第5章 フクロウのいる風景

第678回 2023年9月27

森のフクロウ

フクロウはボスにとって重要なモチーフである。それはボス自身の名前とも関係している。ヒエロニムス・ファン・アーヘンが本名だが、ボスというあだ名で知られた。ボスは森の意味で、森という名の作家が自分のシンボルのようにフクロウをもちだしてくる。つまり森のフクロウということなら、自然な結びつきである。フクロウはボスの作品中に散りばめられている。快楽の園ではフクロウは種類を分けて描かれている。フクロウは一様ではない。耳のあるのもいる図1。そこからはミミズクの名が出てくるし、コノハズクというのもいる。描き分けられていて、それぞれに意味がちがっているという指摘もある。意味は明確には読み取れない。愚かさの象徴であるといわれても、その出てきかたによって、意味合いにばらつきがある。ボスに共通するのは、絵のなかに紛れ込んでいるという点か。明らかにフクロウだというには注意を要する。こんなところにフクロウがいたという置き方である。

フクロウを目にすることはあまりない。昼間と夜との生態が異なっている。昼間は目が見えなくて盲人だが、夜になると目がらんらんと輝いてくる。夜行性という特殊な人格を示すものだ。そこから画家がいろんな興味をもって見ていた。ボスもその一人だった。森という名の画家がフクロウに込めた思いを探るには、フクロウのもつ当時の意味、そしてそれ以前の意味を追いかけてみる必要がある。ボスは15世紀末のひとだ。イタリアではルネサンス華やかなりしころである。中世末からルネサンスに移行する時期、価値観の転換があった。中世を築いていたキリスト教の世界観や倫理観が逆転されていく。ルネサンスに合わせて、宗教改革がドイツで起こってくる。ヨーロッパ中でキリスト教会が腐敗し、大きな改革を必要としていた。そのなかでキリスト教の倫理観や善悪の感情に対する攻撃や批判が吹き始めてきた。そのなかでフクロウのもっているイメージも逆転していく。

図1 ボス「快楽の園」部分

第679回 2023年9月28

フクロウの変貌

もともとは古代ミネルヴァのフクロウというみかたが定着していた。ミネルヴァはアテネ女神で英知の神である。これがフクロウに置き換えられていた(図1)。これがギリシャ時代のフクロウのイメージだった。フクロウは夜行性であるということもあるが、夜に寝ないで勉強している学者や知恵をもった人格を意味する。常に冷静に判断して物事を見ている。若者よりも年寄りというイメージがある。森の番人であり長者である。知恵のフクロウという意味が古代ギリシャでは一貫していた。

中世になるとキリスト教世界でそれが逆転してしまう。キリスト教は古代の価値観をひっくり返して成立してきた。古代の英知をそのまま引き継ぐのではなくて、それを愚者に落とし込んでいった。賢者を愚者に変貌させるのがキリスト教のやり口だった。意味合いとしては夜が好きだというのは、寝るのも惜しんで仕事をするというのと同時に、夜しか働かないというマイナスのイメージを植え付けていく。このときにキリスト教は犯してはならない七つの大罪をもちだしてくる。そのなかの多くをフクロウは共有している。夜が好きなので淫乱の鳥とされ、「肉欲」と結びつく。汝姦淫するなかれという教訓に対応する。夜しか活動しないで、昼間は何もしないで寝転んでいる。そこから「怠惰」と結びつく。さらにフクロウは教会に住み着いて、そこでロウソクの油をなめ、教会を汚している。これが「大食」の罪と結びつけられる。七つの大罪の三つをフクロウは共有している。キリスト教世界では罪を背負ったものとして悪く、さげすまれる鳥となった。

図1 「ミネルヴァのフクロウ」銀貨

第680回 2023年9月29

フクロウとナイチンゲール

その後フクロウの生態を観察していくなかで、いろんな話が付け加わっていく。中世の詩のなかでフクロウとナイチンゲールという話がある。両者がたがいに言い争いをする。それはどちらが良くてどちらが悪いというものではなくて、昼の鳥と夜の鳥の論争という形をとる。ナイチンゲールは美しい声で歌うが、フクロウは低く汚い声でうなっている。中世の絵のなかでよく出てくるのはフクロウをつつきにやってくる昼の鳥である。昼の鳥が群がって、真ん中にいるフクロウの頭をめがけてつついている。昼の鳥はフクロウほど大きくはない。昼間のフクロウが描かれている。昼間は目が見えないから、みんなからあざけられている。いわば盲人にあたるわけで、盲人を差別する考えは一般に広まっていた。盲人をおもちゃにして、盲人どうしに棒をもたせてなぐりあわせるゲームも流行っていた頃だ。盲人を差別して面白おかしくさげすんでいた。

 キリスト教時代の愚者のイメージが、やがてルネサンスの流れのなかでもう一度、賢者のフクロウに返り咲いていく。ことにイタリアルネサンスのなかで、ボスよりも少し後になるがミケランジェロの彫刻のなかで、フクロウが登場する(図1)。それは見るからに賢そうな顔をしている。ミネルヴァの再来のようにみえる。ミケランジェロには中世の愚者のイメージはないようだ。ボスの場合は中世ともルネサンスともつかないあいまいな時期のものとしてみえる。あるときは賢者と思えるが、あるときは愚者として使われている。それを自分のシンボルのように考えていたのではないか。古代のコインにもフクロウが出てくる。決して愚かな象徴としてはコインなどには出てこないだろうから、賢者や知恵の扱いといえる。

図1 ミケランジェロ「夜」部分

第681回 2023年9月30

フクロウを探す

 中世ではおしなべてユーモラスな動きのするあざけりの対象という扱いが多い。放浪のフクロウもいる(図1)。フクロウに杖や旅がらすの衣装を身に着けて、放浪者に変身させている。ボスは絵画作品だけではなく、デッサンでフクロウの巣を描いたものや、フクロウを中心にした素描も残していて、フクロウに対するこだわりは確かにあっただろう。

 隠し込むというのはどういうことかというと、ボスの絵ではいろんな要素が画面に氾濫していて、どこかに何かが隠されているという印象をもつ。何かが起こっているが一見すると見落としてしまっている。フクロウさがしゲームが、その後起こってくる。ボスより一世代あとに、画面にさかんにフクロウを隠し込んでいた画家がいる。現存作品は見いだせないが、記録が残っていて、その絵を見ながらフクロウがどこにいるかを探して遊んだ。ボスより少しあとにパティニールという画家がいる。ここにも似たような構造が出てくる。絵のなかに小便をする人を隠し込んだ。パノラマ的な絵なのだろう。木陰で小便をしている人物がいるので探してみようというものだった。一種の遊びだった。パティニールの絵は現存する限りでは、小便をする人物は見つからない。

 ボスの絵のなかではフクロウは隠れてそっと見ている傍観者として登場する。傍観者だが時代をしっかり見極める役割をフクロウはもっていた。これはボス自身の姿で、第一線に立って突進するのではなくて、隠れて引きながら真実を読み取ろうとしているような、そういう立ち位置にいたのだろうと思う。傍観者だけれども時代をしっかり見つめている役割をフクロウはもっていた。

図1 モノグラミストMH「放浪のフクロウ」

第682回 2023年101

フクロウと鏡

 メランコリー(憂鬱質)気質、土星との結びつきが、フクロウに見られる。七つの遊星のうち土星は、軌道を一回りするのに最も時間がかかる。ゆったりとして移動する、大回りをして放浪するという概念が成立する。冷たい星だというので土のイメージと結びつけられる。フクロウのもつイメージは学者と囚人、賢なるものと愚なるものが同居しているとみなされた。

 ティル・オイレンシュピーゲルはドイツの民話に出てくる人物だが、二つの語から成り立っている。オイレンはフクロウ、シュピーゲルは鏡という意味だ。馬上で片手にフクロウ、片方に鏡をもった人物が登場する(図1)。鏡とフクロウとの関係は、フクロウに鏡を突き付けて自分の顔をよく見ろという話が出てくる。フクロウは自分の姿を鏡で見てその愚かさに気づくということになる。円型の鏡とフクロウは抱き合わせで使われていく。造形的にはボスの場合でも円盤とフクロウが組み合わされている。

フクロウへのこだわりはその後、スペインの画家ゴヤに引き継がれる。夜の画家であり、コウモリやフクロウに興味をもった。耳が聞こえなくなって、妄想が絵画のなかで広がっていく。ボスの作品が当時、マドリッドの王宮にあったのでその影響を考えることができるだろう。

図1 「ティル・オイレンシュピーゲル」木版画

第683回 2023年10月2

ボスのフクロウ

 ボスの作品では細かな部分にフクロウが隠れているということがよくある。「七つの大罪」の大食の場面では、おおぐらいをする人物が中央にいて、背後の壁にくぼみがあり、そこにフクロウが隠れている。大食の場面に対応してフクロウは汚物を垂れ流して、壁に染みをつくっている。フクロウは大食のシンボルでもあった。決して良いニュアンスをもったフクロウではないことがわかる。

 「エッケホモ」というキリストが捕まった時に「この人を見よ」というタイトルでよく絵画化されるものだ。囚われのキリストは人々の前に引っ張り出されて、この言葉を発すると、民衆は口々に殺してしまえと答える。この場面の背後のくぼみにも、影からこちらのほうをのぞいている。ここでのフクロウは、キリストが裁きを受けるところをじっとながめる傍観者あるいは静観者としてのイメージである(図1)。救おうともしないし、攻撃しようともしない。ただじっと見つめてその姿を観察している。フクロウはすぐには見つからず、よく見るとくぼみにフクロウがいるなという扱いがされている。

「聖アントニウスの誘惑」(リスボン)では、祈りを捧げる聖人のもとに怪物がやってきて攻撃しようとしている。その光景を見つめるように、背後にある盾のような形をした円柱のくぼみにフクロウがいる。ここには大きなブドウの房をカナンという約束の地からもちかえる使者を描いた旧約聖書からのエピソードも描かれる。あるいは黄金の牛のまわりで踊るのは、足をぴんと伸ばした特徴的なもので、モリスダンスとして知られるものだ。カナンのブドウはキリストが十字架にかかる姿を思わせるもので、聖なるイメージとなるものだ。ここでもフクロウを見ると賢そうな顔をしている。愚者のイメージではなく賢者の風格をもっているようだ。

「愚者の船」では船に樹木が積み込まれていて、その繁みのなかに隠されている。フクロウだと思われるが、見ようによればカーニバルの仮面だという見方もある。長い吹き流しに出てくる三日月は当時のトルコの異教徒をあらわすものとして知られるものだ。そして夜の鳥フクロウと昼の鳥とのにらみ合いが描かれる。拮抗が保たれていて、どちらが優勢というわけではない。フクロウは昼間は盲目で、昼の鳥につつかれるが、夜になると逆転して、夜の帝王に返り咲いていく。昼夜で逆転する性格のおもしろさを見ておく必要がある。ここでは左右どちらに行くともいえない中間地点をあらわそうとして、昼とも夜ともいえない時間帯をあえて選んだのではないか。

図1 ボス「エッケ・ホモ」部分

第684回 2023年10月3

アントニウスとヒエロニムス

 似たような対比が聖ヒエロニムスにも出てくる。ボスが好んで描く聖人が何人かいる。ひとりは聖アントニウスで誘惑図が盛んに描かれている。ボス周辺でいうと父親の名がアントニウスだった。もう一人は聖ヒエロニムスで、これはボス自身の名である。この聖人はレオナルドの絵にも出てくるが、砂漠で修行をしているところが描かれている。荒野でいろんな誘惑に出会うがそれに打ち勝ち、半裸で自分の胸を石でたたき続けているところが描かれている。キリスト教徒としては最高位に達し、枢機卿をあらわす赤い帽子を手にしている。ライオンが常に付き従っているというのも特徴をなす。傷ついたライオンのとげを抜いてやったという逸話からくるものだ。猛獣なのに付き従うという珍しい図像となっている。ボスの場合は腹ばいになって祈るという奇妙なポーズをとっている(図1)。背景を見ると白みかけており、夜中じゅう祈り続けていて、やっと夜が明けてきたという感じがする。ここでも夜の鳥がいて、放蕩息子とは逆に、夜が昼に変わりつつある時間帯を描いているようだ。夕暮れに対して明け方の光景ということになるが。フクロウと昼の鳥との力関係は均衡を保っているという点では、共通している。二つの世界の中間地点ということが、両者に共通するものだ。昼の鳥はボスの場合、しばしばキツツキが出てくる。まともな止まり方ではなく、コウモリのように逆さ向きに止まっている(図2)。

図1 ボス「聖ヒエロニムス」

図2 部分

第685回 2023年10月4

賢者の風格

 「カナの婚礼」でもフクロウが登場する。どこにいるかさがしてみよう。見つかりにくいところに身をひそめている。柱の影からこちらをのぞいている。フクロウがどこにいるのかを探すゲームも成り立つ。「乾草車」では乾草の上で音楽を奏でるグループにフクロウが出てくる。ここでは争って乾草を取り合いをしていて、やがて殺人まで起きてしまう。乾草は何の価値もない無の象徴である。人間は愚かにもそれを争って殺し合いまでしてしまう。下界では殺戮が起きているが、車の上では繁みで男女が抱き合っている。「愚者の船」での光景に等しい。乾草車は一直線に右側の地獄のほうに進んでいる。フクロウは愚かな人間の光景を見守っている。ここではまわりに二羽の鳥がいて、フクロウに挑みかかっている。昼になりフクロウが昼の鳥からつつきにやってこられる姿に見える。

 「快楽の園」のエデンの園では、画面の中心フクロウがいる(図1)。楽園の中心にいる限りは、悪いイメージは認めがたい。ここでは全能の神、英知の象徴としてフクロウが置かれているようだ。愚かさという意味ではなさそうだ。「快楽の園」では何種類かのフクロウが描き分けられている。フクロウの隠された耳に耳打ちしている男がいる。それに対して耳がとがっているフクロウもいる。ミミズクといったほうがよいか。小さなコノハズクも登場する。それぞれに意味を異にして描き分けているようにみえる。

図1 ボス「快楽の園」部分

第686回 2023年10月5

フクロウの素描

 素描のなかに「フクロウの巣を描いた一点がある。大作のための下絵ではなくて、フクロウの巣を観察をして写生をしたのではないか。フクロウが巣に帰り着いたところにみえる。ヒナが親鳥の帰りを待ち受けている。まわりを見ると昼の鳥が、大きな口をあけながら飛び交って、威嚇している。夜が明けて、仕事を終えて巣に帰り着いたところで、昼の鳥がだんだんと活発になってくる頃だ。時間の変化を浮き彫りにしているようだ。素描という絵画のジャンルがボスの頃から確立していく。下絵ではなくて素描自体が、メッセージとして意味をもちはじめる。やがて素描をコレクションするという流れも築かれていく。中世を通じて素描はあったとしても、消耗品としてそれを残そうという意志はなかっただろう。

 フクロウを描いた素描はもう一点重要なものがある。ボスの自画像として描かれたのではないかという解釈がある。フクロウ以外のものも加えられる。木のくぼみにフクロウがじっとたたずんでいる。まわりには大きな口を開けた昼の鳥が、フクロウを狙っている。よく見ると繁みに人間の大きな耳がふたつ置かれている。さらに野原には人間の目が散らばっている。これは当時のネーデルラントのことわざを意味していて、「森は聞く、野は見る」というフレーズを文字通り絵画化したものだ(図1)。誰から見ているので注意するようにというメッセージである。「壁に耳あり、障子に目あり」という日本語の対応するものだ。この意味を知っていないとシュルレアリスムの絵画のように不合理なものだ。耳をつけることによってフクロウを擬人化したのだといううがった解釈が出されている。 

 フクロウはボスのシンボルであり、ボスは森という意味だから、そこに目と耳を加えることによってボス自身の戯画化された自画像だということになる。上部に手書きのメッセージが残されている。唯一の筆跡であるかもしれない。読みずらいことばだが、ここでボスの画家としてのモットーを語っているようだ。フクロウを自分自身に見立てている。フクロウは賢そうな顔をしている。愚かさをまとっているが実際は賢いのだという声が聞こえてくるようだ。似たような隠し込みは、くぼみのなかでじっと背を丸めて耐えている聖アントニウス像に見出すことができる。

図1 ボス「森は聞く、野は見る」