意的で、瞬時を装う虚構に絵に描いたような嘘が露呈してしまうだろう。写真が得意な武器を探り当てた勝利だったように思う。

 須賀由美子「REFRAMING」は、バルセロナで出会ったガウディのディテールを通して、いったん分割されたジグゾーパズルのパーツが、自力で集合しようとする磁力で、全体を再構築していくようにみえる。重なった針金の網を通して見えてくるパティオがいい。針金はコンピュータが生み出した顔の輪郭をなぞっていて、目はもたないが鼻はくっきりと見え出している。神秘空間に入り込んでいく目の冒険のはじまりが暗示されている。

 森原徳一郎は現代の旅情をレトロ化させて、セピア色の廃墟へと変貌させている。それは死滅ではなく誕生なのがいい。ことに古代ローマの廃墟のようなアーチ橋が、それ以上は壊れることなく廃墟のまま停止して印画紙に定着する不思議を感じている。トリュフォーになぞらえて「写真に愛をこめて」という語が思い浮かんできた。

交感する神と人—ヒンドゥー神像の世界

2023年09月14日~12月05日

国立民族学博物館


2023/9/25

 ヒンドゥー教の神々の豊穣でエネルギッシュな生きざまをさぐる。ギリシャ神話と同じく人間味あふれる躍動感が魅力である。信仰として生活に根づいていることが、ギリシャの神々と異なる点か。多神教という面では日本の神々とも共通するが、神道もまた神々はなじみのものとはならず、今日ではギリシャ神話よりも疎遠なものとなっている。

 ヒンドゥーの神々が、マッチのラベルカードゲームにまで進出している姿をみると、うらやましくもある。宗教が生活に根をおろしていることの良し悪しは、もちろんあるだろう。ガンジーという映画を見たときに、宗教のるつぼにあって、国として統一することの難しさを痛感したことがあった。インド起源の仏教に比べれば、日本人にはヒンドゥーの神々は違和感が残るだろう。灼熱の宗教なのに、私たちは仏教に静寂と沈黙を結びつけている。

 特別展のあとみんぱくの常設展示を、散策した。膨大な量である。そのなかの仏教のコーナーに、カラフルな原色のもつ熱帯性を感じさせる空間があった。かすかに流れる読経に耳をすませて、仮設空間に入りあぐらをかいて座る。目を閉じるとさらに落ち着くのである。明らかにヒンズー教が奏でるインド音楽とはちがう、日本に根づいて同化した平静にほっとするのだ。

 インド映画にまでヒンズー教の精神は反映している。あのざわめきと騒乱は、世界一の人口へと躍進するインドの活力であり、IT産業に進出しても絶えることのない宗教への郷愁を確信させるものだった。ポスターとなった少女に変身した神の幻像に、半神半獣のモンスターの登場する仮想世界とは異なった、日常に地続きの側面も見つけることになった。

Yokoo in Wonderland—横尾忠則の不思議の国

2023年09月16日~12月24日

横尾忠則現代美術館


2023/9/29

 しばらく横尾ワールドから遠のいていたが、久しぶりの横尾館への訪問は、十分に楽しめるものだった。それにしても蓄積されてきた作品の量に圧倒される。宝庫ともいってよい。テーマに合わせてこれまで描いてきた作品を、辞書のように選び出して、再構成して並べる。作品は何十年も前に描かれたものだが、あらたな生命を得て、今によみがえってくる。今回キーワードとして選ばれたのは不思議の国のアリス、鏡、夢である。穴に落ち込んで異界へとさまよう。誰もが夢でみたことのある、しかし再現することは不可能で、見たいと願ってきたイメージがそこにある。それは画家が異界を見ている姿なのだが、ときに異界から現実界を見かえすということも起こってくる。鏡に映された世界は左右が逆になって、裏返された世界のはずだが、見方を変えれば、裏側に身を置いて表をながめているともいえる。舞台を観客席からではなく、舞台裏からみたということだ。

 ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」から取ったモチーフに出会った。シヴァ神の踊りを思わせるようなエキゾチックな動きをなぞっている。快楽の園という文字が、裏返されて書かれていなければ、気づかなかったかもしれない。宗教的記号が散りばめられているのも、異界へと誘う儀式のようにみえる。「The End」と題したガラス絵では、十字架を前にして、イーゼルを置いて描いている画家の後ろ姿が描かれている。十字架は泉になっていて、滝のように水が流れ続けている。

 美術館のイニシャルにも使われている「Y+T」のマークが、絵画中でもさかんに登場する。これらも秘教的な意味をもった記号であり、ともに十字架の変形をなすものだ。Y字路は画家がこだわりを示して描き続けてきたモチーフだが、画家自身のイニシャルでもあり、画家本人の自画像といってもよい。さらにそれは十字架にかかるキリストが、その肉の重みで、垂れ下がったかたちであり、実際にY字型の十字架も数多く現存している。Tもタウ十字として知られるもので、キリストがはりつけにされて架けられたときの実際の十字架のかたちであったかもしれない。十字は人としてのキリストがいなくなったあとの信仰のかたちとして定着する。

 会場は2階ではアリスに導かれて、私たちをワンダーランドに遊ばせる。3階は鏡の世界で、個々の作品だけでなく、会場全体を鈍く反射する壁紙が取り囲んでいる。壁の向こうに別の世界があることを暗示するが、実際は背後をぼんやりと映し出しているにすぎない。4階の「夢枕」と題された30点をこえるシリーズは、普遍化されたイメージが脈絡なく並列されて、夢という支離滅裂の世界にリアリティを与えている。

 4階の奥にある常設の鏡ばりの展示室では、窓越しの正面に神戸文学館のレンガづくりの建物が見える。現物と鏡写しと写真をもちいて、三者が同等に、実在を主張しあっていて、今回のテーマに、最も対応するものかもしれない。レトロな館が発する幻想文学の香りを感じるものとなっている。実際の窓をのぞきこんで、少し顔をひねると、たこ焼き屋ののぼりがはためいてみえ、現実に引き戻してくれるのがおもしろく、卑俗にして怪奇、これぞまさにYOKOOワールドだった。

働く人びと:日本戦後/現代の人間主義(ヒューマニズム)

2023年10月7日(土)~12月17日(日)

神戸市立小磯記念美術館


2023/10/13

 小磯良平の描く労働者には気品がある。過酷な労働を強いられている場合でも、強靭な肉体が、前向きな生命力を発揮している。小磯が盛んに労働風景を描いたのは1950年代で、この展覧会では同時代の画家たちの作品が集められていて、対比をなしている。

 好んで労働者が描かれた時代がある。自由に発言し描けるようになった戦後の日本で、社会主義思想が広がると、働く人の姿が堂々と絵画のモチーフになっていった。戦中での戦意高揚の時代を耐え抜いた反動のように、萎縮するのではなく明るい未来の社会を生み出す前向きな姿勢が絵画に込められていく。もちろん赤旗を掲げたデモ行進も描かれるが、ソ連や中共とは異なった、戦後日本の絵画理念では、彼らは「労働者」ではなく、「働く人」として定義されている。

 小磯良平の大作「働く人びと」1953に裸婦が登場するのは不自然ではあるが、優雅な身ぶりのなかに豊かな実りのイメージを読み取るならば、労働がもたらす収穫とみることが可能となる。虐げられた労働者という階級闘争を下敷きにしたメッセージ性の強いものではなく、絵画芸術のもつ包容力を喚起するものとなっている。

 これを同時代の海老原喜之助「船を造る人」1954と比較してみると、興味深い。真っ青な空を背景に、船の骨格の前にたたずむ労働者の姿はあまりにも貧弱だ。やせ細っていて、ロープを引き上げているのだろうか。細い杖を頼りにやっと立っているようにもみえる。顔は現場からそむけてしまっている。船の骨格は、男のやせたあばら骨のようにみえる。そこからのぞいた空のブルーは、肋骨のイエローと補色の関係にあり、たがいに対立しながらも、引き立てあっている。それは人工と自然ということでもあり、自然を前に敗北を感じながらも、それと鮮やかな対比をなすことで、アイデンティティを主張している。小磯良平の人間の力を信じた、おおらかな楽観主義とは異なった、深い苦悩をみることにもなる。労働をめぐるふたつの概念は、背中合わせに同居している。

 このテーマの展開として、近年の作例として選ばれたのが、合田誠とやなぎみわと澤田知子だったというのが、興味をそそる。ともに描き出された不特定多数は仮面をかぶったように、個性をなくしている。それにもかかわらず、描いた画家本人は、共通して強烈な個性を保持している。ユニフォームが、個性をなくすのは、かつては軍服だったが、やなぎみわの想像力では、ショールームのマネキンのような冷ややかさが、艶めかしさを演出している。職業とは機械仕掛けの人形のように決められたポーズをとり、マニュアル通りのことばを語ることだ。

 リクルートスーツを着るのが、全員自分であるという澤田知子は、自虐的なブラックユーモアを展開している。就職予備軍に向けた現代の恐怖は、合田誠の描き出した、山のように積み重ねられた働く人たちの、死者となった堆積と共通している。ゴミとなって捨てられた残骸は、メガネをかけている者もいるが、おしなべて目鼻立ちをもたないで、のっぺりとしている(上図)。個が類としてあつかわれる恐怖には、労働のもつ生産と創造の喜びはかけらもない。働く人びとは、いつからこんなふうに変貌してしまったのかと、考えはじめることになる。描かれた客体とは裏腹に、描いた主体には創造の喜びがみなぎっているというのがおもしろい。

さくらももこ展

2023年09月16日~2023年12月28日

神戸ゆかりの美術館


2023/10/13

 53歳で没というのが信じられないほどに、精力的に駆け抜けたという印象である。漫画家ということだが、絵よりも字のほうが多いのではないかと思う。次々とあふれ出るアイディアは、尽きるところはなかったようにみえる。もちろん日々の積み重ねなのだろうが、まとめて一堂に会すると確かにすごい。どこかで種が尽きて、プッツリと終わってしまうのではないかという予感が走るが、凡人が思っているものとはかけ離れている。プロとはそういうものなのだろう。

 21歳での大ヒットから30年間、ちびまる子であり続けるというのは、すごいことだ。作者と同じように歳をとっていってもいいのだろうが、多くのキャラクターは歳をとらない。少年隊や高校三年生のままのアイドル歌手の場合は、つらいものがあるが、「さくらももこ」という名もアイドルの面影を残すが、その素顔は知られないままいる。年譜をみてやっと、まだまだ仕事のできる年齢だったのにと、私たちは早すぎた死を惜しむことになる。21歳の顔を知らないので、53歳といっても変わらず、老いさえもなかったのではないかと思ったりする。多忙な日々を精一杯かけぬけていったという、爽やかな印象を残している。

 マンガの原画を並べるのが、通常の展示のありかただろうが、ここで新鮮だったのは、原稿用紙に手書きで書いた文字原稿を展示していたことだ。まるで書家のような、味わいのあるかな文字である。平安朝のかな文字に対抗した、昭和のまんが文学と称してもよいか。読みやすいのは、ひらがなばかりではない。活字体のような読みやすさでもない。心地よく絵になる文字なのだ。もちろんそれは思想と言ってもよいのだが、しかめっつらをした深刻なものでも、教訓をたれる上から目線でもない。洒脱だが真剣なまなざしが、好感度を帯びて、まるごとまる子が、氾濫しつくしていた。

超・色鉛筆アート展 ~神ワザ12人の彩りスタイル

2023年09月09日~2023年11月05日

神戸ファッション美術館


2023/10/13

 色鉛筆という誰もが経験済みの手段でどこまで、真に迫れるかが、問われている。ただの超絶技巧に終わらないためには、色鉛筆という素材が、水彩画でも、油彩画でも、写真でもないのだという視点が必要になってくるだろう。色鉛筆は色鉛筆にしかみえないということが前提なのだと思う。この画材の魅力は、何にでも変身する魔法の素材ではなくて、たとえ写真にみえたとしても、色鉛筆であることにとどまっている必要があるのではないか。

 写実が中心になる描写力では、細密画に走りがちだが、高橋由一を思わせる光の処理もあれば、水墨のぼかしをまねた朦朧体もある。写真ではこうは写せないだろうという、写真をこえた表現力に出会うと、筆を選ばなかった弘法大師の教えを感得することになる。それは技巧ではなく、心に響く光や空気の豊かさに反応したときだ。

 あっと驚く超絶技巧は、一度は驚くが持続するものではない。技巧を駆使してある程度までのレベルには到達するが、そこから先にホンモノの芸術の醍醐味があるのだろう。極めるには何十年もかかる世界にちがいない。色鉛筆の歴史もそれに劣らず長い伝統をもっている。百色の色鉛筆を購入して、使うのが惜しいほどに感動した記憶がある。

 問題はこの道具に感心するだけではなく、それを使いこなし、自分の身体の一部に肉化することだろう。はては一本の鉛筆だけで、全ての色を出せるまでになれば、それが究極の到達点ということになる。子どもが使っていた、ごくふつうの鉛筆を借りて、手もとにある裏白の新聞チラシに、何気なく描いてみせる仙人のような姿をした名人を、私は思い浮かべている。そのバンクシーのようなパフォーマンスのことを神ワザというのだと思う。描かれた作品よりも、描いた作者に興味がわいている。

野島断層保存館

北淡震災記念公園(淡路島)


2023/10/16

 野島断層を見る。地震の記憶を残す記念館である。パネルや写真が伝えるものには限界がある。目に見えるものという点では同じなのだが、モノそのものがそこにあるという衝撃は、視覚だけではなく空気を震わせて伝わってくるものがある。1995年の記憶は今でも鮮明だ。ある日突然あの揺れが、ふたたび戻ってくるのではないかという恐れは、私の体内に今も残っている。それは生き残った者の恐れであって、死者はそれ以上の揺れと怯えを感じていたはずだ。

 入口に横たわったトラックが展示されている。遊園地の恐怖の館への導入のようにみえるが、単なる見せものではないことは、続く三つの衝撃によって確認できた。一番目は動いた断層そのもので、これを見せる体育館のような長いドームは、土を見るだけのことだが、それ以上のものがある。中国では秦の始皇帝の兵馬俑の発掘現場がそのまま博物館になっているが、絶大な権力の姿を土を借りて知ることになるものだ。それに似て自然の力のあらがいがたい姿が、土に刻まれている。

 自然の力がどれだけのものかは、そこに人を立たせてみないと理解できない。それが二番目の、断層の上に立った住宅と、三番目の「神戸の壁」と称される遺跡の移設によって、体感することになる。ともに地震に耐えて生き残ったモニュメントである。人の力の不屈を感じる希望のシンボルといってもよい。

 猛威はすべてを無に期して、土に返すだけではない。骨組だけになって残った原爆ドームとどこか似ている。全壊してもよい場所にありながらも、踏みとどまった姿は、確かに復興の力をもたらすものとして、意志の強さを感じさせるものだ。偶然生き残ったと考えないほうがよいだろう。幸運や奇跡ではなくて、生き残るために働いたいくつもの、現実的なモメントを考えることで、見えてくるものがあるはずだ。それが人類の知恵となって蓄積されていくにちがいない。

 モノはいつかは崩壊する。今は立っているが、やがて時の流れが、自然の猛威と同じように、時間をかけて土にもどしていくのだろう。戦争の記憶もまたそんなふうにして風化していくのかと考えてみる。戦争が繰り返されるのも、地震と同じもののように思われてくる。ただ人災は天災とはちがうのだと確信しながら、遺跡を守っていかねばならない。

 悲劇を繰り返さないための祈りという点では、天災も人災もないはずだ。阪神淡路大震災から四半世紀を経て、施設そのものも老朽化してきているようだ。体験コーナー物産館も休止してしまっていて、運営費の不足を感じさせるものだ。天災もやがて人災によって忘れ去られていく。おしゃれなリゾート開発に長蛇の列をなしている。淡路島観光が脚光を浴びているなか、若者たちが集まり、金を落とすのが、パンケーキの店だけではないこともまた、私たちの祈りとなるものだろう。

即興 ホンマタカシ

2023年10月06日~01月21日

東京都写真美術館


2023/11/19

 人間の視覚原理をさぐる興味深い実験に立ち会ったような、不思議な体験をさせてくれる展覧会だった。一枚の写真だけでは意味をなさないかもしれない。会場のインスタレーションを伴うことで、写真をメディアとした会場芸術が誕生した。中央に穴の空いた部屋があるが、入ることはできない。穴を通して中を見ることができるが、暗くて目を凝らさないと判別することができない。会場レイアウトはカメラの原理を問い直そうとしているらしい。ピンホールから外界の光が入り、壁に焦点を結び、倒立像を映し出す。

 映し出された逆さ富士を見ながら、不思議な気分になってくる。富士山だけではない。大都会のビル群が逆さになっている。天橋立に行って「またのぞき」をしたことがあるが、それもまたカメラの原理に基づいている。水面に映し出されたフジを見ながら、虚実の世界を楽しむことができる。以前それを写した写真を逆さに展示しているのに出くわして、不思議な感覚におそわれたことがあった。抽象絵画でも上下が逆さになっていると、なんとなく落ち着かないで、不安になるのに似ている。

 要するに鏡の原理なのだが、それを写真に撮ると二重の虚構空間が生まれてくる。人間の目は倒立像に異様な反応を示すようだ。人物像を描き、天地さかさまに展示するドイツの画家がいたが、意図はわかるような気がする。逆さ富士が、水面に映った虚像なのか、実像を逆さにして展示しているのかは、あいまいなままで置かれている。すべてはぼんやりとした霧の中にある。それは夢の中にあるということであり、この作意あるトリックに夢中になってみていた。

 写真家が映画に手を出すには理由がある。ホンマタカシは映像作品も手がけている。2004年のスマトラ島沖地震から10年後の日常生活を映し出したドキュメント映画「After 10 Years」2016が上映されていた。記憶は風化するという人間のオプティミズムを考えると同時に、いつまでたっても懲りない人間の愚かさについても考えることになる。清掃に余念のないホテルの従業員を、執拗に追いかけている。海岸沿いのリゾートホテルは、いつも危険がいっぱいなのに、そんなことも気にかけずに、ゴミ集めに没頭している。

 この光景をみながら、考えさせられることになった。ブリューゲルの版画の一点、「希望」を思い出していた。七つの美徳のシリーズのひとつである。洪水がそこまでやって来ているのに、畑仕事に余念のない農民や、火事を消す人たちがいる。神の目には見えていても、人間の目には見えないことは多い。やがてはすべてを飲み込んでしまうのに、日常生活をふつう通りにおこなう人間の営みをどう解釈しようかという問いかけである。ここでも「10年後」というドキュメンタリーのコンセプトがわからないと、掃除ばかりしている人たちを写している意図は、不可解にしか見えないだろう。

 単独の写真だけではわからないということは、「アヤクーチョの唱と秩父の山」2019でもいえる。秩父に住むペルー人の女性の足跡を追ったドキュメント映画である。大都会でも英語や中国語以外のことばが聞こえるのは少ない。いなか町に外国人がいることだけでも絵になるが、その人を単独で写しているだけでは成立しない。若い頃、ヨーロッパ旅行をして、いなか町に入り込んだとき、はじめての日本人だといわれたことがあった。それを証明するためには、私の背景にそのいなか町が写し込まれている写真が必要である。ペルー人の女性歌手は自身の娘と話をしていて、ペルー語がいつのまにか日本語になっている。その場合、方言であればもっと絵になる光景だが、このシチュエーションは映画にはなっても、写真にはならない。

 文脈に置くということが、インスタレーションのもつ意味である。決して単独では成り立たないという教訓は、絵画にしても写真にしても学ばねばならないことだと思った。でも行動する個人を崇拝することでもないという気もするので、このはざまを行き来するところにアートの作品としての可能性が開かれているのだろう。

開館20周年記念展 私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために

2023年10月18日~03月31日

森美術館


2023/11/20

 目を楽しませるだけでなく、考えさせるという点でも、見ごたえのある展覧会だった。未知の作家に出会う喜びが、ここにはある。森美術館の企画に当たりはずれはない、というのが私の評価である。東京にまで来て良かったという思いをいだきながら、これまで見続けてきた。広い会場を満たすためには、独自の企画が問われるし、単独で運営するためには、資金力が前提となる。ほとんどは巡回展にならないので、東京にまで出向かねばならない。

 地球環境を再考するためには、地球を構成している、いわゆる四大元素の恵みに目を向けることになる。火と水と土と空気である。それぞれは単独でヒトの五感をくすぐるが、化合することによって変容していく。その奇跡の出会いを楽しむとき、土が火と交わると陶芸が生まれる。水と出会うと泥となる。塩田千春の初期のパフォーマンス映像に、泥まみれになって、のたくりまわっていたのを思い出した。

 この「泥」の恵みを扱った映像作品があった。アリ・シェリ「人と神と泥について」2022で、泥について考えようというわけだ。それは生命誕生の原理である。世界中の創世記は、泥から人類は誕生したと説いている。アダムは土という意味で、土をこねて造られた。人だけではない。土に水をかけるだけで、今も雑草は生えてくる。雑草などないというヒューマニズムの立場はあるが、地球誕生のころの土には、雑草などはなく、すべては養分をみなぎらせていたはずだ。雑草という概念はいつ生まれたのだろうか。誕生をさぐる必要がある。

 日干しレンガをつくる現地人の姿が映し出されている。レンガを積んでいけば家ができる。高く積むと塔になる。天にまで届くようなものをつくると、神の怒りがそれを壊してしまう。壊すのは簡単だ。神は何百日も雨を降り続ければよいのだ。それが泥の神話である。ことばで伝える神話よりも、ずっと説得力のあるのが映像なのだといことを教える。しかも絵画よりも写真、写真よりも映像なのである。泥水のなかで沐浴する姿が映し出される。生命の誕生を思わせる荘厳な気分になる。

 「土に還る」ということばから、鯉江良二の陶芸作品を思い浮かべるのは定番だが、それは陶芸とは何かという芸術の原点を問うものでもある。現代では土に還ることが必要になったが、はじまりでは土が火と出会う奇跡に驚嘆し続けてきたということだろう。

 8歳と5歳の孫を連れて公園の砂場に行った。ジョウロに水を入れて、どろんこ遊びをしたあと、まるめておにぎりを作り、太陽に当てて乾かせている。みごとな球体ができて、コロコロと転がるまでになった。つくる喜びを体感しているが、それが芸術の原点だろう。どうすれば土に還らないで、形をとどめるだろうかと、彼らは考えるはずだ。日干しレンガとなり、歴史はやがてはコンクリートのブロックにまで至ったということだが、ここまでに5000年を要している。

 敷き詰められた貝殻を踏ませる体験型の作品があった。ニナ・カレル「マッスルメモリー(5トン)」2023である。選ばれたホタテ貝にはそれなりの意味とメッセージはあったが、それよりも目ではなく足と耳で体感する鑑賞法が、ここでは問われている。きしむ音を聞きながら足をすすめていく。鑑賞者の全員が踏んでいくので、会期のはじめと終わりでは、まったく異なった光景であるはずだ。最初はホタテの形をとどめているが、終わりでは粉々になってしまうだろう。

 日本での半世紀の公害問題を長い年表にして掲示されている。関連作品のなかに中谷芙二子のビデオアート「水俣病を告発する会―テント村ビデオ日記」1972 があった。水俣病訴訟に同行取材をしたドキュメントで、今日の環境芸術「霧の彫刻」へと至る原点だった。有吉佐和子の「複合汚染」1974を読んでしばらくは、何もかもに不信のときを過ごしたのを思い出す。

大巻伸嗣Interface of Being真空のゆらぎ

2023年11月01日~12月25日

国立新美術館


2023/11/20

 あっと驚く見せもので、まずは圧倒的優位を主張して、あとはグイグイと引っ張っていったという印象である。作家の経歴については未知だったが、エネルギッシュな活動は、最初の作品の提示によって明白なものとなった。国立美術館が独自の企画として、自信をもって、無料で提供した英断にまずは拍手を。

 大きな展示室に中身の透けた巨大な壺が置かれている。天井にまで達していて、中には吊り下げられた電球がゆっくりと上下している。ひと目見た印象は、部屋に巨大なリンゴを入れたマグリットのシュルレアリスム絵画だった。ありえない組み合わせに驚異する一方で、どこから入れたのだろうかと考えはじめる。壺からもれるこもれびは、見どころでもある。次に壁に写された壺のシルエットが、電球の上下運動で変化するのを楽しむことになる。

 無料なのでこれだけで終わっても十分だったが、奥にはまだ作品が続いていた。次の部屋では風を受けてゆっくりと揺れる巨大な布が、かすかな光を受けてぼんやりと見えている。ドローイングが繰り返されていて、発想の源流を知ることができる。かきなぐりの線が、いつのまにか人体のシルエットになっていく軌跡を検証しているようで興味深い。風に舞う布が、生命体にみえるとすれば、龍がもっともふさわしい生きものだろう。

 かたちはあるが、つねに流動している。絵画とは見えないものを見えるようにすることだという定義に基づけば、美術の王道を行く。20世紀は映像の時代だったが、21世紀になって新たに付け加えられた造形活動の模索の一面を代表するものなのだろう。目には映像として映るが、制作過程は彫刻や建築に近い。この日、隣接する部屋で行われているのは日展だったが、日展のどの分野にも属さないことが、ここでは必要だったはずだ。暗に日本美術の今後の展覧会のあり方を、日展にぶつけてみせたと考えれば、さらに興味深いものとなるはずだ。

開館20周年記念展 コスチュームジュエリー 美の変革者たち シャネル、スキャパレッリ、ディオール 小瀧千佐子コレクションより

2023年10月07日~12月17日

パナソニック汐留美術館


2023/11/20

 「コスチュームジュエリー」という語をはじめて知った。宝石は私なのだという主張のことてある。つまり宝石を飾るのではなく、私を飾るのである。同時にアートとデザインのちがいについても考えることになる。イミテーションというと怒られるかもしれないが、宝石だと考えると萎縮してしまう不安がある。自由にデザインてきないのである。

 ずらりと並ぶと壮観というレベルを通り越して、華飾におぼれる欲望が浮き彫りにされてくる。名の知れたファッションデザイナーの名が連ねられている。宝石そのものが目立つ以上に、デザイナーが宝石となって輝きをはなつ。宝石で飾るはずが、いつのまにか宝石を飾るということに、コンテクストが変わってしまった。

 この人間の欲望の構図は興味深い。さまざまな具体的モチーフが、採用されている。アダムとイヴや三美神もいるが、抽象化されていて首をひねる、謎解きのようなものもある。ハートマークは愛の定番のかたちだが、珍獣もいるし、自虐的暗示もなされていておもしろい。

 ネックレスは首を飾るものだが、どう見ても首につけるには重すぎて、拷問としか思えないものもある。首に心地よいものよりも、首がしまったり突起がつきささったりするのを耐える自虐性に支えられている。魚の背骨をまねたネックレスに出くわして、思わず笑ってしまった。一角獣をかたどったブローチがあったが、見るとツノの先が尖っている。凶器に早変わりもすることを教えている。蜂のモチーフもしばしば登場した。

 宝石そのものを展示すれば、ものものしい警備が必要となるだろう。とはいえ多くの鑑賞者の目には、キャプションに模造や人工という語がなければ、判別することはできない。虚飾の図像学を知るためには、唯一無二の宝石よりも、それにうごめく大衆的欲望の姿をみる方が興味深い。飾り気のない無垢な魂を取り巻く俗的世界から、聖なる世界が立ち現れてくる。そして宝石はなく、不在の方がいいというのが、アートの原理であるにちがいない。それは科学と同じで、芸術はチリを黄金に変える術から誕生してきたものだからである。

見るまえに跳べ 日本の新進作家vol.20

2023年10月27日~01月21日

東京都写真美術館


2023/11/19

 場のもつ霊力がある。それを全身に浴びて、身につけた人がいる。磁力に引き寄せられて、その人を見つけ出し、写真に撮る。写真家は見つけ出す人のことをいう。一方でどこにもない世界を造りあげようという創造主がいる。それをカメラに収める。それもまた写真家に課された仕事である。この二つのタイプの写真家を新人のなかからセレクトして、並べて見せたというふうにみえる。ドキュメントとフィクションは、つねに対立しながらも同居している。

 淵上裕太Yuta Fuchikami[1987-]は上野公園などの路上での出会いを原点としている。そこに住み着いた住人に向けてのルポルタージュを出発点にする点で、写真の特性を、場のもつ磁力を引き寄せる道具として一元化するものだ。被写体は顔を背けてはいない。こちらに目を向けて、私たちを見つめている。その視線に射抜かれて私たちは傍観者ではいられない。映し出された写真を並べると全員が私たちに視線を注いでいて、それぞれの目の奥に東京や横浜という都市のもつ根深い、悪の華が見えてくる。地霊は人を介してその姿をみせはじめる。その存在をはっきりと自覚したときに、ヒロシマやフクシマと同じようにカタカナ表記をすることになるのだろう。

 これに対して、うつゆみこYumiko Utsu[1978-]のワンダーランドは、どこにもない独自の世界だ。本来それは写真というメディアには、なじまないものだろう。想像力が産み落としたそれぞれの生命体が、生殖活動を繰り返して、つくり上げた独自の変種が増殖し続けている。写真の多様性は今では、写真集とは異なった写真展のありかたを模索している。5人展として、5つのブースに分けるのではない方向性も、企画側の意図としては考えられるだろうが、まずは5人の作家紹介から入るというのが妥当なのだろう。ともに今後の写真展の展開を期待できる展示風景だった。

art resonance vol.01 時代の解凍

2023年10月28日~2024年02月04日

芦屋市立美術博物館


2023/12/3

 興味深い企画だった。館蔵品を現代作家と組み合わせて見せるということで、これまでの常設展と企画展の乖離を解消しようという試みである。それによって過去と現代をつなぐ、脈々とした美術の系譜がたどられる。ここの美術館は、常設と企画の展示室の区別がなく、大小ふたつの展示室とロビーを使って、四つの独立した空間を確保して、四人の作家に割り当てたようである。もちろんそれぞれに通底している企画意図はあるが、これまでの学芸員という固定された価値観を開放して、美術史よりも制作論という立場で組み直すことで、歴史を現代によみがえらせようとする。生きているミュージアムのあり方が期待できた。

 野原万里絵は、山田正亮の作品を並べるだけでは、理解できなかった抽象絵画の制作の秘密を、画家の残した制作ノートを読み込み、下線を引いて、自作に反映させて、並べることで相乗効果を可能にした。ともに単独で見るよりも、魅力的に見える。野原の絵は初めてなので、単独でみたときとの比較はできないが、山田の方は、以前に国立美術館での回顧展で山ほどみた記憶がある。これほど大量に抽象絵画を描き続けること自体が驚異的だったが、今回その理由を知ることができたし、解釈の深みに気づかせてくれた。

 野原の読めない文字は、それを媒介して美しく、山ほど蓄積された書物を残像に残した見開きのページが、文明の年輪を悠久へと誘ってくれる。発掘して出てきた未知の、滅び去った文明の跡形が、文字に刻まれた、あるいは壁に隠し込まれた万巻の書が、そこに発掘されたようにみえる。山田の抽象を模写するようになぞることで、体得していく精神性は、写経にも似た無我の中で、真理へとたどり着こうとしている。かつての高僧の姿をほうふつとさせるものだった

 髙橋耕平のロビーに広げられた写真とオブジェの組み合わせは、全体としてまとまりのある統一体となっているが、個々にディテールを見ていくとさらにおもしろい。視覚の衰えた高齢者の目には、すべてがフラットにみえてしまうのだが、写真に移されたものをその上に置いて、つなげて見せると、現実と虚構が錯綜する。原理としてはコンバインペインティングと呼んでもいいし、飛び出す絵画と言ってもいいだろう。よく考えているなと感心しながら、見続けることになった。それにばかり気を取られて、壁面に並んだ津高和一の諸作品を見落としてしまう。展覧会の趣旨からいうと津高の抽象を解読する一助になっているはずで、いずれゆっくりと考える必要がある。

 黒田大スケのキューレートには笑ってしまった。田中敦子、堀内正和柳原義達、エミール=アントワーヌ・ブールデルという立体表現に向かう彫刻家に対話をさせて、映像作品にした。アニメーションといったほうがいいか。鼻に紙を詰めて目に見せかけて、口を大写しにして動物に見立てている。電気と光を使った作品で知られる田中は、電気屋に姿を変えて、黒田自身が演じている。堀内と柳原の作品が並んでいて、抽象と具象という絵画の分類が、彫刻でも有効だと気づかせてくれる。その隣にあるのはブールデルのレリーフ彫刻で、彫刻はもともとは絵画から派生したのだということも教えてくれる。さらには電気と光に変貌する空間造形としての彫刻の展開も見据えているようにみえる。 

 藤本由紀夫は山崎つる子を同伴者に選んで、光や反射で見せる映像を絵画にぶつけたが、田中敦子をパートナーに選んだほうがよかったかもしれない。田中のベルの作品は、黒田のコーナーに置かれていたが、藤本の音のする作品と並べてみると、さらにおもしろいだろう。ボタンを押してくれという表示にしたがって押すと、けたたましい音がする。美術に音の衝撃を走らせることで、視覚の純正を誇ってきた現代美術の主流に、暗殺を企てたという点では、ふたりは同犯者というほうがいい。

 田中のベルは不意打ちを食わさて驚かせるが、暗殺にはふさわしいしかけだ。これに対抗するように、藤本はビー玉をガラス瓶に満載して回らせ、その秘めやかな音色に耳を傾けさせた(上図)。これは少しずつ薬を盛っていく毒殺に近い。かすかに聞こえるシシ落としの風格を感じさせるが、ともに卑近な日常性に支えられているものだ。作品が領域を超えて、私の中で「共振」してしまった。時代の解凍は見ている私たちをも巻き込んで進化していくものだろう。展覧会で表明しているart resonance vol.01の今後を期待したい。

万博と仏教 —オリエンタリズムか、それとも祈りか?

2023年08月05日~12月25日

高島屋史料館


2023/12/4

 2025年の大阪万博開催にあわせたタイムリーな企画であり、1970年万博を経験した者にとっても、懐かしい記憶をよみがえらせてくれるものとなった。太陽の塔が残っているのは、パリ万博でエッフェル塔が残ったのと同じで、まれに近く、人類の意志の力を感じさせるものだ。ふつう博覧会がおもしろいのは、会期後にいさぎよくつぶされるからで、時代の技術の粋を集めて築かれたものが、みごとに土に帰るはかなさの美学に裏打ちされている。

 影も形もなくなったものを、当時の写真資料から、再現してみる。写真でしか残らないからこそ、比較をしての考察が可能となる。「仏教」に目をつけて、万博史をたどってみると発見があった。そんなことを私は考えてみたこともなかった。パビリオン模造を通して、精神史を通観すると、見せ物から祈りへという道すじがみえてきたというのである。

 オリエンタリズムの名で、東洋をおもしろがる西洋の目は、精神性を抜きにしたエキゾチシズムに根ざした見せ物という点にあった。自分たちが見おろしている、上から目線の先に、万博の理念はあったようだ。東洋の神秘ともてはやしはしても、尊敬をしているわけではないのだろう。興味本位の好奇心が、破綻をきたしたのは、1970年の大阪万博からだったという定義を、下してみる。

 会場構成は当時の日本館を模して、中央に庭をつくっていて、まわりに資料展示がなされている。庭には国宝クラスの仏教彫刻を散りばめて、敷き詰められた赤い砂利を、丸石を渡りながらみていく。資料展示では残された現物の展示品もあるが、万博史を仏教との関連でたどった年譜がすぐれたもので、その前に立ちながら、あれこれと考えさせられた。日本館を写真でたどることができる。多くは仏教建築を模している。短期間にそんなものをよく建てたなと感心するのは、戦国時代から続く築城術のおかげだろう。会期が終われば跡形もなく消滅するのも同時代を思わせる。安土城を思い起こしてみていた。その雄大な姿は夢のまた夢として、歴史に記憶されている。

 仏教は日本のものであるという世界認識が興味深い。そこには信仰はないのに慣例はある。日本で開催するという配慮から仏教国でもないアジアの諸国が同調した。仏教誕生のインドでさえ、仏教徒はいなくなっていた。それでも仏教遺跡は残っていて招来された。万博美術館も仏教美術で飾られた。多くの仏教徒が訪れると、仏像の前にはコインが捧げられることになる。見せ物が信仰の対象に戻った瞬間なのかもしれない。

 1940年の日本開催予定と、1942年のイタリア開催がともに中止になった。ともに大戦の敗戦国である。戦後はじめては1958年のブリュッセルだった。世界の平和を取り持つ小国ベルギーでの開催という点が興味を引く。戦争で中断するのはオリンピックとも共通するが、そんなことをしている場合ではないという声はいつもある。名誉をかけて大国同士が競い合うが、今回でいえばロシアが参加するわけがない。

 1970年は大阪万博であるが、70年安保の年でもあった。反対運動は美術の世界でも盛んであった。仏教館の建設についても反対論が、仏教徒の青年組織には根強かったようだ。宣伝を目的としたデモンストレーションが、経済効果をこえて、信仰のあかしとなる保証はないようにみえるのだろう。私もその頃は大阪にいて、万博反対に同調しながら、それでいて何度も見に行った記憶がある。

堀尾貞治 あたりまえのこと 千点絵画

2023年10月17日~12月24日

BBプラザ美術館


2023/12/22

 息の長い歩みから見えてくる真実がある。あたりまえでなくなるまで、あたりまえのことをやり続けるのだという。中学を卒業して造船所に定年まで勤めあげる。このことはあたりまえのことかもしれない。一方で美術をこころざし、作品を制作し続ける。趣味が職業に結びつくのは幸運だが、稀なことだ。たいていは挫折をして、筆を折ってしまう。家庭をもち、生活するだけで精一杯なら、それどころではないということになるだろう。

 年譜をたどりながら、そんなことを考えて見はじめたが、作品の圧倒的な迫力を前にすると、個人の生涯などはどうでもいいように思えてきた。すべての作品に大きくサインと日付けが書き込まれている。それは自己主張でもあるのだが、作品の重要な要素になっている。とにかく生涯をかけて制作を続けた。没後の回顧展だということは、過去形で語れるということだ。作品がなければ回顧展は成立しないが、圧倒的な作品量は、有無を言わさず実感させるものがある。千点絵画というのだから、千点が並んでいたはずだ。そしてそれらは確かに残っているのだ。ここではそのうちの276点が展示されていて、そのパワーを思い浮かべるのに十分だった。

 人にはクセがあって、それを個性と呼んでいる。放っておけば、知らぬ間に同じ方向に進んでいくものだろう。ここではすべてが抽象絵画だという点では共通するが、一点として同じ作風になることを嫌っているようにみえる。感覚が求める方向をあえて逸脱して、反対方向に舵をとり、それによってバランスをとり、絵画として自立しようとしているようだ。こんな絵もある、あんな絵もあるというバラエティを楽しみながら、個々の作品としての小宇宙が、全体をなす大宇宙と共鳴しあっていることに気づく。

 サイズが統一されている作品群は、展示会場に応じて、さまざまな変容を示す。変奏曲と言ってもいいが、別のサイズの一群と響きあって、交響曲を奏でているようにみえる。壁面をおおいつくすだけではあきたらず、地面にまで各パーツは広がりはじめている。全体を見つめ、個々を見つめ、隣り合わされたものを比較し、そこに新たな化合の奇跡を体験する。隣り合わされる偶然が、一瞬奏でる即興にかける。それは作家が思い描き、キュレイターが引き継いでいくものだ。残されたパーツを組み合わせて、新たな変奏曲が生み出されている。

 作家の生涯が完結したという安心感は、確固とした安定感を生み出していた。多くの作品には2016年の日付けが書き込まれているので、77歳のしごとである。生没年は1939-2018年、理想的な画家像ではなかったかと思った。活動には適齢期があるとするならば、若い日に燃え尽きる芸術家像もあるだろう。二十歳過ぎればタダのひとという名言もある。一攫千金をねらっての、野望に満ちた一発勝負の生き方も、魅力的なものにちがいない。

 にもかかわらず、人生設計を考えて地道に歩み、作品を残したという、何ものにも変えがたい事実が、ここにはある。それは前提となる条件であるが、残ってきたという現実は、残したいという意志の力でもある。しかしそれだけではない。それ以上に残るべくして残ったのだと思う。孤独ではない、先達がいて仲間がいた。共有できる価値観があったという点は重要だ。千点絵画が千年絵画になるには道のりは長いが、その第一歩となる展覧会だった。自己の価値にまだ気づいていないような、荒削りでエネルギッシュな作品群は、潔癖な若者だけではなく、老人にも生きる勇気を与えてくれるものとなった。

生誕120年 安井仲治—僕の大切な写真展

2023年12月16日~2024年02月12日

兵庫県立美術館


2023/12/22

 38歳で没した写真家なのだがその作品世界が創り出す宇宙は広大だ。ワンパターンで終わっても、写真家としての力量は十分あったように思う。大阪の古き良き商都の風格を携えて、今は亡き街並みの、新興芸術に向ける息吹を感じ取ることができた。はじまりはゼラチンシルバープリント特有の、おぼろげなのに深みのあるリアリズムからで、おわりはシュルレアリスムと歩調をあわせた、ありえない世界をみつめる幻覚へと至る。

 写真というメディアへの信頼感は、それにどっぷり浸かって遊んでみせる余裕に見い出せる。遊び心は影がひとり歩きする不思議(図1)であったり、二重露光による偶然の出会いであったりと、写真術の可能性に向けての探究心から加速していったようだ。カメラの目を通して気づくことがある。

 蛾が蝶以上に美しいものだという目も、それによって開花する。それはまるでステンドグラスの輪郭だ。ティファニーのガラス工芸といってもよい。生命体がつくるフォルムの美には、蝶も蛾もないのである。街並みにはかならず、それがどこかを知らせる目印がある。それを探すのも写真鑑賞の醍醐味となる。写真家はそのことをよく知っていて、なにげなく見えるところに、キーワードを置いている。仁丹や住友生命の看板や文字がみえると、平野町だと界隈のひとは気づく(図2)。知らないひとは、それがどこだろうと界隈を歩いてみる。それもまた古き良き大阪をさぐる楽しみである。

 私の育った安治川のほとりには、対岸を結ぶはしけがあった。ポンポン船と呼んでいたが、それを思い出させる写真に出くわすと、急にタイムスリップしてしまう(図3)。それだけで十分写真の価値はある。でもそんなふうには写せないので、写真家がプロとして必要となる。時代の証言となるためには、美しくなければならない。美しくなければ生き残ることができない。美しい写真は残ったのに、自身は短命に終わった写真家を忍びながら、美のはかなさについて考えていた。

 早春譜と名付けたくなるような、少女たちを遠望する春先の光景がいい。モノクロ写真なのに春の色がついている(図4)。消え入りそうな通り過ぎる季節の一コマが、確実に時間が停止してとどまっている。ユダヤ人の憂いを秘めた不安げなまなざしが、窓ごしにみえる。一瞬がとらえた民族の永遠なのだと思う。犬小屋から顔をのぞかせている犬は、鉄格子に閉じ込められて、同じ孤独を喚起する。キャプションがわりに犬小屋にかけられた、文字の書かれたプレートから、犬の思いを読み取ろうとする。

 影は現実では幻でしかないが、写真では実在となる。鎌と斧が置いてあるだけの写真がある。この確固とした実在以上に、影が生み出すシルエットは強力で、BとKという文字が浮かび上がってくる。ここでは鎌と斧のほうが文字をなぞるシルエットになっている。シュルレアリストがおもしろがったように、写真では世界が逆転するのだ。女性のアップにされた顔とグラスと手が二重写しになっているのも不思議だ(図5)。わかりっこないのに、両者の関係を考えてしまう。鎌と斧をみながら、BとKはなにかと考えたのと同じようにである。私より50歳年上の、世界にビビッドに反応する目がとらえた、忘れがたい写真群に出会うことができた。

図1

図1

図2

図3

図4

図5