西野壮平 写真展 線を編む

2022年11月26日(土) ~ 12月25日(日)

尼崎市総合文化センター・美術ホール


2022/12/2

 方法論としておもしろいことを考えているひとだなと感心した。歩きながら目についた写真を山ほど撮る。それらはなんらかのかたちで土地に根づいている。それを地図を下敷きにラフスケッチした支持体に並べて貼り付けていく。拡張した絵地図が一枚の風景写真のように見えてくる。都市名があてられている場合は、確かにその都市のパノラマ図のようにみえる。ホックニーのキュビズム写真が先行するものだろうが、それをこえているのは、圧倒的な写真の枚数にある。現代のデジタル技術が支えるもので、フィルム時代には思いもつかなかっただろう。

 ニューヨークやイスタンブールをはじめ世界の諸都市が立ち上がっている。東京や京都は私にもわかるので、ひとめで判断がつく。京都でいえば今風の洛中洛外図といえるものだ。東京ではさがすと東京タワーもあるし、遠くにはスカイツリーも見つけることができる。行ったことはないが、リオデジャネイロは岩山に巨大なキリスト像が立ち上がっているのでわかる。次にタイトルを見ないでどこの都市を写しているのかを、言い当ててみようとする。たぶん何を写しても、この土地に根づいた体臭というものがあって、それを無数に並べることによって、自然と浮き上がってくるものがあるはずだ。風景だけではなく、人物も写し込まれていて、世界の多様と一様が同時に体感される。

 広く分類すれば貼り絵ということになるが、貼り絵を原寸大の一枚の写真としてもう一度写しているのだから、職域はやはり写真家ということになるだろう。がんらい写真家は冒険をするものだった。ここでも原点は歩いて撮影することにあり、写真家の職能にかなっている。歩くことから世界の諸都市だけでなく、日本にあっては東海道五拾三次に目が向くのは必然だった。

 ここでは絵巻物の形式を取るが、あれと思うのは、江戸が左端、京が右端で、通常の絵巻の流れとは逆転している点だろう。展示でも左から右に向かってみるように誘導していた。しかし考えてみれば東京から京都に向かって歩くばかりではない。関西人なら京都から東京に向かうのだから、これでよいのだともいえる。江戸の260年を通じてつちかわれた東京中心の固定観念に肩透かしをくわしていると見るとおもしろい。歩いた足跡を見せるという点では一種のアクションペインティングであるのだが、70年前のそれと異なるのは、ポロックでは一瞬のアクションにかける短距離走だったのに対し、こちらは長距離走だったという点だ。

 歩く道の軌跡がそのまま視覚化されたような作品が、次の可能性を開いていったようだ。上空からみたルートは、エベレストや富士山へ向かう道筋でもいいが、人間の可能性と限界の狭間で成立している。超人的な山男が生み出した人類の意志の線刻にちがいないが、後人たちはそれをくっきりとなぞりながら継承していく。大自然にこの原理を当てはめれば、大河の蛇行となるし、人間の手のうちにあれば、平仮名の筆跡となるものだろう。書体のもつ平安の響きが、文字の伝える内容をこえて、優雅な変奏曲をかなでている。それもまたサイズを無に帰する写真というメディアによって実現した表現性だろう。写実をさえ離れてみごとな書の展示となっていた。

 白髪一雄の常設の展示室が同センター内にあり、尼崎の生んだ前衛精神が公的空間にも共有されているのを、頼もしく思った。「ワールドワイド白髪一雄」と題した特集が組まれ、世界に羽ばたく日本の前衛絵画が紹介されている。それは絵画というよりも足で書く「書」として、日本の伝統に根づくものだった。作品と並行して制作風景を写した映像が展示されている。缶に絵の具を入れ、粉末をかき混ぜる動作をみながら、メリケン粉を混ぜてお好み焼きを作っている大阪人のように見えてきて、ほほえましく目に映った。横には奥さんだろうか手伝いをする姿も映されていた。庶民感覚あふれるバイタリティの染み入る風景だった。


by Masaaki Kambara