第12章 ボスとブリューゲルの時代

ボスの評価/社会的背景/風刺画/七つの大罪/聖アントニウスの誘惑/最後の審判/快楽の園/ボスの時代/ブリューゲルの世界観/ブリューゲルの主題

第362回 2022年9月11

ボスの評価

15世紀末から16世紀の転換期にネーデルラントに現れた異色の画家がヒエロニムス・ボス(1450c.-1516)である。これを出発点とする幻想絵画の系譜、さらにはアントワープを中心にイタリア影響の強いマサイス、ファン・レイデン、アールツェンなどマニエリストが登場する。一方、16世紀中頃アントワープで活躍したブリューゲルは、ボスを出発点にしながらも、新しい時代の幕開けとも呼べる視点で風景画に着手する。ここではブリューゲルの絵画作品に加えて銅版画というメディアの重要性、さらにはハーレムにはじまるホルツィウスなどの後期マニエリスムの作例についてもふれてみたい。

 ボスは15世紀の末、ブリューゲルは16世紀の中頃が活躍時期だ。知名度からいうとブリューゲルの方がよく知られる。ボスはブリューゲルの師匠的な存在だ。現代の目から見るとボスの方がブリューゲルよりも謎めいて圧倒的におもしろいというみかたも成立するが、そのおもしろさは中世の計り知れない人生観なり世界観なりがベースになっている。ここではルネサンスの話をしてきているが、ボスはファン・アイクからはじまってくる油絵の伝統上にはのっているが、そこに出てくる図像とイメージ世界は、決してルネサンスとはいえないものだ。おどろおどろしい中世の闇を丸ごと引き継いでいるようなところがあって、それが現代に強くアピールするところだ。

 ボスの評価は20世紀になってからで、最初に目をつけたのはシュルレアリスムの作家たち、ことにアンドレ・ブルトンなどがボスをおもしろがったのがはじめだ。ちょうど日本で縄文土器がおもしろいと岡本太郎などが言いはじめて、縄文が現代によみがえったのと似ている。ボスというのはその当時は何か奇妙な絵を描く画家だとされていて、それが20世紀のシュルレアリスムが出てくると、そんな発想はすでにもう五百年も前にやっていたものがいるというようなかっこうでボスが再評価されてくる。そこからボスの遺品さがしがはじまっていく。あちこちさがすと結構ボスふうの作品が出てきたが贋作も多く、16世紀なかばボスの没後4・50年たって量産されたコピーもずいぶんある。署名もあるが少しあやしいというのをのぞいて、現存で40点くらいの作品はそろう。これだけあれば作家のものの考え方や、その当時の文化的嗜好を読み取ることができる。

第363回 2022年9月12

社会的背景

 ボスとブリューゲルの時代、当時の社会風刺の芽が出てきている。ルターの宗教改革が1519年に起こる。キリスト教権力の腐敗がベースにあって、教会に対する痛烈な批判が起こってくるというのがバックボーンにある。ボスの絵のなかでもずいぶんと社会風刺の文脈が読み取れる。教会をこんなにも風刺していいのかと思えるものまで出てくる。

 それでもボスの生涯を見ていくと、属していた教会はカトリックのきびしい正統性に貫かれていたし、そこで厳かな葬式も行なってもらっているので、決して異端とはいえないものである。ボスの解釈のなかでボスがアダム派という異端の宗教に属していて、ボスの代表作「快楽の園」はその秘密結社に祭られた祭壇画だったのだというセンセーショナルな解釈がなされたことがあった。その結社はいわばヌーディストクラブのようなもので、キリスト教では生殖以外の性行為はきびしくチェックするのだが、そこでは性的乱婚を認めていてそれにボスは入り込んでいたのだという。

 この説がセンセーショナルなものだったので、ながらくボスはキリスト教異端の造形だということになってしまっていた。その後、洗い流しの研究がなされたが、異端の影は全く出てこなかった。生涯の記録があまりにも少ないものだから、あえて記録を隠していたのではということも考えられた。ブリューゲルにはイタリアに行ったということも正確な記録として残っているが、ボスの場合はまったくといっていいほど出てこない。絵画だけが残っていてそれから類推するしかない。

 ボスの生まれたのはス・ヘルトヘンボスという町で、ボスの名は森という意味だ。森はオランダでは縁のないイメージだ。オランダの内陸部で盆地になっていて小さな森となっていた。そこから「大公の森」という意味のス・ヘルトヘンボスという地名が出てきていて、ボスはここから自分のあだ名を見つける。自分自身で名付けたものかは定かではないが、そこにはこの都市を代表するという意識があったのだろう。オランダ語のボスは英語のブッシュに対応するので、森よりも林というほうがよいかもしれない。ともに日本にも多くある姓だと考えれば、無理に都市名と結びつける必要もないかもしれない。

 生前からボスの奇想を愛したコレクターがいて、当時はネーデルラントで4番目くらいの規模の地方都市だったが、そこに住む画家としてインプットされていたということだ。ボスの絵画がイタリアも含めて貴族の間に散らばっているのは注文の広がりを示すものだ。ことに中心になってたくさんあるのはスペインのプラド美術館で、それは16世紀後半期になってからフェリペ二世(1527-98)という風変わりな趣味をもった国王が、ボス好きで収集をはじめたことによる。その頃はボスが死んで半世紀も経っているので収集には苦労をしたが、何とか集めて王宮にいれた。そのあとネーデルラントでは宗教改革の嵐が吹き荒れ、祭壇画を中心に宗教画はイコノクラスム(偶像破壊運動)のあおりを食って破壊されてしまう。

 ボスの作品もネーデルラントにあったものはその段階で多くが被害をこうむったはずだ。現在ボスの最大のコレクションがプラド美術館にあるというのもそのような事情によるものだ。早い段階で国外に流出したのが幸いしたともいえる。オランダに残っていたら画家の名声も今ほどのものでは決してなかったはずだ。

 ボスの生まれたス・ヘルトヘンボスの中心部にシント・ヤンス聖堂がある。当初はここにもボスの作品が何点かあったが、今はボスの父アントニウスの作品があるくらいだ。それは取りたてて問題にするほどもない作品だ。父も祖父も画家であり、ボスの本名はヒエロニムス・ファン・アーヘンという。アーヘンはドイツの地名で、一族の出身地を示す。当時ネーデルラントは経済的に大きくなってきており、ス・ヘルトヘンボスもナイフなどを製造する金属加工の町として発展しつつあった。画家という職も需要があってこの町に移住してきていた。ボスの一族も何代か前にここに住みつき代々画家の家系を受け継いだ。

 画家だけではなくいろんな仕事に携わっており、一種の工房をつくってイヴェント業のようなことにもなっており、カーニバルなどがあればその時の屋台の制作や、仮設の見世物をつくるということも含めて生業としていた。ボスも当時のいろんなおもちゃ道具の類いもそれぞれの行事にあわせてつくったのだろうが、それらは今は全く残らない。それらはたいていが仮設であり、日本でも博覧会があればそのたびにいろんなものをつくるが終わればつぶしてしまう。むしろそれら仮設の消耗品制作の方に力をいれていたのではないかという気もする。

 バックボーンとしてはこの教会がスポンサーとなっていろんな仕事をもらっていたようだ。おどろおどろしい地獄絵のようなものも、当時のカーニバルのドンちゃん騒ぎなどを背景にして見ると違和感なく入ってくる。いわばその場限りで姿を消すインスタレーションの舞台装置としてボスの世界は、当時の市民権を得ていたにちがいない。

 日頃は禁欲的な生活をしているが、カーニバルの時期であるとか一年に何度かは、羽目をはずして騒ぐ。ヨーロッパの祝祭は、日常との落差によって成立している。仮面をかぶって破廉恥なこともやってのける。祭のときには何をやっても許されるということでもあり、それを盛り上げるイヴェント屋として画家は力を発揮していたのだろう。それは一種のデザイナーということでもあっただろう。それらのほとんどは今では残らないが、残らないからこそ、年中行事のデザイナーとしてつくり続け、職業として成り立った。そして宗教的にがっしりした枠組をもった祭壇画などの形式だけが残った。

 美術の流れを見るときにはそういう消耗品としてなくなってしまったものを見落としがちだが、それらはボスなどの偶然残された異質に見える造形を通じて感じ取ることができるということだ。祝祭とはたぶんそういうものだったにちがいない。

 シント・ヤンス聖堂の博物館には当初は教会の屋根の部分を飾っていた石彫の怪物が数多く残されている。それらはボスの絵のなかに出てくる怪物との同質性をもつものもあり、ボスの発想源のひとつだった。屋根のひさしの部分に施されるガーゴイルという怪物は、大きく開けられた口を伝って雨水が流れ落ちる。これらはネーデルラントだけではなく12・13世紀の教会には常に出てくる装置で、パリのノートルダム聖堂の怪物はよく知られるものだ。これらはふつう人目につかないところにあるものだが、中世のイマジネーションを知るには格好の材料である。

 ボスの造形はこれらの教会の怪物からは二百年も後のことではあるが、中世の伝統を色濃く引きずっていることは確かなようだ。ボスはこの面では中世に肩までどっぷりと浸かっていた人間だったといえる。教会の回転式椅子にもボスのイマジネーションは潜んでいる。ミゼリコルドという尻にひく椅子の裏側は、中世以来モンスターの生息地だった。

第364回 2022年9月13

風刺画

 ボスのi作品群には「手品師」(1475-80)や「愚者の治療」(1475-80)など風刺画が知られる。ともにイカサマ師のいる日常風景である。広がりのある野原を背景にしてテーブルを囲んで何人かの人たちが集まる。端にいるのはメスを持っていて外科医である。椅子に座った男の頭のてっぺんをメスで切り裂いている。血が流れているところが見える。愚者の治療というのは当時、実際に行われたことだ。今だったら愚かさは薬を飲んで治ったりはしないものだが、当時は愚かさというのは病気であると考えられ、原因は頭に石がたまることだといわれていた。頭にたまった石を取り除いてやると人間の愚かさは直るのだという。

 これはイカサマの治療であるが、頭に石のたまる病気はあっても不思議ではない。胆石とか尿道結石などの病気が知られるが、体のなかに固形物ができるというのは実際にはある。イカサマの治療では外科医が隠し持っていた石をまるで頭から出てきたように、血まみれにしながら患者に見せる。患者が動転しているすきに、相棒がスリをしたり金目のものを盗んだりするのだ。頭を切り裂いて石を摘出している絵は、ボス以降17世紀に入ってもいくつも出てくる。そういうものがたくさん絵になっているというのはどういうことだろうかと思う。愚かさを治療するという話があって、それがイカサマ治療だということになれば、一枚描かれただけでもうそれにだまされるものはいないと思われるのだが、実際にはこうしたイカサマ治療は繰り返し行なわれたようだ。

 しかしボスの絵をよく見ると、頭から出てくるのは石ではない。チューリップの花のようなものが頭の頂きから顔を見せている。チューリップが頭からなぜ出てこなければいけないのか。本来は石が出てくるところを花が咲いたというのは、ボス独特のパロディのように見える。それはこの男が決して愚かではないことを意味している。

 中央に壷を持っている男、右端の男女は明らかに修道士と修道女で、教会の聖職者に対する風刺的な意味合いが見える。女の方が頭にのせるのは聖書だろうか。椅子に座る男も腹がでっぷりとして、いかにも口も半分開けて、自分は愚者だといわんばかりの顔つきだ。外科医はジョウロを頭からかぶっているが、逆さのジョウロもボスの絵で盛んに出てくるものだ。こういう場面は当時のカーニバルなどで演じられていた一幕ものの芝居の光景を下敷きに描いたのかもしれない。一種の野外劇である。

 バックに広がる風景は、次の時代のオランダ風景画を先取りしたような出来映えで、ボスがファン・アイクから続くオランダの油絵の伝統を踏まえながら仕事をしていて、風景という自然に対する目というのも敏感に感じ取っていた画家であったことを知らせる。

 「愚者の船」(1490-1500)はルーヴル美術館に所蔵されるのでよく知られた作品だ。小品だが15世紀後半期に特有なセバスティアン・ブラント(1458-1510)などの詩を通して一般化した「愚者の船(阿呆船)」という概念を絵にしたものだとも言われた。ドイツの詩人だが小さな船に愚者を満載して愚者の楽園ナラゴニアへ旅立つという話である。これも当時実際にライン川に実在した船でもあったのだといわれる。それは精神疾患をもった患者を集めて乗せた船だった。

 ミシェル・フーコー(1926-84)が著作「狂気の歴史」(1961)の第一章で「愚者の船」を扱っている。いわゆる狂人や愚者といった精神障害者はもともと神に近いものという考え方があった。「痴愚神礼讃」(1511)というデジデリウス・エラスムス(1466-1536)の著作が出されるのもブラントと同時代である。愚かさは神に近いものだという考えかたで、イノセントという無知を表わす言葉は、無邪気とも訳されるが、純心無垢な神に近い概念である。一方で知恵遅れをもさすということだが、人間を越えていることでもある。

 それがやがて愚者を船に乗せて追放するという流れに変わってくる。狂気は危険なものであり、犯罪を起こす因子を持つというわけだ。船に乗せて町から別のところに送り出すというのが16世紀に起こってくる狂気にたいする社会の次の反応である。17世紀になると今度は追放から隔離へという流れになってきて、この段階でいわゆる精神病院というのが成立するというのだ。人格を無視して隔離するという体制は、刑務所の形成とも対応するものだろう。

 ここでは愚者が集まって宴会をしていて、今にも転覆しそうな船である。揺られながら愚者の王国へと向かう。しかしこの船自体は一種のパラダイスでもある。中心にいるのは修道士と修道女で、聖職者を風刺の対象に選んでいる。彼らは口をあけてコーラスをおこなうが、目の前にはパンがぶら下げられていて、それに向かってかじりつこうと口を開けているようにも見える。

 右端では酔っ払って船からへどを吐くものもいる。船には魚がぶら下がる。木がもちこまれマストになっている。船に木が生えるというのはよく出てくる図像だが、繁みにはマスクかフクロウが潜んでいてこちらをのぞいている。長いペナントが翻っていて、当時の異教の地であるトルコを意味する三日月が描きこまれている。中間あたりでナイフを持った男が、ローストチキンを束ねてくくりつけてあるマストに向かっている。意味のあることをしている者はひとりもいない。今は縦長の一点だがはじめは祭壇画の一部だった。ルーヴル美術館にあるのでよく知られた作品だ。

第365回 2022年9月14

七つの大罪

 「七つの大罪」(1480c.)はプラド美術館にある風刺的文脈の作品だ。テーブル絵になっていて上からのぞきこむようにしてみるものだ。四方どこからでも見れるものである。円環をなして七つの悪徳の場面が描かれる。キリスト教では「七つの大罪」というのが重要視されていて、映画でも「セブン」などというサイコミステリー作品も知られる。それぞれの罪は、吝嗇、大食、嫉妬、肉欲などで、それぞれを当時の日常生活から取材をして描きわけている。

 ひとつずつ見ていくとおもしろく、後ろ姿を見せている女性がいて鏡に自分の顔を写しているが、これは「虚栄」「高慢」(プライド)のシンボルである。「大食」の罪の場面には、大酒のみと大食いがいて、酒飲みは痩せていて、大食いはでっぷりと太っている。裁判官がいて後ろに手を回して袖の下をもらっているところは「貪欲」の罪だ。「怒り」の罪は剣を振りまわして喧嘩をはじめ刃傷沙汰に及んでいる。

 中央にはキリストがいてそれらの愚かしい光景を見ている。場面は人間の目の構造になっていて、「気をつけなさい、キリストが見ていますよ」という書き込みが読める。明らかに日常生活のいろんな愚かさをいつもキリストは目を光らせて見ているのだと教える。しかしそこに描かれたのは教訓を含むとはいえ風俗画的な要素が強いものだ。

 四隅には「四終」と呼ばれるテーマが描かれる。上には人類の終りである「最後の審判」と個人の終りである「臨終」が、下には「天国」と「地獄」が描かれる。左の下の地獄の画面がこの後、どんどんと増殖していって、ボスは地獄の画家に成長していく。

 比較的初期に制作されたものにはこれら風刺的色彩の強いものが多かったように思われる。そして次の大作への移り変わりの時期に描かれたのが、「乾草車」(1500-02)という観音開きになったトリプティーク祭壇画である。現存のものは、用いられた板材の年輪測定よりボス晩年に近いと推定されるが、早い時期に構想された構図にちがいない。左の翼面にはアダムとイヴの出てくる「エデンの園」が描かれ、右には「地獄」が描かれる。中央には乾草を載せた車があって方向としては楽園から地獄へと向かっている。

 雲の上ではキリストが顔を出して両手を上げる。そのポーズはこの世を見ながらどうしようもないなというギブアップの姿であるようだ。この絵の読み取りかたとしては楽園と地獄が左右にあるから、一種の「最後の審判」として解釈できる。キリストが最後の審判をして天国行きと地獄行きにふるいわけるというテーマになっているが、ふつうはキリストに代わって審判を代行する大天使ミカエルが出てきて、秤の上に人間を載せて魂の重さを計るのだが、それがなくて現世のありのままの姿が写し出される。

 そこでは何をやっているのだろうか。乾草というのは何の意味もないむなしさの象徴である。ヨーロッパでも日本でもわらを積んで山のように盛り上げた光景は見かける。それはボスが絵にしたが、そのあとでも何度となく絵になっている。19世紀にイギリスでコンスタブルが乾草を積んだ車を大作にしているし、モネも積みわらをテーマにシリーズ化している。何の意味もなく、描くこと自体にも意味を見出し難いわらの山であるにもかかわらず、モチーフとしての系譜はあったようだ。

 モネの絵を見るとそんなものの何がおもしろくて絵にしたのだと思ってしまう。別に色彩を問題にしたいのなら積みわらを描かなくても他にいろいろありそうなのに、モネはこれにこだわり、朝昼夕方と描き分けてそれぞれのヴァリエーションを残している。

 その意味ではモチーフそのものが意味をもっていて、そういう伝統の上に立ってモネは積みわらに目が向いたのだろうという気がする。その系譜をたどると、コンスタブルを経由してボスにまで行きつく。積みわらは何の意味もないのだろうけれど、それを手に手に争いながら手前では殺人まで起こっている。空しいものを求めて結局は殺人まで犯してしまう人間の愚かさを風刺しているということだ。天上ではキリストが見ていて唖然としてなすすべを失っている。

 そうした人間の愚かさに対してここではバックの風景が対比的に描かれていることを見落としてはならないだろう。風景はパノラマ的で広がりをもち、世界の広さを背景に手前の限られた人間社会の閉塞性が浮き上がる仕掛けになっている。ここで乾草の後ろに出てくる馬に乗った人物のなかには、頭に三重の冠をつけたローマ法王がいるし、枢機卿や神聖ローマ皇帝まで含まれている。彼らは全員地獄に落ちて行く方向性をとっている。乾草車の先頭にいてそれを地獄に向かって引いているのは怪物たちであるが、乾草の山に隠れて車に従う者にはそれらは見えない。これらは当時の社会風刺のようにも読み取れるが、こんなのがよく平気で描けていたなと思ったりもする。

 手前ではでっぷりと太った女子修道院のボスのような女性がいて、手下たちは積んできたわらを袋に積めこんでいる。真正面の下では大きな口を開けて、歯の治療が行なわれている。歯の治療もボスやブリューゲルの絵ではよく出てくる。頭を切り裂く愚者の治療と同じく、歯を抜いているすきに財布を盗むというイカサマ師を写した絵が多数現存する。ここでは盗みが意図されているかどうかはわからないが、そばにいる山高帽の男とともに、いかがわしい職業であることは確かなようだ。これはプラド美術館にある大作の一点だ。

第366回 2022年9月15

聖アントニウスの誘惑

 ボスには祭壇画で重要な大作が3・4点ある。その一点がリスボンにある「聖アントニウスの誘惑」(1505-6)である。これはグリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画にも出てきた主題だが、アントニウスは当時の原因不明の流行病を直す聖人としてポピュラーであった。この作品の注文の経過については知られていないが、ボスはこれ以外にも多くの同画題を描いている。

 アントニウスは3・4世紀の聖人でアフリカの砂漠で修行をした。その聖人に誘いをかけていろんな悪魔がやってくる。誘惑というのは聖人の体にむち打って叩きのめすというものと、悪魔が女性に変身して色仕掛けで誘い込むというものとがある。ボスの場合はどちらかといえば後者の方が主で、アントニウスは中央パネルでは情けなさそうな顔をしてこちらを向いている。その横にひとり着飾った女性がいるが、これが悪魔の変身であることは彼女の着る服のすそがトカゲの尾のように長く延びていることからわかる。

 左翼面はアントニウスが悪魔の攻撃を受けて失神してしまって、それを三人ほどで抱えてアントニウスが住んでいる小屋へと連れて行こうとしている。上空ではアントニウスが空中に上げられてむち打たれるところが描かれる。右翼面ではアントニウスに向かって木陰で裸婦がひとりいて誘いをかけている。アントニウスはそれに対して弱々しげに耐えているようだ。

 聖人のまわりではサバトという悪魔の宴会がもようされている。悪魔たちが宴会を開くがひとりは楽師で、ハーディガーディという手回し琴やリュートをもっている。こうした楽器は当時の物乞いたちが施しを受けるために演奏する道具だった。吟遊詩人といえばかっこいいのだが下層民の姿としてイメージされた。アントニウスは肩をすくませて何ともいえない複雑な表情を浮かべている。

第367回 2022年9月18

最後の審判

 「最後の審判」もいくつかの図柄をボスは描いている。ふつうこのテーマはキリストが出てきて審判を行なうが、中央にある場面は審判を行なう現世の光景だ。左は天国、右には地獄がくる。ボスの描く最後の審判は、中央の場面がほとんど地獄と化してしまっている。これが描かれたのが15世紀末だとすると、世紀末的な暗い世相を反映しているようである。この世はすべて地獄だというメッセージが見えてくる。本来は秤にかけて天国行き地獄行きに満遍なくふるい分けていけば、半々の人数に分かれ、天国行きの人物もいてよさそうなのだが、ボスの画面を見る限りでは天国に行く人間はひとりもいなくて、みんな地獄に行ってしまいそうな雰囲気だ。

 中央画面ですでに地獄の責めが始まっているようにも見える。部分を見ていくとリアルに描かれていておどろおどろしい。ウィーンにある「最後の審判」(1504-8)はボスが描いているのと別に、ドイツの画家クラナッハがこれを丹念に模写したものが残っている。ボスの一風変わったものがドイツのルネサンス期の画家にずいぶん入りこんでいたということだ。デューラーがボスの作品をほとんど無視しているのと対照的だ。ボスの描く怪物はいろんなものをつぎはぎしている。グリロと名付けられた胴体がなく頭と足だけの怪物も多い。それでも頭と足だけで十分血が通っていて動いているという生命感が見える。ふつうはつぎはぎで頭と足だけをくっつけても、なかなかそれが動いているようには見えない。それがボスの場合生命を得て、自立して動き出したという印象で、描写力とイマジネーションの強さを感じさせる。

第368回 2022年9月19

快楽の園

 最後に第一のメインになる祭壇画形式のトリプティークが「快楽の園」(1500c.)である。左と右には同じく楽園と地獄がある。中央の場面でキリストは出てこない。最後の審判のスタイルは取るがこれがはたして何を意味しているのかはよくわからない。中央場面には裸体の人物がうごめいている。人数も五・六百人は いるだろう。彼らは何をしているかといえばそれぞれがあまり意味のないことをしているようだ。それに意味を見つける作業は大変だが、ある程度はわかるがまだまだわからないことのほうが多い。

 見ていると様々な発見がある。人物のなかにはひとりこちらを見ている男がいる。男は女の手首を握っている。みんなあちこち視線がばらばらなのにこちらを直視している人物がひとりいたりすると目だって見える。そのポーズといい何か意味ありげに見えるのだ。

 もうひとつ画面中捜しても年齢的には若者の男女で、子どもや老人はひとりも出てこない。ところがひとりだけ妊娠しているらしい女がいる。そこには二人の男が同じ傘のなかに入っていて三人がトリオになってグループを組んでいるようだ。それ以外にも男二人に女がひとりというトリオがあちこちに見える。恋のトライアングルともいえるような愛のトラブルが見えてくる。右前景の影になった洞窟のなかにもよく見ると三人の男女が隠れこんでいる。

 中央には池があり裸婦が水浴をしているがこの人物の数も、時間に関係した数字によって構成されているようだ。7人と12人と4人というグループでひとかたまりをつくっている。しかも立っている人物の総計は24人いて、これも一日の時間を表わす数字であることに気づく。つまりかなり周到に隠しこみがされた絵だということだ。

 円環状に動物が回るというのは、当時の占星術から言えば黄道一二宮ということになり、一年の時間の流れを絵画化したものにちがいない。時の流れが意味合いとして入りこんでいることはわかるが、それがこの絵の主題とどんな関係があるのか、またしても謎めいた奈落へと落ちこんでしまうのだ。

 左の楽園の中心部分、対角線で切ると円形のくぼみに潜むフクロウに行き当たる。フクロウはボス自身のシンボルのようであってよく出てくる。フクロウはギリシャ神話では英知の女神であったが、中世の文脈では愚かさの象徴へと変貌する。夜を愛するから「淫乱」であり、教会のランプの油をなめるので「大食」のシンボルであり、昼間は寝ているので「怠惰」のシンボルだというように七つの大罪を一身に担った愚かな鳥だということになった。

 ところがルネサンスの時期、英知のフクロウは復活する。なぜ英知かというと、夜を愛するというのはいろんな意味があり、寝ないで勉学にはげむということでは学問の女神ミネルヴァにふさわしいものだ。聖なるものと愚なるものが混在一体となった不可解な鳥としてボスは自分自身をフクロウに見立てていたようなのだ。それがエデンの園の中心に出てくる。キリンやゾウなどエキゾチックな動物もここでは描き加えられている。当時ゾウが見世物としてヨーロッパ中を引きまわされ、寒さに耐え兼ねて死んでしまったという話が残っているので、ボスが実際のゾウを見ていた可能性はある。

 フクロウを描いた奇妙なスケッチをボスは残している。森の木のくぼみにフクロウがいる。森はオランダ語でボスのことだ。森のなかにフクロウがいるというのはボス自身の自画像的な扱いだということだ。しかも繁みのなかをよく見ると人間の耳がふたつ置かれていて、野原には人間の目が一面に散らばっている。これは当時の諺からくるもので、「野は見る、森は聞く」という日本では「壁に耳あり、障子に目あり」にあたるオランダの諺だ。諺をそのまま絵にしたがその中心にフクロウを置いて、それを自画像のように目と耳をつけて人間化していったとも取れる。これはドイツの美術史家オットーベネシュの解釈だ。

 「快楽の園」右側には地獄が描かれる。中央にいるのは「木男」と呼ばれる木と卵と船とが合成したような怪物である。ここでも切り裂かれた耳とナイフというショッキングなイメージが出てくる。

 ボスはまともな宗教画も数多く描いている。プラド美術館にある「三王礼拝」(1510c.)はオーソドックスな宗教画だが、ここでもよく見るとボス独特の謎めいた図像を織り込んでいる。バックの小屋の柱の陰で立っている半裸の王がいるが、これがだれであるかが問題になっていて、一説ではアンチクリストだといわれる。これも終末論をベースに現われる奇怪な人物像である。

 ふつうキリストが生まれて聖母子がいると、父親のヨゼフもそばにいるものだが、中央の画面を探してもいない。左の画面の背景で身を縮めて小さくなっているのがヨゼフだ。体を縮込ませて生まれたばかりのキリストのおしめを火にあてて乾かせている。ユーモラスではあるが嘲りとも取れる扱いだ。

第369回 2022年9月20

ボスの時代

 ボスと同時代ではクエンティン・マサイス(1465/6-1530)がいる。「不釣合いなカップル」(1520c.)は、若い女性にうつつを抜かしている老人が金を盗まれるというテーマである。女が財布をすって後ろにいる道化に渡して、逃げていくというもので、こうした教訓的な風俗画が多く描かれる。マサイスとヨアヒム・パティニール(1480c.-1524)の合作で「聖アントニウスの誘惑」(1515-24)が描かれている。パティニールは風景を専門に描く画家で、それぞれの得意の分野を出し合った作品だ。

 パティニールは「地獄の渡し守カローン(1515-24)というようなパノラマ的な風景描写を得意とする。これが次のブリューゲルの世界観につながっていく。イタリアからの影響が入りこんで来た頃で、ルカス・ファン・レイデン(1494-1533)はそれに早く対応した画家だ。「最後の審判」(1527)は人物表現が大きくて、イタリア的な扱いがされている。色の使い方もグリーンやブルーなどミケランジェロかその後のイタリアのマニエリズムの影響が見られる。

 16世紀に入ってイタリア影響を受けたひとりヤン・ホッサールト(1478c.-1532)は、ヴィーナスなどをミケランジェロふうの肉体で描いている。当時のアントワープの町を風刺した絵も見られる。そこは当時悪徳の町であり、銀行や金貸しというのは何も生産しないで、右のものを左に動かすだけで金をもうけているということで宗教的な観点からは非常に悪く言われた。

 ピーテル・アールツェン(1508c.-75)は宗教画の体裁を取りながら風俗画や静物画の方がメインになり始めていくという流れのなかにある。「マルタとマリアの家にいるキリスト」では宗教的テーマは、画面背景に押し込められ、画家の目は画面前景の静物に向けられる。静物、つまり台所にある肉の塊というようなものは、現世的なもので元来は悪の象徴だった。でもそれを大きくクローズアップして描いていくという推移がある。否定の対象として扱われた目の前の世俗的欲望のほうが、画家にとって興味深かったことはまちがいなさそうだ。

 やがて宗教的ニュアンスを持った人物が消えてしまうと、完全な意味での静物画の誕生となる。17世紀になればそういうものが出てくるが16世紀段階ではまだ宗教的テーマに引きずられているようだ。

第370回 2022年9月21

ブリューゲルの世界観

 ピーテル・ブリューゲル(1525/30-69)に至ると少しニュアンスが変わってくる。同じ油絵の技法を駆使して、初期ネーデルラント絵画史の最後の華ということにはなるが、ルネサンスから次の時代に移り変わってくる新しい世界観を持ちはじめてくる。それはひとつには風景に向ける視線で、風景画というものに目が向いていく。ボスの場合も風景に魅力的なものもあるが、あくまでも背景であり、手前の人物の持っているおかしげな世界、まともとはいえないちょっといびつな日常を逸脱した世界がメインになっていた。

 ブリューゲルの場合はそれを乗り越えて、人物がどんどん遠ざかっていって、風景のなかに埋没してしまう。本来ルネサンスは人間中心主義で、人間を大きく描いた。風景は確かになくては困るが、人間が制御するもの、コントロールできるものとして解釈された。しかしブリューゲルの絵になるとそうではなくて、風景が独自に自己主張をしはじめる。アルプスに旅行をしてずいぶんスケッチ類を残す。ふつうアルプスを越えるのはイタリアに旅行をするためだ。アルプス越えはブリューゲル以前から北方ではイタリアに勉強に行くための試練であった。イタリアに行って古代の彫刻を勉強する。画家の修業として古代彫刻あるいはルネサンス期のミケランジェロなどの壁画を模写する。それが出発でありそれをそれぞれの国に持って帰り、それをいろんなヴァリエーションを使いながら絵に組みこんでいく。そんな絵の描き方をしていた。

 ところがブリューゲルはイタリアには行くのだが、ローマでスケッチを残して持ち返っている形跡がない。道すがらのアルプスで止まってしまって、そこでスケッチをしてそれを持って帰って版画にして売り出す。その頃のネーデルラントは版画がずいぶんと隆盛を極めていた頃だ。その理由のひとつは宗教的な手段である。カトリックが世界制覇を企てていた頃で、宗教画を描いて版画にしてあちこちに伝道していくというねらいがあった。日本にも桃山の時期にそれらのいくらかが入って来ている。これらは聖母マリアやキリストなどの一枚ものの信仰対象だが、ブリューゲルのものはそういう版画ではなくて、いわば物珍しいものを見せるという、客の好奇心に訴えるものだった。それは知に対する博物学的興味と言ってもよい。

 ネーデルラント地方には山がないのでアルプスの山岳風景を版画にして売り出すと客がついたということだ。用途としては部屋に飾るというようなものなのだろうが、宗教的なマリア像などと同じように家に置かれ、お金のある人は油絵を買うだろうがない人は信仰の対象として版画で間に合わせることになる。

 それだけにおさまらず風景にはみやげもの的なニュアンスもあったのだろう。アルプスはなかなかおもしろいところだという観光案内として行き渡っていくことになる。版画というのがはじめは宗教的なプロパガンダであったものが、その内に物珍しさの興味へと移っていく。その流れのなかにブリューゲルはいるということだ。ブリューゲルの場合によく引き合いに出される絵は山岳の狩人を描いた雪景色だが、それを見る限りでは純粋な風景画だといっていいものになっている。

 本来の風景画がオランダで独立するのは17世紀の話である。それに先立ちブリューゲルが出発点だとされるのは、そこに描きこまれた自然の季節感にある。冬景色や雪景色はイタリアから帰る途中のアルプスで目にした光景だろう。ネーデルラントでも雪は積もるが、雪の山岳風景は珍しいものだった。

 「雪中の狩人」(1565)だけが有名だが、ブリューゲルは連作で何点かの季節感をあらわすものを描いていて、6点のシリーズだと二ヶ月ごとの季節の推移ということだ。カレンダー的な役割をする月暦図である。純粋な風景画にきわめて近いところまで新しい道を切り開いていった。

 たとえば風景画とも見まちがえる「イカロスの墜落」(1555)というような絵がある。これもおもしろい絵だが、最近はブリューゲルのオリジナルを疑問視する見かたもある。板材の年輪を使った調査で正確な板の伐採年代がわかる。ブリューゲルの没後に伐採された板の上に、ブリューゲルは描くことができないという理屈であり、これはくつがえしようのないものとなる。確かに現存のものはブリューゲル作ではないかもしれないが、そこに描かれた構図法についてはブリューゲルが構想したものであってもよい。失われたオリジナルにもとづくコピーというのが常套的に使われる言い分だ。

 これを見ると明らかに風景画という感じだが、主題はイカロスの墜落である。イカロスは神話に出てくる話で、空を飛びたい少年である。父のダイダロスはイカロスの背中にロウで翼をつくってやった。イカロスははしゃいで天に向かって舞い上がっていく。太陽には近づくなという父の忠告も聞かずに上昇し、ロウが溶けてしまって落ちて死んでしまうのだ。意味合いは人間の猪突猛進する愚かさや無謀さを戒めたものだが、それを絵にするのにイカロスは空中に飛んでいるのが定形である。

 ところがブリューゲルはイカロスを海に転落させ、足だけを水面から出して描いた。イカロスの墜落とはいいながら主人公は足だけしか見えていない。本来この絵で一番目立つのは画面の中心にいる農作業をする男と、その向こうで空を見上げる羊飼いである。彼らはイカロスが落ちたことには無関心で自分たちの仕事に没頭している。そこからこの絵の意味合いとしては、イカロスという神話上の人物が生きていても死んでしまってもこの世は変わらないで、全く平凡に時は流れていくのだという世界観や人生観がメッセージとして聞こえてくる。

 人間なんてとてもちっぽけなものだという主張である。風景のもとにあっては人間なんてたいしたものではないという意味合いは、これ以外のブリューゲルの絵にもずいぶんと出てくる。最晩年の作品「絞首台のカササギ」(1568)でも人物は小さくて風景そのものが主人公に見える。メインになるのは首を吊るす柱であり、とても思わせぶりな絵で、その上にカササギを置いている。カササギはこの時期のネーデルラント絵画にはよく登場するが白と黒のまだらの鳥で、キイキイとうるさく鳴くのでお喋りという意味を含む。もうひとつは白と黒という身体の特徴で、はっきりしないどっちつかずの鳥ともされる。不吉な鳥だともされるが、絞首台との結びつきでその意味はより加速して見える。当時のネーデルラントでは、見かけるのが午前と午後で不吉が幸運に逆転もしていたようで、不吉というよりも白黒つかない曖昧な鳥とみるのがよいだろう。

 これはネーデルラントがスペインから独立する前夜の頃の話で、スペインの支配に対するレジスタンスにブリューゲルも加わっていた。大っぴらには主張できないとき、歯に絹を着せたような言い方しかできない当時の状況を、この一枚が代表して語っているようだ。直説法ではなく間接的な物言いで当時の権力を風刺しているものがずいぶんと出てくる。五百年近くたつと意味がわからずに謎めいたものに見えるものも多いが、何か言いたいことがあるのだなということだけは明瞭に伝わってくる。

 人間の愚かさを一般化させて風刺したものも目立つ。「盲人のたとえ」(1568)は盲人が盲人を導くと二人とも穴に落ちるという教訓の絵画化である。この場合ふつうは二人なのだが、ブリューゲルは人数を増やし、全員が穴に落ち込むというものに変えてしまう。ここまでくるとユーモラスも度が過ぎて、現代では反感を買う絵なのかもしれない。しかし盲人の実態については鋭い観察を試みているようで、白内障や緑内障をはじめ視力障害にも様々なちがいがあるが、医学の専門家によればブリューゲルはここでそれらを適切に描き分けているのだという。

第371回 2022年9月23

ブリューゲルの主題

 ブリューゲルの時代に入ると版画が全盛を極める。ボスの船に比べるとブリューゲルの「遠洋船」(1562c.)がいかにのびのびと旅立っているかがわかる。オランダがどんどんと海に進出していって、世界の海を制覇していく頃だ。マクス・ドヴォルシャックは「精神史としての美術史」のなかで、この船を取り上げてはつらつとした姿に注目する。ブリューゲルの船は生き生きとしていて前向きな生命を宿しているようだ。愚者の乗りこんだボスの酔いどれ船と対比して見ることができる。

 海上の暴風雨は「希望」(1559-60)という名で七つの美徳のシリーズに登場する。洪水が押し寄せているが何食わぬ顔で魚つりをしているものがいる。バックでは火事が起こったので消しているものがいる。洪水が押し寄せてきているのだから、魚つりも火を消すのも何の意味もないはずなのに。遠景では畑を耕す者もいる。左では牢獄のなかで祈りを捧げる者もいる。彼らは洪水でもうすぐ溺れ死んでしまうはずだ。希望とは何なのかを考えさせる一作だ。第二の洪水によってこの世は滅びるという世紀末の悲壮感はもはやこの図にはない。

 「ネーデルラントの諺」(1559)には百以上の諺が入りこんでいる。諺を絵にするというのはボスから引き継がれたものだ。「バベルの塔」(1563c.)は天に届くような塔をつくろうとした人類の話だ。人類の傲慢さを怒った神はそれをつぶしてしまった。ここでは海のそばに、アントワープという商業都市を念頭において塔が建設される。そこで懸命に金をもうけてあくせく働いて大きな山のような塔をつくっているが、結局は空しいぞということだ。大自然のなかで人間の存在はちっぽけであって、アリのような小さな人間をここでは無数に描き込んでいる。

 「十字架を運ぶキリスト」(1564)もボスの先ほどの作例と比較すると興味深く見えてくる。ボスでは顔だけのオンパレードだったが、ブリューゲルに至るとキリストがどこにいるのか探さないとわからないようなところまで画面が拡張している。中央にいてキリストは足を折って倒れかかっている。キリストは中心にはいるのだが、画面全体はキリストとは無関係に時間が推移している。先に触れた「イカロスの墜落」と同じ種類の絵だといえる。世界観がどんどんと広がっていく中でこういう絵が出てきた。

 ブリューゲルの最後は農民を描いた絵がずいぶん出てくる。かつては百姓ブリューゲルというあだ名を持ったが、それは農民を描いた彼の一連の絵に由来する。ブリューゲルが農民だったというのは今では否定されていて、晩年に興味を持って農村に出かけていって、農民を観察して絵にした事がわかっている。決してまだ農民のなかから画家が登場するような社会のシステムではなかった。そこではおもしろおかしく観察して描くという点で終わっている。狂人であったり、物乞いであったり、身体障害者であったり、盲人であったり、それらを好意的に見ているわけではなくて、好奇心にまかせておもしろがって描いているにすぎないともいえる。愚かさをもった人格として蔑むような目のほうが強かったのかもしれない。農民を描いていても彼らはそれほどに賢明な顔立ちをしてはいないようだ。しかしこうしたモチーフへ向けるまなざしは、風景の発見とともに「農民の発見」でもあった。彼らのずんぐりとした体つきは、愚かさのもつ強さと図太さでもあるとすれば、それらは新しい世界観の到来を物語っていることはまちがいない。


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