TOPコレクション セレンディピティ 日常のなかの予期せぬ素敵な発見
2023年04月07日~07月09日
2023/06/25
日常生活の何でもない光景を写し出しているのに、味わい深い輝きをはなつ写真がある。37000点の収蔵品からセレンディピティをキーワードにして、選定された作品群である。この語の意味することが何かを知るためには、この展覧会に通底しているものを感じ取ればいいということだ。
マイブリッジ、アーウィット、畠山直哉、石川直樹、本城直季、ホンマタカシなどは、これまでも繰り返し見てきて、興味深かった写真家だが、今回衝撃を受けたのは、齋藤陽道「感動」2011である。それは日常性を装いながらも、その奥に潜む狂乱を写し出している。壁一面に組写真として広がっている。あっと驚くような美しい光景があるのに、よく見ると不気味なのだ。岩山にひとり座り込んでいる。恐ろしいのに何気ないのである。波打ち際に車椅子が置かれている。よくみるとそこに幼児がすわらされている。泣くでもなく、当たり前のような表情でいるのが不可解で、底知れない恐怖を感じ取ることになる。車椅子が海に浸かっているだけでも異様な光景なのだが、そこに赤ちゃんが座っている驚きが加わり、さらに泣くべきはずの表情がないという、三重の異彩がここでの見どころである。ここでは幼児は衣服を着ているが、一連の作品をたどっていくと裸で車椅子に座っている赤ちゃんにも出くわす。
100点をこえる広がりのなかで埋没している一枚を探し出すのは容易ではない。しかし一度気づいてしまうと、この虚構のとりことなって、日常にひそむ魔に魅せられてしまうのだ。そんななかで見つけ出した一枚があった。どう見ても棺桶と思われる四角の窓から無表情の顔がのぞいている。そのかたわらで女性が笑っていて、それを写そうとするカメラが見える。文脈から読み取れるストーリーは、溺れ死んだ幼児を前に、気のふれた母親と、それをスナップにおさめる写真家の父ということだが、そんな説明などどこにもない。
日常にはさまれた何気ない暴力といってもよい光景に恐怖する。写真は写すだけでなく、えぐりだすのだと思った。被災地や戦場の過去となった現代にも、肉眼では感知しない、それと同じオーラがただよっているのだろう。このあと森美術館でみるハラーサルキシアン「処刑広場」や畠山直哉「陸前高田」が典型的に示すものだ。そんななかでアーウィットのユーモアに接するとほっとする。ここでも日常にひそむ異形だが悲壮感はない。ただし人間の日常ではない。犬や馬の目線で見られた近視眼なのが日常を異化していく。アップで写されているので区別がつかない足がある。脚は女性美を構成する重要な要素ではあるが、細くて華奢なのに人間と並んで馬の脚だとわかると感慨が増す。確かにそれは競走馬の命でもあって、疾走する美を支える重要なポイントなのだが、流れるような優美な全体に比べて、その部分は人の目にはさして美しくはみえないのだ。